事件の裏に経済利権あり

福岡県京都(みやこ)郡出身の町田その子さんが書いた「52ヘルツのクジラ」が本屋大賞を受賞した。
他の鯨が聞き取れない高い周波数で鳴くため、世界で一番孤独だと言われているクジラ。
そんなクジラになぞらえて、人生を家族に搾取されてきた女性と、母に虐待されてきた少年の交流を描いた。
この話に、「129ヘルツの鐘」を思い浮かべた。
その鐘とは、大晦日の年越しの際にNHKがしばしば中継する福岡県太宰府の観世音寺の梵鐘(ぼんしょう)である。
実はこの鐘と全く同じ鐘が、京都妙心寺にあり、「戊戌年四月十三日 壬寅収"糟屋"評造春米連広国鋳鐘」と刻まれている。
つまり、妙心寺の鐘は、飛鳥時代後期の698年、福岡の糟屋(かすや)政庁の評造(役人)である「春米連広国(つきしねのむらじひろくに)」という人物によって鋳造されたということだ。
この二つの鐘はいわば「兄弟鐘」なのだが、人知れず「交振」し合っているかもしれない。
妙心寺の鐘は「黄鐘調」と呼ばれていることが、吉田兼好作「徒然草」の第二百二十段「なにごとも辺土は」に記されている。
現代語訳すると、「鐘の音の基本は黄鐘調だ。永遠を否定する無常の音色である。そして、祇園精舎にある無常院から聞こえる鐘の音なのだ。西園寺に吊す鐘を黄鐘調にするべく何度も鋳造したが、結局は失敗に終わり、遠くから取り寄せることになった」とある。
この、「遠くから取り寄せた鐘」こそが、妙心寺の鐘であり、この鐘を創ることが並みの技術では出来なかったことがわかる。
「徒然草」によれば、もともとは聖徳太子が大坂に建立した「四天王寺」の聖霊会において、「楽律」の調整に用いられ、その後、教徒の「法金剛院」(現:右京区花園)に移されたと言い伝えられている。
実は、この法金剛院こそは、妙心寺の西南の境内四方を占めた大寺なのである。
ところで、「黄鐘調」とは雅楽に用いられる六調子の中のひとつ。オーケストラの最初の音合わせに用いられる音階を、鐘の音に置き換えて鐘の最も理想的な音(「ラ」)を“黄鐘調”としている。
この「ラ」の高さの音が一番響くので、オーケストラの音合せにも「ラ」の高さが用いられている。
驚くべきことは、オーケストラの音合わせに用いられる基本音の周波数は129ヘルツだが、この古鐘の音の周波数も同じ129ヘルツでピタリと一致していること。
そして、こんな見事な鐘を鋳造する技術が、我が地元・福岡の「糟屋の屯倉」にあったということ。
時代を遡って、「糟屋の屯倉」の重要さを示す出来事が、6世紀に起きた「磐井の乱」である。
大和朝廷が、527年に近江毛野が軍6万人を率い、任那に渡って新羅に奪われた南加羅を再興して任那を合併しようとした。
これに対して、「筑紫君磐井」が反逆を謀って実行する時をうかがっていると、それを知った新羅から賄賂とともに毛野の軍勢阻止を求められた。
そこで磐井は火国(のちの肥前国・肥後国)と豊国(のちの豊前国・豊後国)を抑えて海路を遮断したところ、毛野軍と戦いとなった。
さらに翌年、磐井は筑紫御井郡において、朝廷から征討のため派遣された物部麁鹿火の軍と交戦し、激戦の末に麁鹿火に斬られた。
その結果、磐井の子の筑紫君「葛子」は死罪を免れるため「糟屋屯倉」を朝廷に献じたという。
最終的に、大和政権は糟屋(粕屋)の地を得ることで、大陸交易ルートの確保することができた。
ところで、鐘の鋳造に関わったと推測されるのが、「糟屋の屯倉」の周辺に位置する「多々良」である。
福岡市民にとって「多々良川」によってよく馴染んだ地名だが、その由来は「たたら」とよばれる製鉄(鉄を製錬すること)にあるようだ。
日本で製鉄が始まったことを示す遺跡は6世紀前半まで溯ることができ、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)では多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていた。
福岡の「糟屋の屯倉」は、単なる地政学上の重要性ばかりではなく、髙い「製鉄技術」が伴っていたと推測できる。
この製鉄技術があったからこそ、「鉄資源」を求めて朝鮮半島南部への侵攻を企図したのであろう。
時代が下って14世紀、多々良ちかくの「流通センター」あたり一帯は足利尊氏と菊池氏・阿蘇氏との合戦となった「多々良浜の戦い」の戦場である。
楠木正成らとの戦いに敗れて、一度は九州に逃れた足利尊氏にとっての「捲土重来」の地でもあるが、磐井が「火の国」を味方につけて朝廷と戦った出来事と重なる。

江戸城松の廊下にて、赤穂藩主浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央を斬りつけた刃傷事件はあまりにも有名である。
吉良義央が、勅使饗応役を拝命していた浅野長矩に対し、儀式典礼を司る高家の立場を利用して故意に恥をかかせたことが原因とされる。
これでは、吉良側があまりにも「悪人」側となってしまうが、そこには吉良義央が「入浜式塩田」の先進地であった赤穂に、「製塩法」の指導を願い出たところ拒否されたいうことがあったともいわれている。
ところで最近、TVで麺類界のプロによって日本で一番おいしい素麺(そうめん)を投票する番組があった。
それによると、1位半田素麺(兵庫)、2位三輪素麺(奈良)、3位揖保之糸(兵庫)であった。
この中で一番古い歴史をもつのが、三輪素麺である。
奈良県の三輪山の山中から湧き出る良質な水に恵まれ、この地に非常に質の高い小麦がとれること、また冬には湿度が低く寒風が吹き下ろすという気象条件が素麺づくりに最も適していた。
製造においては12の工程と長い時間がかける職人の技でようやく実現する超極細麺で、最高等級品「三輪の神杉」は、皇室献上品としての栄誉に与っている。
だが自分にとって一番ポピュラーなのは、3位「揖保(いぼ)乃糸」である。
厳選した小麦と「赤穂の塩」を原料に、600年受け継がれる職人の伝統の手延製法で作られた。
そして、この「揖保乃糸」を抑えて1位となったのが、知名度では劣る「半田素麺」である。
プロの評価の中に、「グルタミン酸」が多く含まれているというコメントがあった。
いわゆる「うま味」成分であるが、「グルタミン酸」は自然の食物である昆布などに含まれている。
阿波(徳島)「半田素麺」も播州(兵庫)の「揖保之糸」も共通していることは、瀬戸内の「塩」が大きな成分となっていることである。
中世において「製塩」で知られるようになったのは愛知県で、三河湾の各所で入浜式と推定される塩田が築かれた。
江戸期になると、吉良(現西尾市)周辺などに大規模な「入浜式塩田」が築造され、さかんに塩づくりが行わるようになる。
中でも吉良産の塩は、三河周辺だけでなく足助街道を通じて長野県の伊那谷方面にも運ばれ、「饗庭(あいば)塩」として有名であった。
明治末には、知多半島や渥美半島の塩づくりは廃止されるが、三河湾岸の吉良周辺では「塩づくり」は続けられ、戦後には流下式塩田に転換しつつ、昭和40年代まで存続した。
遡ると、弥生時代中期以降、瀬戸内海を中心に土器を利用した製塩が盛んにおこなわれるようになる。
弥生時代の終わりから古墳時代の初頭には、瀬戸内海以外の各地で土器製塩が開始される。
これらは、瀬戸内地方からの製塩技術の伝播と考えてよいだろうが、製塩土器の形は地域により変化し、特色があらわれる。
中でも、三河湾の製塩土器の形は特徴的で、土器の底部に支脚が付いている。
時期によっても異なり、支脚の中が空洞のものから、粘土の棒を取り付けたような形状のものに変化する。
そして、鹹水(かんすい/海水を濃縮した塩水)を火にかける際には、製塩土器を数十個並べることのできる「炉」が用いられた。
古墳時代中期になると、渥美半島、知多半島のほか島嶼部でも製塩がおこなわれるようになる。
こうした製塩活発化の動きは、製塩に適した地形・環境であるというだけでなく、政治的な地域間関係にも影響されたともいわれている。
江戸時代の三河幡豆(はず)郡では、複雑に大名領・旗本領などが村ごとに混在しており、赤穂藩のように領主が大規模な塩田開発を奨励し、積極的に塩の販売を行ったとは考えにくい。
また、塩の販路については、赤穂塩が廻船によって江戸の他、各地に流通したのに対し、吉良の塩は三河以外に知多の醸造業や信州伊那谷方面に流通した程度で、生産量は赤穂をはじめ瀬戸内産には遠く及ばなかったという。
この事実から、赤穂と三河の塩の利権が「松の廊下」の事件をどう解釈するかは、様々であろう。

1920年代、ニューヨークの郊外、ロングアイランドのウェストエッグにあるその大邸宅では毎夜、豪華絢爛たる饗宴が繰り広げられていた。
この場面は、映画「華麗なるキャツビー」の一場面。1920年代の繁栄するアメリカの中でギャツビーは成功を収め巨万の富を得て、昔の恋人デイジーの愛を取り戻そうとする。
しかしキャツビーの成功には、一つの影が付きまとっていた。それはマフィアとの繋がりであり、それが彼の人生をを悲劇へと突き進ませることになる。
「華麗なるギャツビー」の舞台となるのは、1920年代のニューヨークである。
それは「狂乱の20年代」と称されており、空前の好景気に沸き、ジャズなどの新しい文化が大衆に広まった。
また、女性が「参政権」を得たこともあり、自由を享受した。女性たちはカクテルを飲み、古い社会慣習をはねのけて、禁酒法時代の文化を謳歌した。
「フラッパー」(おてんば娘)と呼ばれた彼女たちは、髪をショートカットにし、丈の短いゆったりとしたラインのドレスを身にまとい、たばこを吸ってダンスに興じた。
その一方で、禁酒法の影響でギャングが勃興した。
こうした時代背景の中で、貧しい農家に生まれたギャツビーは、密造酒や株の不正操作などによってのし上がっていく。
映画では、シカゴのマフィアからはひんぱんに電話がかかってくるシーンがあった。
さて今からおよそ100年前の1920年1月、米国で憲法修正第18条が発効され、米国内でのアルコール飲料の醸造と販売は違法になった。
推進派はこれを「高貴な実験」と掲げ、全米の禁酒法支持者が称賛した。
その後、禁酒法は10年以上続いたものの、禁酒法の推進派が約束した「新しい国」がやって来ることはなかった。
禁酒法の歴史は19世紀までさかのぼる。当時は宗教団体や、米国禁酒協会などの社会団体が「アルコールの災い」や酒浸りの状態を問題視していた。
1850年代、米国メーン州など数州でアルコール禁止法が試されたが、最終的には地元の反対で覆った。
禁酒法導入の流れのなかで、大きな役割を果たしたのが女性団体だった。
運動家たちは、酒に酔った夫が妻や子どもたちを殴っており、飲酒が家庭内暴力に拍車をかけていると主張した。
また、禁酒法の支持者は、アルコール乱用が貧困の原因だと論じた。
第1次世界大戦の影響により、戦争中のアルコール禁止を議会が承認すると、禁酒派は勢いづき、憲法修正による禁酒を求めて、議会に圧力をかけ続けた。
そして、1919年1月、全米の4分の3の州が批准して「禁酒法」が成立。1920年1月から効力を持つことになった。
参政権を得た米国人女性たちにとって、1920代は刺激的な時代だった。
都市部では、仕事に就く若い女性が増え、都会での自立した生活を楽しんだ。街のもぐり酒場で、男女が一緒にグラスを傾けることもその一つだった。
この新法を、金もうけのチャンスと見る者たちが出てきた。
米国は、蒸留酒を作る国々に囲まれている。カナダのウイスキー、カリブ海のラム酒。密売人がアルコールを米国市場に潜り込ませるには、資金、輸送手段、腕力があればいい。
「喉が渇いた」米国人たちは、値段が上がっても酒を買うことが予想され、莫大な利益が見込まれたからである。
密売業者は全米の都市で暗躍し、ニューヨークでは、イタリア系移民が五大ファミリーを作り、街は酒が手に入る状態のままだった。
シカゴでは、「スカーフェイス」の異名を取ったアル・カポネとジョニー・トーリオが、市中の酒の流通を管理するマフィア組織「シカゴ・アウトフィット」を設立した。
カポネは、密売の規模が拡大し、複雑になると、ギャングたちは組織的に団結し始め、弁護士、醸造業者、船長、トラック運転手など、多くの人を雇い入れた。
さらには、操業を中止した醸造所を買い取り、販売のために自ら密造酒を作り始めた。
実際、「犯罪シンジケート」は、地元当局を買収して勢力を拡大し、権力を手にしていた。
結局は、密売を阻止するのは不可能だと分かり、特に都市部の世論は「禁酒法」反対に転じた。
1932年の大統領選で、フランクリン・ルーズベルトが現職のハーバート・フーバー大統領に圧勝すると、修正第18条つまり「禁酒法」が廃止された。
それは政府にも大きな利益をもたらした。当時、国を苦しめていた大恐慌との戦いに、アルコールからの税収が役立ったのだ。
実は、米国で1920年から33年まで続いた「禁酒法」は、酒そのものを禁止しているようにみえるが、本当のターゲットは「酒場」であったといってよい。
その点、新型コロナ禍の下で、日本で取られている飲酒店への酒類提供の「自粛要請」も、酒を飲む場所自体を抑え込むのが狙いなので、幾分似ているといえよう。
だが、「禁酒法」と日本の酒場の営業規制が根本的に異なるのは、禁酒法の「真の標的」は酒場に集う客層であった。
産業革命を経た米国には東・南欧などから年間100万人を超える移民が流入していた。
都市の工場労働者が憂さを晴らしたり、情報空間をしたりする唯一の空間が、酒場であった。
酒造業者の大半をドイツ系とアイルランド系が占め、彼らは地方政界に代表者を都市部で影響力を拡げた。
これを恐れたのがアングロサクソン系プロテスタントである。
すでに州単位で活動していた「反酒場連盟」の中心は、WASPの企業家と教会関係者であった。
企業家たちが酒場を狙ったのは、そこを舞台とした政治との癒着を防ぐと同時に、労働者の飲酒習慣を変えたいと願ったからである。
その狙いはある程度達せられ、酒場でしか酒を飲めなかった労働者達の飲酒量は、この間に大幅に減る。
多くが年収千ドル以下だった彼らには、質の悪い密造酒でも安い価格ではなかったのである。
ところが中産階級以上にとっては逆だった。禁酒法時代に彼らは自由に酒を飲め、若者や女性でさえも、もぐり酒場やクラブで酒を飲み始めた。
大酒飲みのフォークナーやヘミングウエーの円熟期がこの時代だったことも象徴的である。
つまり「禁酒法」という社会実験は、国民を酒を飲める層と飲めない層に分断し、「不平等」を強く意識させるものでしかなかった。
結局、そうした「不平等」へのいら立ちが「禁酒法廃止」の運動につながったといえよう。
禁酒法を「高貴なる実験」とよんだのは、もともとフーバー大統領の皮肉と冷笑を込めた言葉であった。