聖書の言葉から(支える言葉として)

聖書には、我々の「芯棒」になってくれるような言葉がある。それはけして「光る」言葉ではない。
例えば、文語調で「後、悟らん」(ヨハネの福音書13・7)というシンプルな言葉。
最後の晩餐で、イエスが弟子たちの足を洗おうとしたところ、そんなことをさせるわけにはいかないと思った弟子達が遠慮しようとすると、イエスは弟子たちに、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになる(後、悟らん)」。
今はわからないかもしれないが、後でわかるようになる時が来るという意味である。
また旧約聖書に「遅くあらば待つべし」(ハバクク書2章3節)という言葉。あたりまえのような言葉ながら、忍耐を強いられる場合には大きな支えとなる。
この言葉は、天才ピアニストのフジコ・ヘミングにとっても忘れがたい言葉となった。
天才といわれたフジコは世界を目指しオーストリアに渡る。指揮者バーンスタインの知遇を得て、その実力を実証すべく臨んだコンサートの前夜に、高熱のために聴力を失い、その評価を一機に失墜させる。
その後貧しい生活ながらピアノを教えつつ聴力の回復をはかる。無国籍の難民として裕福な留学生にいじめられながら、貧困と病気と屈辱の日々を海外で生き抜くことになる。
フジコ・ヘミングは帰国後、母校の東京芸術大学で小規模ながら演奏会を開いたりしていた。
そんな中、ひとつのグリーティング・カードに「遅くあらば待つべし」という聖句をみかける。
その1週間後に、NHKから帰国した彼女の半生を番組で紹介しようという話がくる。
この番組で、リストの「ラ・カンパネラ」を演奏したところ大きな反響があり、フジコは思わぬカタチで世に知られることとなる。
そんなフジコの「後、悟らん」の半生から、「パウロ」の次の言葉が思い浮かぶ。
「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」(ローマ人への手紙8章28節)。
また、パウロの言葉といえば、東京赤坂のショッピング街「アークヒルズ」で見つけた言葉がある。
アークヒルズの一角「カラヤン広場」に流れる人工滝の背後にパウロの言葉が彫られた石版がある。
そこに、「艱難(かんなん)は忍耐を生じ、忍耐は練達を生じ、練達は希望を生ず」(ローマ人への手紙5章3節)とある。
これは貸しビル会社「森ビル」の創業者・故森泰吉郎の「座右の銘」で、この「艱難・忍耐・希望」がその力の源泉であったに違いない。
森が若き日に洗礼をうけた「霊南坂教会」もこれに隣接しており、かつて三浦友和夫妻の結婚が行われた教会としても有名である。
ちなみに「霊南坂」とは日向の人・嶺南和尚が慶長15年ここに「庵」(嶺南庵)を結んだことにちなむ。この嶺南和尚から「霊南坂」と名づけられてたいう。
嶺南庵は寛永13年(1636)に幕府の用地になり高輪に移り、「東禅寺」と改称し高杉晋作らの襲撃事件で歴史に名を残している。
さて、森泰吉郎は1904年年に現在の東京都港区で生まれた。実家は裕福な米問屋兼大家業だったようで、泰吉郎氏は父親から港区の広大な土地を受け継ぐ。
戦前から戦後にかけて泰吉郎は港区の土地を買い進め、貸ビル業をはじめる。
当時の赤坂・六本木はそれほど繁栄しておらず、50歳過ぎまで横浜市立大学商学部長・教授を務めているなど学者としての経歴をもっている。
高度経済成長やバブル景気を経て地価は上昇し、バブル景気の短期的なものとはいえ、「米フォーブスの世界長者番付」では、日本の不動産王、堤義明とトップ1、2位を争うまでになったこともある。
森ビルがオーナーのアークヒルズにしても、六本木ヒルズにしても「地権者」が入り乱れた複雑な土地である。
森家とゆかりの深い地主などが反対派の説得に回ったエピソードが有名で、父親の代から築いた信用が発展の礎にある。
1923年に関東大震災が起きて実家の所有物件がほとんど倒壊したが、関東大震災以降、森家は土地を買い進めており、震災当時には500㎡ほどだった所有地は戦後には郊外も合わせて2000㎡ほどにまで膨れている。
また泰吉郎の先見の名を示すエピソードとして有名なのが、1946年の「新円切り替え」である。
経済者としてそうした動きを察知した泰吉郎は、その前に旧円を引き出しこれまた需要急増を予想していた人絹(レーヨン)を大量購入する。
この予測は大当たりし、元金は何十倍にも膨れ上がった。そして一連の出来事で得た収益を虎ノ門界隈などの不動産購入に充たのである。
こうして手に入れた不動産は1956年頃には元の所有と合わせて6600㎡にまで膨れ上がっていった。
そして、家業と大学教授の二足の草鞋を続けていた泰吉郎は1955年に森ビルの前身となる「森不動産」を立ち上げている。そして1959年には55歳で大学教授も退職し、本格的に不動産業に進出する。
ちなみに現在の「森ビル」社長はの森泰吉郎の三男で森トラスト社長の章の長女・伊達美和子である。
さて、森ビルの創業の地・赤坂あたりは「226事件」の痕跡を今でも確認することができる。
例えば、山王ホテルは反乱軍が立てこもった料亭「幸楽」の跡地にたっている。
さて六本木ヒルズと並んで、森ビルのシンボル「アークヒルズ」のアーク(ARK)とは「箱船」を意味している。キリスト者であった森が、旧約聖書の大洪水を乗り切って救われた「ノアの箱船」の物語から得たコンセプトである。
すなわち、トルコに位置するアララト山にちなんで赤坂の丘に降り立った「箱舟」ということになる。
戦災・震災・バブル崩壊をくぐり抜けて拡大し続けた「森ビル」の歴史を体現した「命名」といえるかもしれない。

1965年「サウンド・オブ・ミュージック」が世界的に大ヒットする。
映画では、オーストリア海軍の英雄であるグスタフ・トラップはオ-ストリアのザルツブルクの名門貴族の出身である。
7人の子供に恵まれるが、妻を病で失い男一人で子供を育てることになる。しかし次女マリアが病弱であったこともあり家庭教師をさがすことになる。
ちょうどその頃、ザルツブルクのアパ-トにマリア・アウグスタ・クチェラ(ジュリー・アンドリュース)という女性がいた。
彼女は 小さくして両親を失い修道女として生きようと戒律の厳しさで知られるベネディクト会の修道院にはいった。
しかし、あまりに自由奔放であたっために周りからも眉をひそめられるようなことが度重なり、ついに修道女の道を諦め、教師になろうとザルツブルクに出て来ていたのである。
1926年 その彼女に名門トラップ家から家庭教師が欲しいという電話がかかってくる。
マリアは格式の高い家の家庭教師になることを躊躇するが、ギタ-を抱えてトラップ 家の屋敷を訪れる。
マリアが最初に目を丸くしたことは、トラップ家では、父グスタフが潜水艦の艦長であったために、集合の合図は笛をもって行われていた点である。
しかも、子供一人一人を呼ぶときの音の組み合わせが異なっていた。
家庭教師となったマリアは、そうした家庭の雰囲気の中で、音楽を教え次第に子供達に愛されるようになる。また色々な物語を聞かせていくうち、7人の子供達は次第に母を失った哀しみを忘れていく。
父グスタフもマリアの不思議な魅力に惹かれはじめ、家庭教師としてではなく一人の女性として彼女を愛するようになり、翌年結婚する。
この時マリアとグスタフの年齢差は25歳、長男とはわずか5歳の年齢差であった。
しかしやっとつかんだ家族の幸福は長続きしなかった。1929年の大恐慌の影響で トラップ家は一夜にして全財産を失ってしまう。
この時は、さすがの英雄グスタフも憔悴しきっていたという。
しかし一人元気だったのは妻マリアである。幼い頃から「孤児」として育った彼女はそうした苦難を乗り越える術を心得ていた。
ザルツブルクには神学を学ぶ学生が多く、自宅の1階を礼拝堂にかえ、いくつかの部屋を神学生に貸し出したのである。
そして、この決断が一家の運命を大きく変えることになる。ある日一人の神父がトラップ家で過し、家族の歌声を聴き本格的な合唱の指導をした。
さらに、イタリアの有名なソプラノ歌手がザルツブルクでの音楽会の際にトラップ家を訪問し、家族の歌声を聴きコンクールの出場をすすめた。
そしてコンク-ルで見事優勝し、「トラップ・ファミリ-聖歌隊」という名でヨーロッパ中を演奏旅行し世に知られていく。
ところが1938年のある日、深夜に響く町中の教会の鐘の音が「異常事態」を告げる。
ナチス・ドイツがにオーストリアにも侵攻し、ヒットラーはトラップ一家を「党の宣伝」に使おうとしていたらしく、ヒットラーの前で歌を歌うことを促す。
しかし、グスタフはそれを断固拒否し、家族は「歌」だけを頼りに、無一文で自由の国アメリカへと渡っていく。
しかし、モダンジャズがはやっていた当時のアメリカではトラップ・シンガ-ズの歌はなかなか受け入れてもらなかった。
そこでド派手な衣装と厚化粧でセックスアピールをし、歌い方を変えたりした。また母マリアは、トークで場を盛り上げようと努力した。
しかし、オーストリア人は「敵性外国人」と疑われたために、星条旗への忠誠を示すために、長男と次男はヨーロッパ戦線でドイツやオーストリアと戦うハメになる。
そのうち家族は、祖国オーストリア・チロル地方の風景に良く似たバーモント州ストウという山間の場所を見つけ、ローンを組んで自力で家を建てた。
そしてコンサート活動をしながらも、ほとんど自給自足の生活をしたのである。
その後アメリカの雑誌「ライフ」がナチスを逃れてアメリカにやってきた理想の家族としてトラップ・ファミリーを紹介した。
1945年、戦争が終わり長男と次男が帰還し、バーモント州ストウでの孫を含めた12人家族での生活が始まった。1948年一家はようやく念願のアメリカ「市民権」を獲得する。
1965年の映画「サウンド・オブ・ミュージック」は、トラップ一家の家庭教師から母となったマリアの「自伝」に基いて制作されたものである。
そして修道女時代からマリアが支えにして、映画でもつぶやいたのが「神は扉を閉める時、必ずどこかの扉を開いてくださる」である。
実はこの言葉もパウロの言葉で、「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(コリント人第一の手紙10章13節)を思い起こさせる。

大岡昇平の「野火」(1951年)は、フィルピンのレイテ島あたりで戦火をくぐりける兵士を描いた。自然の描写といい人間心理の描写といい、戦後を代表する作品といっていい。
同時期に、フィリピンあたりで生死をさまよっていたダイエーの創業者中内功のことは比較的知られている。
そして、もうひとり評論家の山本七平がフィリピンの島を彷徨っていたことを、最後の著書「静かなる細き声」(1992年)で知ることができる。
この本の「あとがき」で、山本七平の長男・山本良樹が、父・七平の生涯について振り返っている。
それによると、息子の脳裏には旧約聖書に記された一人の預言者が脳裏をよぎったという。
故国イスラエルに流布した異教神・バアルの預言者達、崇拝者達と戦い。その戦いの故に、バアル信仰に淫したイスラエルの王からも生命を狙われ、荒野に一人落ちのびてゆく、孤高の預言者エリヤの姿。
エリヤは、愛する故国の民を、外来のバアル信仰による「呪縛」から、救い出そうとして敗れ、「主よ、もう(故国の為の戦いは)たくさんです。 私の命を取ってください。私は先祖に勝るものではありません」と訴える。
長男はそのエリヤの姿を、食べる者も、着る物もなく、まるで敗残の日本兵のようにフィリピンのジャングルをさまよった、若き日の父親と重ねる。
四十日四十夜の彷徨の末、エリヤは「神の山」ホレブに到る。そこで、イスラエルの正統なる神・ヤハウェーの「静かなる細き声」を聴く。
息子は、戦場をさすらう父にとっての「静かなる細き声」の主は、イエスご自身であったに他ならない、と書いている。
このフィリピンを戦後、ひとりの青年がYMCAの活動の一環として訪問する。
木村利一は当時、早稲田大学の大学院生、クリスチャンであったことから、YMCAの奉仕活動に参加し、フィリピンのタナバオという地域で、現地の若者と共に街の復興のために働くことになった。
しかし、現地の人々は木村を温かく迎えるどころか、「死ね!日本へ帰れ!」と厳しい言葉をなげかけた。
そして、木村は自分があまりにも無知のまま、この地に足を踏み入れたことに気がついた。
木村は戦後の「平和憲法」などを粘り強く語り、現地の青年ランディとの交流を深め、2年の期限をへてフィリピンから帰国の途につく。
その時、ひとつの「光景」が消し難く残った。
現地の子どもたちが歌うスペイン民謡のメロディーを基に「みんなで楽しく遊ぼう」と、手や足をたたきながら呼びかける歌だった。
帰国の船上、木村はそのメロディーにオリジナルの詞をつけた。
帰国後、YMCAの集会でこの曲「幸せなら手をたたこう」を披露すると、学生らの間で少しずつ広まっていった。
そしてこの曲が、歌手の坂本九の耳に届いたのは”偶然”以外の何ものでもなかった。
たまたま坂本は、皇居前広場で昼寝をしていたところ、OLがこの歌を歌うのを耳にした。
坂本はちょうど自分の歌手活動に行き詰まりを感じており、この歌のエネルギーに何かを感じた。
さっそく坂本はこの曲を記憶し、いずみたくが楽譜にした。そして「作曲者不詳」のままレコード化された。
しばらくして、部屋の外から聞こえるそのレコードを聴いて驚いたのが、作曲者本人の木村利人だった。
「作曲者が判明した」というニュースは、坂本九にも届いた。
そして坂本の楽屋を訪れた木村は、苦しんでいる人々に希望の光を届けたい"という思いを語り合い、二人はすっかり意気投合した。
その後、坂本九は東京オリンピックの”顔””としてメガヒット「上を向いて歩こう」などをとともに「幸せなら手をたたこう」を披露した。
木村は2013年、かつて奉仕活動を行ったフィリピンのダグパン市のロカオ小学校を訪問した。
木村は、かつて友情を温めたランディを探したが、彼の消息は不明であったものの、500人を超す児童が校庭に座り79歳の木村が立った。
「ここを離れて54年。いつか帰りたいとの思いが実現した。今日は人生で最良の日です」。
そして「この歌は戦争の苦しみから生まれました。私たちは武器で戦うのでなく平和をつくるため、未来に向けていっしょに働こうではありませんか」と締めくくった。そして全員が立ち上がった。
児童はフィリピン語、木村は日本語。二カ国語で歌う「幸せなら手をたたこう」が響き合った。
ちなみに、「幸せなら手をたたこう」の歌詞は、旧約聖書の「もろもろの民よ、手をうち、喜びの声をあげ、神にむかって叫べ」(詩編47編)という言葉にインスピレーションを得たものである。