間接市場経済

最近の経済情勢から「間接市場(かんせつしじょう)」という言葉を思いついた。
それは「間接民主主義」からの連想として閃いたものだが、市場をいわば「国会」に見立てたものである。その意味するところは次のとおり。
あるお金の単位を一票とすれば、消費者は様々な商品に対して投票する。
人気商品にはお金という票が集まって価格が上がる。価格が上がれば、その業界での賃金があがって労働者や資源が集まってきてたくさんの商品が生産される。
人気のない商品にはお金が集まらず、生産はされず労働者は解雇され工場は閉鎖される。
つまり政治の世界でいう、「落選」である。
ところで人々は、所得をすべて消費にまわすのではなく貯蓄をする。
貯蓄をどう運用するかは人さまざま。リスクをとって資産を増やそうとする人もいれば、銀行に預けて今の低金利で満足する人もいる。
今仮に、人々が仮にすべての貯蓄を株式投資にあてるとしよう。
この時この人々は、将来性ある企業を選ぶことによって、投資を通じて社会を変えていくプロセスに参加したとみることができる。
したがって、期待できる企業には資金という票が集まって、その期待分だけ規模が拡大することになる。逆に将来性のない企業は淘汰されていく。
こうして、人々の消費と貯蓄の選択は、自らのお金の行方(つまり票の行方)を通じて、経済社会を自らコントロールしたといえる。
こうした経済世界の在りようを、市民が自ら議会に出席して、全体としての政治意思を決定する政治「直接民主主義」とのアナロジーで「直接市場経済」と表すことにしよう。
ただ、人々は日々の消費は投票と比べてはるかに日常的だが、まず信頼に価する銀行を選択のうえ、その銀行にお金を「預ける」ということは、いわば選挙人に投票を委ねる「間接選挙」状態。
こうした経済の在りようを、国民が政治意思の決定を代議士に委ねている「間接民主主義」になぞらえて「間接市場経済」とよぶことにしたい。
アメリカでは選挙人が党を裏切ることもあるそうだが、国会が国民の信任を裏切るようなことを繰り返せば世論の反発をうけるし、銀行も預金者の信頼を裏切れば預金は引き上げられる。
したがって、民意や預金者の信任が基づくものではあっても、それは「直接的」なものではない点で一致している。
また政府に払う税金においても、消費税が社会保障に充てられたり、かつてのガソリン税が道路整備にあてられるなど「目的税」的なものは多くはなく、政府に使い道を委ねることになる。
ただし、予算と支出については国会の承認が必要なので「財政民主主義」下にあることになる。
さて日本は、先進国中最も高いといわれる「貯蓄性向」のもとで、高度経済成長が銀行経由つまり「間接金融」によって企業の設備投資によってなされてきた。
それは、戦後初期の復興金融資金による「傾斜生産方式」(鉄・石炭など基幹産業中心)に始まっているが、通商産業省の銀行への規制や誘導は大きく、官の力がかなり働いたことは間違いない。
しかし、国民の所得倍増が実現していく過程において、1960年代後半の「公害問題」による環境保護への転換を除き、国民の視点を労使の政治闘争から保守支持への向かわせた。
ただ一般予算に比べ、国民のコントロールが効かないものが、「第二の予算」とよばれた財政投融資計画ではなかったであろうか。
税金や郵便貯金や国民年金といった資金が財政投融資計画に流れ、官僚の天下り先確保ともいうべき特殊法人が雨後のたけのこのように出現した。
国民がこうした資金の流れを取り戻せるように、財投債(国債)の市場における発行などによる競争原理が導入されたり、独立行政法人などによって、一般予算などからきり離されたことにより、国民の資金の流れをコントロールしやすい方向へと転換した好例であろう。
実は「間接市場経済」などという言葉が思い浮かんだのは、最近、投資先の選択についても期待収益ばかりではなく、「持続可能」なESG(環境・社会・企業統治)関連分野に資金を投入し、社会的問題の解決を図ろう動きが起きているからだ。
例えば、二酸化炭素排出企業への投資を控えたり、女性が活躍する会社の株を買うなどである。
かつて民主党が「セメントから人へ」をスローガンとしたことにも関連して、我々が資金運用を他者に委ねっぱなしの「間接市場経済」では、それが与党の政権維持や選挙に有利なように運用され、そうした「持続可能な投資」とはかけ離れたことに資金が投入されるからだ。
また、我々の資金が産官一体の軍事的な研究(敵地攻撃など)に投入されるのならば、資金面での「シビリアンコントロール」が効かない状態にあるとはいえないだろうか。

今、自由の国アメリカでさえも、アメリカが勝利したはずの「社会主義」への関心が高まっている。
数年前、フランスの経済学者ピケティによる「r>g」で有名になった「20世紀の資本論」という書物が高額であるにもかかわらず、よく売れた。
資本主義の変容を自由主義から独占資本主義さらには、ケインズ思想の「修正資本主義」への変貌と記述される。
もう一つの流れは、自由主義から独占資本主義の矛盾から、マルクス思想の「社会主義」という流れだが、ケインズは「大きな政府」による福祉国家の実現をとなえ、一方で中国を中心に「社会主義」は特区をもうけ積極的に「市場経済」の導入を行っている。
以前の資本主義社会では、経営者の利害の代弁者で、労働者の賃金の上昇を抑える側であった。一方、それに対し、社会主義的な政党がメーデーなどを主催し、春闘でも賃上げを要求していた。
いまは逆に、保守を標榜する政権が、春闘の賃上げの後押しを行って、「働き方」にも改革のメスをいれなければならない状況だ。
純正の自由主義経済から混合経済化(ケインズ)と、純正の社会主義経済からの資本主義化(改革開放)で、両者の体制は近似しつつある。
ただ断っておきたいのは、ケインズの福祉国家はあくまでも「社会主義」にならないための方策である。
両者は似通っているようだが、土地を中心に生産手段を国有化する社会主義と、資本主義はあくまでも「私有財産制」を前提としている点で根本的に違う。
かつて経営の神様とよばれたドラッカーが「見えざる革命」で50年以上も前に予言した「年金が支配する社会」は、今日の日本の姿を言い当てている。
ここでいうタイトルの「革命」とは何か。
「社会主義を労働者による生産手段の所有と定義するならば、アメリカこそ史上初の真の社会主義国である」と指摘するところから「見えざる革命」は書き始められる。
アメリカは、社会主義とは相容れないアメリカンドリームの国である一方で、アメリカで発展したのが企業年金制度である。
すなわち勤労者の老後の所得の充実のために行われた事前積立制度は、勤労者の退職後の支給にのみ用いられる資金ながら巨大な資産額に達し、かつその投資対象として企業の株式を保有するに至ったのである。
年金基金の積立を通じ、民間企業の労働者は少なくともアメリカの全株式の25%を、自営業者や公務員・教職員は少なくとも全株式の10%を保有しており、合計すれば、全産業の株主資本の3分の1を労働者が有している。
これにより、アメリカの企業のほとんどは、本質的には労働者に経営権があり、労働者は賃金だけでなく、企業から配当等の資金を得る立場にあり、これはまさに「社会主義」の成立だとドラッカーは指摘する。
つまり、アメリカ最大の資本家は実は年金基金(イクオール労働者のお金)であり、アメリカの企業が生み出す富はアメリカで働く普通の労働者たちの「老後資金」に用いられることになったというわけだ。
企業は本質的には株主のものといえ、「年金基金」を介して労働者が企業の所有者になったというのは面白い指摘であるが、最近のアメリカの格差社会の進行とは違和感がある。
それはオバマ大統領が改革(オバマ・ケア)をしようとしたように、多くの労働者が保険料を払って年金をもらう労働条件下にはないということだ。
つまり、公務員など一部の労働者が「資本」を”部分”支配するようになったからといって、「社会主義化」とは本質的に異なるように思える。
ところで、最近ある新聞社の調査で、年金資産を運用する国の独立行政法人(GPIF)と日本銀行が、東証1部企業の8割にあたる約1830社で事実上の大株主となっているという驚愕の事実が判明した。
GPIFは、厚生労働省の外郭団体で、自営業者や会社員が払う保険料を原資とした積立金を株式や債券などで運用する。
2014年10月に運用基準を見直し、債券から「株式」の割合を増やした。
ここで「年金積立金」と言うのは,国民の納める厚生年金・国民年金の保険料から年金として支給された分を差し引いた後の積立金のことである。
この年金積立の運用は元々、国が自前でしてきたが、財政投資融資制度の改革で01年度に特殊法人の運用基金に移され、16年度にGPIFに衣替えされた。
厚生労働省が定める運用の基本方針に沿って、具体的な資産構成などを決める。
そしてGPIFに委託されている運用の総額は130兆円にもなり、世界最大規模となっているが、それがソレが200兆円近くに達するという。
要するに、日本のGPIFは 世界最大級の「機関投資家」となるのだ。
そこで、資金の運用にあたっては安全・安定に徹するために、厚生労働省により基本ポートフォリオ(資産構成の割合)というものが決められている。
最近のその割合は、国内債券55%で安定した価額の債券中心の運用ということである。
一方、相場変動の激しい株式での運用の目安は、12%とされておりソノ上下6%の範囲の中で保有することが認められる。
ところが今、株式保有の割合を実に20%台にまで引き上げるようという動きが起きている。
つまり、「消費税増税」や「成長戦略の弱さ」、粉飾決算などによる外国人投資家撤退などで低迷気味の株価を年金マネーが下支えしたのである。
つまり、巨額の公的マネーは実体経済と乖離した株高を招き、いわば「官製相場」の側面が強まっている。
ともあれ、東証一部上場の約8割の企業が公的マネーを投入されているとなれば、これこそが日本衰退の原因があるのではなかろうか。
将来性がない大企業を公的マネーで買い支えをして、ずるずると延命させ、世界との競争にも敗れゾンビ化した企業がゴロゴロあるということにほかならない。
そういう意味で、ドラッカーのいうところの「社会主義化」は、日本の方が進行しているのではなかろうか。
株高演出に一役買っているのは、GPIFばかりではない。市場には「もう一頭のクジラ」がいる。
日本銀行は、国債を年80兆円を銀行から買い込んでマネーを市場に流しこんでいるばかりか、アベノミクスが「異次元緩和」といっただけあって、ETF(上場投資信託)を年6兆円のペースで購入しているのだ。
ETFは「上場投資信託」を示す英語の略称で、様々な会社の株を束ねた金融商品だ。日銀が買っているETFの一つは、日本を代表する225社の株を束ねている。
日経平均株価に連動して価格が上下するので、日本経済全体に投資するような意味がある。
物価が下がって景気が悪くなるデフレを、日銀は防ごうとしている。銀行にお金を貸すだけでなく、ETFを買って株式市場にもお金を流し、世の中に出回るお金を増やそうというねらい。
ただ、株のように価格が大きく変わる資産を買う中央銀行は、世界でもめずらしい。
ただ、日本の場合「年金基金」が株式投資しても、企業の「内部留保」が多く企業の「配当性向」が低いため、株の値上がり益までは期待できても、アメリカのように老後にその「配当」を受けるというところには至っていない。
ETF購入を減らせば、日銀が出口戦略に入ったと市場は受けとり、国債市場や金融市場に大きな混乱が広がる可能性もある。
ただ、アベノミクスが演出する相場が「官製度」が高いほど、誰も梯子がおろせなくなっている。
年金マネーと日銀マネーあわせて今や約40兆円にも及び、それらはいまや日本市場の「隠れた巨大株主」になっている。
公的マネーが安定した業績や高収益の企業に向かうのは当然としても、問題は公的マネーの「株価」押し上げ効果によって、「実力以上」の株価をもたらすことになりかねないということである。
株式会社では、市場における「株価の変動」を通じて、事業再編や取締役の選任などが行われ、ひいては「稼ぐ力」の向上を促す企業統治(ガバナンス)の強化にも繋がることになるのだが、その機能が実質的に失われているということだ。
しかも、GPIFなどは株式総会で「もの言う株主」として存在しているかというと、そうではないらしい。
GPIFも日銀も、企業経営への「官」の介入を避けようと、株主総会での議決権行使は信託銀行などに「任せて」いる。
その点に関して、公的マネーが”もの言わぬ与党株主”になる恐れがある。
長年続く超低金利政策は、政府がいつでもお金を借りやすくする環境づくり、つまり「官製相場」であり、本来の「市場」という鏡に自分を正しく映さなかったことへのツケが、今日に至る財政赤字の累積を招いたということにも思いを至らせたい。
1980年代税制が直接税中心から「間接税」(消費税)中心へと転換したのはだが、今起きていることは、公的マネーの拡大、そして労働においては、「間接雇用」が一般化している。
企業が労働者を雇用する場合に、従来のように自社の人事部が正社員、契約社員、パートタイマーなどという形で募集をして採用するのではなく、派遣会社に労働者の派遣を依頼したり、自社の業務を請負会社に代行させる形態である。
そして公的マネーは人々が間接的に株主になっているという意味で、日本は「間接市場社会」といってもよさそうだ。
その本質は、リスクを「肩代わり」させるためのシステムといえよう。
さて、安倍政権から菅政権へ。国民が抱く疑惑に対してはほとんど説明責任を果たさず、ものいわぬ政治と並行しているのが、経済社会にも波及している。
官製相場から官制春闘まで演じつつ、国民に利益を配分しつつように見えるが、基本的には日本の「格差社会」の拡大に寄与している。
前述のESG投資は、2006年に国連が打ち出した「責任投資原則」がきっかけ。我々がはらう生命保険の保険料を預かって投資している会社に、ESGの考え方を組み込むように求めた。
日本でも保険会社や銀行が取り組もうとしているが、なにしろまだ歴史が浅い。
我々は、消費にせよ投資にせよ、お金がどこにどう使われているかについて、「エシカル(倫理的)」であることに意識を持ち始めている。
特にグローバル経済において、お金の行き先が見えにくくなっているということもある。
我々は、税金については国会の予算審議を通じて「財政民主主義」が働くが、貯蓄や年金につき我々はその運用を任せきりで、コントロールがきかない。
日本経済は今や、世界でも類まれなる「公的資金大国」であることは確か。
われわれの多くが、政府与党のスポンサーたる大企業の「もの言わぬ」間接株主になって、ESG投資どころか、「政権の持続可能性」に投資している。