幸せの「ポートフォリオ」

ある知人が「人生はベクトル」と口癖のように言っていた。人生は「力」の入れ具合と「方向性」によって決まるということを意味するみたいだった。
しかし「ベクトル」の先に到達してみて、幸せには至らず、そればかりか反対向きだったということもあろう。
未来が読みにくい時代の人生モデルは、「ポートフォリオ型」ではどうか。
「ポートフォリオ型」とは、「資産運用」で使われる言葉で、ベクトルのように一つの方向に向かうのではなく、リスクとリターンに応じて、人生の様々な資源を「分散」して割り当てようとするものである。
ここでいう「人生の資源」とは、時間、労力、体力などで、「リターン」とは、経済的な豊かさに限定されのではなく、気持ちの豊かさを含んでいる。
つまり人生のほとんどを一つの方向に投入するのではなく、適度な「ポートフォリオ感」をもって生きようということだ。
日本人が慣れ親しんだ「人生モデル」とはあまりにもベクトル的。戦後まもなく社会が求める生き方が「滅私奉公的」であり、学校制度はじめ社会構造も「ベクトル的」だからである。
もう少し具体的にいうと、「○○道」というひとつの「道」に純粋にエネルギーを注ぐことを重んじるということだ。
それと対照的な「エネルギー分散的な生き方」は不謹慎とも思われがち。
たとえば、1970年代後半・広島カープ黄金期の主力を担ったホプキンス選手は、試合中にべンチで医学書を読んだり、オフシーズンには広島大学の聴講生になったりしていた。
日本人には異質な生き方だが、野球をやめたあとに実際に医者のなっている。そればかりか、医者をやめてキリスト教会の牧師にもなっている。
ところで、「ポートフォリオ」という言葉は、もともと金融用語である。様々な金融資産、カネ・株式・社債・国債・投信などをそれぞれの期待利益とリスクに応じて、どんな構成で保有すれば最適かという数理的に研究する学問である。「金融工学」の入口に位置する理論といってよい。
3年ほど前に、金融庁の金融審議会の「市場ワーキング・グループ」が年金をちゃんともらっても「老後30年間で約2000万円が不足する」という試算が示された。その社会的インパクトやとても大きく、老後の資産運用が大きな課題として浮上した。
それもあってか「新学習要領」の下で、高校では「家庭科」や「公共」においても、「金融リテラシー」を学ぶこととなった。
ところで、民間企業で働く人の「年金制度」が始まったのは1954年。当時の平均寿命は、男性が63歳、女性が68歳と現代とは違う人間のようだ。
退職後の生活資金は、数年分を準備すれば済み、特別な資産形成の知識がなくても暮らせた時代だった。
また、今とはケタ違いに金利が高かった。最も高かった頃は、預貯金に10年預ければ、利息が元本と同じぐらいであった。
つまり、預けた金額の2倍のお金が返ってきた。おまけに当時は公定歩合をベースに金利が定まっていたので、どの銀行に預けても同じ金利であった。
現在は銀行ごとに金利を自由に決められるが、1年定期預金の金利は、わずか年0.01%~0.02%である。まるで違う国を生きているようだ。
1990年代以前、バブル崩壊に金利が高かった理由は、日本の景気が良く、産業にお金が必要だったことや、資産価値がどんどん上がるバブル景気だったからである。
高い金利を払ってでもお金を借りて事業を大きくしたい、借りたお金で投資をしたい、と考える企業や人々が多かった。お金が必要とされていたので、預貯金の金利も高かった。
景気が良かった時期は、働くほどに人々は豊かになり、新製品を手に入れ、売れるから新たな商品が世に出される。
すると企業の利益が増える、という循環ができていた。
定年まで働き、無駄遣いせず貯金をしていれば、特別な資産形成の知識がなくても暮らせたのである。
ところが現在、平均寿命は90歳にも近づかんとして、「資産運用」が大切なのは当然だが、広い意味での人生の「振り分け」(ポートフォリオ)もそれ以上に大きな意味がある。

「1964年東京オリンピック」の時代と「2021東京オリンピック」の経済情勢を比較して、経済数値でははかれない「ものの考え方の違い」がある。
人間の経済行動が、所得制限化の「効用最大化」や予算制限化の「利潤最大化」ばかりでは済まなくなったということだ。
端的にいうと、モノがあふれるいまの日本社会において、消費者が注目するようになったのが「正しさ」である。
最近では、作り手の理念や思いを支えるため、製品やサービスを購入する。そんなネットを介した新しい消費スタイルとして注目されている。
「みんなが持っているから」「安ければ安いほどいい」といった消費スタイルは、大量生産・大量消費の考え方に毒されていた。
機能性やデザイン性の高さばかりを追い求めても、いまでは差別化が難しくなり、下火になっている。
その一方で、「製品を通してどんな社会の実現を目指すのか」「環境に配慮した製造方法が選択されているか」といった「正しさ」が選択の要素である。
昔は消費と正しさを同列に結び付けて語ることを「きれいごと」と揶揄する空気もあったが、今は「正しいものだからこそ応援したい」という人が増えている。
具体的には、「クラウドファンディング」などにより、少数の根強いファンの力でビジネスになりうる。
2000年代後半に米国で盛んになったCFは、東日本大震災を契機に日本でも広まった。
中小企業や個人が、世の中に知られていない自らの製品やサービスをネットを通じて紹介し、不特定多数の人々から少額ずつ費用を調達する仕組みである。
サイトの訪問者は紹介ページに書かれた理念やこだわりに共感し、応援したいものにお金を払う。
一般的なネットでの商品購入と違い、作り手と消費者が対等な関係を保ちながら、より良いものを生み出していけるのが利点である。
現在の新型コロナ禍の下、苦境にあえぐ飲食業などの業界に対して、「応援消費」という言葉も使われている。
普及を目指す、あるサービスではクラウドファンディング(CF)ではなく、「応援購入のサイト」を名乗っている。
日本では、CFという言葉が寄付のようなものと思われがち。寄付だと「する側」「される側」という上下関係が生じてしまうので、このイメージを変えたいからだという。

「応援」といえば、東北大震災をきっかけに始まった「ふるさと納税」を思い出す。
困っている人々を何とか助けたいという善意から始まった制度だが、現在「ふるさと納税」は趣旨から大きく外れる結果となっている。
昨年度に全国の自治体が受け入れた寄付額は前年度を4割も上回り、過去最高の6724億円にのぼった。
自治体間の過剰な競争を抑えるため、返礼品を「寄付額の3割以下」にするルールが導入され、19年度は7年ぶりに減少に転じた。だが、ルールは早くも骨抜きになっている。
例えば、コロナ対策で農水省が始めた農林水産品の販売促進の補助金を使えば、「返礼率」を大幅に高めることができる。20年度に寄付額が急増したのはコロナ禍での「巣ごもり消費」に加え、ルールの形骸化も影響しているだろう。
「ふるさと納税」は、寄付額の多寡にかかわらず、自己負担は実質2千円だ。高所得者ほど返礼品を多く受け取れるうえ、税の優遇も大きい。
コロナ禍による格差の是正が政策課題になるなか、不平等な仕組みをこれ以上放置することは許されない。
総務省によると、寄付額の45%が返礼品の購入費や、返礼品を選ぶ民間のポータルサイトへの手数料などに費やされている。
昨年度の寄付額から換算すると、全体で約3千億円の税収が失われることになる。
コロナ感染が特に広がっている東京などの都市部は、ふるさと納税で寄付する人が多い。財源の流出が続き、感染対策の費用をまかなえないような事態になっては困る。
ふるさと納税の当初の趣旨は、寄付を通じて故郷に貢献してもらうことだった。しかし現状では「官製通信販売」になってしまっている。
NTTグループの昨年の調査では、「出身地への貢献」のために制度を利用した人は12%しかいなかった。
そもそも「寄付」とは、見返りを求めないものである。返礼品を受け取らずに、災害の被災地に寄付をする人もいる。
ふるさと納税を続けるのであれば、返礼品をなくすなど抜本的に制度をつくり変える必要がある。
しかし見直しの議論は進んでいない。ふるさと納税は菅首相が総務相時代に創設を決めた。
反対した幹部が「左遷」されたこともあり、制度の欠陥を指摘されても、総務官僚らは見て見ぬふりを決め込んでいる。
地方自治は「民主主義の学校」と言われる。返礼品を目当てに、自分が暮らす自治体から受けた行政サービスに対する負担を回避する制度は、地方自治の精神を揺るがす危うさがある。
ところで、善意ではじめたことが趣旨からはずれて利用される。そこまではまだしも、それを悪用する事例もある。
思い出すのは、福岡の電気会社が「障害者団体向けの郵便料金の割引制度の不正利用」したことが、厚生省の女性キャリア(村木厚子)の冤罪事件に繋がった。
また、最近ではコロナ禍で収入が激減した中小企業などを支える「家賃支援給付金」計約1150万円が詐取された。
詐取したのは、管轄官庁・経産省の入省まもない若手二人。その一人は、一か月の給与を超える家賃のタワマン住まいに、複数の外車を保有、銀座通いも定番どうり。
そんな二人の接点は慶応高校ゴルフ部で、桜井被告は高校生の頃から投資好きで、株でもうけているが口癖で8千万円手にしたともいっていた。
慶大卒業後はメガバンクに入るが、ほどなく辞めた。報酬が少ないことへの不満をもらしていて、その後、知人が営む暗号資産の関連会社で報酬を得るようになり、友人とコンサルタント会社を設立したが内輪のトラブルで頓挫した。
詐欺の舞台となったのは、もう一方の新井被告が、官僚に成る前に設立した投資・コンサル会社で、新井被告が経産省に入った後は、友人や親族が経営を引き継いだ。
二人は同社の関係者を装い、給付金を申請したとされている。一人は、「国がばらまくカネ、取れるものは取ろうと思った」と説明している。
公務員に似つかわしくないその姿の不自然さに外部通報があったという。
ただ、背景には給付金をめぐる政治の迷走もあり、給付金認可のチェックがアラサがあったといえよう。さらには、若くして投資で大金を手にしたことが、金銭感覚を狂わせたこともある。

経済に「正さ」を求めることは、可能なのだろうか。日本には、贅沢を禁じた「松平定信」の政治と、賄賂政治の代名詞「田沼政治」のコントラストがある。
『白河の 清きに魚も すみかねて,もとのにごりの 田沼恋しき』は、 松平定信(白河藩主)の「寛政の改革」があまりにも厳しく、田沼意次の政治の方が居心地がよかったという狂歌である。
現代の経済において「正さ」を象徴するような言葉が「SDGs」や「ESG」である。
18世紀アダムスミスは、個人の利己心が全体の利益に通じるという「予定調和」の世界観を抱いた。 そのアダムスミスが「父」とよばれる「経済学」は、個々の正しさが、全体の正しさにならないことを学ぶということでもある。
持続可能な社会をつくるために達成すべき目標として「SDGs」があり、その目標を達成するための手段としての「ESG投資」ということだ。
環境・社会・企業統治の問題に配慮している企業を重視し、選別して投資する「ESG投資」。欧米を中心に広く浸透し、年々市場が拡大している。
E=Environment(環境)二酸化炭素の排出量削減など環境への配慮。
S=Social(社会)職場のハラスメント対策や長時間労働の是正などの人権対策。
G=Governance(企業統治)積極的な情報開示をするといった企業自身の管理体制の強化。
以上のようなテーマのよって、自分が問題意識があって、どうにか改善に役立ちたいという分野に投資をまわすということである。
ただ、ESG評価が高い企業、つまり社会に優しい企業であっても、必ずしも株価が上がりやすいわけではない。
わからない未来に対して先行して反応するのが株価であり、「誰でも知っている情報は価値がない」ということを意味する。
つまり、価格に織り込み済みで既に上昇した旬のテーマに乗るのではなく、これから旬になりそうなテーマへ一足早く投資するということが必要。
しかし現在、金融庁が問題視する販売手法に回転売買というのがある。回転売買とは、投資信託や株式を短期間に乗り換えて(買い換えて)いくことをいう。
回転売買はこれまで販売会社にとって、販売手数料を稼げる好都合な手法で、新しいテーマが生まれれば、その新しいテーマのファンドに乗り換えてもらい、販売手数料を稼ぐというやり方である。
最近、地球全体の課題になっているのが気候変動であるが、金融機関が「気候変動対応に資するための取り組み」とする投融資もある。
そこでなんと日銀が、銀行などが気候変動向けの投資や融資をする際に、利子をとらずに貸し出すことにしたという。
銀行などの投融資をしやすくすることで、企業の気候変動対策を後押しするのがねらいだ。
一定の情報開示を条件にし、対象には再生可能エネルギーなど「グリーン」な事業向けだけでなく、二酸化炭素を多く出す企業の排出削減に向けた取り組みなどを支える投融資も含めるという。
日銀は通貨の発行という強大な権限と、政府からの一定の独立性を持つ。ただし、あくまで「物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資する」(日銀法)ためだ。
気候変動をめぐっては、原子力発電や火力発電など、国民の意見が分かれる問題もあり、選挙で選ばれた政治家が関わる問題ではないか。
もし日銀が大きな影響を与えるとすれば、本来の役目を逸脱することにもなりかねない。
むしろ市中銀行の自主性に任せるのがよほど健全だが、菅首相の「2050年までに温室ガスゼロ」の国際公言が関わっているとすれば本末転倒である。
ところで、新型コロナ禍を機に、投資に興味を持つ若者が増えた。昨春に落ち込んだ株価は急回復して相場が高値圏にあるうえ、スマホ一つで少額から手軽に売買できるサービスも充実。外出自粛で家にいる時間が増えたことで、将来設計や資産運用を考える機会にもなり、「巣ごもり投資」が広がっている。
確かに「老後2000万円問題」に対応するためには、若いうちから生涯のライフ・マネーフランを考えておくことも必要になっている。
ただ、付け焼刃的な知識で運よく財産を得たとしても、それを「幸せのベクトル」に結びつけられるか。
「幸せ」の価値に「ポートフォリオ感」があれば、それほど「カネを貪る」こともない。
その意味で、若者に必要なのは、「金融リテラシー(資産の形成)に加え、カネの使い途(金銭哲学)かもしれない。経産省の若手官僚の二人の逮捕に、そんなことを思わせられた。