囲まれた世界

中東パレスチナ自治政府のガザ地区では、「アタック オン タイタン」が流行しているという。日本のアニメ「進撃の巨人」のことだ。
ちなみに映画(「サムソンとデリラ」)にもなった、旧約聖書に登場する怪力男の「サムソン」は、ガザ出身である。
ガザ地区の人々は、イスラエルが建てた高いコンクリートの壁に閉じ込られて暮らす。
取材した新聞記者は、少年がいった「だって、壁の中で戦う話なんだよ。いろいろと似ているんだ」という言葉にハットとしたという。
「進撃の巨人」は、巨人の襲撃を恐れ、高さ50mの壁に囲まれて生きる少年たちの物語。だが、高い壁だけが共通しているだけではない。
何しろガザには、反イスラエルの過激派組織ハマスがあって何度もテロを起こし、イスラエルはその報復に、ガザを封鎖したままロケット弾を撃ち込み、国際的非難を浴びたこともあった(2009年)。
人と人とが憎しみ合う不条理や命を懸けて戦う葛藤、絶対の正義などあるのかという揺らぎなど、この繰り返される悲劇などの現実とも重なる。
さて、個人的にも、何かに囲まれたところに暮らしている感覚で過ごした場所がある。
学生時代に下宿していた住所は「文京区関口二丁目」、地蔵通り商店街を挟んで「新宿区山吹町」がある。
この周辺、日本の近代化を学ぼうとやってた中国人留学生の、魯迅や周恩来の足跡が残っている。
当時、三菱銀行の江戸川橋支店の銀行員が、周恩来の下宿先の位置を確かめたというニュースがあった。
「関口」の地名は、江戸時代に神田上水(神田川)の水量を監視する監視所が設けられた場所で、江戸時代初期に、この神田上水の「水役」として出府した松尾芭蕉が住んでいた。
ここは「関口芭蕉庵」とよばれ、現在小さな公園となっている。
このあたりはいかにも低地であり、水害も頻発したであろうことが推測できる。
この「芭蕉庵」あたりは、目白台の椿山荘に上る入口で、関口から山吹町一帯は、南に位置する神楽坂のある市ケ谷の高台とも囲まれた場所なのだ。
この地が囲まれた土地(もしくは窪地)であることをはっきりと認識したのは、我が大学時代にたった一晩の大雨で神田川があふれ、アパートの一階が完全に冠水したことがあったためだ。
幸い2階に住んでいた自分は、1階の避難民数名を一晩受けいれたことがある。
大ヒットしたアニメ映画「天気の子」の始まり部分で、手渡された名刺に「山吹町」という地名が出てきた時、この時の記憶が蘇った。
「天気の子」のストーリーは、天気をコントロールできるという「晴れ女」の少女と出会う。
2人は「晴れ」を呼ぶビジネスを始めるのだが、実は、その力を使いすぎると、副作用として地上での彼女の存在が消えていき、「天空」に召されてしまうのだ。
しかし少年は、そのような運命にあらがい、勇気を出して積乱雲の中から少女を救出する。
このアニメはそんなファンタジーで終わらない。
本来は「人柱(ひとばしら)」つまり”いけにえ”となるはずだった少女を奪還したのだから、気象のバランスは大きく崩れる。
その結果、雨はいつまでも、何年も降り続き、ついに東京は水没せんというところで物語は終わる。
新海誠監督の「天気の子」は、前作の「君の名は」と同様に、東京の街を詳細に微細に再現して、風景をみるだけでも感動する。
新海監督がその最初の街として描いたのが、フェリーで東京へと向かう主人公に渡された名刺にあった「山吹(やまぶき)町」。
映画では、坂道にある探偵事務所の住所となっている処である。
新海監督が、いかに精密に東京を模したかということは、個人的にこの場所らしきところを約1年間通り道にしていたからよくわかる。
「天気の子」の主人公が働いた探偵社のある坂道は、山吹町から神楽坂へ向かう途中の坂道、上ったところに赤城神社があるあたり。
すぐ近くの個人経営の塾でアルバイトをしていた時に、赤城神社は休憩するのに格好の場所であったため、しばしば佇んだ。
後に知ったことは、この赤城神社に参拝に訪れたのが、「青木鶴子」という女性。
青木鶴子は、博多の川上音二郎の姪にあたる人で、一座とともにアメリカに渡り、日本人画家の養女となり、早川雪洲と知り合い結婚した。
大正時代に、早川はチャップリンと並び称されるほどのハリウッドスターとなり、その自宅は「宮殿」とよばれ、アメリカ西海岸の名物となっていた。
早川雪洲はアメリカで成功すると、妻と神楽坂に居をかまえていたが、早川雪洲の方は国際派俳優としてフランスへ行ったきり戻ってこない。
そんな青木鶴子を支えたのが、美容家として知られたハリー牛山であった。
ハリー牛山は、もともと俳優を目指し早川の弟子入りしたが、美容家に転じた。
「ハリウッド美容室」を開くが、恩返しにと顧問料という名目で生活費を渡したのがハリー牛山であった。
そして青木鶴子は、神頼みや願いごとをする時には、この赤城神社で御参りしたという。

NHK「ブラタモリ#176」(2月13日放送)は、大分県「日田市」を紹介しており、大山(おおやま)の響(ひびき)渓谷からスタート。
「進撃の巨人」の作者、諌山創(いさやま はじめ)は日田出身で高校まで過ごしていていたため、2020年秋に、大山ダムに登場人物の銅像が設置された。
また、旅館「うめひびき」のギャラリーおおやまでは、2021年1月末まで「進撃の巨人展示コーナー」を実施するなどしていた。
「ブラタモリ」では、諌山創が幼い頃よく遊んでいた、日田市大山公民館を訪問した。
ここは地名どおり、山が壁のように切り立ったところで、諌山自身も、新聞社のインタビューに日田の風景が作品に影響したと答えている。
「進撃の巨人」の主人公が壁の外を目指していたように、諌山も日田から出ることを夢見ていた。
実はタモリも、20代の頃、日田に住んでいたことがある。
ある大きなホテルの内紛が続いていたため、親会社から派遣されて、その内部状況を偵察するのが仕事だった。そのためいろんな職種の従業員と親しくなった。
ところがそのホテルはボーリング場を経営することとなり、タモリはそのボーリング場の支配人を勤めることになる。
朝から深夜まで働き、日田の街を歩いたことはほとんどなかった。
それまでのタモリの略歴をいうと、本名「森田一義」は黒田藩家老の森田家出身。筑紫丘高校から早稲田大学へと進学。
ここでモダンジャズ研究会に所属するが、授業料未納のため除籍処分となる。
にもかかわらずモダンジャズ研究会には相変わらず顔を出していたようである。
同期には吉永小百合もいて、根っからのサユリスト。
福岡に戻った森田は保険の外交員、喫茶店、日田でボーリング場の支配人などをしていた。
1972年、ジャズピアニストの山下洋輔氏ら一行は、演奏旅行で福岡のタカクラホテルに宿泊していた。
山下洋輔氏ら、30歳前後の3人はホテルの一室で、まるでフリージャズのセッションのように、デタラメな長唄を唄い盛り上がっていた。
そのときたまたまホテルを訪れて廊下を通りかかったのが、森田であった。
森田は、空いていたドアから中を覗きこむと、血が騒いだのかそのどんちゃん騒ぎに加わることとなった。
すると、山下らメンバ-の一人で男がインチキ朝鮮語で話しかけた。
すると、ゴミ箱をかぶって虚無僧姿になっていた中村誠一が立ち上がり、無礼な森田を、デタラメな朝鮮語でまくしたてる。
ところが、森田は余裕しゃくしゃくの反撃。中村は中国語、ドイツ語、イタリア語、フランス語、英語の全ての武器を、順に繰り出したが、いずれも森田にいとも簡単に迎撃された。
最年長の山下洋輔氏が大笑いしているなか、名を聞かれた森田は、名前をつげ、翌朝そのまま虚無僧のごとく消えていった。
しかし山下らの脳裏にあの博多の面白い男のことが消えない。山下は森田がジャズをやっているに違いないと直感し、博多中のジャズスポットを探しついに森田を探し当てた。
そして皆でカンパして、森田を東京に招いて新宿コマ劇場の裏にあった「ジャックの豆の木」なるスナックで、一芸を披露させることにした。
そこには噂を聞いてやってきた漫画家の赤塚不二夫や作家の筒井康隆もいた。
赤塚は森田の芸に引き込まれて、TV出演させるまで、森田を居候として生活させることにした。
そして1975年、新幹線が博多開業を迎えた年に、森田は会社を辞めて上京した。
赤塚は森田を売り出すために献身的といっていいほどの努力をし、森田はマンション住まいでベンツを乗り回す堂々たる高級居候になったという。
そして「ハナモゲラ語」「四ヶ国語マ-ジャン」などで世に知られていく。
タモリは、赤塚不二夫の葬儀で「私はあなたの作品です」と語っていたのが、今でも印象に残っている。
さて「ブラタモリ」は、筑後川沿いの三隅川公園を訪ねる。そして、そこからえた風景は、タモリが働いていた「温泉ホテル」に、元支配人を務めたボーリング場の跡地に立つ「ホームプラザナフコ日田店」。
その後、「ブラタモリ」では、日田の宝を探った。第1の宝は「進撃の巨人」。第二は日田の祭りで使われる「神輿」、そして第三は小鹿田焼(おんだやき)。
折しもNHK・BSの「男はつらいよ」では日田が舞台となっていた。
さくらの息子が後藤久美子演じる女子と恋に落ち、二人で後藤(役)の父親が再婚相手と住む日田の豆田町を訪問れる場面である。
そこに登場する神輿は、2016年にはユネスコの文化遺産に選定されている。二階のひさしまでも届く高さと、少しバランスを欠いたように見える形状がとてもユニークであった。

「囲まれた地」というのは、人の人生を左右したり、芸術家の想像力を飛翔させる何らかのチカラがあるのかもしれない。
まず思い浮かべたのは、三島由紀夫の「金閣寺」の主人公のモデルなった人物が育った場所。
京都府最東北端の成生岬の中ほどにあり、若狭湾に面する「成生漁港(なりゅうぎょこう)」は、舞鶴市にある漁港である。
漁港には付随して戸数二十数戸の小さな集落がある。海岸に面したところは、1階が船小屋2階が住居という「舟屋」が建ち並ぶ独特の景観がある。一方、海岸から奥の狭い平地には家屋が密集する。
交通不便な小村であるが、何年に一度かは大漁に恵まれるブリ網で豊かな村であり「ブリ御殿」と呼ばれる、敷地は狭くとも立派な家屋が建ち並ぶ。
村の奥には、断片的に残る丹後風土記の記録する古社の鳴生神社、および永享元年(1429年)開山と伝えられる臨済宗東福寺派・西徳寺がある。
同寺の関係者が昭和25年の金閣寺放火事件に関わったため、一時は全国的に有名になった。
1950年7月2日深夜、金閣寺が炎上し、産経新聞京都支局の記者で福田定一という記者がスク-プをものした。
この記者は後に「司馬遼太郎」の名前で国民的作家として知られるが、福田のスクープは次のようなものであった。
第一報で駆けつけた時には、既に舎利殿から猛列な炎が噴出して手のつけようが無く全焼してしまった。
早朝、鎮火した現場に蚊帳のつり手や布団生地があったことから不審を抱いた警察は、行方のつかめない徒弟の1人で林承賢(当時21歳)の部屋を調べたところ蚊帳や布団などが無かったことなどから林が放火したと断定し、金閣寺裏山でうずくまっていた林を発見し放火容疑で逮捕した。
逮捕当初、林承賢は「世間を騒がせたかった」、「社会への復讐のため」との動機を自供して犯行を素直に認めた、と。
林承賢は1929年3月19日、京都府舞鶴市の西徳寺の住職・林道源の長男として出まれた。林承賢は生まれつきの吃音で、このことが死ぬまでトラウマとなっていた。
また父親は結核を患っており住職としての役務も満足に勤められず寝たっきりの状態だった。
当時の西徳寺の檀家は僅かに22戸で経済的にも困窮していた父親は43歳で死ぬ直前、伝手を頼りに金閣寺住職の村上氏へ子供の林承賢を弟子にして欲しいと依頼した。
林は金閣寺にて得度式を行い承賢は正式に村上氏の弟子となった。
林は父親代わりともなった村上氏の理解を得て大谷大学へ進学し犯行当時は大学3年に在学していたが、入学当時から比較して成績は下がる一方で登校もしなくなっている状況であった。
自身も父親と同じ結核に怯え悩み、息子が金閣寺の住職に出世することだけを唯一の楽しみとしていた母親の過剰な期待等がプレッシャーとなっていた。
生まれ故郷の舞鶴の小さな漁村で成績は常にクラスでトップできた。宿題が終わらないと周りの子とは遊ばない子だったという。
作家の三島由紀夫は「自分の吃音や不幸な生い立ちに対して金閣における美の憧れと反感を抱いて放火した」と林の心を読み、この事件をモデルに「金閣寺」を発表した。
さてもう一つ印象的な「囲まれた地」は、辻仁成の小説「海峡の光」の舞台。「函館湾と津軽海峡とに挟まれたこの砂州の街では、潮の匂いが届かない場所などなかった」と書いている。
辻仁成にとって函館は故郷という意識の強い町。転勤族の父に連れられてあちこち移ってるが、高校を卒業したのが函館の頃である。
辻は、函館が舞台となる作品も多く買いているが、この作品は「芥川賞」を受賞した記念的作品。
よりピンポイントで舞台を言えば「函館少年刑務所」。
この作品で、主人公はそこの看守として生活していて、ある皮肉な「再会」を描いている。
青森・函館間の連絡船・羊蹄丸の客室係だった主人公の青年は、青函トンネル開通と共に廃航になる羊蹄丸から「函館少年刑務所」の刑務官に転職した。
その刑務所に、18年前の小学5年生の時に同級で、青年をイジメテいた花井修が、傷害罪で逮捕されて移送されてくる。
刑務官の青年は戸惑い、帽子を目深にかぶって、自分が同級生であったことが発覚することを恐れる。
元々不良達にイジメられていた主人公だったが、花井は主人公を助けるような風を装い、さらなる隠微なイジメを加えていたのだった。
花井はしかし1学期の夏休み前に転校することが決まり、クラスの人達と別れる際には主人公に対して、「君は君らしさを見つけて強くならなければ駄目だ」という偽善的な言葉を言い残して去っていった。
花井が刑務所で何かやらかすではないかと刑務官は疑心暗鬼にとりつかれるが、意外にも花井は殆ど模範的に刑務所生活を送る。
翌年1月、年号が平成に変わり、新天皇による恩赦によって花井は仮出獄することになった。
刑務官は、雪の降る中、反射的に門の向こうへ行こうとする花井の肩を捕まえ「お前はお前らしさを見つけて、強くならなければ駄目だ」と口走った。
刑務官は勝ち誇った気持ちになってつい出てしまった言葉だが、次の瞬間「斎藤、偉そうにするな」の大声と共に、腹部に強烈な拳を喰らって倒れる。
囲まれた地で、監視するものとされるもの、自由なものと捕らわれのもの、それら全てが入れ替わった、いびつな再会が織り成す人間ドラマであった。