人生から求められるもの

人間にとって”希望”の意味を教えてくれるのが、第二次世界大戦時、アウシュヴィッツ強制収容所の支所に収容された心理学者ヴィクトール・E・フランクルの体験記「夜と霧」である。
「夜と霧」は、収容所での体験を通して、極限状況にあって、人間の生きる意味とは、希望とは何なのかを問うている。
ヴィクトール・E・フランクルは、1905年にオーストリアの首都ウィーンで生まれる。フロイトやアドラーに師事し、精神医学を学んだ。
第二次世界大戦時中、ユダヤ人であったフランクルは、テレージエンシュタット(チェコ)、アウシュビッツ(ポーランド)、ダッハウ(ドイツ)などの収容所におくられ、このような収容所での暮らしは、のべ2年半にも及んだ。
ガス室に送られる恐怖におびえながら、わずかな食事で強制労働させられ、 夜は2メートル×2・5メートルほどの板床に9人が身体を横にして寝せられる。
そんな日々がいつ果てるともなく続く。
ナチスの収容所では、ガス室に送られるかどうかはちょっとした偶然で決まった。
先が見えない中、囚人たちの間ではクリスマスに解放されるとのウワサが広まった。しかしそれが裏切られると、急に息を引き取る者が多かった。
そんな中で、どうして人間性を保つことができるだろうか。
自暴自棄になりスープをタバコに交換してしまう者もいた。その一方で、力尽きることなく希望を捨てずに生き残る者もいた。
それどころか、内面的に深まる人もいた。コルベ神父は、アウシュヴィッツ強制収容所で重労働を課せられていた時、餓死刑に選ばれた男性の身代わりを申し出て崇高な死をとげた。
フランクルは精神医学者として、生きる意味を失ったと嘆く人にどう接すればよいのかを考えるうち、生きる意味を根底から考え直すことに至った。
それまで「生きる意味」とは、仕事に真価を発揮したり、 芸術や自然を味わう機会に恵まれたり、時に安逸を貪ったりする生だけに意味があるのではない。
そんな機会が「皆無」の人生にも意味はあるのではないか。
たとえ、どんなひどい状況におかれようとも、心の中は自由であり、 誇りや尊厳を失わないでいることもできることを示す。
それは、生きることから「なにかを期待する」のではなく、ひたすら生きることを通じて、人生の方から自分に何を求めらているかを考え続けることだという。
具体的には、「誰か愛する人が待っている」、「未完の仕事が残っている」など、自分が求められているものを探すことであり、そのことを考えることで、苦しみを耐えることができる。
それが「何か」については一般的な解はなく、誰かに教えてもらうこともできない。ひとりひとりが日々問われていることだという。
こうしたフランンクルの言葉に、NHK特集でみた、ひとりの日本人物理学者のことを思い浮かべた。
2014年10月6日、梶田隆章とカナダ人物理学者のノーベル物理学賞の共同受賞が発表された時、世界中の物理学者が残り一枠の名前を思い浮かべた。
それは、2008年に大腸ガンで逝去した戸塚洋二(享年66)の名である。
岐阜県神岡町の山中にカミオカンデを作り、世界で初めてニュートリノを観測した小柴昌俊(02年ノーベル賞)の愛弟子として、後継施設スーパーカミオカンデ建設を主導した人物だ。
小柴の兄弟子が戸塚、梶田が弟弟子という関係で、カミオカンデの観測から「ニュートリノ振動」の可能性に気づいた梶田と、それを実証するスーパーカミオカンデを作った戸塚。
二人を中心に100人を超えるスタッフが力を合わせて成し遂げた「世紀の大発見」である。
なにしろ、ビッグバンの際に起きた微細な振動を実際に記録させたのだから、宇宙の始まりを”逆証明”した形にもなるからだ。。
だが2000年、そんな戸塚にガンが見つかる。折悪しく翌01年、スーパーカミオカンデに大規模事故が発生。すべての実験が停止した。
戸塚は病身を押して現場に駆けつけ、1年で再建するとカツを入れ続け、夜はウイスキーを身体に流し込むようにして眠った。
ガンが04年に左肺、05年に右肺と転移して、2年半ほどした時には余命を宣告された。
戸塚は夫人に「ノーベル賞は、いずれ誰かがもらえるからそれでいいが、一番無念なのは、もっともっとやりたい実験があることだ」と語っている。
戸塚は、科学者の目で自らの病にも向き合った。がん専門医も驚く病状の分析、刻々と近づく死への恐れなどをインターネット上のブログに綴っていた。
転移した脳のCT画像を入手し、データ化したり分析したりして、その内容には医者も驚くほどだった。同時にそれは恐るべき精神力を必要とするものでもあった。
戸塚は死の恐怖についても触れ、それを克服しようと、見る、読む、聞く、書くに今までよりも注意を注ぐと言っている。
するとよい文章になる。その充実感が死の恐怖を和らげるともいっている。
それ以上に、戸塚は自分の身体状況と心理状況を刻々と記録しておくことこそ科学者としての自分の使命であり、人生から求められていることであるということ。最後まで自分の死をを無駄にしたくないという思いが伝わった。

フランクルのいう人生の方で待つという事例のひとつが、中国の歴史家・司馬遷の生涯である。
司馬遷は前145年に歴史官の家に生まれた。彼は幼少より古典を読み、さまざまな文学に通じていたらしい。
前110年に、漢の武帝は天と山川を祭る、封禅の礼を行なったが、歴史官の長を務め、当然招かれるべき司馬遷の父は出席を許されず、彼はそれに憤って自殺している。
司馬遷は父の遺言を受けて『春秋』以来の歴史を埋める『史記』の著述を始める。
漢の将軍・李陵が匈奴との戦いに敗れ、捕虜となる。
李陵はわずか歩兵五千を率い、果敢に匈奴の大軍と戦い奮戦したが、武帝は彼が匈奴に降ったことを怒り、彼の家族を処刑しようとした。
武帝に同調するばかりの群臣達は、司馬遷だけは親しかったわけでもない李陵を弁護した。
ところが司馬遷の態度はあまりにも不遜な態度であるという一致した意見により、彼は宮刑に処せられる。
宦官にさせられてる絶望の中で死への思いを断ち切るように、自らを振るい立たせた。
父の遺言である『史記』を書かねばならなかったからである。
そして刑に遭ってから8年、合計130巻、52万6500字の『史記』が完成した。
司馬遷は、一身をこの一大歴史書の編纂にかけたのである。
「大著」に人生をかけ人といえば二人のギリス人のことが思い浮かぶ。
二人の偉業は「博士と狂人」というタイトルで映画化された。
OED(オックスフォード英語大辞典)は41万語以上の収録語数を誇るが、制作のきっかけは、1858年にロンドン図書館で行われたウェストミンスター聖堂参事会長をつとめる聖職者・リチャード・シェネヴィクス・トレンチの演説であった。
トレンチは英語が普及すれば「キリスト教(イギリス国教)」が世界中に広まるという考えのもとに、正統な辞書編纂の必要性を説いた。
スタートして20年後、1878年にジェームズ・マレーが編纂者となってから本格的に動きだした。
そこでマレーは1879年にOED編纂主幹に就任すると同時に、英語圏の読書人にヘルプを依頼する。
その求めに応じてOEDで最も多い用例を提供したのは、想像を絶する人物だった。
なんと、殺人罪を犯してイギリスの精神異常者収容所に収容されていたアメリカ人元軍医・ウィリアム(ビル)・マイナーだった。
マイナーはスリランカで生まれ、米国コネチカット州に育ったアメリカ人で、南北戦争で北軍の軍医として従軍し、数々の死者を見てきた。
軍医としてアイルランド人の北軍脱走兵のほほに、焼きゴテで脱走兵を示す”D”の焼き印を押すことを強制されたことが、マイナーの精神に異常をきたす原因となった。
マイナーはアイルランド人が夜になると忍び込んでくるという被害妄想を抱くようになった。
マイナーはその後イギリスにわたり、ロンドン市内で或る夜、歩いている人が自分を襲うアイルランド人だと言って、ピストルで撃ち殺してしまう。
マイナーは裁判にかけられるが、精神異常者と認められ、精神病犯罪者収容所に終身収容の判決を受ける。
だが、資産家だったマイナーは、精神病犯罪者収容所で特別待遇を許され、2部屋を占有し、他の患者を使用人として雇い、アメリカやロンドンから取り寄せた本に囲まれた生活をしていたという。
その一方で、辞書を編纂する側のマレーはスコットランドの貧しい家庭出身、14歳で学校を卒業した後、学校や銀行で働きながら独学で学んだ。
ケンブリッジ大学の数学者兼音声学者のヘンリー・スウィートと交友があったことから、英国言語協会の会員となり言語学者として名を連ねることになる。
その後マレーは、OED編纂事務局書記をつとめる人物と知り合い、1879年に1月に、マレーが編纂主幹を務め、7000ページ、全4巻の辞書を10年間で仕上げるとういう契約が成立した。
マレーはすぐに「英語を話し、読む人々へ」という8ページの編纂協力依頼文を2000部印刷して書店や雑誌社、新聞社に送った。
この訴えが、どういういきさつか英国バークシャー、クローソンのブロードムア刑事犯精神病院に収容されているアメリカ人元軍医・ウィリアム・マイナーの目に留まったのである。
この訴えに呼応して、ビル・マイナーがせっせと”バークシャー、クローソン、ブロードムア”という住所で、編纂事務局と手紙のやり取りを始めた。
マイナーは独房一杯の蔵書から単語リストを作り始め、丁寧な細かい文字でメモに書き込んでいった。
その後マイナーは20年以上にわたって多くのカードを小包で送り、用例183万のうち、マイナーが送った用例は数万にも達した。
マイナーはすでに60歳を超えていたが、被害妄想という異常なところはあったが、辞書編纂についてマレーとじっくり語り合ったという。
マレーは1908年にナイトの称号を与えられていたので、マレーが主導して、年老いたマイナーをイギリスからアメリカに帰国させるべきだという運動が起こった。
ちょうどその時、アメリカ好みのチャーチルが内務大臣となり、マイナーの釈放と本国送還を承認した。
マイナーは出身地のコネチカットではなく、ワシントンDCの精神病院に収容されたものの、1920年に85歳で亡くなった。
マレーはOED完成を見ることなく、1915年に”T”のところでなくなった。
1927年大晦日に「オックスフォード英和辞典」の完成が宣言された。
完結まで44年かかったが、その後も補遺が続けられ、言葉の変化や追加を記録して全20巻となりCD化、最近では、オンラインでも利用できる。

オー・ヘンリーは1862年、米国のノースカロライナ州グリーンズボロで、医師の息子として生まれた。
3歳の時に母親が亡くなり、教育者の叔母によって育てられた。
病弱であったために、1882年知人のすすめでテキサスに移り住み、薬剤師、ジャーナリスト、銀行の出納係など様久な職を転々とした。
結婚して諷刺週刊紙を刊行したがうまくいかず、同誌は翌年に廃刊となり、その後「ヒューストン・ポスト」にコラムニスト兼記者として参加するようになった。
ところが以前に働いていたオハイオ銀行の金を「横領」した疑いで起訴されたのである。経営がうまくいっていなかった週刊紙の運営費に回したと思われる。
この横領の真相については、彼自身が何も語らずいまだ不明である。
銀行側も周囲も比較的寛容的であったにもかかわらず、ヘンリーは、病気の妻と娘を残してニューオリンズへと逃亡した。
1897年には妻の危篤を聞きつけて家にもどるが、その甲斐もなく妻に先立たれてしまう。そして翌年には懲役5年の「有罪判決」を受けることになる。
ヘンリーは服役前から掌編小説を書き始めていたが、この服役中にも多くの作品を密かに新聞社や雑誌社に送り、3作が服役期間中に出版された。
模範囚として減刑され、1904年7月には釈放となった。
釈放された後、娘と義父母が待つピッツバーグで新しい生活を始めた。
記者として働く一方で、作家活動を続けた。
1902年には作家として一本立ちしようと単身ニューヨークに移り住み多くの作品を発表、出版した。
1907年には幼なじみのと再婚し、娘のマーガレット女性を呼び寄せ新しい生活を始めた。
しかし、過度の飲酒から体を壊しており、家族とはまたバラバラに生活をすることとなる。
1910年6月主に過度の飲酒を原因とする肝硬変により、48年の生涯を閉じた。
オーヘンリーの「賢者の贈り物」はある都会の片隅に住む若い夫妻の話である。
貧しいが愛情に満ちていた夫婦は、次の日のクリスマスに互いに「最高のもの」を贈ろうと頭をひねった。
妻は、夫が金時計をとても大切にしてことを思い出し、髪を売って時計の鎖を買った。
そして家に帰ってきた夫は、妻の姿を見て茫然と立ちつくした。
夫は自分の大切な金時計を売り髪飾りを買っていたのだのだ。
その髪飾りをするハズの妻の長い髪はばっさりと切られていたのである。
「最後の一葉」は売れない老画家の話である。
ニューヨークのグリニッチ・ヴィリッジは陽の目を見ぬ画家達が集まってきていた。
その街で、一人の若い女性が肺炎で生きる力をなくして床に横たわっていた。女性の部屋の窓の外には、冷たい秋風に吹かれて今にも落ちそうな蔦の葉が五枚残っていた。
彼女は、訪れる人にその残った最後の一葉が散るときに、自分の命も終わるのだと語っていた。
雪混じりの雨が一晩中降り続いある朝、彼女がブラインドを上げたとき、なんと、最後の一葉がまだ散らずに、煉瓦の壁にしがみついていた。
その一葉は雨と嵐のさらに幾夜をすぎても散らなかった。そして女性の病は、だんだん快方に向かう。
すっかり危機を脱したとき医者から彼女は一人の老画家が肺炎で亡くなったことを聞いた。
さらに、彼女の友人が彼女について老画家に話したその晩、服が濡れ氷みたいに冷え切った老画家がいたことを知る。
その老画家の部屋には、散らばった絵筆、梯子、まだ灯りのついているカンテラが屋外で見つかった。
煉瓦の壁に描かれた「最後の一葉」こそが老画家の最後の作品だったのである。
さて、以上のような作品を書く作家とは、そもそもどんな人物なのだろうと興味を抱くのは自然なことだろう。
調べてみてわかったことは、前述のような波乱の人生を歩んだ「獄中作家」であった。
オーヘンリーのこうした経歴に、作品に漂うペーソスやアイロニーの秘密が隠されているように思えた。
本名・ウィリアム・シドニー・ポーターはそれまで、習作めいた文章を書いてはいたが、刑務所にて世界作家「オー・ヘンリー」となっていった。