戦争の多面性

中国の後漢の宦官・蔡倫がAD105年に「紙」を発明、というより改良したと言われている。
紙は前漢の時代よりあり、蔡倫が改良を加えた結果、竹簡や木簡に代わって用いられるようになった。
その「紙」の使用が世界的に広がったのは、唐の時代である。ワットが蒸気機関の発明者ではなく「改良」普及に貢献したことと同様に誤解されやすい。
751年の唐とアッバース朝イスラーム帝国が直接戦った「タラス河畔」の戦いの時、アッバース朝軍に捕ええられた唐軍の捕虜の中に、紙漉工などが含まれており、彼らはサマルカンドに連れて行かれ、麻を原料にした紙の生産が始まった。
12世紀にイスラームの支配下にあったスペインに伝わり、バレンシア地方に製紙工場が建てられ、14世紀にはヨーロッパ全域で紙の製造が始まった。
エジプト由来のパピルス紙は中世ヨーロッパの教皇庁などでは依然として使われていたが、羊皮紙は価格が高く一般の庶民に書物が普及することはなかった。
佐賀県の西部に位置する有田町は、人口約2万人の小さな町だが、1616年に泉山に陶石(白磁鉱)が発見され、 日本で初めて磁器が焼かれた町として知られている。
豊臣秀吉は1591年、ついに天下統一を果たし、2度にわたって朝鮮出兵を行っている。
朝鮮から日本へ引き上げる際、佐賀藩主の鍋島直茂は朝鮮人陶工たちを連れて帰ってきた。
その中の1人が李参平(り・さんぺい)が、有田で陶石を発見し、「有田焼の祖」と呼ばれた人物である。
有田で色絵付けが始まったのは1640年代、初代酒井田柿右衛門が赤色を基調とした「赤絵」を生み出して以来のことである。
1653年、オランダ東インド会社によってヨーロッパ諸国への輸出が開始され、有田の北にある「伊万里港」で荷物の積み出しが行われたため「伊万里焼」とも呼ばれた。
ヨーロッパでは「IMARI」と称された有田焼は、王侯貴族の間でステータスシンボルになり、純金と同じ値段で取引されたという逸話がある。
ちょうど、オマーンのモカ港を輸出港としたコーヒーが、「モカコーヒー」とよばれたように。
ウインナーコーヒーの始まり、トルコ軍による「ウィーン包囲」が契機である。
1683年7月、トルコのモハメッド4世の命を受けたカラ・ムスターファは、30万の軍隊を擁してウィーンを包囲した。
神聖ローマ・ドイツ皇帝レオポルト1世とロレーヌ公国皇太子は町から数マイル離れた場所に陣をはり、町の内部にはシュターヘンベルグ伯爵の率いる守備隊が留まってポーランド王国からの援軍を待っていた。
しかしひと月たっても援軍は来ず、連絡係をかって出たの兵士コルシツキーがいた。
彼は、長年トルコ人と生活を共にしたことがあり、トルコ人の服装を身にまとった彼は、包囲網を突破してポーランド軍との連絡に成功した。
そし、合流したポーランド軍と皇帝軍はウィーンの内と外から攻撃を開始した。
その結果、トルコ軍は敗走し、後にはさまざまな物品が残され、戦利品は分配されたた。
その中に大量の「コーヒー豆」があったが、コーヒー豆を欲しいという者は誰もいなかった。
そこでコルシツキーが「この袋に詰まったものを望む人がいなければ、私が所望いたします」と申し出た。
そして数日後、コルシツキーはトルコ風コーヒーを飲ませるウィーン初のコーヒーハウスを開店した。
「ウインナーコーヒー」のように、コーヒーにクリームを乗せる習慣は、中部ヨーロッパで強大な勢力を誇ったハプスブルク家の時代に始まったとされている。
貴族から庶民へとコーヒー文化が浸透しつつあった時代、仕事の休憩中にコーヒーを飲んでいた馬車の御者たちが、次の休憩までにコーヒーが冷めないよう、クリームの油分でフタをしたのが起源とされている。
かくして戦争が意図せざる「文化交流」を招く事例は枚挙にいとまながない。

戦争といえば、一般論として、全体主義や独裁者、情報操作と結びつけて論じられる。
しかしそれは戦争遂行にあたっての話であって、歴史の長期的視野から概観からすると、戦争はむしろ「民主主義」や「平等主義」の普及に貢献した側面を否定できない。
まずは、戦争が民主主義を生んだ事例として古代ギリシア社会がある。
前5世紀の前半のペルシア戦争で、市民軍である「重装歩兵」密集部隊が活躍、さらに下層民も三段櫂船の漕ぎ手として活躍して発言権を強め、戦後のペリクレスの時代にポリス民主政は最盛期を迎える。
身に着ける鎧は自弁であったが大量生産によって、戦争に参加できる市民が増えた。
自ら命がけでポリスのために闘ったのだから、政治に参加することを要求するようになる。
そればかりか、無産市民までも船の漕ぎ手として戦争に参加し、「政治参加」を求めるようになる。
次に、戦争が「平等主義」を広めたとはどういうことか。
近代国家において、政治的責任を負う立場にない劣位の人々がいれば、勝ち負けはどうでもよい。
つまり戦争遂行の主体的な担い手になろうとする内面的な動機が欠如することとなる。
つまり、差別された人々が存在し、そこに垣根があれば「総力戦」は戦うことはできないということだ。
そのため国民が一丸となって戦うためには、身分の垣根をとりのぞかねばならない。
ナショナリズムの特徴は「我々国民」とそれ以外の国の人々を区別する要素と、「身内の国民はみな平等」という普遍主義の共存にあるといえる。
身分制の廃止(四民平等)や人権の確立、普通選挙制、教育の機会平等がそれを保証する。
国民がひとつになるために、”万歳”が生まれる。
「万歳!」の慣習は江戸時代にはなく、初めて公に行われたのは1889年の大日本帝国憲法発布時のことである。
森有礼文部相の肝いりで、帝国大学生5千人が「天皇陛下万歳、万歳、万々歳」と唱和した。
もっとも中江兆民のように、この祝賀ムードの乗らなかった人もいた。
中身もしらず憲法をもったというだけで人々がそれに歓呼することを冷ややかにみたのだ。
1894年に日清戦争が始まると各地で戦勝祝賀会があり、人々は日の丸の旗が掲げられる中、万歳を唱えながら、通りを練り歩いた。
戦勝に酔い、「万歳」を唱えることで、見知らぬ者同士の間に一瞬で連帯感が生まれた。人々は「祖国」という共同性を実感し、「国民」が生まれた。
一人ひとりがその場で味わう一体感に加え、「国内の各地で今、他にも多くの人々が同じ旗を掲げ、同じ歌を歌っている」と想像することで、国レベルでの一体感が生じる。
「万歳」もまた「総力戦体制」の一装置だった。

学校の科目で、「日本語」という科目ではなく、「国語」という科目にしたのも、国をひとつにまとめるためで日本特有の呼び方であった。
全国津々浦々にまで行きわたる同一規格のモノが「国家意識」を強める役割を果たした。
その典型が"国王の肖像の刻印"のある通貨だが、全国的な統一ダイヤグラムで運行する鉄道(国鉄)の普及も同様だ。
日本の場合、日清・日露戦争と並行して延長されたので、「軍事輸送」の強化が主な目的であった。
実は、日本人の戦争観を「総力戦体制」へと変えたのが、同盟関係にあったドイツのヒットラーであった。
ところで50年ほど前、明治大学名誉教授の三宅正樹は、国際政治や外交の歴史が専門で、「日独伊三国同盟」の研究に取り組んでいた。
神奈川県茅ケ崎市の海岸近くに居を構えたところ、しばらくすると思いがけない人が近くに住んでいることに気付いた。
大島浩。陸軍出身でナチス政権下のドイツに駐在武官や駐独大使として勤務した。
政権の首脳と親交を結び、「ヒトラーは本大使にこう語った」というベルリン発の電報は日本の政策に大きな影響を及ぼした。
A級戦犯として東京裁判に訴追され一票差で処刑を免れ無期禁錮の判決を受けた。
1955年に保釈され茅ケ崎に住んでいたのだ。訪ねると話を聞かせてくれた。
「私は失敗した人間だ。何を言っても弁解ととられる。だから私の語ったことは外に出さないでほしい」との条件つきで録音を認めてくれた。
そうしたインタビューテープを三宅を保管してきた。大島が亡くなった後、「お好きにして結構です」と夫人の了解を得ていたが、これまで発表したことはなかったという。
そのテープは、73年の録音で十数時間分。大島は亡くなる2年前で87歳だった。
興味深いのは独ソ戦の経緯である。1939年に独ソ不可侵条約を結びながら、41年にドイツはソ連に攻め込んでいる。
「ヒトラーはソ連の軍事力を低く見ていた。39年にフィンランドに攻め込んだソ連軍がさんざんな目に遭ったのを見て、その戦力はたいしたもんじゃないと見くびった」 。
1934年、大島はヒトラーが政権をとった翌年にベルリンに赴任し、外相のリッペントロップと親しくなる。
1936年に「日独防共協定」が締結され、大島は38年にドイツ大使となる。
ヒトラーも親しくなり、ヒトラーの別荘に招かれたこともあった。ヒトラーは意外にも大島には本音を漏らし、「独裁者はつらいものだ。議会制なら議会が責任を取れば良いが、独裁者は自分が責任を取らなければならない」と言っていたという。
ヒトラーは酒を飲まないと言われているが、「私は酒も飲む。しかし独裁者は、いつ何時何が起きるかわからないので、酒は飲まないのだ」と明かしている。
ヒトラーは共産主義とスターリンを嫌っており、スターリン暗殺計画をたて、実際に、10人のロシア人スパイをソ連に送り込んだ「スターリン暗殺計画」もあったという。
しかし、ドイツは1939年、突然、「独ソ不可侵条約」を締結してしまう。
日本では「欧州情勢は不可思議なり」と大騒ぎとなった。大島は、外交官でドイツに居ながらそれを読み切れなかったことに責任を取らされてドイツ大使を解任される。
大島は、一民間人となったが、日本政府内で大きな力を持ち続けていた。1940年、スターマー特使が来日し、大島が松岡外相に引き合わせ、松岡に頼まれて三国同盟の原案を便箋に書いたという。「日独伊三国同盟」はその直後に成立した。
さて、日本の戦時体制のモデルとなったのが、ドイツのヒットラーが創った体制である。それは一言でいえば「総力戦体制」である。
ドイツでは、「年金保険」の70億ライヒスマルクを使って、ベルリンから八方に向けて戦時目的の高速道路アウトバーンを作ったし、労働者住宅をどんどん作った。
世界に突出した日本の年金制度の特徴といえば、その運用が一般の「公共事業」に回されているということである。
厚生省もやはり、特別会計や公社・公団・事業団という形で相当利益を確保し、戦後、厚生官僚達は、「国民皆保険」を目指した。
高度成長時代に設立された公共事業関連の公団や事業団は数多くあるが、その中で一番大きなものが日本道路公団であった。
実は、 日本は戦後も長く「戦時体制」を色濃く残した経済であったのだ。つまり、1940年代ぐらいに作り出された経済体制をそのまま引き継いだ部分が多いということ。
その一番の典型は、1995年にようやく廃止された「食糧管理制度」であり、食糧難の時代の配給制度と一体化したものであった。
1937年に「産業報国会」が作られたが、これは労使双方が参加して事業所別に作られる組織であり、労使の懇談と福利厚生を目的としたものであった。
戦時は労使の「一体化」が何より優先されたからだ。それが日本的経営の柱の一つである「企業別組合」として結成され、現在に至っているのは、「産業報国会」などの組織が衣替えして成立したためである。
また日本の大企業は、もともとは部品に至るまで自家生産する方式をとっていた。
それが、戦時期の増産に対応するための緊急措置として「下請」方式を採用するようになった。
1960年代末にトヨタに部品を納入していた子会社の40%以上は、その下請け関係を戦時期に築いていたという。
もっと身近なところをいうと、所得税はそれ以前からあったものの、1940年の税制改正で世界ではじめて給与所得の「源泉徴収制度」が導入された。
「源泉徴収制度」は戦費調達を確実に行うために導入されたものであるが、税の捕捉率100パーセントということは、サララ-マンの自営業者などに対する不公平感を募らせ、1980年代に間接税(消費税)中心の税体系へと移行したのは周知のとうりである。
税制は、それまでの地租、営業税中心の体系から、所得税中心の体系に変わった。
さらに、戦前の”遺風”がまかりとおって、国のカタチを決定づけたのが「財政投融資」である。
それは、年金や郵便貯金・簡易保険などの膨大な資金が活用されて、旧大蔵省「資金運用部」とそれをとりまく公社・公団・事業団というかいう形で、高度成長期以降の自民党・官僚政治を下支えしてきたといってよい。そして、このような「財政投融資」のかたちは、戦時において形成されたのである。
日本の日中・太平洋戦争における巨額の軍事費を支えたのは、なんと郵便貯金なのだ。そのほか簡易保険・厚生年金・郵便年金を含め、日本の戦争を支えたのはこうした預金、もしくは積立金であったのだ。
したがって、日本の戦争は「財政投融資」方式で、戦争という「破壊」に邁進した。しかしその預金は、戦後のインフレで実質的に預金者に返らなかったというに等しい。
また、1932年厚生年金(労働者年金保険)も、軍事費調達のための「天引き」であり、年金自体が「銃後」の家族や後の生活を保障しつつ、戦争に人を駆り出す制度であったともいえる。
1990年代には、「金融ビッグバン」により金利は自由化され、ようやく公定歩合などもなくなり、戦時体制から脱け出た部分もある。
だが、人づくり(教育)を含めて、日本は戦時体制を引きずっているのが、日本停滞の最大原因であろう。
さて、「新型コロナ対策」で、政治と専門家の関係が取り沙汰されているが、一流の学者を集めた「秋丸機関」という研究団体が戦時の国力比較し、太平洋戦争直前の日米の圧倒的経済力の違いも分析していた。
前述の大島浩の父はドイツ陸軍の制度を日本に導入したことで知られ、陸軍大臣までつとめた。
その父のもと、大島は小さい時からドイツ語を学ぶ「ドイツ通」として影響力をもった。
34年に駐在武官としてベルリンに赴任し、38年に大使に昇進。「独ソ不可侵条約」をよみきれず一旦辞任するが40年に「三国同盟」が誕生すると再び大使に返り咲き、敗戦までその職にあった。
秋丸機関の分析では、ドイツはロシアとの戦いでその勢いはやがて衰えるという分析であったが、大島のドイツの圧倒的優位の想定が強く、専門家のデータは生かされなかった。
それが日本国内で「バスに乗り遅れるな」という「総力戦」へのスローガンに繋がる。
最近放映されたNHKスペシャル「ヒトラーに傾倒した男〜A級戦犯・大島浩」で、外交官会議で大島に最後まで反対して敗れた人物の家族にあてた手紙が紹介された。
家族は、便箋のインクが滲んでいるのは、正しい情報が政府に伝えられず、道を踏み誤ったことに対する悔し涙であろうと語っていた。