賢者と空き箱

1930年代、経済学において「有効需要の原理」を唱え経済にマクロ的視点を提供し「ケインズ革命」をもたらしたのが、ジョン・メイナード・ケインズである。
JMケインズが生まれ育ったのは、イギリス・ケンブリッジのハーベイ・ロード6番地。
ケインズは、一般民衆に比べてより深い、より正確な知識と判断能力をもつ「知的エリートの集団」が存在して、社会に対する賢人の役割を果たすという前提をとった。これを「ハーベイロードの前提」という。
そこで、雇用や生産水準などの経済指標に基ずいて弾力的な「経済政策」を行うことを提唱した。
賢者が社会を経済政策によってコントロールする「大きな政府」の主張である。
1980年代にケインズ派と対抗したミルトン・フリ-ドマンは、人々ひとりひとりは誤りを犯すにせよ、平均としては正しく経済値を予測して行動することができ、政府による経済政策はすでに「織り込み済み」となる。すると、我々の行動も変わってしまう。
つまり経済政策が効果をもちうる前提は、賢者と一般人との間に知力なり情報なりの格差があり、賢者が一般人を「びっくり」させることができること。
つまり「ハ-ベイロ-ドの前提」に立ってはじめて効果をもつのである。
しかし、一般人が賢者と同じような質の情報を得ており、高い見地から賢い判断から経済値を予測するならば、経済政策は功を奏しないという興味深い結論を導いたのである。
フリードマンは、アダムスミスの結論である「小さな政府」が望ましいという結論を、装いも新たに主張したことから「新自由主義」とよばれる。
JMケインズの立場は、政府が積極的に社会保障や雇用対策をすることから、「社会主義」や「共産主義」と親和性があるというのは大間違いである。
ケインズはむしろ、世界が社会主義化されないためにアダムスミスの「自由主義」を修正することが必要という立場から社会保障の拡充などを説いたのであり、いわゆる「修正主義」と呼ばれている。
最近、「ハーベイロードの前提」はあやしくなりつつある。
背景に、一般への専門知識にまで及ぶ情報の浸透、従来の経済政策の対象であった「国民経済」から「グローバル経済」への移行とがあげられる。
格差拡大にともなう「反エリート主義」たる「ポピュリズム的傾向」も、おおいに関係があるように思う。
さて、ノーベル文学賞を受賞し、世界的な作家の仲間入りをした、イギリス在住のカズオ・イシグロの6年ぶりの最新作「クララとお日さま」が出版された。
高度な人工知能を搭載した人型ロボットがもの語る人間の知のありようを問う、近未来SF小説である。
ショートヘアで浅黒い肌のクララは、売れ残りの型落ちながら、ずば抜けた洞察力と高い共感力を備えている。
買ってくれたのはジョジーという10代前半の少女とその家族。彼女の「人工親友」としての使命をまっとうすべく、クララは献身的に尽くし始める。
また、ジョージョーの友人であるリックは、一種の「優生思想」により個性を尊重されずにもがいている。 ところが、ジョジーは病弱な上、観察するに乗り越えがたい「社会的格差」が将来を夢見る二人の幸福を阻んでいる。
そこでクララは持てる力のすべてを駆使し、ジョジーの救済に奮闘するのだが、そこはロボット、突飛な行動をしてしまう。
さて、イシグロが一貫して描いたのが、科学技術革新の栄光とその影である。
そこでは、「認知の歪(ゆが)み」というテーマで、人間の認知とロボットの認知の在り方が根本において異なることを、画像処理のプロセスなどを通じて丁寧に描いている。
ロボットが人間と同じように振る舞うとしても、所詮は装置が組み込まれた「空箱」に過ぎないことを教えられる。
また、ロボットの認知の仕方を通じて、人間の認知の在り様が相対化されてしまう。
イシグロの小説は、イギリスの階層社会を前提にして、 苛烈を極める競争原理、閉鎖的なコミュニケーションが特定の信念を強化させるエコーチェンバー現象による「分断」など今日的な問題にも、警鐘を鳴らす内容となっている。

近年の「エリート」集団への疑惑は、「政府当局者」ばかりではなく、「企業管理者」(テクノクラート)に対してもあてはまるように思う。
バブル経済に向おうとした時代、住友銀行には、「磯田天皇」とまでいわれる磯田一郎が「会長」として君臨していた。
磯田の「人事政策」には以前から定評があった。
1983年の株主総会で、船場の支店長だったNという人物が取締役に選ばれた。
だがN氏は、そのわずか十数日後に亡くなってしまった。不治の病にかかっており、50歳の若さで亡くなった。
磯田は、もう助からぬ命だと知った上で、N氏を強引に「取締役」に推したのだった。
すでに死の予感に苛まれていた男に、「君を取締役に推薦する」と推したとき、その男の胸にどんな思いを抱くだろうか。
消えそうになった命の炎が再び燃えたに違いないし、万が一回復したならば、必死に働き恩を返そうという気になったかもしれない。
だからこそ死にたくないと思ったに違いない。
よく引き合いに出されるエピソードが、「吉野家倒産」の時の話である。
二十数年前に、吉野家が一度倒産した時に、住友も被害をうけ特に丸の内支店は十数億円のコゲつきを出してしまった。 当然、支店長はクビを覚悟する。
ところが、左遷どころか、日頃の積極的な仕事ぶりが評価され、一回り格が上の銀座支店長に抜擢された。
当の本人が感激して発奮したのはいうまでもなく、やがて抜群の成績をさげ、1983年には取締役に栄進した。
そこから出た磯田の有名な言葉は、「向こう傷を恐れるな」という教訓である。
磯田一郎という人は、そういう人心のツボをよく心得ていた人ということができる。
磯田は地位を利用した利権には厳しく自他を律した。人間の生き方について潔さを最高の徳目にあげている。
そんな磯田会長を深海の闇にひきずりこんだのが「イトマン事件」である。
「イトマン」は大阪の繊維商社だったが、1973年のオイルショックで経営が悪化したことで、メインバンクの住友銀行役員だった河村を社長に迎えた。
伊藤寿光は元は協和総合開発研究所の役員で、雅叙園観光の仕手戦に融資していた200億円が焦げ付き、その資金繰りで住友銀行の当時の会長やその腹心だった河村に急接近した。
伊藤が磯田と知りあったのは、闇社会にも繋がる「地上げの実績」であった。
伊藤はいつもニコニコしていてヨク気がつく男ではあった。そして、磯田会長は伊藤寿永光という男を家の中にまでマネキ入れる。
伊藤は毎朝、磯田家に通い得意の料理をふるまい、そして磯田家の人々と朝食をとるまでになる。
そのうち磯田会長は、伊藤が自分の「息子」であるかのような可愛い存在に見えてくる。
そして伊藤を住友銀行の取引会社の「イトマン」の常務にした。
磯田氏からすれば、もともとの腹心であり「イトマン」に送り込んだ河村社長の下に、伊藤寿光を「常務」としておけば、イトマンのコントロールは「磐石」となるという腹づもりだったのかもしれない。
ところが、伊藤寿光は「闇社会」を通じて知り合った不動産管理会社代表の許永中という人物とともに、「イトマン」を食い尽くしていく。
ところで、磯田会長が溺愛する娘が、東京プリンスホテルで「画廊」を開いていたが、「画廊経営」は「付け焼刃」でやるほどに簡単なものではない。
しかし磯田会長は、なんとか娘を成功させたいと思うあまり、伊藤にこの「娘」のことを頼む。伊藤からすれば「絵画」の取引を材料に、いくらでも「イトマン」のカネを引き出せる「口実」ができたのである。
そして伊藤のもとに、いろいろな絵や不動産を持ち込んだのが許永中であり、二人はそれらを担保に巨額の「融資」を引き出したりする。
「イトマン」の決裁権は社長の河村氏にあったハズが、実権は常務の伊藤が握り、許永中とともにヤリタイ放題で「イトマン」を貪りつくすのである。
1991年、大阪地検に「イトマン」の河村社長、伊藤寿光常務と許永中ら6人が、「特別背任容疑」で逮捕された。
「イトマン事件」で3000億円の資金が「闇社会」に流れたといわれ、それらがどこに消えたのか解明されていない。
ところで最近、面白い会社の存在がブームを呼んでいる。「空箱会社」でパナマ文書で有名になった「ペーパーカンパニー」とも趣が異なる。
新規株式公開(IPO)が相次ぐのはSPAC(特別買収目的会社)。それ自体では事業を営まず、有望な未上場企業をいずれ買収・合併し、上場させる「空箱」にすぎない。
SPACは上場後、おおむね2年以内に「新興企業」と合併し、新興企業にとっては、通常の上場手続きより手間や時間を節約できる利点がある。
今年はすでに300件近くが上場し、昨年1年間の実績をあっさり抜いた。新規上場全体の8割超をSPACが占め、973億ドル(約10・7兆円)の資金を集めた。
日本企業を買収対象とするSPACも登場し、新興企業にとってはアメリカ株式市場への足がかりになり得る。
ただ、SPACは必要な手続きを回避した「裏口上場」だとの指摘がある。
米新興電気自動車の「ニコラ」は、SPACを介して昨年上場し、1台も販売実績がないのに一時は3兆円超の値がついた。
しかし、誇大広告疑惑が浮上するなどし、創業者が会長職辞任に追い込まれた。
俳優や政治家ら著名人が広告塔となることもある。「セレブが関わっているというだけで投資を決めないように」。米証券取引委員会(SEC)は3月、異例の警告を発している。
上場時には、どの企業と組むのか特定されておらず、「白紙小切手会社」とも呼ばれる。投資家は、SPAC経営陣の「目利き力」を頼りに株を買う。
ところで、起業家を見極めることの難しさを思い知らされたのが、米オフィスシェア大手のウィーワークを運営する「ウィーワーク」にまつわるケースだ。
2010年に創業した「ウィーワーク」はカリスマと持ち上げられていたアダム・ニューマン氏のもとで、ありきたりのオフィス物件を借り上げ、付加価値のあるコワーキングスペースへと改装して転貸するビジネスモデルで急速な成長を重ねていた。
コワーキングスペースとは、異なる職業や仕事を持った入居者たちが、同じオープンスペースで作業場をシェアすることだ。
設備を共用するため、経費を削減できることや利便性を享受することができる。
一口にコワーキングスペースと言っても、設備投資にかける資金はピンからキリまで相当幅広い。
実は、「ウィーワーク」は創業以来爆発的とも言える売上の伸長がありながら、まともに利益を計上したことがない。
利益を計上できない企業が脚光を浴びるという不健全な状態が続くある時期に、アダム・ニューマンとソフトバンクの孫正義会長との出会いがあった。
「ウィーワーク」に惚れ込んだ孫会長の投資額は、日本円で1兆円以上という巨額に及ぶ。
ところが、公開された事業計画には、赤字から脱却するための明確な道筋が示されていなかった。「こんな事業計画で経営が続けられるのか?」という疑問が膨らんだ。
「ウィーワーク」は”上質なスペース”を売りにし、アダム・ニューマンが「美しいだけのコミュニティではなく、満ち足りた人生を謳歌できるコミュニティを提供する」と謳っていただけに、相当の経費が投入された”高くつくビジネスモデル”だったようだ。
ところが、どんなに美しい言葉で表現しても、所詮は事務所のコストを安く上げたい起業家たちが多く集うスペースであり、収支が見合う転貸(又貸し)料を設定することが至難という問題を抱えるビジネスモデルでもあった。
2019年8月の赤字上場申請後、ニューマンの経営に問題があることが明るみに出、同氏は9月に辞任した。
孫氏は後にこの投資について「私がばかでした。私が失敗しました。私が見損ないました」と語っている。

第二次世界大戦後に日本占領のためにやってきたアメリカ軍兵士と日本人女性との間に出来た混血児の為の施設「エリザベス・サンダース・ホーム」の名前とよく似た名前が、近年アメリカのマスコミを賑わせた。
ただ、彼女の名前「エリザベス・ホームズ」の名前は、聖女でもなんでもなく「黒い」名前として記憶されそうだ。
エリザベスが創業した会社は、「指先から採取したわずか1滴の血液を使い、コレステロールから遺伝子検査まで数百もの検査を可能にする技術」という革新的な技術を開発したというふれこみであった。
また、「痛くない血液キット」はアメリカの大手薬局チェーンと業務提携したことで急速に普及、10年間で医療費が約2千億ドル節約できると予想され、世界中から注目されていた。
エリザベス・ホームズは、プレゼンテーション能力も高く、黒のタートルネックと黒のベストを着ていることから「ステーブ・ジョブズの再来」とよばれ、話題となった。
支援者にはメディア王ルパードマードックやキッシンジャー元米国務長官など、さらにはオバマ、クリントン政権の高官らはエリザベスのために名前を貸した。
エリザベスは、スタンフォード大学化学工学部に進学するも、19歳で中退。2003年に「セラノス」を設立、彼女の発明した2014年度フォーブス誌の米国億万長者番付に「最年少で成功した女性起業家」に選ばれた。
エリザベスはフォトジェニックな容貌を生かし、「セラノス」を投資家やマスコミに売り込んでいった。
しかし、「セラノス」の実態を知る者はいなかった。
必要性もあったのだろうが、秘密主義をモットーに、アップルのスティーブ・ジョブスをまねてすべて黒の衣装に身を包み、カリスマ性を演出した。
その「虚飾」に気が付いたウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)のジョン・カレイロウ記者は、独自に調査を始める。
なにしろ、WSJの経営者ルパート・マードックらも「セラノス」に個人的に投資していたから、ジョン記者への圧力は並大抵のものではなかった。
しかし、ジョン記者の徹底的な調査報道でエリザベスの正体が暴かれた。
WSJは、「セラノス」が行っていた血液検査はほとんどが一般的な機器が使われていて革新的な技術というのは「実体」がなかったと発表。
さらに認可を受ける際のデータの捏造の可能性も指摘された。
2018年には会社は解散となり、翌年6月に、エリザベス・ホームズは2019年6月に大陪審に11の罪で起訴された。
それにしてもなぜ、かくも多くの大物がだまされたのか。
浮き彫りになるのは、金持ちとエリートが、小さな地域で濃密に結ばれたシリコンバレーという「ムラ社会」の姿だ。
この町での評価は、誰が何と言ったかが大きな意味を持つ。カズオ・イシグロが新作で描いた閉鎖社会におけるエコチュンバー現象にも通じるものがある。
各国の移民が躍進する地で、若き白人女性に夢を託したのが年配の白人男性たちだったのも示唆的である。

これは本作の設定にも現われている。裕福な家の子どもは遺伝子編集を通じて知性の「向上処置」を受ける機会に恵まれ、処置を受けられない子には優れた大学へ進む道が閉ざされている世界だ。
ここではAFは下位の階級に位置づけられ、持ち主からもういらないと言われるまで、忠実な子犬のように付き従う。
クララはやがてお客に選ばれて新しい家で暮らし始め、複雑で不可解な人間関係の渦中に放り込まれる。
クララはロボットとして世界を見てはいるが、ディストピア映画によく出てくるような、すべてを知り尽くし世界を破壊するAIとは違う。
本作のAFたちは自身を取り巻く世界を観察することで学習し、人間とは異なる目で世界を見るのだが、やはり人間と同じように原因と結果に混乱する。
物語の冒頭、読者は語り手であるクララという名のAFと出会う。クララはニューヨークを思わせる都市の店頭に並べられ、ほかのAFとおしゃべりをしながら、自分を選んでくれる人が現われるのを待っている。
クララはほぼ人間そっくりで、歩き、受け答えもするのだが、見ている世界はかなり違う。
AIがつかさどるクララの脳は、見るものすべてを変化し続ける「ボックス」に分割する。そうしてできる格子模様は、いわば画像処理のアルゴリズムで使われるバウンディングボックスが潜在的な脅威を赤い四角で囲むかのようだ。
クララが窓の外の通りに目をやると、ときに断片化した世界が見えてくる。割れた鏡に映っているような、怒った顔の断片。傘の下で抱き合い、8本の手足と2つの頭をもつ大きなひとりになって、やがて判別のつかない何かに姿を変える男女。
こうした描写には、AIの異質性を改めて思い知らされる。すなわち、機械は人間と同じ前提に基づいて動くわけではない、人間の欲望や都合をAIに投影することは危険をはらむ過ちである、といったメッセージだ。
ノーベル文学賞を受賞後の第1作となる。テーマは過去の作品と類似性があり、とりわけ臓器提供者として育てられるクローン人間の生を描いた『わたしを離さないで』に通じる。
太陽の光から「栄養」を得ているクララは、御しがたく困惑する状況に持ち主の少女が巻き込まれるさまを目の当たりにすると、迷信的ともいえるほどお日さまにすがる。
クララは店にいたときも自分の立ち位置から空を動くお日さまを見ており、神にも似た力をそこに見出している。歴代の文明が説明のつかない事象を理解しようと太陽を神格化してきたのと似ている。
わたしたちが現実に説得力のある人工親友をもつには、まだほど遠い。
それでも、求職活動やデートアプリのアルゴリズムにいたるまで、AIは社会のあらゆる側面に入り込んでいる。 愛、忠誠、友情といった特性を、人間とは世界の見方がまったく異なるAIをもつ存在に投影することについて、『クララとお日さま』は楽観的なのかもしれない。