聖書の場面から(金持ちの青年の問い)

「すると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。
イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。
彼は言った、「どのいましめですか」。イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。 父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」。
この青年はイエスに言った、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。
イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。
以上、新約聖書「マタイの福音書」19章にあるエピソードである。
さて、アメリカという国は、ピューリタン(清教徒)がヨーロッパから移住して建国した国である。
16世紀ドイツでマルチン・ルターの宗教改革で始まったが、スイスではカルヴァンが主導者であった。
カルヴァンは、ルターとともに聖書の「福音書」を重視するが、「蓄財」を肯定したために、ヨーロッパで勃興する商工業者に広く受け入れられ、イギリスでは「ピューリタン」とよばれた。
カトリック勢力やイギリス国教会はこれを弾圧したために、熱心なピューリタン達は自由をもとめて新大陸にやってきたのである。
ちなみに、カトリックは「蓄財」を積極的には肯定しない。
そんな財産があるなら教会に寄付したり、貧しいものに施せということになる。
実は、上記の場面の最後に、イエスは「よくよくあなた方にいっておく、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」と語っている。
また、山上の垂訓の中の「貧しい者は幸いなり」という言葉に応じて「清貧」を重んじる傾向がある。
一方、ルターやカルバンの説く「福音主義」は、トランプ前大統領の支持基盤として注目された「キリスト教福音派」の信仰とおおむね一致しているとみてよい。彼らはイエスによる十字架の贖罪や復活・神の国の到来などをそのま信じ、キリスト教を「道徳」ではなく、「救い」(福音)としてとらえる。
冒頭の青年の問い「永遠の命をえるため」は、「キリスト教福音派」が本来目指すところでもある。
ところで、資本主義の発達は、ピューリタンを含むプロテスタンティズムの信仰と関わりが深いと指摘したのはマックス・ウェーバーである。
そしてアメリカに移住したピューリタン(カルヴァン派)の信仰の核心は「予定説」であることに特に注目したい。
つまり資本主義のスプリング・ボードは、カルヴァンが説いた「予定説」という信仰なのだ。
一般人は、救われるかどうかは信仰の深さとか立派な行動と思いがちであるが、カルヴァンによれば天国にいけるかどうかは、あらかじめ決定してるという。
カルヴァンによれば神というのはものすごく超越的なもので、その御思いお人間がごときが想像してわかるものではない。
確かに、聖書には「選び」の深遠さを肯定せざるをえない場面がたくさんでてくる。
冒頭に紹介した「金持ちの青年」の他に、イエスが「自ら」呼びかけた、金持ちがいる。
ザアカイは取税人のかしら、つまりローマの手先となってユダヤ人から税金をしぼりとるため、薄汚い罪人と見られていた。
このザアカイはひと目イエスを見ようと、木の上に昇ってイエスが通りかかるの待っていた。
するとイエスが、多くの群衆の中で木の上のザアカイを名指しでよび、木からおりてきなさい、今日はザカイの家に泊まるという。
イエスが自分の名前を知っているだけでも驚きなので、一切の都合も聞かずにである。
そしてイエスが何事かを語る前に、ザアカイはこれから自分が築いた「不正の富」はすべて貧民に分け与えると答える。
そして、イエスは「今日救いがこの家に来た」と語っている。
聖書では、金持ちの青年には名前は記されず、取税人には「ザアカイ」という名が記されている。
まるで救われる者が「予め定められている」ようにも思える場面だが、その「選び」の深遠さは人の考えの及ぶところではない。
さてカルヴァンの教えの特徴は、人は「誰が選らばれているか」わからない。信者は自分が選ばれている人間かどうか、何の証拠もない。
少しでも自分が選ばれた人間である手がかりが欲しい。
そこで「蓄積」したした富でその「証拠」を掴みなさいというわけである。
こんな奇怪な考え方が、なぜ多くの商工業者に受け入れられたのだろうか。
しかし人間心理をよくよく考えてみると、カルヴァンに「誰が救われるかはわからない」と言われた時、大概の人は自分が救われないとは思わない。
人間というものは地震や津波が起こっても自分だけは助かると思いがちなので、こと「救い」に関しても「自分だけは」そうなのだろう。
少くとも、「カルヴァン」の教義に少しでも反応するのは、そういう人々だったにちがいない。
「自分は神に選ばれているに違いない」から一生懸命に勤勉によって「蓄財」に励んで救いの確信を得よう。
また、各自が仕事を「天職」と受けとめるならば、実際に選ばれているかは別としても、成功する可能性は高い。
カルヴァンの「予定説」は一見奇妙な教義だが、はまった人にとっては結構「自尊心」をくすぐられるのではないか、と思う。
だが、「予定説」の逆マワリもありうる。
「蓄財」こそが「救済」の予定(保障)なのだとしたら、逆に「富の喪失」はただ単に財産を失うこと以上の意味があるのではなかろうか。
1930年代の初頭、アメリカで大恐慌がおきた時、ウオール街で多くの自殺者がでた。キリスト教では「自殺は罪」であるのにもかかわらず、である。
それは単に財産を失ったということではなく、自分には神の「選び」はなかったという絶望感ではなかったろうか。
ところでカルヴァンの「予定説」から思い浮かべるのが、経済学の父アダムスミスにも「予定調和説」。
アダムスミスは、利潤を追求する利己心が「見えざる手」すなわち「市場原理」に導かれて「社会調和」を生むとした。
アアダムスミスの思想には、カルヴァンの予定説との関係が十分に推測できる。
なぜなら、 アダム・スミスはスコットランド生まれで、もともとグラスゴー大学の「道徳」の教授であり、スコットランドはカルヴィン派(長老派プレスビテリアン)を国教としていた。
アダム・スミスの「経済学」は、神の下いかに社会全体の幸福を築くことができるかという問題意識から出発したものである。
それは日本の「経済」という言葉が「経世済民」の学として発生したことを連想させるが、個人の営利活動が「民を救う」ことと結びつけて考えられていた。
それに対してカルヴァン主義の場合には、自分の「利益追求」という面が前面に出ている。
アダム・スミスの思想には、個人の自由な経済活動そのものが自動的に「社会全体のため」になるという発想があり、結果として個人は営利活動にさえ専念していればいいという考え方に落ち着いてしまう。
しかしそれが神の「見えざる手」に導かれるというのは、たとえ利己心の発揚のようだしても、「救いの確証」を求めるものである以上、必ずや社会調和をもたらすという確信から来たのではないか。
そういう意味で、アダムスミスのいう利己心にはマダ「救いの確信」を得たいという余韻が残っていた。
ただ、現在の金融工学などを駆使する資本主義下、たとえ成功し富をえたとしても、地上の富は天上にもってはいけない。
成功した富裕者の中には、「永遠の命を得るためにはどうすればよか」とイエスに問うたあの金持ちの青年の気持ちに陥っている者もいる。
アメリカのボランティアやチャリテイ活動は、マネーゲームで富を築くことに対するピューリタンの末裔達の不安の「裏返し」でないのか。
彼らの心の奥のドコカで、「十戒」の第十の戒「汝 貪るなかれ」が響いているのかもしれない。

カルヴァン派は、資本主義の精神を生むが、フォードの大量生産にみられるような徹底した「合理主義精神」と結びつきやすいのも推測できる。
その端緒となった人物にベンジャミン・フランクリンという人物が思い浮かぶ。
フランクリンは印刷業から身をおこし政治の世界で多大の貢献をなし、「アメリカ独立宣言」を起草した人物であるが、彼の中にある精神原理こそ、「アメリカ的」なものなのだ。
目ざすところはこの世における「幸福」で、「幸福」の構成要素は、健康・富、知恵であり、その目標に達成するためには実用性の原理をあらゆる生活場面に適用した。
ある信念や行動が幸福を獲得するために役立つならば善で、役にたたないならば、悪なのである。
元々人を楽しませたり、驚かせることが好きな好人物ではある。
そのフランクリンは、現在の「格言入りカレンダー」を考案して大アタリ。大金をもうけその金で、公立図書館や自警団などを作って街の名士となった。
政治の世界に入ると、彼の活動は多彩で、その傑物ぶりをようやく発揮し始めた。
後の大統領となった軍人ワシントンらを支え、独立戦争の際してはフランスへ趣き、「熊の毛皮」を被って、野蛮なアメリカが強いフランスの支援を求めているとオドケテみせた。
プライドの高いフランス人のハートをくすぐって、フランス社交界の寵児となる。
「フランクリン人気」はそのまま「アメリカ人気」となった。彼の活躍がフランスの援軍を引き出した一因となったのである。
フランクリンはこうした功績を買われて、「アメリカ独立宣言」の起草者のひとりに選ばれている。
貧しい生い立ちから強い意志で成功をものにしたアメリカンドリームの実現者であるが、その精神は、勤勉性でピューリタニズムと重なりつつも、「功利主義的」な思考法が占めていたようだ。
功利主義とは、イギリスのベンサムの「最大多数の最大幸福」という言葉に代表される。
ベンサムの時代(18C~19C)はまだまだ「身分制社会」の残滓がまだまだ根強く、少数の人間しか幸福が約束されていなかった現実を前に、この言葉が、いかに衝撃的な響きであったか。
さらには幸福を「哲学的」「宗教的」に掘り下げるといのではなく、幸福を「快楽」と読み替え「量的」な面から「考量」するという斬新さがある。
そしてこの思想はアダムスミスの「古典派経済学」などにも影響を与えたが、イギリスのアングロサクソン系の移民から始まったアメリカ合衆国で、この思想がさらに広い社会哲学「プラグマチズム」(実用主義)として花開く。
この思想を、簡単に言うと「結果主義」である。
野球でストライクといえば、キャッチャーミット周辺の真ん中をさすが、アメリカ野球は、選手の怪我が多いので真ん中でなくて外角にずらしたりする。
ストライクは真ん中である必要もなく、試合が早く終わらせるために「ボールの大きさ」も変える。
すなわち人間社会の都合に合わせてルールを変えることに躊躇がない。裁判における「司法取引」などもその表われではなかろうか。
アメリカの「典型人」フランクリンにおいても、行為や制度の良し悪しは、それによって生じる結果によって判断される。
したがって「結果」を手早く生み出す効果や有用性が重視される。
したがって彼が目指す「幸福」という結果に結びつかないものはできる限り排除し、「節制」「沈黙」「規律」「決断」など幸福に繋がる徳目を「自己抑制」として自らに課している。
「信仰」でさえもこれらの徳目と同列で、「救い」つまり「福音」とは無縁となものとなっている。
その一方で、アメリカンドリームの暗部をついたのが、フィッチジェラルドの名作「グレート・キャツビー」である。
プラグマチズムでいうように、結果がすべてなら「金がすべて」と、手段を選ばずということになりかねない。
キャツビーは、あくまで自己抑制的なフランクリンとは対照的に、ある部分で欲望に忠実な男として描かれ、彼が描いた夢は「悪夢」となって死に至る。

アメリカは「原罪」を背負った国である。それは厳格なピューリタンの信仰に基づく楽園喪失の「原罪意識」というものではない。
新大陸を発見して、そこにいたアジア系の住民を殺戮したり追放したりして、自分達が住みついたという意味でのやや現世的な意味での「原罪意識」である。
そこで、自分達がやったことと同じことを誰かにやられるのではないかという意識がどこかにあり、それが「黄禍論」として深層に渦巻いているのである。
彼らをこうした「原罪意識」から免れさせるのは、ある意味で別の宗教意識であり、それが聖書における「千年王国」(ヨハネ黙示録20章)の信仰である。
この「千年王国」を世界で実現すべく使命を担うという「マニフェスト・デステニ-」(明白なる使命)が、「アメリカの正義」の根拠となっているのである。
そしてアメリカの「正義による武装」たるや、広島や長崎の原子爆弾投下でさえも、絶対にそれにモトルものではないというほどの意識なのである。
原子爆弾が「結果的に」日本の戦争の終結を早めたとか、しかも原爆で失われた人の数とそれ以後続いたかもしれない戦争によって失われた数を比較考量してみて、前者の数の方が少なければ、それが「正当化」されうるわけである。
つまり実用主義は、アメリカ人が「原罪意識」に沈潜したり、それを深追いすることもなく、いわば「アメリカの正義」を堂々と振りかざすことを側面から支える「効用」をもった。
一方、アメリカは日本に原発を売り込み、平和利用を勧めたのも「罪責」の裏返しではないか。
翻っていうと、アメリカは原住民を殺戮したり追い出したして住みついて出来上がった国であるが、「結果的に」そこに「千年王国」なるものを実現することになれば、それは正義に反することではないということになるのである。
つまりアメリカはこの地に(さらに世界に)正義を実現すべく導かれた「マニフェスト・デスティニー」の国であるという意識を持つに至る。
ソ連崩壊後その意識はさらに助長されたものの、アメリカは中東で後退を余儀なくされていく。
トランプ前大統領は「自国ファースト」「反エリート」主義をかかげた。
よくよく考えると、トランプの支持層は南部に勢力をもつプラグマチズムの世俗主義に染まらない「キリスト教福音派」、さらには北部の斜陽産業で取り残された、かつて反骨主義を貫いたピューリタン達。
そんな彼らの傷ついた「誇り」に訴えかけた点こそ「トランプ現象」を生んだ。
ピューリタンの教義を逆回しにすると、アメリカという自由の国での「貧困」は単なる貧困ではない。
それはとりもなおさず、神に「選ばれていない」証拠。そんなはずではなかった。
トランプ前大統領はその絶望感から抜け出してくれる仄かな希望となった。
それは、黒人チャンピオンに挑む白人タフガイの物語、映画「ロッキー」の構図にも連なる。