聖書の言葉から(山をも動かす信仰)

旧約聖書に、「あなたの先に、あなたのような者はなかった。また、あなたの後にあなたのような者も起こらなかった」(Ⅰ列王記3章)とあるのは、古代ヘブライ王国(イスラエル)の王ソロモンである。
知恵に優れ、エチオピアのシバの女王はじめ各国の国王が、その「知恵」を拝聴するために訪れたという。
王になった当初、神は、ソロモン王に対して「あなたに何を与えようか」と問う。この時、ソロモン王は「私は父ダビデに比べて、取るに足りない若者で、どのように王としてふるまうべきか知りません」。
そして、物事を見極める判断力、民の訴えを正しく聞き分ける智慧を求めた。
神はソロモンのへりくだった姿、そして自分の利益を求めない態度に目を留められたに違いない。
神は、ソロモンが求めた智慧の心と判断力ばかりか、富と誉れをも与えられた。
父ダビデ王の時代までは、神の礼拝は「幕屋」にて行われてたが、エルサレムに「神殿」をつくったのも、ソロモン王の時代である。
しかし、そのソロモンの死後、神殿は破壊され、ヘブライ王国は南北に分断される。
それから3千年もの時を経た今日、「ソロモン神殿」はイスラム教徒により岩のドームに覆われている。
1948年、離散したユダヤ人が集まり「イスラエル建国(復興)」がなったものの、神殿が破壊されたままの状態では、「真の復興」とはほど遠いというのが実感であろう。
ソロモン神殿は一度は復興したが、ローマ帝国に破壊されたまま今日に至っている。
それは、戦後にこの地に入植したイスラエル(ユダヤ人)とのパレスチナ人(アラブ人)との抗争の長期化による。
遡れば、古代ヘブライ王国の時代から両者は、互いをこの世から抹殺しようとしてきた仇敵である。
そんな中、イスラエルとパレスチナ人が共存しようという合意がなされた場面があった。
それは、イスラエルがはじめて「パレスチナ解放戦線」(PLO)を交渉相手として認めたことによる。
そして国連の調停の下、ガザやヨルダン川西岸にパレスチナ人の自治区を定めたのである。
この合意は、「オスロ合意」とよばれ、1993年に結ばれた「歴史的和解」というべきものであった。
ところで、この合意にまで至る背後には、あるノルウエー人夫妻の地道な対話にむけた努力があった。
中東とはかかわりの薄いと思われるノルウエーの民間人夫婦にどうしてそのようなことができたのか。
それを「劇」にしたのが「オスロ」(oslo)でニューヨーク・ブロードウエイで公演され、2021年2月には、我が地元に近い久留米で公演がなされた。
そして主役となる夫妻を演じたのは、ジャニーズV6の坂本昌行、そして宝塚の安蘭けいである。
舞台は1992年のカイロ。そこに住むノルウエーの社会学者ラーセンは、少年同士が銃をもって戦う姿を見た。少年たちの表情は憎しみと恐怖に満ちており、こんな争いは絶対になくさねばならぬと思った。
ラーセンは、学問の関係でイスラエルやPLOに知り合いが多かった。
そこで社会学の観点から平和を見いだすアプローチとして双方が顔を合わせて対話する舞台を作ることができないかと考えた。
そこで知り合いのイスラエルの大学教授二人とPLOの役人二人に的を絞り、参集の場を画策した。
当時両国とも相手国と連絡を取ると刑事罰の対象になり、パレスチナでは死罪と決まっていたため、このミーティングは極秘の内に進められた。
ラーセン夫婦の努力の下、会合は何度にもわたり行われ、相互承認を繰り返し、交渉の舞台に集まる人々も増えていった。
そして、様々な難局をどうにかくぐり抜け、ラーセン教授が待ち焦がれていた連絡がついにはいった。
さて、こんなむずかしい問題がよくブロードウエイの劇になったものかと感心するが、よくよく考えれば、ブロードウエイの監督や劇作家のかなりの人々がユダヤ人なのだ。
ユダヤ人脚本家JT・ロジャースは、この話を「劇」にしようとしたきっかけを次のように書いている。
「1993年、テレビに映し出された考えられない光景に私は、目が釘付けになりました。なんとイスラエルのラビン首相とPLOのアラファト議長が、ホワイトハウスのローズ・ガーデンで、イスラエルとPLO間で史上初となる"和平合意"に署名していたのです。私は驚嘆し、希望を抱く一方で不思議にも思いました。これほどの歴史的交渉が、なぜ極秘裏に進められたのか。なぜ真冬の、ノルウエイのオスロ郊外にあるノーウエイジャン・ウッズに立つ古城が交渉の舞台だったのか。そして20年後にその「答え」を知った。
2011年、ニューヨークで公演していた際、ノルウエーの外交官のテリエ・ラーシェンから、とっておきの話があるという連絡をうけた。
そして彼は、この物語を伝えるのにふさわしい相手をずっと待っていたと告げた。そして彼の話を聞くうち、これは作品になると、鳥肌がたつのを禁じえなかった」と。
さて、オスロ合意以後の展開をみると、交渉にあたった人々は暗殺され、結局はラーセン夫妻の平和への努力は無に帰した感さえある。
イスラエルは国際協定を無視してパレスチナ自治区を占領して、事態はさらに悪化しているようにも思える。
しかし、こうした「その後」の展開を知った上でこの劇を見ても、「ひとりの行動が世界を変える」というメッセージが十分に伝わっているという。
「オスロ」の副題は、「リスクを冒す価値はある成功すれば、世界を変えることになる!」。
そして「オスロ」は、演劇会における最高賞「トニー賞」を受賞している。
ところで、ラーセン夫妻の平和に向けた格闘に、聖書の「信仰は山をも動かす」という言葉が思い浮かぶが、同じように国際的関係を動かした感のある日本人夫婦がいる。
1892年に和田善兵衛は、和歌山県からカナダのバンクーバーへ「出稼ぎ漁師」として移住した。
ここで結成された日本人野球チーム「バンクーバー朝日」は和歌山人出身者が多かった。
和田は同郷の女性と結婚し1907年に和田勇が生まれた。その時、カナダに近いワシントン州ベリングハムで小さな食堂を経営していた。
子の和田勇は17歳の時、サンフランシスコの農作物チェーン店に移り、1年後にはその仕事ぶりが評価されて店長に抜擢された。
和田の店は陳列を工夫して野菜を種類別に見栄えのするように店頭に並べて大繁盛し、和田はオークランドの「日系人社会」で一躍注目される。
そして和田は、1933年26歳の時に正子と結婚し、二人の子をさずかった。
そして和田は、34歳の若さにして25人の従業員と3軒の店を持ち、日系食料品約70店からなる協同組合の理事長になっていた。
しかし、1941年12月に太平洋戦争が勃発すると状況は一変した。
日系人の太平洋沿岸3州での居住が禁止されてしまったことから、「強制収容所行き」をヨシとしなかった和田はユタ州の農園が人手不足で困っていることを聞きつけ、翌年3月にユタ州に移り大規模な農園を開設した。
1945年8月15日、和田は日本の敗戦を知ったが、供達が喘息持ちとなったという事情から、湿気の少ないロサンゼルスに移住しスーパーマーケットを開いた。
このスーパーも非常に繁盛し、カリフォルニア州内で17店舗を構えるまでに成長させた。
そうした中、1949年8月、選手8名からなる日本「水泳チー ム」がロサンゼルスに到着した。
全米水泳大会に出場するスポーツ界「戦後初」の海外遠征である。
前年にロンドンで戦後初のオリンピックが開かれていたが、日本は参加できず、日本選手権を同時期に開催して「記録の上」で競うことにした。
1500メートル自由形決勝で、1位の古橋と2位の橋爪が出した記録は、ロンドンの金メダリストより40秒以上も速い世界新記録だったが、「公認」されなかった。
当時日本はいまだ占領下にあり、GHQのマッカーサーに「出国許可」を得て遠征したが、「旧敵国」としてジャップと言われたり、唾を吐きかけたり、ホテル宿泊を拒否されたりした。
それだけに、祖国日本の選手たちに熱い期待をかけていたのである。
そして和田夫妻は、選手たちの宿泊から食事まですべて自費で面倒見ようと申し出たのである。
妻正子は、おいしく栄養のつく日本食でもてなした。
日本で貧しい食事しかしていなかった選手たちは、正子のごちそうに大喜びし、広いベッドで十分な睡眠をとった。また和田は、練習のためのオリンピック・プールへの「送り迎え」を担当した。
そしていよいよ全米選手権が始まった。
結局、日本チームは3日間で自由形6種目中5種目に優勝、9つの世界新記録を樹立し、個人では古橋が1位、橋爪が3位、さらに団体対抗戦でも圧倒的な得点で優勝を飾った。
和田夫妻もバンザイをしながら、とめどなく涙があふれた。内輪の祝賀パーティーで、古橋選手らの活躍によって、「ジャップ」と呼ばれていたのが、一夜にしてジャパニーズになり、みんな胸を張って街を歩けるようになったと挨拶した。
そして実際、日系人の「入店拒否」がなくなっていったのである。
また和田はコレをきっかけに、当時日本水泳連盟会長の田畑政治や東京大学総長だった南原繁、後に東京都知事となる東龍太郎らと親交が生まれた。
1958年には東京オリンピック招致に向けた準備委員会が設立されるが、和田も田畑・東らに懇願される形で委員に就任した。
和田は東京でオリンピックを開催すれば日本人に勇気と自信を持たせることができ、日本は大きくジャンプできるにちがいないと、その仕事に燃えた。
しかし、デトロイトや、ウィーン、ブリュッセルなどもオリンピックに「立候補する」という情報が入ってきて、もはや店のことなど二の次となった。
和田は中南米諸国の票がカギを握っていると考え、自費で各国のオリンピック委員を自ら説得して回ろうと考えた。
しかし、スーパーの客として知り合った1人のメキシコ人以外には、南米にはなんのツテもなかった。
そのメキシコ人の農園を訪問し、誰でもいいから「有力者」を1人紹介して欲しいと説得し、ようやく1人のIOC委員との面会にまで辿りつくことができた。
そして和田はその人物に、オリンピックはいままで欧米でしか開催されたことがない、東京で開くことに投票してもらえないかと懇願した。
しかし委員は、南米の国々はアメリカの開催を何より望んでいる、アメリカの意向を無視することはできないと拒否した。
そこで和田は委員に、オリンピックを一緒に実現しないかと意外な提案をした。
もしも「アジア初」の東京開催が実現したら、次は「中南米初」のメキシコシティー開催を支援しようと訴えたのである。
この言葉に、メキシコ人のIOC委員の心が動いた。
1959年、外務大臣の手配で和田は「特命移動大使」権限を与えられ、首相からの「親書」をもってプロペラ機に乗り込んで、南米10カ国を1ヶ月以上かけて廻る旅に出発した。
そしてIOC総会では、事前のデトロイト、ウィーンが有利という予想を覆し、東京が過半数を制し、1964年「東京オリンピックの開催」が決定したのである。
和田は、開催決定後は日本オリンピック委員会(JOC)の名誉委員となり、東京の次に開催される「メキシコオリンピック」の誘致活動にも尽力した。
1968年、南米初のオリンピックの実現を見ることにより、メキシコへの恩返しを果たした。

新約聖書のイエスキリストの言葉に「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう」(マタイ17章)とある。
一体、この言葉をそのまま信じられる人はどれほどいるだろうか。
聖書全般で信仰の強さを強調しているのに、その信仰が「からしだね一粒」で充分で、しかもそれが「山をも動かす」なんてことを。
疑問がおきたら「聖書のことは聖書に聞け」で、ヒントは次の言葉にあるのではなかろうか。
「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」(ピリピ2章)。
信仰の中には本人が抱くというより、信仰さえも神から与えられたもの(賜物)としての側面がある。
信仰という名に値しないような「思い」でも、神が起こした思いならば「山が動かす」ということなのだ。
聖書で「山」が動いたケースで思い浮かぶのは「出エジプト」という出来事である。
この奇跡が成し遂げられたのは、逆説的に「神はその力を表すために、あなた(パロ)を選んだ」(ローマ人への手紙9章)とある。
紀元前13世紀頃、飢饉がおきてエジプトに寄留していたイスラエルの民が、いつしか奴隷の待遇を受けて苦しむに至り、神がイスラエルの指導者モーセをエジプトの王パロの元に送り、「イスラエルの民を去らせよ」と迫るように命じる。
しかしパロは幾度もそれを"拒絶"して、そのたびごとにエジプトで、イナゴが大発生したり、ナイル川が血の色に染まるなど、神のワザが現われる。
そしてパロは、エジプトを襲った疫病で息子を失うことにより、ついに「イスラエル人解放」の決断を下す。
この出来事の中で、聖書は、パロの度重なる”拒絶”の理由について意外なことを語っている。
「神がパロの心を頑なにした」(出エジプト記7章)というのである。つまり、パロがモーセの言葉に耳を貸さなかったのは、神がそのように仕向けたということに他ならない。
神はモーセを通じてパロに、「イスラエルを去らせよ」といわせながらも、当のパロの心をも頑なにさせ、その結果、神の力が次々に表われていき、”ヤハウエ”の名が諸民族に広まったのである。
「からし種ひと粒の”不信仰”がイスラエルの民族的体験を起こした」というわけである。
人が”思う”のではなく、神が”思い”を起こさせるということは、聖書の他の箇所にもある。
それは、イエスの十字架の前夜「最後の晩餐」場面で、イエスがシモンの子イスカリオテのユダにパンをお与える場面である(ヨハネの福音書13章)。
「この一きれの食物を受けるやいなや、"サタンがユダにはいった"。そこでイエスは彼に言われた、”しようとしていることを、今すぐするがよい」。
神もしくはサタンが人に働いて「思い」を起こすのなら、人間の自由意思やそれに付随する責任はどこまで認められるのか。
実は政治学者の国分功一郎によれば、英文法で能動態と受動態を習ったが、驚くべきことは、かつての言語では、能動態と受動態ではなくて、能動態と中動態が対立していたという。
人間は日常、それほど明確な独自の意思をもって行動しているわけではない。
今のように能動と受動でこれを分類するようになったことの背景には、「責任」という観念の発達があるという。
逆にいうと、今日という時代は、「中動態」が消し去られた世界ともいえる。
国分が学んだスピノザの人間観は、ひとことでいえば、過去や現実の制約から完全に解き放たれた絶対的自由など存在しないということである。
神の働きは、人にほんの小さな思いを起こさせ、それが「山をも動かす」ほどの出来事にも繋がる。つまりコトを始めコトを全うするということなのだ。
それでは、「山を動かした」ラーセン教授夫妻や和田夫妻に起きた「思い」はどうであったか。