テレワーク&シャドウワーク

2021年6月、静岡県知事とJR東海社長の会談があり、県側が着工を認めないため、リニア中央新幹線の2027年の開業延期が事実上、決定的となった。
静岡県が着工を認めないのは、トンネル工事で南アルプスの地下水が漏れ、県中西部を流れる大井川の水量が減少するというのが主な理由である。
しかしその裏にJR東海の、度重なる“静岡飛ばし”があるともいわれている。
具体的には、「のぞみ」が止まらない、「新駅」をつくらない、リニアも「素通り」というもの。
その静岡県の観光地・熱海の土砂災害が起きた。神奈川県内の不動産業者の不法な「盛土」が原因らしいが、リニア反対派の補強材料にもなるかもしれない。
なぜなら、地下深くへの水漏れは「深層崩壊」を引き起こしかねないからだ。
静岡県はリニアといい、熱海の盛土といい、地域住民とは無関係な問題をもち込まれたカタチだ。
1980年代に南米の思想家イバン・イリイチは「共有地」の喪失という観点から、現代の科学技術や市場経済の行き過ぎを批判した。
例えば、日本で湯布院が大人気の温泉となったのは、不動産業者の乱開発を地元住民の力で拒絶したからだ。
その意味では、温泉地全体が湯布院住民の「共有財産」として意識されたからだ。
行方不明の少年をみつけ「時の人」となったスーパー・ボランティアのおじさんも、由布岳の登山道を長年手作業で整備してきて表彰された。
日本では昔から「共有地」を大事にしようという伝統がある。皆で森を管理していて、村人は伐木・採草・キノコ狩りなど共同利用を行っていた。
いわば水利慣行などの慣習法が存在していたが、現在の民法では、その山林を共同体が「総有」しているということになる。
共同体の各成員はその山林の利用等はできるが、「持分」はなく勝手に処分することはできない。
つまり「総有」することで、山林を絶やさず守っていくことが出来る。
イギリスでも日本の共有財産と同様な状況も見られ、たえばウィンブルドンには、元々手付かずの自然の残った「コモン」(共有財産)があった。
ところが1864年、地主が住民を集めて、入会地の3分の1を売却し、そのお金で残りを公園にすると言い出した。
ところが住民は売却に反対、裁判に訴え住民が勝訴。公園にするなら、自分たちで税金を出して公園を管理するということを始めた。
これがイギリスの近代的な公園の原型になった。
ウィンブルドン・テニス大会が行われているのも、そのウィンブルドン・コモンの一角なのだ。
山ばかりではなく、海も川も共同的に利用されている。複数で利用されるので法的に「利用権」がなるもの設定される。
山が「入会権」なら、海なら「漁業権」、河川なら「水利権」などが定まっている。
ところで、「コモンズ」とは元来、古代ローマ社会で、家庭で育てられるもの、家庭で作られるもの、共有地に由来するものをさす。
市場の勃興は、土地や労働までも売買の対象としたため、共同体的な機能を奪い、一人だけでいきることを困難にさせる。
イリイチは、そこに生まれた「不便」や「不都合」が消費となりそれに応じた生産がなされるとした。
そして、地域住民の伝統や自然・人間関係などを壊すことのない「バナキュラー」(地域的)な技術を提唱した。リニアモーターカーはその対極的存在で、「ペシャワール会」中村哲氏のアフガニスタンにおける堰づくりや水車は、そうした技術の好例である。

イヴァン・イリイチは1980年代に「脱学校・脱病院・脱交通」を唱え、その著書はそこそこ話題にはなったが、ポスト・コロナの時代こそ読み直されてもいいように思う。
実は、イリイチは南米のメキシコ生まれではなく、クロアチア生まれのユダヤ人である。
カトリックの神父となって、1950年頃に研究のために立ち寄ったニューヨークでプエルトリコ人のスラムに遭遇し、ニューヨーク司教に願い出てプエルトリコ人街の教会の神父として赴任した。
その後、南米の「解放の神学」に惹かれ、メキシコなどを活動の拠点とした。
最下層で暮らすマイノリティの人々のために奔走しつつ、多く著述を行い社会思想家としての評価を得た。
イリイチは、「コモンズ」の概念から「シャドウワーク」という考え方をうちだす。
産業社会は、共同体では必要のなかった仕事を生みだす。それは産業社会特有のいわば影のような仕事で、「シャドウワーク」とよぶ。
そして家庭は、子育てから食事・介護・葬式まで多くを外部に「アウトソーシング」している。
子供の教育や老人の介護はかつてを家族や共同体が行っていたが、市場における金銭的な取引でサービスで行われるようになると、入施設や入塾の手続きから、車での送り迎えなどが家庭の大きな負担をもたらす。
そしてこれらは主に、対価の支払いのない「家事労働」によって支えられている。
第二次世界大戦後、日本国憲法に「両性の平等」が定められたが、企業と家族とを合わせた「大きな家」で、男性と女性の「性別分業」の構造が出来上がった。
また経済の進展に伴って、女性の「専業主婦化」がすすんだ。
つまり、女性は結婚して主婦という役割に「永久就職」することが主流となる。
さらに、こうした「性別分業」にもとづく社会が円滑に機能するように、仕事を担当する男性には、家族分も含んだ「家族賃金(世帯賃金)」が支払われた。
また、これと対になる主婦たる女性に対しては、「配偶者手当」や「配偶者控除」などのさまざまな優遇策がとられた。
このような中で、女性の仕事はあくまでも「補助的」なものと考えられるようになる。
それゆえ女性はパートや非正規の労働者として働き、賃金は低く抑えられて、男女の「賃金格差」が当たり前となったのである。
日本の「家」の役割分担からいえば、これは自然のなりゆきであったといえる。
特に高度経済成長期には、女性はあたかも企業戦士の「銃後の守り」の役割を担ったともいえる。
ところがバブル崩壊以後、主婦は「非正規雇用」の予備軍的存在となっていく。
ところで最近の新型コロナ下の下で、居酒屋など飲酒業界への対応が不公平だという指摘がある。
酒自体の需要は、「巣籠り需要」のおかげで、それほど悪くはないものの、家庭内で酒を飲んで一日家にいると、家庭内DVなどの新たな問題が浮上している。
ところで、民俗学の泰斗・柳田國男は「自助」の必要性を強調し、「飲酒」をも個人の責任問題とする。
なぜなら、他者による社会規範の設定は、現実を無視した管理統制に陥りやすいからである。
一方で、柳田は、大量飲酒(アルコール依存)が個人の力で解決できず、むしろ「独酌」に起因することも認識していた。
江戸時代までの飲酒が集飲によって節度を保たれていた経験から、柳田は飲酒を集団、殊に利害関係をもつ女性によって管理すべきだと考えたのである。
特に問題なのは、酒代が家庭内の支出を不公平にする点である。近代に発生した大量飲酒問題は、必ずしも飲酒の絶対量を背景としていない。
全酒類消費量を1人当たりの年間飲酒量で比較すると、1870年代後半に約一斗五合であり、1980年代の二斗二合前後よりも少ない。
それでも問題視されるのは、家の中の分配というものは不公平を極め、主人が入るだけの収益を皆飲んでしまう家さえでていたからである
近代の飲酒問題は家父長制の弊害と関係していた。
よって柳田は女性に対して、酒を表に出る者だけがあたかも必需品のごとくに家計の半分をこれに費し、幼い者にまで悩みを及ぼさぬように、女性が、「お酌」によって巧みに男性の飲酒量をコントロールする利点を強調した。
しかし今日のようにジェンダー平等が意識される中、家にいる妻が夫にお酌するといった「絵」は今日ほとんど見られない。
夫婦「二人でお酒を」となれば、相乗効果でコントロールがきかなくなる可能性の方が高い。

作家の犬養道子がある本の中で日本では「ペアの概念」がないと書いていた。
男女の役割分担の中で、男性が仕事で女性が家庭なら、男女の関係はペアではなく主従の関係になりがちで、共働きの家庭でもそうした意識はなかなか抜け切れないようだ。
映画「シャル・ウイ・ダンス」(1990年)は、一人のサラリーマンが、「社交ダンスの世界」に入っていく姿が描かれていた。
それは「ペア」というものに不慣れな中年男の恍惚と不安が描かれたものといってもいい。
ところで「ペア」というのは「対」(つい)のことだが、「同族でありつつも異なる機能・作用をもつ」がゆえに「対」となる。
日本でそうした「ペア」の思考が長年生まれなかったのは、儒教の影響で「男尊女卑」の傾向を生んだためで、夫婦で「横関係」のペアであることはなかったといえる。
外国では偉い人はペアで社交するが、日本ではたとえ社長夫人であろうと、オモテに出る必要はなく、逆に出過ぎると嫌われる。つまり社長夫人はあくまで「奥さん」であるべきなのだ。
そういう伝統文化で育ってきた日本の女性が、明治のはじめに突然「鹿鳴館」でペアで踊る羽目になった時、その様子はどんなものであったろうか。
そんな中で、西洋風の良家の子女の「鹿鳴館の華」とよばれたのが、山川捨松である。
山川は、、岩倉使節団に随行して津田梅子らとともに、アメリカで学んだ帰国子女である。
山川は会津出身でありながら、戊辰戦争では敵軍の薩摩の大山巌と結婚し、二男一女の子に恵まれている。
ところで海野つなみの漫画を原作に、ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」は、就職として契約結婚したカップルを描き、登場人物が踊る「恋ダンス」も話題になったことは、記憶に新しい。
新垣結衣演じる森山みくりは就職活動に連敗した挙句に派遣切りにあって、将来について悩む日々。
そんなみくりの姿をみていた父親から、星野源演じる津崎平匡の自宅のハウスキーパーを頼まれたことで二人は出会う。
みくりは「就職としての契約結婚」を持ちかけ、時給2千円のアルバイトから、月19万4千円で「雇用」されることに。夫婦ではあるものの雇用主と従業員の関係となる。
ただ、この家事労働をいかに金銭的に評価するかが一つの問題で、家政婦を雇った場合の賃金が一応の目安になる。
まさにこれこそが「契約結婚」における雇用主(夫)と従業員(妻)の関係である。
やさいい雇用主なので「ホワイト企業」ではある。
ところが、最初は雇用関係だった二人も、いつの間にかお互いに惹かれあい、回を追うごとに“本物の夫婦”になっていく。
プロポーズされたみくりだが、これまで有償だった家事が、結婚すれば無償になり、これは「愛情の搾取」なのでは。
そして2人は家庭の「共同経営者」として家事を分担することを選ぶ。
原作の漫画では、自分の家事は自分でやる「シェアハウス」型で終わる。
愛情のバロメーターといわれる食事。相手の分もついでに作ることはあっても、役割や義務ではなく、相手の分もやってあげる「好意」と、やってもらった「感謝」で生活を回そうという提案で落ち着く。
それは、生活経営の目標は個人の発達や幸せで、主体は「個人」という前提であり、封建的な「家の存続」とは対極にある考え方である。
ただ、シェアハウス型で、関門は「子どもができたとき」ということが予測できる。
漫画の終盤では、みくりは就職して正社員になっている。仕事を続けるために保育園に預ける可能性が高そうだ。
星野源が歌うドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」の主題歌「恋」には「夫婦を超えて行け」という歌詞があり、評判になった恋ダンスも、日本人の意識に伝統的に欠けている「ペア」の意識を喚起することに繋がるかもしれない。

2021年4月に「育児休業法」が改正された。法改正の目玉の1つは、企業に義務付けられる育休取得の働きかけだ。
男女関係なく、従業員に子どもが生まれる場合は、利用できる育休制度を説明し、取得するかどうかを「確認」しないといけない。
育休は法律で定められ、子が1歳になるまで取得できる。しかし、厚生労働省によると、2019年度の男性の育休取得率は7.48%で、女性の83%とは差が大きい。
期間も18年度調査では、女性の約9割が6カ月以上なのに対し、7割以上が2週間未満だった。
今回の法改正では、従業員への意思確認ポイントで、男性会社員は育休は自ら言い出しにくいので会社側から、「育休をとらないか」と聞かなければならないのだという。
行動経済学の「ナッジ理論」を思い出して少々笑えるが、現実に笑えないのは、人材確保がままならぬ中小企業では、経営側は一体どんな顔をしてこの「確認」をするのだろうかということだ。
今回の法改正では、他にも子の誕生から8週間以内に最大4週間、2回に分けて取れる「男性版産休」の新設。男女とも育休を2回まで分割といった変更が盛り込まれた。
2018年のOECDの調査によると、主な42カ国で比較した場合、男性向けの育休は日本が最も充実している。
取れる期間が長い上、雇用保険から給付金が支払われ、社会保険料の免除も受けられるため、休業前収入の約8割が保障される。
取りたい若者が多い、制度も充実している。なのに取得率が伸びないという宝の持ち腐れ状態にある。
内閣府が6月に発表した20~300代の既婚男性642人への調査結果では、「取得しない」が4割で最多。取りたいが1カ月未満とした人を合わせると、約7割に上る。
理由は複数回答で「職場に迷惑をかけたくない」が42.3%で最も多く、「取得を認めない雰囲気がある」が33.8%で3位だった。
男性が1カ月以上の育休を取得しない理由 1位は「職場に迷惑をかけたくない」。
実際、その人がいないと仕事が回らないようなシステムになっているケースもある。したがって、仕事の進め方、情報共有の在り方に根本的な問題があるということもいえる。
一方で、男性育休の取得を進めた企業からは、どれが本当に必要な業務かを見直すきっかけになったととか、効率よく働いて生産性を上げようと工夫するようななったとかいう効果も出ている。
もちろん、「育休」を名目に休みをとっても、たいして子育てに役にたたないどころか邪魔になる人もいるであろう。
ともあれ、ポストコロナのテレワークの進展は、人々の「働き方」を変えていくことは間違いない。
またテレワークの進展は、我々の生活がイリイチのいう「シャドウワーク」の時間に相当部分サカレていたことに気が付かされる。
具体的には、日々の弁当作りや服装選び、アイロンかけなどである。我々の消費生活は、本来共同でやっていたものの「外部委託」がほとんどである。
核家族・共働きで失われた「コモンズ」の断片を金銭で手に入れようということに他ならない。
ポストコロナが、家庭におけるコモンズを取り戻す方向にいけるように、社会全体で働き方を変えられるか否かがポイントであろう。