灰色の男たち

新型コロナ禍で、ミハエル・エンデの「モモ」が再び注目集めている。
時代の推移により、「再注目される」ことはよくあることで、最近では格差社会の進行で小林多喜二の「蟹工船」が注目を集めたこともある。
では「モモ」が再注目される理由は何か。それは「時間泥棒」というキーワードが、新型コロナ下の我々の生活の実感とピッタリくるからではなかろうか。
それは、誰かと何かをシェアする時間のことで、「モモ」の主題の一つである。
「モモ」の作者・エンデはドイツ南部のガルミッシュウ生まれだが、日本のことが好きで何度も訪れているという。
欧米では、詩人や作家は、しばしば孤独で天才的な隠遁者である。
「ライ麦畑でつかまえて」のサリンジャー、アメリカの女流詩人のディキンソン、ショーン・コネリー主演の映画「小説家をみつけたら」の主人公も隠遁者のような小説家であった。
欧米の考えだと、芸術とは、啓示を受けた個人が作るという発想である。
ところが、日本の伝統では、詩歌は常に人と人との関わりで生まれると考えられてきた。
和歌や俳句も、歌会や句会といった他者との関わりの場でつくられるというのが基本的な考え方である。
場の雰囲気や感情を共有し、お互いに関わり触発しあう中で、よりよき詩歌が生まれるとした。つまり社交の場で人をもてなす中で作られるとした。
また後述するように、日本は西洋とは違う「時間の根っこ」をもつ国だからかもしれない。
「モモ」のあらすじを簡単に紹介したい。
かつて栄華を誇っていたが、今では廃墟と化してしまった円形劇場。そこに誰かが住み着いたという噂が流れ、住人たちが確認しに行くと、そこには奇妙な恰好をした少女がいた。
少女は「モモ」と名乗り、見た目はツギハギだらけの服をきた小学生ぐらいで、ただここに住みたいということの他はよくわからない。
住民たちは相談し、みんなでモモの面倒を見ることにしたが、モモがとても役に立つ子だということに気がつく。
モモは人の話を聞く才能に長け、どんな人でもモモに相談するとたちどころにアイディアが浮かんでくるからだ。
こうして誰にとってもモモはなくてはならない存在になり、モモは誰とでも分け隔てなく仲良くする。
その中でも親友と呼べる人が二人いて、それが道路掃除夫のペッポと観光ガイドのジジである。
しかし「灰色の男たち」の登場が、三人の友情に「暗い影」を落とすことになる。
彼らは人間たちから時間を奪うための大きな計画を企てていて、かつ誰にも気が付かれないように慎重に行動している。
一人、また一人、灰色の男たちは人生に不満を抱える人間と会い、いかに時間を無駄にしているのかを秒単位で説明する。
そして、節約した時間を彼らが運営する「時間貯蓄銀行」に預ければ、利子を乗せて支払うという。
淀みない説明に誰もがその気になり、灰色の男たちに時間を預ける。
すると、人々は1秒たりとも無駄にできないとイライラしながら働くようになり、もっと倹約しなければとますます怒りっぽくなっていく。
しかし、彼らの頭の中からは灰色の男たちと会ったことは忘れ去られていて、彼らは着実に人間の世界を侵食し、時間を奪っていった。
やがてモモは自分の元に友達が来なくなったことに気がつく。
時間を奪われた親たちが、誰かが時間を盗んでいるからだと子供たちに言い聞かせていて、友達とあうことは「不要不急」な出来事になったからである。
モモは、自分の足で古い友人たちを訪ねていくが、友人はみな時間に追われ、モモと話したいけれど時間がないと本当に悲しそうな顔をしている。
モモは会いに来てと彼らを促すが、それが灰色の男たちの計画を邪魔することになり、彼らはモモを次のターゲットにする。
灰色の男の一人が円形劇場を訪れ、モモにいかに成功することが大事であり、友情など何の役にも立たないことを説く。
モモはそれになかなか屈せず、灰色の男たちは、意のままにならないモモを捕まえようと躍起となる。
そんな時、モモの元に甲羅に文字が浮かび上がる不思議なカメが現れ、彼女を「どこにもない家」に案内する。そこは、幾千種類もの時計が時間を刻む不思議な場所だった。
モモを出迎えてくれたのは、マイスター・ホラという銀髪のほっそりとした老人。カメは名前をカシオペイアといい、灰色の男たちからモモを守るためにマイスター・ホラが遣わせたのであった。
カシオペイアは三十分先の未来を見通す力を持っていて、そのために灰色の男たちに見つからずに済んだのである。
マイスター・ホラはこれまでの出来事を知っていて、灰色の男たちについて説明してくれた。
彼らは人間が生み出した存在ではないもの、人間を支配するためにすでに多くの”人間の手下”を作ったのだという。
マイスター・ホラは、さらに時間とは何かについて、謎解きを通してモモに教える。
ここは全ての時間の源で、それを人間たちに配っているといい、マイスター・ホラは見せたいものがあるといって、モモを「時間の源」に連れていく。
そこは時間が美しい花として絶えず咲いては散ってゆき、数え切れない音がハーモニーを作り出していた。
あとからそこは、モモの”心の中”であることを教えられ、モモは時間とは何かについて悟りをえて、眠りに落ちるのであった。

現代人は、 良い暮らしを得んとして効率的かつ生産的に生きようと、余った時間さえも何かに追いたてられるように消費する。
そんな実感から、我々がそれと気づかぬまま、何かが奪い取られているように感じているが、その何かがわからない。
最近、NHKの番組で「モモ」に現われる「灰色の男たち」とは何かについて、3人の識者に問うことがなされていた。
マルクス経済学の「新解釈」でしられる経済学者・齋藤幸平は、「灰色の男たち」とは「資本」だと明確に応えていた。
齋藤は、マルクスが晩年、環境に関する原稿を残していることに注目し、人が自然を改変してしまう時代を、新たな地質年代として「人新世」と呼び、「人新世の資本論」という著書を書いている。
近年、スーパー台風や集中豪雨、夏の酷暑など、様々な形で危機に直面。新型コロナなど未知のウイルスによる感染症の拡大も、元をたどれば森林などを乱開発した資本主義に原因がある。つまり、こうした乱開発を生み出すのが「資本」にほかならない。
資本が投下され雇用が生まれ、輸出により利益が生じ、多くの人の生活を支えているのも確か。
一方で、「資本」は、お金はお金を生み出すところに流れていく。そうした「資本の論理」の下で、モノつくりは低賃金・長時間労働OKの地域に移行し、環境問題や人権問題を引き起こしている。
中国はじめ東南アジア諸国、南米の国々、東ヨーロッパの国々では、自国に資本が流れてくることを望んでいて、資本を少しでも多く呼び込もうと規制の少ない特別区をもうけたり、法人税削減等の政策をとっている国もある。
資本がしっかり稼いで利益率が低下すると、外資はさっさと撤退して、国民の生活は一機に停滞する。
消費にしても「資本の論理」が貫徹している。
消費者に欲しいもの(需要)があって、それを察知した生産者がそのモノを生産する。こうした構造を当たり前とするのが「消費者主権」という考え方である。
しかし、消費者は企業の巧みな広告宣伝に従って「買わせられる」というのが実態である。
消費者が自分の好みに従って、買っているのか、買わせられているのか、よくわからない。
最近のネット上のターゲット広告やビッグデータなどの活用により、我々の「好み」さえも操作されていて、自分が消費の主権を握っているというのは、錯覚に過ぎない。
また、元々経営コンサルタントの独立研究者・山口周は「灰色の男たち」を、システムがもたらす「魔」と解釈した。
これまでの資本主義社会は「時間によって資本の価値が増殖する」ことを前提にしてきた。しかし、金利はゼロになり、「時間を経れば成長する」という期待ももてなくなったことは我々は気がついている。
金利は、消費や投資を「待つ」ことの対価と解釈すれば、時間に価値がなくなってしまったともいえる。
そうなると、「より良い未来のために、いまを手段化する」という考え方も否定され、人類は大きな転換点に差しかかっている。
例えば都心のタワーマンションの最高階に住みたいという、そんな夢を描いて一生楽しくもない仕事に励んでいるというのは、まんまと「時間泥棒」の魔に冒されていることになる。
それよりも、その時々で自分の興味にそって楽しいことをやってみる人生の方が、トータルでみるとよほど豊かな時間が過ごせる。
ところで、「学校」という言葉の由来は「ひま」(ギリシア語:スコレー)といったら驚くかもしれない。
スコレーはものごとをじっくりとみる「観想」を内実としているが、学校はプロセスではなく結果を教えることに偏る傾向がある。
学生が「将来のためになる」ということで、「今」の時間をある程度犠牲にしなければならないことは当然だとしても、そんな生き方が「身について」しまうところに問題がある。
これからの人生設計は、今を楽しむ(充実)ことができるかが大切である。
「灰色の男たち」とは何かについて三番目に、医療人類学を専門とする磯野真帆に対するものであった。
近代医学は、病いを個人のそれも特定の臓器に限定すること、症状に注意を集中し原因をさぐる。
患者一人の遠い過去や未来とのつながりなどは考慮するなどは無駄とみなされる。
また、医学教育の中で、自然治癒力という概念を考えるような機会はほとんどない。
「医者として患者に何ができるか」ということが学ぶべきことであって、「患者が何をできるか」は問われない。
それこそが、専門職支配で、患者はなにもわからず常に働きかけられるだけの客体とみなされる。
ナイチンゲールは、人間には自然に病気を治そうとする力が備わっており、その自然治癒力を最大限に引き出すのが看護の基本的役割だと明言しているが、それはけっして医師との分業をめざすためではなかったはずだ。
効率性優先、コントロール優先、生産性重視の現代文明において、病いや、老い、障害は速やかに管理されるべきものになっている。
文化(医療)人類学の視点にたてば、「病むとはどういうことか」ことかについて、根源的な問に応えようとする。
磯野はもともと運動生理学を学び、トレーナーを目指していたが、人間のすべてを数値化するアプローチに違和感を抱いた。
米国留学たまたま出会った文化人類学の面白さに引き込まれた。
文化人類学の重要なテーマの一つが「誕生と死」。
さまざまな民族が、どのように死を扱ってきたかについての資料の蓄積があり、自分が抱えてきた違和感を言語化できると思えたからだという。
例えば、異なる民族のコミュニティーの多くで、「いい死に方」とはただ長く生きながらえることではなく、命の循環、生者と死者の繋がりを重視している。
一方で現代医学は、長く生きることが素晴らしいという価値観が前面に押し出され、エビデンスという言葉に代表されるように「命」の価値が数値に変換される。
それによって多様な民族が自分たちなりのやり方で作ってきた死者と生者をつなぐ「宇宙観」が排除されてしまう。
医療現場では、人工呼吸器を1カ月も着けて寝たきりの高齢の患者を見て、延命措置が重視され、組織側の都合で目の前の患者の治療やその在り方が決定されてしまう。
文化人類学には、患者に寄り添う視点やより良い方法が生まれる“種”があるという。
以上の3人の「灰色の男」に対する言及で共通しているのは、それがある種の「システム」だということだ。システムから、ひとりがら抜け出ることは難しいことにちがいない。
これに関して思い出したのは、10年ほど前に起きた「郵便割引不正事件」に端を発する大阪地検特捜部の検事らによる証拠捏造事件である。
検察は「法と証拠」に照らして、起こった事件(事実)のみを捜査の対象にしてきたと語っていたが、検察の捜査が検察側のストーリーに合うように改竄が行われたことだ。
ここにも、手早く事件を処理しようという意図がみえる。
しかも、証拠改ざんを隠したとして犯人隠避容疑で逮捕された前副部長弁護人が、取り調べの全過程 を録音・録画するよう求めたという。
虚偽の自白強要を断固として否定してきた検察(検事)が、今度は虚偽の自白を恐れて可視化を求める。そんなブラックジョークのような話である。
これも、人間の正義の観念さえも、システムの中で歪められていく一例であろう。

ミハエル・エンデがしばしば日本を訪れるのは、列車の時刻など厳格で近代的でありながら、各地の神社など「古層」が今なお息づいているからではなかろうか。
また、日本人の時間意識については、「過去の経過(=いきさつ)」や「将来の展望」よりも、「今のこの時・この場」を大事にする傾向があるということである。
こうした態度が「今ココ主義」であるが、芸術面で思い当たるのは、歌舞伎。
本来、幾場面もある物語の一部をきりとって演ずるので、全体の物語を知らないものにとっては理解不能だが、日本人はその切り取った場面の迫力や情感だけでも、十分に堪能できるのである。
「古事記」の時間は、始めなく終りのない時間意識であり、無限の直線としての時間は、分割して構造化することができない。
すべての事件は、神話の神々と同じように、時間直線上で、「次々に」生れるものであるから、そこでは人は「今」に生きることになる。
日本人の「時間意識」をもうひとつ加えると、四季の区別が明瞭で、規則的であり、その自然の循環するという"農耕社会"の日常的な時間意識を決定したと考えられる。
歴史的時間としては、始めなく終りのない「次々に」の直線的時間であり、日常的時間としては、始めなく終りない円周上の(四季折々)の循環的時間であり、その意識は日本人の根っこにあるものである。
モモの物語を読みながら思うことは、人間はそれほど「今」を生きてはいないということ。
どんなに楽しいことをしていても、その人が「過去の罪障」や「未来の不安」に占められているのなら、ひとつも「今」を充たすことが出来ないからだ。
さて、高度産業社会に生きる人々は、生存のための物質的な不足の克服という課題をほぼ解消した。
その一方で、「不要不急」を排除しつつ、少しでも、早く仕事を進め生産性をあげなければならない。
「モモ」に沿っていうと、時間をいつも節約しなければならない。そんな思いにばかり囚われると「灰色の男たち」の手下になりやく、その思いを隅っこにやれば、彼らは消えていなくなる。

また、モモの「時間の国」の章ではやや哲学的な要素が語られている。
ひとり一人に命があるように、時間の源もひとりひとりにある。
ペッポの生き方では道路掃除のひと掃き、ひと掃きの今この瞬間が充実している。
一歩一歩に集中しすぎて周りが見えないというのではなく、一歩一歩が時間の源と繋がっているために満たされている。時間の源は、人間の豊かさの源泉で、一瞬でありながら無限でもある。 そんな豊かさをうばうもの、我々の内なる「時間の根」を摘んでいるもの。それぞれに育ち方、伸び方をするものであろう。
華厳経の時間と宇宙理解に近いものがあり、
近代医学の「癒し」の場である(はずの)病院は、制度であり組織であり、管理と秩序が重視される。病院にない(あっても歓迎されない)ものをあげてみよう。
笑い、ユーモア、ばか騒ぎ、悪ふざけ、パフォーマンス、うた、音楽、おどり、化粧、ごちそう、セックス、子供(「患児」は別にして)、泣き声、動物・・・。これらは全て「もてなし」に重要な素材であり、無秩序性を内包し、だからこそ儀礼のなかで治療的カタルシスをおこしうるものである。
それと比べると、白い、清潔なだけの病院の診察室は、何と貧弱な舞台装置であることか。
資本主義はドーパミン。 脳はストーリーを喜ぶ、線条体と前頭葉。 報酬を与えられ、ドーパミンに導かれた人類。グレートジャーニー。136番目のTがIになった人が現れた。遺伝子配列の変容。 アフリカの人は不安傾向、ユーラシア大陸1・3、アメリカ大陸は、1・2。
ドーパミンの多さを画像から推定。ポジティブさに関わる質問をすると、自己評価が高い人はドーパミンが多い。自分の力を信じ広まった。 普遍的な人類、社会的な他者へのふるまい、他者の気持ちを自分のように感じる共感力もそれだ。他人の靴をはける人。 農耕社会のはじまり。 「ビジネスは歴史的使命を終えた」と語る独立研究者・山口周。持続可能な脱成長を説いた著書『人新世の「資本論」』が話題の経済思想家・斎藤幸平。医療従事者や患者への丹念な調査から「人間とは何か」を問う医療人類学者・磯野真穂。コロナ禍を受け、彼らは一冊の本を手に取った。ミヒャエル・エンデの児童文学『モモ』。現代社会を鋭く批評したこの作品をヒントに人類が向かうべき未来、誰もが生きるに値する社会について語る。 天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。 2 生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、 3 殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、 4 泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、 5 石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、 6 捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、 7 裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、 8 愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。 9 働く者はその労することにより、なんの益を得るか。 10 わたしは神が人の子らに与えて、ほねおらせられる仕事を見た。 11 神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。 12 わたしは知っている。人にはその生きながらえている間、楽しく愉快に過ごすよりほかに良い事はない。 13 またすべての人が食い飲みし、そのすべての労苦によって楽しみを得ることは神の賜物である。 14 わたしは知っている。すべて神がなさる事は永遠に変ることがなく、これに加えることも、これから取ることもできない。神がこのようにされるのは、人々が神の前に恐れをもつようになるためである。