北海道の「功労者達」

吉永小百合主演の「北のカナリア達」(2014年)という映画は、北海道の北端・稚内に近い礼文島(れぶんとう)を舞台に制作された。
15キロほど離れた利尻島(りしりとう)の”利尻富士”ががきれいに見える場所に、撮影セットとなる「学校」がもうけられた。
「学校」は、撮影場所の近くの学校が廃校になったので、様々な飾りや文具などを持ち込んでセットが作られた。そして、映画公開後も、映画セットとなった「学校」は観光地として保存された。
個人的に参加した「利尻・礼文ツワー」のバスガイドさんが、「あの絵は、自分が小学校の時書いた絵です」と指さしたので、「学校」の廊下をのぞきこんだ。
幾つかの絵の中で、なかなか上手な絵が、ガイドさんの小学校時代の「自画像」だった。
客から「昔は痩せてたんですね」という声も聞こえたが、ガイドさんは「私の絵が勝手に使われた」と嬉しそうに笑っていた。
ガイドさんによれば、それは偶然ではないという。
役場の観光課に同級生がいて、自分がガイドをしていることを知って、観光の際に話のネタになるように仕組んだのでないかと推測していた。
礼文島は、もとをたどれば島中みんなが親戚みたいな処だから、誰がどこに就職してどんな仕事をしているなんて情報は、あっという間に島全体に伝わってしまうということであった。
またガイドさんによれば、漁師たちの繁忙期には、自然に島中の人々が集まってきて仕事を助け、その見返りに魚をおすそわけをいただけるのだという。
ツワーの宿泊先近くの海岸に、アパートともホテルともつかない2階建ての30部屋ばかりの横長の建物があるのに気がついた。
その建物には「礼文番屋」と書いた大きな表札があった。
「番屋」といえば北原ミレイの「石狩挽歌」の歌に登場するように、魚の集まり具合を観察する漁師たちが、魚を丘あげして処理したり、網を修理するところだ。
その建造物は、そんな作業をしている風でもなく、純粋な宿泊施設であった。
後で知ったのことは、この「礼文番屋」建設に協力した一人が、博多のめんたいの店として、「福屋」と並んで有名な「福さ屋」の創業者・佐々木吉夫なのだという。
佐々木吉夫は、1933年北海道礼文島生まれ。生家は網元であったが、戦後、漁業権の開放で一介の漁師になった。
「大漁しても貧乏、不漁ならなお貧乏」というような貧しい村で、「村で一番偉い村長になって村を豊かにする」との決意で中学を卒業すると島を出て道立高校に進み、牛乳配達のアルバイトと奨学金、居候先には出世払いにして、中央大学に進学した。
礼文島で村長になるつもりでいたので、法律や政治を学ばなければという思いがあった。
大学に国会議員秘書の求人情報が出ており、応募した。議員秘書のとき、福岡選挙区の地域活動として、中小零細企業者の世話活動にも取り組んだ。
1975年、新幹線が延伸し博多駅まで開通したことで、構内にあった長旅相手のお風呂屋さんの経営が行き詰まり、世話活動の一環として私が引き受けた。
そこで、共働き世帯の女性の利便に資するため、その日の台所食材と生鮮食品を主力に駅構内に賑わいを作ろうと、スーパーマーケット形式の総合食料品店を開業した。
当時、構内にそんなお店はなく画期的なことで、朝9時から夜9時までの開店で大変繁盛した。
「めんたいこ」を売ろうと思いついたのは、スケトウダラの産地であった礼文島の漁師の家に生まれたことが大きい。
めんたいこはスケトウダラの卵のキムチ漬けのことで、韓国はもちろん国内でも辛子めんたい風な漬け物を売っていた店はあったと聞いていたからである。
どうしたらおいしい明太子ができるか、我が家が生臭くなるくらい試行錯誤を重ねて研究した。
そのうちに、東京に進出して大手百貨店と契約を交わし、銀座四丁目に大きな広告を掲げ、テレビでも広告を流すなどして全国に販路を広げていった。
さまざまな社会貢献活動が評価され、2013年には紺綬褒章を受章する。故郷の礼文島の全小中学校に「佐々木文庫」という名称で図書の寄贈や、教育振興のために寄付をした。
2017年には、島でボランティア体験をする人への宿泊施設「礼文番屋」の建設に協力した。

吉永小百合主演の映画に、北海道三部作がある。「北の桜守」「北のカナリア達」「北の零年」である。「北の零年」(2004年)は、1870年6月の徳島藩でに起こった庚午事変に絡む処分により、明治政府により徳島藩・淡路島から北海道静内へ移住を命じられた稲田家と家臣の人々の物語である。
明治にはいって「士族授産」のために、各地から北海道に移住したが、我が福岡からも移住したことに由来する「地名」が残っている。
札幌市北区の東端、篠路清掃工場がある付近を「福移」というエリアがある。よく福井に間違えられるが、福岡県から移住してきたので「福移」という。
移住団は明治政府から特別融資を受けた。今のお金で数億円。しかも無利子、5年間据え置きという好条件だった。
これは政府が「士族授産」のテストケースとして重視していたからであろう。出発に際しては旧藩主黒田侯から激励を受け、3年分の食料を満載した「平安丸」は博多を出発した。
旧福岡藩の士族50戸75人が石狩川沿いの「トウヘツフト」と呼ばれていたところに入植したのは1882年の春。
刀をくわに持ち替えた黒田武士に次々と大きな試練が襲いかかった。
武士団は北の地に全く新しいユートピアを建設しようと、事業は共有、運営は多数決とし収入は皆平等とする。入植できるのは「品行方正、節操堅固にして身体健康な者」に限られた。
移住団には千石以上の禄を食(は)んだ有力者がズラリと顔を並べた。
比較的安定していた郷里での生活を捨ててまでも北辺の理想郷建設に懸けたのである。
移住者は皆、入植後数年間の苦労は覚悟していた。しかし、計画は入植前夜に打ち砕かれた。巨額の資金が跡形もなく消えてしまったのである。調べてみると会計係が小樽で海産物の商品取引に手を出していたことがわかった。
入植資金の横領。時の政府にも「寝耳に水」の大事件であった。
博多出身の川上音二郎の一座が、サンフランシスコ公演に際し、資金を持ち逃げされ娘を日本人画家の養女にするが、彼女(青木鶴)がハリウッド男優の早川雪舟の妻となるので運命はどうころぶかわからない。
とはいえ黒田(旧)武士にとって一銭もなくなっては理想郷どころではない。
郷里から持参した伝家の宝刀や晴れ着を売り払い、国もとから借金を重ねたが生活は窮乏した。
「満村飢餓(きが)に瀕し」冬になっても着るものもなく「憐(あわれみ)を路ぼうにこふ者ある」状況に陥った。
同郷出身の太政官金子堅太郎、西郷従道、品川彌二郎等そうそうたるメンバーも相次いで訪れ事態収拾に尽力、「もし所期の目的を果さざるにおいては武士の面目にかかり天下に恥をさらすことになる」と、武士道精神に訴えた。
この激励に応えたのが木野束(つがね)である。自家の開墾は人任せにし、挫折しそうになる家を一軒一軒訪ねて歩き士気の維持に努めた。
また道路の開削、青少年の教育と文字どおり寝食を投げうって走り回った。
木野は北海道における最後の黒田武士であった。入植した50戸中、1世紀を経た今日、「福移」に残るのは4戸であるという。
また、北海道中央部にある「月形町」という町の名前の由来は、福岡県出身の人物の名前である。
1878年、内務卿・伊藤博文がひとつの建議書を提出した。
それは「社会を乱した凶悪犯や政治犯たちは、ただ徒食させることは許されない。ロシアへの備えの意味からも開拓が急務である北海道に送り込んで、開墾や道路建設などにつかせるのが良い」とするものだった。
そうして北海道に重罪犯を収容する監獄を設けることが決まるが、建設地の候補として、北海道開拓使黒田清隆長官は、蝦夷富士(羊蹄山)山麓、十勝川沿岸、樺戸郡シベツ太の3カ所をあげていた。
この場所の選定調査から立ち上げにいたる最大の功労者が、現在の福岡県中間市中底井野(なかそこいの)出身の月形潔(つきがたきよし)である。
月形は1847年、福岡藩士の子として生まれた。年上の叔父の月形洗蔵は、尊皇攘夷を唱える筑前勤王党の首領であった。
1868年、藩の命で京都に学び、奥羽を探索。江戸で藩の軍用金の警備などにあたり評価を得た。
維新ののち、潔は新政府に雇われ、執政局や御軍事局で仕事をしたのち、福岡藩権少参事となり、今日でいえば警察官僚としての道を歩むことになる。
その後、司法省(東京)に出仕し、1874年2月には佐賀の乱の鎮圧のために佐賀に赴き、8月にはプロシア人殺人事件の捜査のために函館に渡っている。
1879年には、内務省御用掛となるが、時の内務卿は、伊藤博文である。
月形は当時、初代典獄(監獄所長)に内定していて、開拓本庁で 調所広丈らから「樺戸郡シベツ太」を推薦される。
重罪人収容に適した未開の原野でありながら石狩川の水運を開発すれば札幌にもほど近く、土壌も農耕に適しているというのが理由であった。
また、月形潔はアイヌの人々に導かれるなどして、道なき道をひと月半あまりの調査行を行い、最終的に樺戸(かばと)に「樺戸集治館」が建設されることが決定した。
もともと、アイヌが時々狩り場としていた人なき原野に、千何百人の囚人を収容する巨大な建物ができることとなった。
そこを中心に御用商人や、彼らを迎える旅館であったり、たくさんの関係者が集まり原野に町がつくられていった。
最盛期には昭和30年代で約1万人にも及んだ。
北海道には網走など「集治監」を中心に発展していった町がいくつもあるが、シベツ太はその第1号となった。
1919年に監獄はなくなるが、町は発展をつづけ待望の鉄道建設がはじまり、1921年札幌から沼田までの札沼(さっしょう)線が開通し、沿線は札幌に近い穀倉地帯として栄えた。
2020年春、85年間月形町の暮らしをささえてきた札沼線(北海道医療大学~新十津川)は、北海道の鉄道整備計画により廃線となった。
樺戸集治館があった地の駅名は「石狩月形駅」で、「札沼線開通の歌」をつくったのは月形の地元福岡の小学校時代の恩師であったという。

2021年10月、岸田文雄の新首相就任が決定した。岸田は、東京都渋谷区に生まれだが、父の岸田文武は広島県出身の通産官僚だった。
岸田家は広島の一族であるため、一家は毎年夏に広島に文雄を連れて帰省し、文雄は広島原爆の被爆者たちから当時の話を聞いた。
岸田一族も多くが被爆し、死に至った者たちもいた。
1963年、父の仕事の関係でアメリカ合衆国・ニューヨークに居住し、小学校1年生から3年生まで3年間、現地の公立小学校に通う。
岸田にとって少年時の在米経験は、白人の女児に手をつなぐのを拒まれた差別体験など、原点に人種差別により正義感と義憤の念を強く持ち、世の中の理不尽さに気付くきっかけとなり、政治の原点となったという。
我々の知る岸田文雄といえば、安倍政権の外務大臣として「北方領土問題」などと取り組んだこと。
尊敬するのは、広島出身の首相である池田勇人(いけだはやと)である。池田は、中学時代に意外な人物と同級であった。
「日本のウイスキーの父」と呼ばれた竹鶴政孝は、広島県竹原町(現・竹原市)で酒造業・製塩業を営む家の三男として生まれた。
進学した忠海中学(現・広島県立忠海高等学校)の一つ下の下級生には後に総理大臣となる池田勇人がおり、池田が亡くなるまで交流が続いた。
政孝の影響もあり、池田は国際的なパーティーでは国産ウイスキーを使うように指示していたと言う。
大阪高等工業学校(後の旧制大阪工業大学、現在の大阪大学)の醸造学科にて学ぶが、「洋酒」に興味をもっていた竹鶴は、当時洋酒業界の雄であった大阪市の摂津酒造に入社した。
入社後は竹鶴の希望どおりに洋酒の製造部門に配属され、入社間もなく主任技師に抜擢される。
その年の夏、アルコール殺菌が徹底して行われていなかったぶどう酒の瓶が店先で破裂する事故が多発した。
しかし竹鶴が製造した赤玉ポートワインは徹底して殺菌されていたため酵母が発生増殖することがなく、割れるものが一つもなかったという。
このことで竹鶴の酒造職人としての評判が世間に広がることになる。
19世紀にウイスキーがアメリカから伝わって以来、日本では欧米の模造品のウイスキーが作られていただけで「純国産」のウイスキーは作られていなかった。
そこで摂津酒造は純国産のウイスキー造りを始めることを計画する。
1918年、竹鶴は社長の命を受けて単身スコットランドに赴き、グラスゴー大学で有機化学と応用化学を学んだ。
彼は現地で積極的にウイスキー醸造場を見学し、頼み込んで実習を行わせてもらうこともあった。
スコットランドに滞在中、竹鶴はグラスゴー大学で知り合った医学部唯一の女子学生の姉であるジェシー・ロバータ・カウン(通称リタ)と親交を深め1920年に結婚した。
リタを連れて帰郷後、摂津酒造はいよいよ純国産ウイスキーの製造を企画するも、不運にも第一次世界大戦後の「戦後恐慌」によって資金調達ができなかったため計画は頓挫してしまい、1922年竹鶴は摂津酒造を退社し、大阪の桃山中学(現:桃山学院高等学校)で教鞭を執り生徒に化学を教えるなどした。
1923年、大阪の洋酒製造販売業者寿屋(現在のサントリー)が本格ウイスキーの国内製造を企画し、社長の鳥井信治郎がスコットランドに適任者がいないか問い合わせたところ、「わざわざ呼び寄せなくても、日本には竹鶴という適任者がいるはずだ」という回答を得たという。
そして、同年6月、竹鶴は破格の給料で寿屋に正式入社、1924年京都に山崎工場が竣工され、竹鶴はその初代工場長となる。
竹鶴は酒造りに勘のある者が製造に欠かせないと考え、醸造を行う冬季には故郷の広島から杜氏を集めて製造を行った。
1929年4月1日、竹鶴が製造した最初のウイスキー「サントリー白札」が発売されるが、模造ウイスキーなどを飲みなれた当時の日本人にはあまり受け入れられず、販売は低迷した。
その後、竹鶴は寿屋を退社し、スコットランドに風土が近い北海道余市町でウイスキー製造を開始することを決意したが、ウイスキーは時間と費用がかかるため、「大日本果汁株式」として、事業開始当初は余市特産のリンゴを絞ってリンゴジュースを作り、その売却益でウイスキー製造を行う計画であった。
そして1940年、余市で製造した最初のウイスキーを発売し、社名の「日」「果」をとり、「ニッカウヰスキー」と命名した。
1941年には、工場の地元、旧制余市中学校(のちの北海道余市高等学校)校長に頼まれ、中学校に「ジャンプ台」を寄贈している。
このジャンプ台は当初桜ヶ丘シャンツェと命名されたが、その呼称は定着せず、「竹鶴シャンツェ」と呼ばれている。このジャンプ台で練習して育ったのが、札幌オリンピックの金メダリストの笠井幸雄である。