鬼滅と疫病と仏教語

我々は、日常の生活の中でそうとは知らず仏教用語を使っている。「四苦八苦」などはなんとなく想像できるが、個人的に、それと知って驚いたのが「檀那(だんな)」という言葉。
元々はサンスクリット語の「ダーナ」の音写であり、「布施」を意味する。
一般的には、妻が夫を呼ぶ場合や、商人などが得意客を呼び、また目下の者が目上の者を呼ぶ時に使われる。妻が夫のことを「旦那」と呼ぶのは、働いて給料を家庭に持ってきてくれるという事に由来する。
それ以外の用例としても、布施をしてもらう側が布施をしてくれる側を指して「旦那」「檀那」とよび、寺院は檀那の家を指して「檀家」とよぶ。
また、我が大学時代、「若者論」をたくさん書いていた「加藤諦三(たいぞう)」という人物の名前。
当時なんて気の毒な名をつける親もいるものかと思っていたら、仏教では「諦(たい)」は、「真理」を意味する言葉だという。
「諦」は、明らかに観る事、現実をありのまま観察する事を意味すること。したがって、重大な決断の時こそ「諦める」ことが必要なのだが、それが「ギブアップ」に繋がることも多くはあるとしても、「諦める」の本来の意味が消えてしまっている。
それでいうと「出世」はそれ以上かもしれない。会社や組織の中で昇進し、然るべき地位や肩書きがつくことを指し、「出世街道まっしぐら」は世俗主義の権化を示す。(*権化(ごんげ)も仏教語)
しかし、仏教では「世俗」を離れて、仏道に入ることを意味し、僧侶のことを「出世者(しゅっせしゃ)」ともいう。
この「出世」並みに元意と異なるのが「挨拶」(あいさつ)である。
「挨」も「拶」も押す、迫るという含意があって、群衆が他を押しのけて進む意味である。
「禅」では、相手の悟りの浅深をはかるために問答をしかけることの意味に用いる。
転じて、日本では応答・返礼などの意味に用いられ、また出会いや別れの時の親愛の言葉や動作のことを一般に「挨拶」というようになった。
「会釈(えしゃく)」は、挨拶を軽めにしたものだが、元々は、お経の中の異なる意見を照合してすり合わせ、その教えの根本に立ち戻り、内容を矛盾なく説明することを意味する。
それが、異なる意見の調和をはかる、相手と上手く調和する、対応するとなり、さらに転じて、「軽い挨拶」の意味になったのだという。
さて、新型コロナウイルスの防御策として「三密」という言葉が広がった。この場合の三密というのは、「密閉」「密集」「密接」を意味することは周知のことである。
しかし「三密」は、真言宗では元来よく知られた言葉で、「三密」の「密」とは「密」とは、弘法大師が唐から伝えた密教の「密」を指し、仏と一体となる修行を意味する。
「三密」とは、身密(しんみつ)・口密(くみつ)・意密(いみつ)である。からだや行動(身)を整え、言葉や発言(口)を正しいものとすれば、おのずと心や考え(意)も整うということ。
つまり、修行を重ね、「三密」を研ぎ澄ませば、この世であっても仏様のように心穏やかに過ごせるという、真言宗の中でも最も大切な教えなのである。
また、新型コロナ下でよく使われた言葉に「三密の徹底」の「徹底」という言葉もまた、仏教では時々法話を通じて語られる。
原義は「底を徹る、底まで到達する」という意味であり、仏教の「三獣渡河(さんじゅうとが)」という故事に由来している。
河を渡る時、うさぎは水の上を泳ぐ。馬は足が水中にあり、懸命に掻く。そして象は、足をしっかり水底につけて渡る。
この3匹の動物をそれぞれ、「うさぎ=声聞(しょうもん)」、「馬=縁覚(えんがく)」、「象=菩薩(ぼさつ)」に例えられている。
「声聞」と「縁覚」は、修行途中の段階に対して、「菩薩」とはより深い修行の段階で覚りへの最終状態といえる。
そのため、象は最も深い覚りを得た者を意味する。
そこで「徹底」という言葉は、この象のように覚りの河を渡る時も、底にしっかりと足をつけて歩み、物事の内面まで貫き通す事を意味している。
さらに新型コロナ下で強いられた「我慢」も、また仏教用語である。それは、意外にも煩悩の一つで、強い自我意識から生まれる「慢心」のことをさす。
仏教では、自分を固定的な実体とみて、それに執着することで起こる、自分を高く見て他を軽視する思い上がりの心を「慢(まん)」と呼ぶ。
サンスクリッド語の「マーナ」に由来し、このような心の状態を分析して、三慢、七慢、九慢と説く。
「我慢」はこの七慢の中の一つで、我意を張る、強情の意味である。
現在使われる、自分を抑制する、耐え忍ぶといった意味に使われるのは、その「転義」で、近世後期からの用法である。
「我慢」の反対の「自由」という言葉だが、仏教ではサンスクリット語「スヴァヤン」の訳語で、独立自在である事、それ自体で存在する事を意味する。
それは「自らに由る」事を意味し、何かに依存せず、寄りかからずに存在しうるという事から、「さとり」の境地を表す。
その意味で、「自由」に似ている言葉が「自然」がある。仏教では自然(じねん)と読み、一般的には、山や川、草、木など、人間と人間の手の加わったものを除いた、この世のあらゆるものを指して使われることが多い。
仏教語としては、それ自体で存在するもの、おのずからそうである事などを指す。
古来より日本人の自然の捉え方は、客観的な、人間の外側にある自然体系ではなく、内側に存在するものを指していた。
それが仏教的な「ジネン」の意味である。現代的な「シゼン」は、明治時代後半に輸入された「英・ネイチャー」「仏・ナチュール」を日本語に訳した時からの意味合いである。
そういう意味では「ジネン」は日本人の根底にある思想だが、「シゼン」は外来語だといってよい。
また「安心」は、仏教では、信仰や実践(自己への精神集中、観心・止観)により到達する心の安らぎ、あるいは不動の境地を意味する。
「安心」によって生じるのが「油断」である。
「油断」の起源は多くの仏典に垣間見られ、「涅槃経」には、次のような「説話」がある。
ある王様が臣下に油の入った一つの鉢を持たせ、行動する時にもし油を一滴でもこぼせば、お前の命を断つであろうと告げ、抜刀した家来をその臣下の後につけさせた。
鉢を持った臣下は注意深くその鉢を持ってゆき、ついに一滴も油をこぼすことがなかったという。
このように注意深くあることで、油を断つことがなかった、という事から「油断」という言葉が生まれた。
また初期仏典には、神仏に捧げる灯火を絶やさぬよう、油を断たないように大切にする、という教えも多く存在し、そこから「油断」という言葉が生まれたという説もある。
いずれにせよ、古代インドでは「油」というものが大変貴重な物であり、不注意で油を損失してしまわないように、戒めの言葉として「油断」が生まれた。
かつて、作家の堺屋太一が元通産省役人の情報網をもって、石油ショックを予見し「油断」という作品を書いている。
さて、新型コロナの時代に存在感が増したのが「知事」で、本来は寺院の雑事や庶務をつかさどる役職名であり、古くインドの僧院における役名として存在していた「知院事」の略であり、さまざまな別称がある。
現代のネット社会で使われる「アバター」はヒンドゥー教のヴィシュヌ神が人間や動物の姿として顕現する「アヴァターラ」に由来している。
ブログやSNS、スマートフォンゲームなどで使われるアバターもある意味「化身」(権化)なので、こちらは元の意味と近い使われ方をしているといえる。
以前「アバターもえくぼ」などというダジャレをネットに書いたことがあるが、「あばた」は僧侶のあいだで主に天然痘の後遺症を指す隠語として用いられた言葉である。
実は、原語のarbudaは「あぶた」といい、八寒地獄の最上部の地獄の名称でもあり、あまりの寒さで皮膚に水疱、つまり「あぶた」が出来ることから、隠語としてつかわれるようになった。
またネット社会で頻出する英語の「ツイード」は「つぶやく」と訳している。
「つぶやく」のは愚痴ばかりではないとしても、仏教では愚痴というと、苦しみの根源たる「無明(むみょう)」と同じ意味で使われる。
自己中心的なマインドにより、周りが見えていない状態のことで、愚痴は無明と同様に様々な苦しみを生み出す根源的なものとして捉えられている。
聖書は「つぶやき」について「出エジプト」時の民衆を念頭に次のようにいっている。
「また、ある者たちがつぶやいたように、つぶやいてはならない。つぶやいた者は、死の使に滅ぼされた」(コリント人第一の手紙10章)。
また、我々が馴染んだコーヒー飲料の名前「スジャータ」は、釈迦が悟る直前に"乳がゆ"を供養し命を救ったという娘の名前に由来する。
これは、釈迦の苦行放棄のきっかけとなった出来事であり、ブッダガヤに「スジャータ村」としてその名前を残している。

昨年「鬼滅の刃」が新型未コロナ下「末曽有」の大ヒットをとなったが、実は「鬼」も「滅」も「未曽有」も、もともとは仏教語なのである。
さて、この映画の主人公は「竈(かまど)炭次郎」であるが、「主人公」という言葉は、「禅宗」の思想から生まれた仏教用語で、その意味は「本当(本来)の自己」のことをさすという。
ところで日本人が知る「鬼」は、節分の日に「鬼は外」と追い払われる鬼や、「桃太郎」「一寸法師」などの昔話に登場する鬼たち。
そして、最も身近にいるのが鬼婆(=母親)や、鬼嫁など。ほかに、一生懸命仕事をする人のことを「仕事の鬼」、普段の顔とは全く異なる恐ろしい顔つきになることを「鬼のような形相」など、「鬼」という言葉は日常的によく使う。
仏教における「鬼」は、お寺に参拝した際に「鬼」を見たことかある。
「四天王像」(増長天・広目天・多聞天・持国天)の足元をよく見ると、踏みつけられている鬼がいる。
これらの鬼は「邪鬼」と呼ばれ、仏法を犯す邪神。四天王像に踏まれている邪鬼は懲らしめられている姿である。
その一方、興福寺の木造天燈鬼・龍燈鬼立像は、「邪鬼」を独立させ仏前を照らす役目を与えられたもの。
「鬼」はさまざまな災厄をもたらす存在であるが、興福寺の燈籠を持つ天燈鬼・龍燈鬼立像の姿から考えると、一度改心すれば健気で憎めない存在ともなる。
ちなみに、最近では鬼が「超」という意味に使われ「鬼かわいい」なんて言い方が増えている。
また「滅」という言葉は、消え失せる、ほろびる事を意味する。
仏教苦行では「心頭滅却」なんて言葉があるが、原語の「nirodha(ニローダ)」は制止する、コントロールするという意味。欲をなくすのではなく、あくまで欲をコントロールするという意味である。
さて映画「鬼滅の刃/無限列車編」の冒頭で、主人公・炭治郎の家族が鬼によって惨殺される場面が描かれている。耐え難い苦しみからスタートは、仏教の教え「四諦(したい)」のなかの「苦諦(くたい)」を思わせるものがある。
苦しみの原因となる煩悩「集諦(じったい)」こそが「鬼」、煩悩を滅した状態が理想「滅諦(めったい)」つまり鬼を滅すれば平和が訪れる。
煩悩を滅する具体的な方法「道諦(どうたい)」、つまり鬼を倒す方法を学ぶこと。
そんな物語の構造を下地にすると、煩悩を滅していく仏教と、鬼を滅していくストーリーは重なりあう。
また「鬼滅の刃」は、鬼と「人(鬼殺隊)」の物語なのだとしたら、両者が象徴するのは、永遠と無常、そして、利己と利他。
また、そんな象徴となっている鬼と人は決してかけ離れた存在ではなく、同じ直線上に存在していて、人の中にも「鬼」が、鬼の中にも「人」が存在しているというメッセージ性をもっている。
「鬼滅の刃 無限列車編」で大ヒットしたLiSAの曲、主題歌の「炎(ほむら)」(梶浦由紀作詞作曲)とオープニング曲「紅蓮華(ぐれんげ)」(草野華余子作詞作曲)である。
「炎」の歌詞には、♪僕たちは燃え盛る旅の途中で出会い 手をとり離した 未来のために 夢が一つ叶うために 僕は君を思うだろう強くなりたいと願い 泣いた 決意を餞(はなむけ)に♪とある。
「炎」はもともと盛んに燃えるさまを示す漢字だが、「ほむら」と読む場合は、さらに”燃え盛る炎”を意味する。それは、ねたみ・怒りなどの激しい感情や決意を燃えたつ心をたとえていう語でもある。
そもそも、「竈(かまど)炭次郎」の名前そのものが、燃え盛っている感がある。
一方「紅蓮華」の歌詞には、♪どうしたって消せない夢も止まれない今も 誰かのために強くなれるのなら ありがとう 悲しみよ世界に打ちのめされて負ける意味を知った 紅蓮の花よ 咲き誇れ! 運命を照らして♪とある。
「泥中の蓮華」「蓮は泥より出でて泥に染まらず」などの古い諺は、仏教理念に泥に象徴される俗世に生れても大輪の蓮華(悟り)を咲かせる蓮の花姿を重ねたもので、もとは中国の成句から生れている。
つまり、中国から日本に伝わった「蓮華」とは、基本的には花が水面に触れない「蓮」のことであると考えられていて、蓮を清らかさの象徴とするのはヒンドゥー教の概念の影響を受けているという。
その沼地のような現実世界を見つめ、その地へ足を着けて養分を吸収する事で人は成長する。そうする事で泥色に染まる事なく、本来自分の持っている色「自分の才能や価値」を咲かせる事が出来る。
「蓮華(れんげ)」は仏教の伝来とともに中国から日本に入ってきた言葉で、仏教においては「尊い仏の悟り」という意味がある。
また、一般には仏教の祖である仏陀(お釈迦さま)の故郷・インドを原産国とする「蓮(はす)」や、「睡蓮(すいれん)」の総称としても知られている。
これらの植物は仏教のシンボルとして尊ばれていて、仏教寺では主要な仏さまが蓮華の形を模した「蓮華座(れんげざ)」の上に安置されている。
蓮とは別の植物であるスイレン科の「睡蓮(すいれん)」も同じく蓮華(れんげ)と呼ばれることがあり、蓮華の英名である「ロータス(Lotus)」も睡蓮に由来する。
ところで、お盆の飾りやお供え物で見かける「蓮華」の中には、白やピンク、水色、黄色とカラフルだが、それぞれの色に意味がある。
仏教経典の「摩訶般若波羅蜜経」には、「白蓮華(びょくれんげ)・紅蓮華(ぐれんげ)・青蓮華(しょうれんげ)・黄蓮華(おうれんげ)」の4種類が記述されているという。
「青蓮華」と「黄蓮華」は睡蓮のことで青や紫といった鮮やかな色合は熱帯種の特徴で、古来よりインドで崇拝されていた神々の象徴がのちに仏教に取り込まれた。
仏教で特に重要視されているのが、煩悩に穢されることのない清浄な仏の心をあらわす「白蓮華」と、仏の大悲(だいひ)から生じる救済の働きを意味する「紅蓮華」で、いずれもお釈迦様の故郷に咲いていた「蓮」である。
日本では「今昔物語集」「宇治拾遺物語」など仏教を題材にした数多くの傑作が存在する。
新型コロナ下の「鬼滅の刃」は、そんな仏教的感性を、よび覚ましたのかもしれない。
「仏教語」を吟味すると、新型コロナ下にも"かかわらず"ではなく、新型コロナだったからこそヒットにつながったという面もあるのかもしれない。