聖書を土台に生きる(聖フランチェスコ)

「ポスト・コロナ」の世界で君臨するであろう「ワクチンの開発企業」について想像するうちに、恰好のSF映画があるのに思い至った。
その映画とは「ブレードランナー」(1978年公開)である。
映画「ブレードランナー」で描かれた世界では、酸性雨ふる荒廃した世界に、まるでマヤのピラミッドのごとき巨大企業が屹立する。
この「酸性雨」によって荒廃した世界を、新型コロナを超える「パンデミック」に置き換えれば、フィクションとばかりはいいきれない。
映画の舞台は、映画制作から40年後のロサンゼルス。すでに40年を経過したしたため、2017年公開のリニューアル版は「ブレードランナー2049」となっている。
荒廃した街に日本の屋台風の建造物や、ネオンに日本の芸者が現われ、胃腸薬の「強力わかもと」の広告が登場するなど、混沌とした風景が広がる。
ちなみに、ロスアンジェルスの「ロス(Los)」は冠詞で、スペイン語の「アンヘル(Angel)」の複数形がアンヘレス(天使たち)、これを英語風に発音してロサンゼルス、「天使たちがいる町」という意味。
ストーリーは、人間が作った宇宙の植民地からレプリカント4体が逃亡し地球に帰還した。
レプリカントを捕獲する“ブレードランナー”の一員、デッカードが捜査にあたるが、「レプリカント」という存在はいかにもSF。
それは人造人間でありながら、人間のこころをもちたいという、いわば「ピノッキオ」の悲哀を抱く。
ハリソン・フォード演じる警察官が主人公だが、政府や国家の影は見えず、代わりに君臨するのは、荘厳な神殿のように君臨する「タイレル・コーポレーション」。それは現在のGAFA以上に巨大な力をもっているはずだ。なにしろ宇宙開拓の前線に送り込まれた遺伝子工学の産物「レプリカント」が奴隷労働者としてこの時代の産業の底辺を支えているからだ。
原作の「アンドロイド」という言葉は機械っぽく、生物学的に造られた「人造人間」には別の名前が必要だと、クローン技術用語の「複製(レプリケーション)」から「レプリカント」と名付けられたという。
映画「ブレードランナー」の原作はフィリップ・K・ディックが1968年に発表した小説「アンドロイド電気羊の夢を見るか」で、舞台は当時ディックが住んでいた未来の「サンフランシスコ」。
映画のタイトルとなった「ブレードランナー」のBladeは、「手術用のメス」、Runnerは、「密売人」のスラングである。

「きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。 だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。 これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。 だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう」(マタイによる福音書6章)。
現代人はこの聖句のようにはなかなか生きられないが、歴史上この聖句どうりに生きた人は、聖フランチェスコである。出身地の地名をつけて「アッシジのフランチェスコ」と呼ばれている。
16C、マルチン・ルターによってカトリック教会の腐敗が追及され「プロテスタント(抗議する者)」が起きるか、それより4世紀前にカトリック内部においても刷新運動が起きていた。
聖フランチェスコは、中世ヨーロッパにおいて「フランシスコ会」を開いた修道士である。
彼の生きた時代は12C、十字軍が派遣される教皇権絶頂期の時代で、1972年アカデミー賞ノミネート作品の「ブラザーサン・シスタームーン」という映画となった。
映画では、フランチェスコがインノケンチウス3世を前に、冒頭の「マタイによる福音書」の言葉をそらんじて読み上げ、教皇の心を動かして「フランシスコ会」を創立するまでのドラマであった。
当時の大修道院は、祈りの場というよりも工場を備えた大農場に近く、莫大な収益をあげながら税金は一文も払う必要がなかったから、その経営者である修道院長が飽食して肥満化し、風紀が弛緩するのも無理はなかった。
フランチェスコは1182年生まれで、イタリアの中部アッシジきっての大商人で毛織物を商っていたが、様々な戦いで帰還する傷ついた兵士を目撃するなど するうちに、冒頭の聖書の言葉にあるような徹底した「清貧」のうちに生きようとした。
彼の説くところは、愛と平和と清貧につきる。そして人が本当に必要とするのは愛と平和だけである、と。
そのほかのものはいっさい無用のものであり、罪の源泉となるだけだ。貧しくあることが神への道であり、豊かになることは地獄への道である。彼の貧しさ礼賛は徹底しており、かつその行いによって示されていた。
驚いたことに、彼は物質的な豊かさだけでなく、精神的・知的な豊かさをも認めていなかったフシがある。
「知識が豊かになって何になろうか。心貧しいことこそ神の御心に沿うのだ。修道士に学問はいらない。書物も要らない。今日の時は自分の言葉と歌を使えばよい。学問好きで理屈っぽい修道士は、いざという時になす術を知らぬものだ」といった。
まして物質的な富などは。物を所有すれば、それを守る腕力が必要になり、腕力はまず愛と平和をぶちこわす。彼は自分自身と戦い以外の一切の闘争を否認したのである。
この「聖フランチェスコ」が最近脚光を浴びたのは、現在の266代ローマ法王の名が「フランシスコ」で、聖フランチェスコにちなんで名乗ったためである。
フランシスコ法王は本名はホルヘ・マリオ・ベルゴリオ。1936年にアルゼンチンの首都ブエノスアイレスで、イタリア北部から移住した家族に生まれ、現在82歳である。
子どもの頃はサッカー好きで地元のサッカーチームのサポーターとなり、法王になった後も年会費を払って応援しているほか、タンゴに夢中になり、踊り好きなことでも知られている。
聖職者の道に進んだのは20歳の時で、16世紀に日本に初めてキリスト教を伝えた宣教師、フランシスコ・ザビエルらが創設した修道会、カトリック教会の「イエズス会」に入会する。
10年以上にわたって哲学や神学を学び教員としての養成期間を経て32歳で司祭となった。
この養成期間に「イエズス会」の日本管区長に出会い、広島の原爆や東アジアでの「イエズス会」の活動について知り、そこで日本への派遣を願い出たものの肺の病気で実現しなかった。
その後、イエズス会のアルゼンチン管区長やブエノスアイレスの大司教となり2001年には当時のローマ法王ヨハネ・パウロ2世から法王の最高顧問である枢機卿に任命される。
聖職者としてほとんどの期間はバチカンではなく故郷のアルゼンチンで過ごし、力を入れたのが貧しい地区での活動である。
ブエノスアイレスのスラム街で人身売買の被害者や低賃金の労働者のために支援を行って、地元のマフィアから脅迫を受けても活動をやめなかったという。
そして6年前、高齢を理由に退位したベネディクト16世のあとに266代目の法王に選ばれた。
中南米の出身者としても、あのザビエルらが属した「イエズス会」からも、初めての法王誕生である。
就任の際には貧しい人のために尽くした中世の「聖フランチェスコ」を名前に選び、貧しい人たちのための教会を目指す考えを示した。
そして2019年には、たっての希望であった広島長崎を訪問し、東京ドームで5万人の大規模ミサを行っている。

霧の中から頭を出すゴールデンゲート・ブリッジ、ビクトリア調の家並みの中を長く続く急坂と、海に浮かぶアルトラカズ島、さらにケーブルカーにしがみつく人々の姿、いずれもサンフランシスコを彩る風景である。
サンフランシスコは、数多くの映画の舞台を提供したが、エンバカルデロ・センターの吹き抜けの建造物を内側から見上げた時の壮観さは忘れがたい。
後にこの建物が、映画「タワーリング・インフェルノ」の撮影に使用されたと聞いて、当時は珍しかった「総ガラスばりエレベーター」のワンシーンを思いだした。
「エンバカルデロ」はスペイン語で「埠頭」を意味し、サンフランシスコ名物のケーブルカーの終点。
またアルトラカズ島が望む反対側の終点が世界的観光地「フィッシャーマンズワーフ」。
終点にて、運転手が降車して一人回転台(ターン・テーブル)をまわして、車体を方向転換する姿は、アメリカ人の「開拓者魂」を連想させた。
そしてこの町の名こそ「アッシジの聖フランチェスコ」にちなんだものである。
アッシジは、イタリアの中部の山の中腹にある村だが、なぜイタリアの聖人の名前が、北米太平洋岸のこの町の名前になっているのか。
そのヒントは、前述のエンバカルデロ駅のすぐそばを起点とする「ミッション・ストリート」にある。
このストリートが向かうのは、サンフランシスコで最もスペイン風の残る「ミッション地区」。
歴史を遡ると、1492年スペインのコロンブスによってアメリカ大陸が発見された。
スペインは、アステカ帝国とインカ帝国を滅ぼし、新世界の統治にあたって、今日のメキシコを中心とする「ヌエバ・エスパーニャ」(新スペインの意)およびペルーを拠点とした。
これらには、国王の代理としての「副王」がそれぞれ置かれ、副王領として統治されたのである。
その「ヌエバ・エスパーニャ」の辺境の地として、開拓されたのがカリフォルニアである。
スペインは、ローマ教皇の勅書により「パトロナート・レアル」と呼ばれる体制を確立していた。
これは、王権が教会の保護者となり、教会を従属させる制度だ。つまり本来はバチカンに従属すべきカトリック教会が、スペイン領内においてはスペイン王の意のままとなり、聖職者の任命も国王が行えるのだ。
この制度の下、スペインは辺境の開拓、植民を進めるにあたり「ミッション」を建設していった。
「ミッション」というのは、先住民のキリスト教化と、ヨーロッパ式の生活様式を教えるために先住民を集住させる場である。
まずはイエズス会士によってミッションが建設されていったが、イエズス会は絶対主義と啓蒙思想に対抗したため、1767年、「イエズス」会士が全スペイン領土内から追放されることとなった。
そのため、「フランシスコ会」が取って代わることとなり、カリフォルニアはフランシスコ会主導で「ミッション」が次々に築かれていった。
サンフランシスコの市庁舎から南に向かった辺りに、「ミッション」という地区がある。話されている言葉もほとんどスペイン語で、その中心を歩くと、まるで中南米の町にでも迷い込んだかのような錯覚に陥る。
ここに、「ミッション・ドローレス」として知られる教会があが、この教会こそは「サンフランシスコ」の起源でもあり、ちょうど、我が地元・福岡の繁華街「天神」がアクロス前の水鏡天満宮にちなんでつけられたのに似ている。
そして、この「ミッション」、正式名称を「サンフランシスコ・デ・アシス」という。なんと、「アッシジの聖フランチェスコ」の意味なのである。

紀元前3世紀、秦の始皇帝が「不老長寿」の薬を求めて各地に派遣したのに少し似て、現代の世界的超富裕層は、不老長寿は無理でも「宇宙」に新たな生存の場所を求めているのではないだろうか。
アマゾンCEOのジェフペゾスの「宇宙旅行」からの帰還にそんなことさえ思い至った。さもなければそんなに富を独占する必要があるのか。
現代の超巨大企業といえばGAFA(グーグル・アップル・フェイスブック・アマゾン)がであるが、「ポストコロナ」においては、ワクチン開発の勝者が食い込むのではなかろうか。
世界で「オンライン医療」が広まることも予想され、巨大情報企業と医療企業が一体化すれば、さらに巨大化することも推測される。
さて歴史の中で「医療」を通じて巨大な力をもったケースとして、ルネサンス期中世イタリアにおいて大きな権力を握った「メディチ家」が思い浮かぶ。
実はメディチ家の名前「メディチ」は「メディソン」(薬品医療)の語源なのだ。
また、家紋には8つの丸薬(正露丸に似ている)を思わせるマークがあしらってあることからもそれがうかがえる。
メディチ家は、1200年頃フレンツェの北方約30キロに位置するムジェッロの山間部からやってきたものと考えられる。
それは、アッシジのフランチェスコが生きた時代。
その時代は、聖地エルサレム奪回の十字軍が始まったところで、フィレンツェからも多くのカトリック信者がこの聖なる戦いに参加した。
当然、十字軍の戦いで傷ついた兵士達も多く帰還したであろうから、体の傷をいやす「薬」や心をいやす「香料」などによって富を築いたことが推測される。
フィレンツェの歴史に名を刻むメディチ家の当主は、ジョヴァンニ・ディ・ビッチ(1360年~1429年)から始まる。
ジョバンニは銀行業で大成功を収め、メディチ家の地位を上昇させた。
そしてこの大銀行を受け継いだのが長男のコジモ・デ・メディチである。
コジモは政府の要職にはあまりつかず、あくまで一市民として陰からフィレンェの政治を支配した。メディチ銀行も繁栄し、これが彼の政治基盤を支えていた。
1464年8月に彼が死んだとき、共和国政府は「祖国の父」という尊称を彼に与えている。
コジモはまた文化のパトロネージとしても有名で、画家や彫刻家への援助も惜しまなかった。
コジモの孫にあたるロレンツォ・イル・マニフィコ(本名ロレンツォ・デ・メディチ)(1449年~1492年)は、20歳でメディチ家当主となるが、ロレンツォの時代がフィレンツェにおけるルネサンスの最盛期で、ボッティチェや若きミケランジェロも彼の庇護の下にあった。
ロレンツォを継いだ長男ピエロは、傲岸不遜な性格で政治にも経済にも関心を示さず、政治的な混乱が起こり、メディチ家は1494年から1512年までフィレンツェから離れることとなった。
しかし、亡命先で死んだピエロの弟で枢機卿ののジョバンニ・デ・メディチがローマ教皇「レオ10世」として選出され、ローマにおけるルネサンスの最盛期をもたらした。
レオ10世は、ラファエロやミケランジェロを任命し、サン・ピエトロ大聖堂の改修を進めた。
さらには、ルネサンスの三大巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロが出そろい、華々しく活躍した。
しかし、レオ10世は、芸術を愛好するあまり財政をひっ迫させる。大聖堂建設の名目で「免罪符」の販売を認めたことから、1517年から始まるマルティン・ルターによる「宗教改革運動」のきっかけを作った。
宗教改革を発端として、イタリアは宗教対立の争いの時代に入り、ルネサンスの終わりが始まる。
メディチ家の庶子であったジュリオがローマ法王に選出され、クレメンス7世として即位するものの、1527年には神聖ローマ皇帝カール5世がローマ略奪を行い、これをきっかけとして、イタリア・ルネサンスは終焉をむかえる。
その一方、市民革命の担い手となったピューリタンたちが新大陸に移住してアメリカを建国する。
清貧の修道士「聖フランチェスコ」の名を冠したサンフランシスコという町が、黄金と鯨を求めてやってきた人々が築いたということは、この町に溢れる詩情もあって、大方の予想を裏切る事実のようだ。