聖書の遺跡(コロッセオとマサダ要塞)

ローマ帝国がなにゆえ1000年以上にもわたる大帝国でありえたのか。それは古代史の謎といえる。
優れた土木工事技術や組織的な軍制などがその理由に挙げられようが、 見過ごされがちなのが「スポーツの効用」を知っていたということである。
ギリシア人が始めたオリンピアの競技大会はゼウスへの捧げものとして宗教的な意味合いがあった。「より速く、より高く、より強く」という比較級のカタチで神に近づく行為であったが、ローマ人はスポーツを政治的に利用するスベを熟知していたといえる。
ローマ帝国の支配層はどうすれば自分たちの存続が脅かされないように、人間の闘争本能をうまくそらすことができるとわかっていた。
この卓越した洞察力が1000年近くにわたってローマ帝国の支配を可能にしたといえる。
古代ローマを表すのに「パンとサーカスの都」という言葉がある。
ローマは、広大な属州から搾り取った富がどんどん流れ込んで、その富がローマ市民に分配された。
したがってローマ市民であれば、何も財産がなくても食べるに困らず、娯楽も無料で楽しむことができた。
ローマの軍人達は、共和制の下で民衆の要求に応えてこそ出世できるため、戦利品をばらまくだけばらまいた。また、外征に勝利し帰国する「英雄」のために凱旋門がいくつも設けらえた。
また同じく皇帝や軍人達が行う人気取りのためのサービスとしてもっと身近なものが「公衆浴場」(テルマエ・ロマエ)で、「カラカラ浴場」など皇帝の名をつけて各地にもうけられている。
帝政の時代では、皇帝は「人気取り」のために国家の祭りや記念日を増やし、市民は「サーカス」を見て楽しむことができた。
ここでいう「サーカス」とは、スポーツ(格闘技)を俗悪なカタチで「劇場化」したものといえる。
その舞台に登場するのは、突出した肉体能力をもつ「剣奴(グラデイエーター)」達であった。
また闘技場の地下にはライオンなどの猛獣をいれておく檻も備わっており、こうした「サーカス(スポーツ)」はともすると反乱を起こしがちな人民に娯楽ばかりか「恐怖」をも与え、民衆をを統制するのに完璧な戦略であったといえる。
また、剣奴は真剣勝負の殺し合いをさせられる者で、ローマ市民たちがその決闘を見て熱狂する。
その出場者を育てるのを目的とした「剣奴養成所」までも作られた。
なにしろ剣士同士で、あるいはトラなどの猛獣を相手に闘ったりするばかりか、闘技場でキリスト教徒を火あぶりにしたり、猛獣の餌食にしたりしたもした。
こうして民衆を楽しませておき、スタジアム周辺に衛兵を配置することで、帝国の支配層によって、騒乱の可能性は封じ込められたのである、。
それを証明するように、広範囲に散在しているローマ時代の遺跡があちらこちらに今なお残っている。
とはいえ「民衆の見世物」となる戦いに耐えかねて反乱や逃亡を行う剣奴がいて不思議ではない。
そして実際に大規模な剣奴の反乱となったのが、BC73年の「スパルタクスの反乱」で、クラックス、ポンペイウスで「三頭政治」の巨頭2人によって、約2年を要してようやく鎮圧されている。
コロッセオは帝国の領土であった西ヨーロッパ全域から現在のイランやトルコ、北アフリカにわたる広大な領域に200以上の遺跡が残存するが、スペインのコロッセオは多くが闘牛場に転用されたものである。

ローマにおける「サーカス」への熱狂は、はるかに健全なものだが、今日でいう「スポーツの熱狂」に通じるものがある。
日本において大正デモクラシーの時代には、労働運動や左翼運動が盛んになった。
そういう時代に政府は国民を「善導」するのに、スポーツを利用しようとした。
そこで政府はスポーツを民衆統制の要素として取り入れた。その先頭に立ったのが皇室である。
昭和天皇の弟の秩父宮はスキーや登山を好み、スポーツ奨励の象徴的存在であった。
スポーツ大会には「天皇杯」や「皇族杯」が下賜され、国民の一体感が高められた。
戦後において、天皇制を擁護しようとする指導者たちは、昭和天皇が国民に支持されていることを連合国側にアピールしようとした。
天皇と皇后、皇太子が戦後はじめてそろって国民の前に姿を見せたのは、1947年の新憲法施行記念「都民体育大会」である。
新しい皇室像をアピールするのにスポーツ大会は恰好の場所で、天皇はその後、「国民体育大会」に必ず出席するようになった。
我が地元の福岡の「国民体育大会」誘致に貢献したのが岡部平太である。
岡部は、福岡市の西・糸島市の芥屋出身。隻流館(福岡市)で柔道を始め、福岡師範学校(現福岡教育大学)に進学する。
1911年、柔道の全国大会「京都武徳会」で準優勝を果たし、講道館柔道の創始者・嘉納治五郎が校長を務める東京高等師範学校(現筑波大学)に入学、同時に講道館へ入門する。
1917年、柔道の国際化を進めるために米シカゴ大学に留学した岡部は、スポーツ生理学や女子体育の理論、体育史などを貪欲に学び、日本にはなかった科学トレーニングの基礎を身に付け、日本へ持ち帰った。
岡部は、日本における近代スポーツの遅れを痛感し、スポーツの発展には先進国との交流を積極的に進める必要があると考えていた。
1928年、理事長として日本初の陸上競技の国際試合「日仏対抗陸上競技大会」を開催して勝利し、極東選手権では陸上競技の総監督として優勝も果たす。
1931年 満州に渡って「満州体育協会」を創設。第1回スピードスケート世界選手権で監督を務め、「満州の雄」として、その名をとどろかせた。
かくして、スポーツで「日本を世界に知らしめる」という岡部の活動は、日本のスポーツ発展に大きく貢献した。
日本の敗戦により満州から帰国した岡部は、日本人の誇りを取り戻すため、日本人が優勝できるのはマラソンしかないと考えた。
そして、日本初の五輪マラソン選手・金栗四三(かなくりしそう)に呼びかけ1950年に「オリンピックマラソンに優勝する会」を設立した。
「韋駄天」こと金栗は熊本出身で、岡部と同い年で九州人、さらには東京師範で嘉納を師と仰いだところも共通している。
かくして岡部は、金栗四三とともに日本のマラソン発展に大きな貢献をしたが、岡部はマラソンにとどまらず、日本のアメリカンフットボールの先駆者など、多彩なスポーツで活躍したことで知られる。
岡部が提案したのは、従来の精神論ではなく、科学的な根拠に基づく調査やトレーニング法で、岡部なくして日本マラソンの隆盛はなかったといえる。
その実証の舞台として建設されたのが「平和台陸上競技場」で、福岡国際マラソンのスタート・ゴール地点ともなっている。
戦後初の公の場での「日の丸」掲揚は、1948年に福岡で開催された第三回国民体育大会のメイン会場「平和台陸上競技場」でおいてであった。
ちなみに、筑後川沿いに位置する「久留米市総合スポーツセンター陸上競技場」のトラックの傍らに地元の政治家で元通産大臣の石井光次郎の胸像が建つが、その娘・石井好子は、日本を代表するシャンソン歌手である。

ローマ時代の闘技場の中で一番有名なものが、現在のローマの最大の観光地「コロッセオ」であり、収容人員は5万人にも達し、最下階にはライオンの檻が設置されている。
この「コロッセオ」を完成させたのが代10代のローマ皇帝ティトス帝である。
ティトス帝は紀元79年から81年までのわずか2年の在位で、コロッセオは父親のウェスパシアヌス帝が建設を始め、紀元80年在位中に完成した。
ティトス帝の凱旋門は他と比べる小ぶりだが、美術的完成度は一番高いと言われている。その最期は、弟によって毒殺されたといわれている。
さて、ローマのコロッセオが舞台となった「ベンハー」は、アメリカの作家ルー・ウォーレスの長編小説で、1880年刊で副題は「キリスト物語」である。
主人公ベン・ハーはイエス・キリストと同時代のユダヤ人。パレスチナのローマ総督に危害を加えようとしたかどで、ガレー船の苦役を課されるが、たまたま船団を指揮する護民官の危険を救ったことから請われて養子となり、ローマ軍人として訓練を受ける。
その後、戦車レースで仇敵を打ち負かし、またポンテオ・ピラトの策動に抗議し、蜂起(ほうき)したガリラヤ人たちを指揮する。
ついにはハンセン病をイエスの手で癒された母親と妹に再会し、奇跡を目の当たりにしてイエスに帰依する。
発表と同時にベストセラーとなり、1959年のウィリアム・ワイラー監督作品は作品賞を含め11部門のアカデミー賞を受賞した。
映画「ベン・ハー」といえば、コロッセオにおける戦車の競争シーンの大迫力に圧倒される。
CGのない時代によくぞ創れたものだと感心せずにはいられないが、他にも印象的な場面がある。
ベンハーが奴隷になって酷使されて砂漠で喉の渇きを覚えたときに、人影が映ったかと思うと水を持った手が差し伸べられるシーン。この人影こそキリストで、ベンハーは後にキリストと再会することになる。
それは、キリストが十字架を背負ってゴルゴダの丘へと石畳をあえぎながら歩いて行く途中、苦しみに耐えかねて崩れるように倒れる。
その群衆のなかに、ベンハーがいたのだ。そしてベンハーが水を差し出し恩返しをするのだが、ローマの兵卒に強制されて十字架を運ぶはめになる。
実はこの場面、聖書の記述どおりで、そこにひとりの人物がいた。
「クレネ人シモン」、中東周辺では「シモン・ペテロ」などシモンの名前が多いので、区別するために「クレネ人シモン」と記名してある。
かつてカダフィ大佐の独裁国家であったリビアの首都トリポリには、「クレネ」という「世界遺産」(1982年登録)となっている町がある。
クレネ (Cyrene) は、現リビア領内にあった古代ギリシャ都市で、現存する遺跡の多くは、ローマの植民都市となった際に再建されたものである。
このクレネの町には、古代より「離散ユダヤ人」の住民が数多く住んでいた。
クレネ人シモンはユダヤの「過越祭り」の参拝にやってきてイエスの十字架の場面と遭遇する。
群集に紛れていたシモンは、ローマの兵卒に引っ張りだされて「十字架」を背負うハメになる。
たまたま、そこに居たという理由だけで、人目にさらされ、きつい思いをして、なぜ自分がそんなハメになったのかという気持ちにさえなったかもしれない。
ただ確実なことは、シモンは、道端で見ていた誰よりも、身近にイエスを見つめた人物であった。
「ベンハー」の原作者ルー・ウォーレスは、南北戦争の北軍将軍で、弁護士、州知事でもあったが、徹底した「無神論者」であった。
聖書は嘘偽りのデッチ上げの書であることを証明するために数年の歳月を費やして、あらゆる文献を調べ上げていくうちに、聖書が「真実の書」であると確信するに至った。
そして、ローマ帝国支配時代のユダヤ人ベン・ハーの数奇な半生とイエス・キリストの生涯を交差させて描いた小説「ベン・ハー」を書き上げた。
新約聖書の使徒行伝2章10節に「エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち」とあるので、クレネという町がリビアにあったことが確認できる。
ところで、クレネ人シモンにとって、イエスと共に十字架を担ったという偶然は、その人に幸いだったのか、災いだったのか。
聖書はこの人物の「その後」をしっかりとフォローしている。「アレキサンデルとルポスとの父シモンというクレネ人」(使徒行伝)と書いてあるところを見ると、この一家がクリスチャン・ファミリーになっていることがわかるのである。
また、パウロが書いた「ローマ人への手紙」にも、「主にあって選ばれた人ルポス」と出てくる。
「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、そしてわたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思うものはそれを失い、私のために自分の命を失う者は、それを見出すだろう」(マタイ16)とある。
「ベンハー」の作者ルー・ウォーレスは主人公「ベンハー」の生涯の一部を、この「クレネ人シモン」に流し込んだといえよう。

ローマ皇帝・ティトス帝の功績は、イタリアで最も有名な世界遺産のコロッセオを完成させたことである。
ティトスは紀元70年にエルサレムを占領して、73年までユダヤ人が抵抗していた難攻不落の要塞「マサダ」を攻略している。その際に、ティトスは、ユダヤ人女性のベルニケに恋をしてしまう。
ベレニケは、ヘロデ朝ユダヤの統治者アグリッパ1世の娘で、ティトスと出会ったのはユダヤ戦争の時で、ティトスは当時ユダヤのローマ軍司令官でティトゥスはベルニケを妻とすることを約束して、75年にローマへ赴く。
そして79年にティトゥスはローマ皇帝となるが、ローマ市民はユダヤの女性を皇帝の妃とすることに反対、彼女を祖国に帰らせるべきとの態度を取り、結婚を諦めている。
このアグリッパとベルニケの名前は、新約聖書(使徒行伝26章)にしっかりと登場する。
「アグリッパがパウロに言った、”おまえは少し説いただけで、わたしをクリスチャンにしようとしている”。パウロが言った、”説くことが少しであろうと、多くであろうと、わたしが神に祈るのは、ただあなただけでなく、きょう、わたしの言葉を聞いた人もみな、わたしのようになって下さることです。このような鎖は別ですが"。それから、王も総督もベルニケも、また列席の人々も、みな立ちあがった。退場してから、互に語り合って言った、"あの人は、死や投獄に当るようなことをしてはいない"。そして、アグリッパがフェストに言った、"あの人は、カイザルに上訴していなかったら、ゆるされたであろうに"」。
さて、このティトスがユダヤとの戦争で攻略した「マサダ要塞」は、四方を絶壁に囲まれた難攻不落の要塞であった。
「マサダ」とはヘブライ語で「要塞」という意味で、遺跡の上部に立つと、巨大要塞としての遺構が見渡すことができる。
ここにユダヤ人が立てこもり、3年半に渡って生活していて、住居跡はもちろんのこと、ユダヤ教のシナゴーグ跡やサウナ風の大浴場跡などが残っている。
なにより驚くのはこの雨の降らない荒野で、1000人の人間が生きるための地下貯水池跡で、12の巨大貯水槽があり、4トンもの水を貯めることができた。
地下伏流水を巧みに導いて貯水していたのである。
下界には、スケールの大きい草木の無い砂漠地帯が広がっており、そのはるか先には青く光る死海が遠望できる「天空の城」であった。
マサダに立てこもったユダヤ人に対し、攻める1万5千人のローマ軍は、マサダを取囲み、3年がかりで急峻な西側斜面に土を盛り、なんとか攻撃用の斜路を造成した。
紀元73年、マサダへと侵入したローマ軍が目にしたのは、960人のヨダヤ人の自決遺体であった。
この第三次ユダヤ戦争以降、ユダヤ人は世界各地に離散(ディアスポラ)するが、1948年にシオニズム運動により帰還を果たしイスラエルを再建する。
「マサダの悲劇」は、イスラエルのユダヤ人の「アイデンティティー」の象徴で、男女徴兵制のイスラエル国防軍の入隊宣誓式がここで行なわれている。
ローマの「コロッセオ」は、ティトス帝が即位前にローマ帝国の直轄地であったユダヤ属州の反乱を鎮圧、エルサレムを占領した際、ユダヤ人から宝物を略奪した資力を元に建造したものである。
ティトス帝は81年に熱病で亡くなるが、弟ドミティアヌスによって毒殺されたとも伝えられている。

、 そして聖書のいう「安息日」という「大切にすべきもの」を失ってしまったのである。
さて、ローマと中東との関係で我々の生活に影響があるのが、暦である。
そしてなんといっても現代の暦は、グレゴリオ13世が1582年に制定した「グレゴリオ暦」が現代世界の標準暦となっている。
それ以前に「ユリウス暦」というものがあった。
カエサルがクレオパトラとエジプトのアレクサンドリアで逢瀬を楽しんだために「太陽暦」と出会い、それにも基づいて「ユリウス暦」が作られる。
そして1751年「ユリウス暦」を微調整してより正確な「グレゴリウス歴」への転換がなされる。
微調整とはいっても、1年間を11日間削るのだから、地代、家賃、為替、借金などの問題が起きたのである。
しかしそれ以上に厄介だったのは、聖人の祝日の変更や固定祝日の変更が神への冒涜にあたると主張した人々の騒ぎであったのだ。
またローマにおいては、1週間の「休日」にも変化があった。それは、週の初めが日曜日で「休み」であること。
日曜日から6日間働いて週の最後の日、土曜日に「休み」というのならまだわかるが、週のはじめから休んだのでは、おさまりが悪い気がする。
なぜこういう「週」なったのかというと、ローマ皇帝コンスチタンティヌスが「太陽崇拝」の神官であったために、太陽の日(Sunday)に思い入れが強く、キリスト教を受け入れる際に、「キリストの復活」が日曜日だったことにカコツケて、「太陽の日」すなわち日曜日を「聖日」としたからである。
ところが、キリスト教の本来(初代教会)の聖日はあくまで週の終わりの「安息日」すなわち「土曜日」であり、それは「天地創造」の秩序に従ったものである。
またこのことは、キリスト教の母体であるユダヤ教と共有することである。
ローマはもともと「多神教」の社会であり、人々の間で広まりつつあったキリスト教は、在来宗教と様々な妥協を繰り返すうちに成立した宗教なのである。
キリストの復活の日ならば、日曜日は「休む」よりも「活動」の方がふさわしい。
旧約聖書にこういうコンスチタンティヌスのような皇帝が現れることが預言されている。
「いと高き方に敵対して語り、いと高き方の聖者らを悩まし、時と法を変えようとたくらむ者」(ダニエル書7章)。この預言の「時と法」とは、モーセの十戒の「第四戒」の「安息日を守べし」をさしている。