なぜか女性のしごと

オリンピックの「多様性と調和」というコンセプトの議論のなかで、ある外国人から、日本人は多神教で様々な点で世界一寛容な社会という意見がでた。
しかし日本社会は、夫婦別姓も認めないし、移民にかなり厳しいし、難民は受け入れない。
日本は、いろんな人の意見を排除はしないが、多くの場合、取り入れもしない。
アメリカみたいに人種によって暴力を振るうことはないが、途上国の人などに対し、人によっては相当な差別をしている。
海外みたいにLGBTを刑務所に入れることはないが、結婚を認めるところまではいかない。
要するに、ひとつの社会を一断面だけで簡単に言い切ることはできないということだ。
最近の森喜朗オリンピック大会組織委員長の発言にせよ、日本社会が旧態然たる「男社会」であることを示したといわれるが、それでは外国は「男社会」ではないのだろうか。
さて、最近話題の本で「存在しない女たち」(キャロライン・クリアド=ペレス著)という本がある。
この本では、オーケストラの採用、トイレの設置、コンピューターのプログラミング、除雪の順番までいたるところで、男性を基本形として社会を作っている事実をデータをもって明らかにしている。
さらに男社会になったことにつき本書は、「人間の知性、興味、感情、そして基本的な社会生活は、すべて狩猟活動にうまく適応したことによる進化の産物である」という学説を紹介している。
それに対して著者は、男が猟に出ているあいだ、女は出産や育児で協力した、採集でも力を発揮したとする。
この本を読んだ、元朝日新聞・花形記者の近藤康太郎の新聞投稿が面白かった。
現在、猟師生活をおくる近藤は、「だから男がすぐれている」ではなく、「だから女と男は平等である」という異なる論を展開していた。
なぜなら近藤の感触では、猟は「発見する」が2割、「獲(と)る」が3割、「探す」が4割、「解体・精肉する」が1割。力仕事より、丁寧な人、我慢強い人が、有利だからだという。
したがって、人類の歴史の大半を占める狩猟採集生活では、男女はきわめて平等だったはずだったという。
ちなみに、スウェーデンの脳科学者によると、現代のスマホ脳は「狩猟」と関わっているという。
約20万年前の人類誕生以来、脳は集中を分散させ、現れるものに素早く反応できるように進化してきた。
近くにライオンはいないか、危険はないか。
そんな先祖伝来の習性がスマホで増幅されている。
メールがきていないか、SNSに「いいね」がついていないかと、意識が分散化しているからだ。
さて、近藤の「猟」体験によれば、けものを「獲(と)る」のは力のいる仕事だが、けものの力の大きさからみれば、男女の力の差なんて問題ない。
「探す」方は、忍耐そのものである。たとえば鴨は、見えやすいところに落ちてくれない。
1羽の鴨を探すのに、2時間かけたことがある。
枯れ草をひっくり返してもなお見つからないず、UFOに持っていかれたと自分を納得させて、あきらめる。
そして日本には、外国にはみられない「なぜか女性のしごと」というものがあることに気がついた。
例えば、日本には「海女(あま)」という存在がある。
玄界灘に面した鐘崎の西方沖に浮かぶの筑前大島で、宗像三神のひとつの「多岐津姫命」を祀る中津宮。
また筑前大島は、遠藤周作の「沈黙」でロドリゴのモデルとなったキャラ神父が漂着した場所である。
さて、1990年代のNHKの朝ドラ「あまちゃん」は、海女(あま)という存在に光をあてたが、そのルーツは芦屋に近い宗像の鐘崎(かねさき)である。
宗像三神は、日本書紀に登場する女神であるが、このあたりが日本の「海女発祥の地」であるというのも、面白い因縁である。
鐘崎には、海女の装束を纏った女性像があり、その足元には「海女発祥」の地を示す石板がある。
鐘崎は、魏志倭人伝でも伝わる頃からとくに漁が上手だったということだが、漁場が狭く、次第に出稼ぎに出るようになった。
五島列島・対馬・壱岐・朝鮮半島から、輪島・舳倉島までの日本海の広範に広がったといわれている。
そして各地で漁を教え、住みついていった。
江戸時代には300人ほどいた海女も、大正には200人、戦前で100人あまり、戦後は30人足らずと衰退してしまった。
実は、「あまちゃん」の舞台となった伊勢志摩の海女は北九州を拠点としていた海人族安曇(あずみ)氏の女であり、安曇氏が山東半島から朝鮮半島西岸経由で北九州に到達しており、潜水技術も済州島辺りに滞在していた安曇氏の海女から鐘崎の宗像氏の海女に技術が伝承されたと考えられる。
鐘崎は日本の海女(海士)の発祥の地と言われていて、700年ほど前は対馬の守護代宗氏の領地、鐘崎の海人はそのつながりから対馬で漁業権を得て潜水漁を行っていた。
ところで、海女はなぜ女性なのかという疑問がおこる。まず一般的によく言われるのが、
① 女性の方が皮下脂肪が多く冷たい海の中で長時間寒さに耐えられるから。
② 男は船で沖へ行きたくさん獲るので、浅い磯場で海女をするのは女の仕事になった。
③ 朝廷や神宮へ納める神聖なアワビを獲るのは女性の仕事だったから、という3つの理由である。
「海女というのは、少ない時間で大きく稼ぐ」ということがポイントなのかと思うが、女性は妊娠・出産以後、「家の外へ働きに出」という事がそれ以前に比べ困難になる。
そんな女性でも自分のペースで働く事ができ、行きたい時は行き行けない時は行かなくて良いし、たとえ行けなくても他人に迷惑がかからない。
海女という働き方は、家庭を持つ女性としてすごく続けやすい仕事なのだ。
親の介護をしたり夫の仕事を手伝ったり子供の面倒を見たりと「嫁」「妻」「母」としての仕事をこなす事も出来るし、少し心もとないようだが、交通費もふくめてコストがかからない。
もちろん圧倒的に漁師の方が儲かるものの、海が目の前にある環境で海でお金を稼ごうと思った時、一番適した仕事だった。
それでも潜水は危険と隣り合わせで、海女という強い絆で結ばれた女のコミュニティーに男性が入ってくる余地はなかったのであろう。

我が地元福岡一番の高層ビルといえば、東中洲の入り口にある「大同生命ビル」である。
大同生命は、1902年、当時朝日生命(現在の朝日生命とは別会社)を経営していた「加島屋(かじまや)」が主体となって、東京の護国生命、北海道の北海生命との合併により設立された。
江戸時代、大坂有数の豪商であった「加島屋」は、明治維新の動乱により家勢が傾く。
その危機を救ったのが広岡浅子である。
浅子は1849年京都に生まれ、大坂の豪商・加島屋の広岡信五郎と17歳で結婚する。
しかしビジネスの大半が諸藩との取引であった加島屋は急激に財政が悪化するものの、福岡県嘉穂郡鎮西村(現在の福岡県飯塚市)にあった「潤野炭鉱」を買取り、自ら九州に赴き、現場で生活をともにしながら、炭鉱夫を叱咤激励した。
そして1897年、ついに潤野炭鉱は産出量が急増、優良炭鉱へと生まれ変わった。
「加島屋」を立て直した浅子は、後事を女婿の広岡恵三(大同生命第2代社長)に託し、日本女子大を設立するなど、女性の地位向上に心血を注いだ。
1919年、71歳でその生涯に幕を下ろした。
さて、日本の保険販売の歴史は古く、福沢諭吉の門下生、阿部泰蔵により1881年に日本初となる生命保険会社が設立され、そこから様々な生命保険会社が設立されていった。
日清・日露の戦争や関東大震災などにより保険の重要性が認識され、明治30年ごろは生命保険会社の戦国時代の様相を呈し、その数は数百にのぼった。
広岡浅子の「大同生命」もそうした流れの中で生まれたものだ。
しかし、第二次世界大戦において、そういった生命保険会社も壊滅的な状況になっていく。
日本に「生保レディ」なるものが誕生したのは、この国が第二次世界大戦の敗戦による廃墟からの再出発をはかる時期と一致する。
マッカーサー元帥率いるGHQ(連合国軍最高司令官総司令)占領下のもとで行われた国の戦後改革の過程で彼女たちは生まれた。
戦後、女性たちの中には、戦争によって夫を亡くし“未亡人”となってしまった人々が多くいた。
一家の大黒柱を失い、それでも幼い子供たちを抱えながらなんとか今日を生き抜いていかなければいけない厳しい時代。
戦後の厳しい状況は企業にとっても一緒。大手保険会社も、敗戦によって「ヒト」も「カネ」もない壊滅的な状況であった。
そこで、日本政府が国策として保険会社の立て直しを整備する中で、保険会社は戦争未亡人のための仕事を確保するために女性の営業職員を大量に採用することになる。
これが「生保レディ」の誕生で、集められた女性たちは、エリアごとに担当を割り振られ、各家庭に訪問し営業活動を行った。
そして、この方法が功を奏し、日本はアメリカに次ぐ世界第二位の保険大国にまで成長することになる。
戦後で男性が求人難だったこともあり、生保レディが中心となって築き上げてきた保険の営業スタイルが、日本における保険営業のベースとなって今日に至る。
とはいえ「ほけんの窓口」のような様々な保険会社の商品を取り扱いできる保険ショップや、インターネットで加入できる保険会社も登場。
最近では、金融ビッグバンで、銀行や郵便局でも保険に加入することができ、生保レディは今後その数を減らしていく運命にあるといえよう。

我々が幼少の頃から馴染んだ「ヤクルト」は世界31か国で販売を行っているが、ヤクルトレディは中国やインドネシアなどのアジア地域、ブラジルなど南米で販売、普及活動を行っている。
欧米ではヤクルトが販売されているものの、「ヤクルトレディ」なるものは存在しない。
ヤクルトの発売は1935年、ヤクルトレディの誕生は1963年のこと。
日本の高度経済成長に伴う共働き・単身世帯・高齢者の増加と共にふえていった。
誕生前から訪問販売という形はあったが販売員は男性が中心で、当時まだ知る人が少ない「乳酸菌 シロタ株」が入った商品の価値を伝えていくのには、家庭を一軒一軒訪問し説明しながら売ることが必要だった。
そこで宅配販売する女性スタッフ=ヤクルトレディの活用を開始し、社会で女性が働くことが一般的ではない時代であったが、全国各地に一気に広がっていった。
そしてコロナウイルス長期化で、宅配サービスの需要が高まる中、宅配販売の先駆けともいえる「ヤクルトレディ」の存在が改めて注目されている。
宅配の中でも新聞や牛乳と異なるのは、玄関先のポストや保冷箱に届ける(配達する)だけでなく、家の人に会って直接手渡しで届けること。
コミュニケーションや地域の見守りをも担い、人間関係が希薄な今の社会にとって意義深いものとなっており、ヤクルトレディの存在感が強まっている。
ある日、福島県で一人のヤクルトレディが担当地域で一人暮らしのお年寄りが誰にも看取られず亡くなった話に心を痛め、一人暮らしの高齢者に自費でヤクルトを届けることを始める。
これが「愛の訪問活動」のきっかけとなり、一人暮らしの高齢者の安否を確認したり話し相手になるという活動を1972年に開始した。
こうした活動に地元の「民生委員」らが共鳴し、さらに自治体をも動かし全国に活動の輪が広がった。
また最近では地域の行政や警察とも連携し、玄関先で倒れている高齢者の通報・救命や特殊詐欺犯の逮捕にもつながっている。
これらの功績が高く評価されて、1991年以降は行政などから複数の賞を受賞している。
職業区分は、多くが販売会社から業務委託を受けた「個人事業主」となり、給与所得が適用される通常のパートタイマーと比べて、税制上有利となる。
全国各地にある販売会社の拠点にそれぞれ10~20人が在籍し、各地区の家庭、企業などすみずみまで訪問して、販売した本数に応じて決まった取り分が収入となる完全歩合給となる。
ヤクルトレディの多くは主婦のため、幼い子供を預けて働けるようにと「ヤクルト保育所」を1970年代に順次設置、保育士を常駐させて日中働きやすい環境を整え、若い働き手の確保に努めている。
日本発の宅配型サービスをモデル化し、ヤクルトレディは現在日本を含む14の国と地域で展開され、海外には約47000人のヤクルトレディがいる。

JR大分駅の駅前に、手足を上げて阿波踊りを踊っているような奇抜な姿をした銅像がある。
その人物こそが、いまから100年前に、別府温泉を開発した油屋熊八である。
油屋は1863年、愛媛県宇和島の商家に生まれた。代々、油屋を営んでいたことから油屋の姓を名乗ったが、父の代は米問屋であった。
27歳で宇和島の町議会議員になり、その後、大阪で相場師になったが 日清戦争後の経済動乱で破産してしまう。のちにアメリカに渡り、3年後に帰国する。
この間、油屋はアメリカでクリスチャンの洗礼を受けたことから、“旅人をねんごろにせよ(もてなしせよ)”という聖書にある奉仕の言葉に導かれて、世界中から旅人がやってくる国際的な温泉観光地の開発を決意する。
そして、1911年、油屋(49歳)は、妻のいる別府に移り住み、わずか2部屋の温泉宿を開業した。
その宿は、「旅人をねんごろにせよ」の精神を実践し、宿泊客がゆったりとくつろいで欲しいとして、見事な日本庭園や極上の寝具を用意したという。
実は、「生きてるだけで丸儲け」という言葉は、油屋の言葉と言われている。
ちなみに、明石家さんまは、娘に「生きてるだけで丸儲け」を省略して「いまる」という名前をつけている。
ところで、女性(実際は少女)バスガイド誕生は、油屋熊八のアイデアによるものであった。
油屋は、浮き沈みの激しい相場師を捨てて、別府温泉に移って「亀の井ホテル」を創業し、洋式ホテルに改装した。
続いてバス事業に進出し亀の井自動車を設立し「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」というキャッチフレーズを刻んだ標柱を全国各地に建てて回ったという。
そしてこのの油屋が、「女性バスガイド」による「案内付」定期観光バスの運行を開始した。
さて2009年に、「日本人初」のバスガイドの村上アヤメさんが98歳で亡くなったというニュースを聞いた。
村上さんは、別府市でバスガイドとして温泉地を案内した村上アヤメさんで、享年98歳であった。
出身が大分県玖珠郡玖珠町出身なので村上水軍の末裔であろう。
村上さんは1928年から33年まで、「亀の井自動車」の初代女性車掌の1人として勤務した。
第1期バスガール(当時は15歳)は、才色兼備でモダンな衣装に身を包んだバスガールは、話題沸騰!
「地獄巡り」などを「七五調」で説明しながらのガイドが評判を呼んだ。
引退後は後進の指導に当たり、2007年に大分県知事表彰を受けている。
ところで個人的に、バスガイドの声を聞いて忘れ難いのが、函館の夜景を見るために函館山に上ったわずか30分ほどのバスでのこと。
あまりに見事な「七五調」のリズムにうっとり。山頂に着いた時に、客から拍手が起こったほどであった。
あの「七五調」のリズムに、村上さんのガイドを容易に思い浮かべることができるが、やはり女性ガイドならではのものであろう。