「難民」受入れ政策

国際社会の中で、日本の「人権問題」として「過労死」や「代用監獄」などが問題視されてきた。
最近では女性管理職の少なさとか、難民の受け入れの少なさなどが指摘されている。
「数字」で明示されるだけに、注目が集まらずにはおかない。
日本政府は、東京オリンピック・パラリンピックでは「寛容で多様性のある社会」をアピールしているだけに、こうした問題に前向きな姿勢を示したいところであろう。
ちなみに女性の管理職の比率は、G7の中で最下位、日本で難民として認定されたのは44人、認定率は0.4%にとどっている(2019年)。
今や、外国人をどのように受け入れるか否かは、今後の日本の国のカチチを決める避けてはとうれない問題である。
、 現国会で議論されていたのが、「出入国管理法」の改正である。しかし、スリランカ人のウィシュマさん(33歳)が今年3月、収容されていた「名古屋入管」で体調不良を訴え死亡したことが問題視された。
必要な治療を受けていなかった可能性が指摘されており、野党はこの問題のを真相解明を棚上げして「出入国管理法改正」の審議に応じられないと、今国会では審議終了になった。
世界は「難民の時代」といってもよい。時代にそぐわなくなった「難民認定制度」の抜本的な見直しが必要な時機ではあろう。
一国が定住外国人を受け入れるということは、単に入国を許可すれば済むというものではない。
当該外国人の入国後の生活に最低限度の見通しがたっていなければならない。
例えば、今の医療保険制度は多くの外国人を対象にすることを想定していない。扶養家族が増えれば財政負担につながるのではないかという懸念もある。
「受入れの体制」そのものを整備してこそ難民政策なのである。
だが、長年日本で暮らしながら在留許可がないために、働くこともできず、病院にも行けないという人は大勢いる。そうした人たちをどうやって救うのかという点で「改正案」では明確に示されていない。
日本の現状をみれば、外国人労働者の受け入れ拡大を求める経済界が望むのは「安い労働力」であって、社会保障負担が伴う「国民」の増加ではないようにみえる。
それは、1993年に導入された「技能実習制度および外国人研修制度」が全くの看板倒れで、「低賃金長時間労働」の温床となって悪用されてきたことをみても明らかだ。
この制度の下、去年までの3年間になんと69人の技能実習生が死亡している。
その際、公文書改竄、残業は月100時間以上に上るなど「過労死ライン」を超える劣悪な労働環境が報告されている。
そもそも日本は、移民導入の必要性が正式に導入されたことはない。移民を受け入れないということが基本方針とされてきた。
一方で、少子高齢化による人口減、特に労働人口の減少により、将来的な経済の衰退が予想される日本。そんな中、「移民を増やして労働人口(および消費人口)を確保して、衰退から逃れるべきだという意見がある。
移民に消極的な日本と違い、積極的に受け入れることで労働力を増やし、結果的に経済力を伸ばしていった国がオーストラリアだ。
国際通貨基金が発表している1人当たりのGDP(国内総生産)を見ると、日本は25年前の1995年の約4万3441米ドルが、最新データである2018年は約3万9304米ドルと、横ばいどころかむしろ減らしてしまっている。
一方のオーストラリアは、1995年の2万0868米ドルから、2018年の5万6420米ドルと約2.7倍に増えた。
1人当たりのGDPの世界ランキングを見ても、日本はこの23年で世界3位から26位と大幅にランクダウンしたのに対して、オーストラリアは19位から11位へと上昇。
さらに同じ年で両国の1人当たりのGDPを比較してみると、1995年にはオーストラリアは日本の半分以下しかなかったのに、2018年には約1.44倍となっている。
高い成長率は財政悪化や年金財源などの難題を解決してくれるし、経済大国であり続ければ国際的な影響力も維持しやすい。
ところが日本は「少子高齢化」問題に対して、ほとんど効果のある対策をとってこなかった。
その点について最近の新聞に意外なことが書いてあった。
戦前、国立社会保障・人口問題研究所の前身組織は「2005年ごろ人口減に転じる」との長期予測をすでに出していた。
実際、08年の1億2808万人をピークに減少に転じたのだから驚くほど正確な予測だった。
それでも政府はずっと対策をとらなかったのは、「人口減は政府にとって「望んでいた未来」だったからだ。
それは、70年代初頭に発表された「ローマクラブ報告書」の衝撃が一番の原因だという。
世界的な研究機関が人口爆発、資源枯渇、環境汚染などで人類は重大危機を迎えていると警鐘を鳴らした。
それをうけて1970年代の政府は「人口を抑制したい」という志向が強かったのだ。
当時の政治家や官僚達は、食料やエネルギーの確保、環境負荷などの諸課題を考えれば人口が将来にわたって膨らみ続けることには無理があると考えていた。
「報告書」に表れた警告がいまなお重く響く。飢餓も水不足も多くの途上国では現在進行形の問題だ。
現時点の予測では日本の人口は約30年後に1億人を割り、2065年には8800万人台になるが、半世紀前に描かれた未来図からすればむしろ順当なことなのだ。
江戸時代の人口は約3千万人であったが、長寿化による現役人口の増加という解決策もある。
つまり、人を増やすより、人口規模に合わせた「社会制度」を作ればいい。
ポスト「新型コロナ」社会は、そうした社会を構想する機会ではなかろうか。

日本への移民の増加が予想されるなか、ひとつ参考にしたいのは、オーストラリアの歴史である。
なぜなら、オーストラリアは19世紀半ばに英国植民地として開拓され、さらに1901年英領オーストラリア連邦として成立したが、過去約150年のあいだ一貫して「移民政策」が国家運営の根幹であったことである。
また、オースオラリアが辿った道は、日本人の「単一民族」神話や先住民族の「同化政策」など案外と通じるものがある。
自分が中学校の地理の時間にならった「白豪主義」というものを記憶している。これが、南アのアパルトヘイト策のモデルとなったとは知らなかったが、要するに「白人至上主義」のことである。
つまり、「白人国家」としてオーストラリアを建設するために、有色人種を排除する政策を採用することを意味する。
事実、当時の政治家たちは単一民族(白人)のみで構成される国家を建設するためには、アジア系移民などの非白人を閉め出す必要があるとあからさまに語っていた。
1901年にオーストラリアの各植民地が統合されて、「オーストラリア連邦」という国家が誕生する。
国家の誕生と同時に、白豪主義的政策は国是となり、1970年代まで維持されることになる。
もっと有名なのは、1901年に制定された「移民制限法」で、移住を希望とするものに書き取りテストを実施する。
テストでは審査官が指定したヨーロッパ言語で、50単語から成る文章の書き取りをする。受験者が理解できないであろう言語が、作為的に選ばれたため、連邦政府が望まない移民を自由に排除することはできたというもの。
この法律の結果、アジア系などの有色人種は業者や学生などの短期滞在者を除いて排除されることになった。
ただこれは「外的な白豪主義」で、先住アボリジニを対象とした「内的な白豪主義」も存在した。
「混血」と「純血」のアボリジニを分離して、混血のアボリジニを白人社会に吸収し、先住民を生物学的に抹消しようとする。
さらには、アボリジニの子どもを親から拉致まがいで引き離し、寄宿舎で「文明」的な教育を叩き込む。
そもそも、疫病や虐殺などによるアボリジニの人口減は、絶滅政策ともいえるもので、この黒い歴史は、オーストラリア社会に現代でも重くのしかかっている。
この「白豪主義」の実態を描いたオーストラリア映画が「裸足の1500マイル」(2002年)である。
この映画の中に、Stolen Childrenというものが登場する。
これは、特に白人男性とアボリジニ女性の間にできた混血児を”白人化”すべく、親元(アボリジニ居住地)から奪って”施設”に強制収容して英語を学ばせ、(多くは家事手伝いとして)白人社会に入れるという政策である。
実は、日本では、アイヌの子供たちを”日本人化”するために、やはり同じような政策がとられた。
1899年に作られた「北海道旧土人保護法」という法律で、アイヌを「旧土人」と規定し、それを「保護する」必要があるとした。
その「保護」の実態は「土人教育所」であり、日本人化であり、そのために、アイヌ「土人教育所」、旧土人学校などがあったのである。
旧土人保護法の”保護”とはその文化を滅ぼすことだったのだ。
この法律が改正されたのは、なんと1997年のことなのだから驚きである。
1997念い改正された新しい法律、いわゆる「アイヌ新法」で、アイヌは初めて”文化的”および”民族的”権利を認められたことになるものの、それは「先住民族」としての権利ではない。
日本の法律では「土人保護」の名称は廃止しただけにすぎないといえる。
オーストラリアでは、最近、National Sorry Dayの制定などアボリジニの存在を国民的に位置づけることを始めている。
このことからも、オーストラリアは、「白豪主義」から「多文化主義」に移行していることがわかる。
オーストラリアが、コールウェル移民省の下で、大量移民計画への大転換をはかった理由は、次のとうりである。
第一に、世界最大の島国大国オーストラリアを自衛するだけの軍事力が存在せず、対外脅威に極めて脆弱であること。
第二に、広大なオーストラリアの内陸部を開発する労働力が不足していて、連邦政府が積極的に経済改革を推し進めるプロジェクトを導入しても十分な労働力を動員できないこと。
第三に、オーストラリア人口の自然増加率が低下し続けているという構造的な問題がある。これは、核家族化、義務教育制度の普及、女性の社会進出や1930年代の不況が影響している。

ベトナムのサイゴンが陥落してまだ間もない1975年5月12日、米国船グリーン・ハーバー号に救助されたヴィエトナム人9人が千葉港に上陸した。これが我が国へヴィエトナム難民(いわゆるボート・ピープル)が到着し上陸した。
戦前、白系ロシア人を難民として受け入れたことはあるが、この1975年こそは、日本の「難民元年」といってよい。
戦後、一貫して抑制的な運営がなされてきた外国人入国管理政策との関連で、極めて慎重に対応することとなった。
上陸許可(15日~30日)の前提条件として国連高等弁務官事務所(UNHCR)から日本政府に対して正式に、難民について上陸と一時滞在の許可の要請があり、一時滞在中の難民の生活費・医療費の負担を約束すること。
また、当該難民を受け入れる国(日本以外)が予め決まっていることであった。
これをみても、当時の日本の対応は「難民対策」というよりは「不法入国者対策」という意味合いの方が強かった。
1978年、「国内に一時滞在する難民に対する定住許可」および翌79年の「海外に一時滞在中の難民の定住受入れ」という方針決定により、ようやくトータルな難民政策が誕生した。
日本は、1981年に「難民条約」を批准して、日本へ上陸したボート・ピープルの一時庇護のため、1982年2月長崎県大村市に難民一時レセプションセンター(大村センター)が開設された。
ただ、ボートピープルの一時滞在の上陸にさえ神経を尖らせる日本政府の対応をみて、難民の間には「日本には滞在できない」という認識が広がったことは想像に難くない。
そして「難民元年」から45年も経った日本で「入管法」の見直しがなされている。
入管・出入国在留管理庁の施設では2019年12月の時点で、360人を超える人が1年以上も収容されている。
「いつ出るのかもわからない、それ一番きつい。何の理由で私たち捕まっているのか」。
トルコで少数派に属するクルド人の男性は、民族の違いを理由に迫害を受け、身の危険を感じたとして、13年前に来日した。
その後、難民認定の申請をしたが、認められなかった。
国外退去を命じられた人は原則、入管施設に収容される。しかし、難民認定を申請している間は強制送還されない。
クルド人男性のように、身の安全などを理由に挙げて送還を受け入れない人は、収容が長期化する傾向があり、精神のバランスを崩す人も少なくない。
東京入管では2017年6月、虫垂炎の手術をしたばかりのトルコ人男性収容者が患部の痛みを訴えていたにもかかわらず、約1ヵ月もの間診療を受けさせなかった事件もあった。
2007年以降、全国の入管施設内で死亡した収容者の人数は13人におよぶ。
難民認定申請中に在留資格を失って収監された男性の死を受けて、牛久入管では被収容者約70人がハンガーストライキを、その他の入管収容施設内でも処遇をめぐり抗議が行われた。
国連人権理事会の作業部会も、日本に収容されている外国人の訴えを受けて、「恣意的な拘禁」を禁止した国際人権規約の自由権規約に違反し、司法の審査もなく無期限収容することは正当化できないとする意見書を去年まとめ、日本政府に改善を求めた。
意見書に対する対応が注目される中、政府は「入管法などの改正案」を閣議決定し、国会に提出した。
その中身はといえば、これまで難民認定の申請は何度でもでき、申請中は本国に送還することが認められていなかったが、今後は申請を原則2回までとし、3回以上申請した場合は相当の理由がなければ「送還」が可能になるとしている。
退去命令を受けた人の9割以上は速やかに日本を離れているが、収容が長期化しているのは祖国に帰れば迫害される恐れがある人や日本に家族がいる人など帰るに帰れない事情を抱えた人たちなのだ。
問題なのは、申請回数云々ではなく、個別の事情に応じて「救済策」を考えること、あるいは「難民認定基準」を見直すことが先決なのではないかと思う。
歴史上、難民受け入れにおいて輝かしい歴史をもつフランスは憲法に次のように明記している。
「自由のために戦い、祖国を追われた者に安住の地を提供するのは共和国の使命である」(1793年)。
「自由に味方する行動のために迫害された者は、共和国の領土内への亡命の権利を有する」(1946年)。
日本政府は、難民に対してどうして冷酷なのか。自分も含め、難民をどうみてどう受け入れるかは、日本人の「世界観」が問われている気がしますが。

定住難民の受け入れは、難民政策の根幹というべき事項であり、定住受入れの部分を含まない難民政策は、難民政策の名に値しない。