北条氏一強

鎌倉時代、御家人による集団指導体制から、「北条氏一強」とよばれるに至るプロセスが、今日の日本政治おいて「自民党一強」や「安倍一強」とよばれている点に、いくつか重なるように思える。
それを対比することは将来の日本を占うことにも、多少なりともつながるのではないか、と思う。
その比較のキーワードは、「人事介入」「お仲間」「国難」である。
ところで、サザンオールスターズの曲には、歴史の舞台「鎌倉の地名」がたくさん登場する。ヴォーカルの桑田佳祐は茅ケ崎出身だが、高校が鎌倉高校出身なので、それらは見慣れた場所といってよい。
例えば、桑田佳祐の初映画監督作品に「稲村ジェーン」がある。1965年の鎌倉市稲村ヶ崎を舞台として、湘南鎌倉市の稲村ヶ崎を舞台に、20年に一度の台風によってもたらされるという伝説のビッグウェーブ、"ジェーン"を待つサーファーたちを描いた。
この「稲村ケ崎」は、戦前の教育ではあまりにも有名で、1333年、後醍醐天皇から北条氏追討令を受けた新田義貞が鎌倉に攻め込んだところ。
稲村ヶ崎で竜神に祈り黄金の名剣を海に投じると、みるみる潮が引いたと言う言い伝えは有名。
その干潟をわたり鎌倉に攻め入り鎌倉幕府を滅亡させたことで知られる。
また源義経の妻妾静御前が、源頼朝配下に捕われて鎌倉に送られた後、義経の男児を出生するが、男子が生まれた場合は殺すという頼朝の命により浜に遺棄されたと伝えられている。
またサザンの曲には、江の島の名が数多く登場するが、江の島の風光は多くの浮世絵にも描かれ、歌舞伎の舞台となるなど、広く知られるようになる。
もとは寺であったが明治の廃仏毀釈により、九州の"宗像三女神"を祀る「江ノ島神社」となっている。
現代人にとって、江ノ島を有名にしたのは、1964年、東京オリンピック時にはヨット競技会場に選ばれ、マリンスポーツのメッカとして世にしられていく。
そして、鎌倉のシンボルといえば、なんといっても源氏の守護神でもある「鶴岡八幡宮」であり、様々な源氏にまつわるエピソードが残っている。
それは、三代将軍・実朝暗殺の現場であり、義経の恋人・静御前が鎌倉に送られ、源頼朝夫妻の前で、義経哀悼の舞を踊った舞台ともなった。
頼朝はその舞に激怒するが、妻の政子は、伊豆に流された頼朝を愛してしまった自分と、頼朝に追われた義経を愛してしまった静御前を重ねてその舞に涙したという。
平家全盛の時代に、伊豆の豪族北条時政の長女、とはいってもかなりの田舎娘だった政子は罪人として伊豆に流されていた源頼朝に恋をした。
親の反対を押し切り、半ば駆け落ち同然にして2人は結ばれることになった。
政子の父・時政は源頼朝の監視役であったのに、よりによって娘・政子が頼朝と恋仲になってしまおうとは苦りきったに違いない。
しかしこの結婚を認めたことは、北条氏の命運をも変えてしまう。北条氏は、以後、源氏方に「鞍替え」して平家方と戦っていくことになるからだ。
1185年には頼朝の弟・義経は壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼすが、平氏滅亡後、源頼朝と義経は対立する。
結局、頼朝は東北・衣川で義経を破り、義経をかくまった奥州藤原氏を滅ぼして1192年に鎌倉幕府を開いている。
ところが、「大黒柱」の頼朝が1199年1月、不慮の死でなくなると、長子の頼家が家督を継ぎ政子は出家して尼になり尼御台と呼ばれた。
だが、苦労しらずの頼家は、自分思い通りの政治を望み、御家人たちからの反発をまねき、頼家の専制を抑制すべく、北条時政、北条義時を含む老臣による十三人の合議制が定められた。
この時、政子は頼家への血肉の愛をとるか、夫・頼朝が敷いた路線を踏襲し守りぬくかという決断が迫られるが、「非情」な決断をする。
源頼家は政子の命で出家させられて将軍職を奪われ、伊豆の修善寺に幽閉され、後に暗殺されている。
さらに1219年右大臣拝賀の式のために鶴岡八幡宮に入った政子の三男・実朝は甥の公暁に暗殺された。政子はこの悲報に深く嘆き、淵瀬に身を投げようとさえ思ったと述懐している。
夫と息子二人を失い、風よけなし状態の政子は、使者を京へ送り、後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えることを願ったが、上皇はこれを拒否し、北条義時は皇族将軍を諦めて摂関家から三寅(藤原頼経)を迎えた。
三寅はまだ二歳の幼児であり、政子が三寅を後見して将軍の代行をすることになり、「尼将軍」と呼ばれるようになった。
1221年皇権の回復を望む後鳥羽上皇と幕府との対立は深まり、遂に上皇は挙兵に踏み切った。
「承久の乱」のはじまりだが、上皇は「義時追討」の宣旨を諸国の守護と地頭に下した。
上皇挙兵の報を聞いて鎌倉の御家人たちは動揺した。
武士たちの朝廷への畏れは依然として大きかったのである。
ここで政子は、御家人たちを前に歴史に残る涙ながらの名演説をする。「故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い、逆臣の讒言により不義の宣旨が下された。秀康、胤義(上皇の近臣)を討って、三代将軍(実朝)の遺跡を全うせよ。ただし、院に参じたい者は直ちに申し出て参じるがよい」と。
これで御家人の動揺は収まった。そればかりか、 幕府軍は最終的に19万騎の大軍に膨れ上がった。
後鳥羽上皇は、幕府の大軍の前に各地で敗退して後鳥羽上皇は「義時追討の宣旨」を取り下げて事実上降伏し、隠岐島へ流された。
さて、学校で習う「時代区分」は絶対的なものではなく、歴史の流れや本質をより分かり易くできたら、なおよかろうかと思う。
実は、鎌倉時代は、教科書に時代区分の複数説が紹介れている点でユニークである。例えば、頼朝が幕府を鎌倉においた1192年以外にも、頼朝が守護や地頭をおいた1185年説なども併記されている。
現在それ以上に大胆な説を唱えているのが、東京大学の保立(ほたて)道久教授の時代区分である。
教授によれば、時代が決定的に変化するのは、武家の源頼朝が征夷大将軍になった1192年ではなく、1221年の承久の乱、後鳥羽上皇が起こしたクーデターの時であると。
源頼朝は平清盛とは異なる性格の武家で新しい世の中をつくったとされるが、2人とも京都出身で本質的な区別はできないとする。
つまり、日本史は「北条政権」をさかいに二分できるというわけだ。北条三代目執権の泰時の時代に、「御成敗式目」によって武家法が確立されたことも、時代の境界を際立たせているともいえる。

安倍一強とよばれるに至るプロセスの中で特徴的なことは、「人事」で基盤を固めたことである。
特に、安倍政権が官邸に人事権をあつめるという手法は、官僚による忖度政治を招いたといわれている。
とくに独立性や中立性が求められる機関に人事介入したことが目立った。
アベノミクス実現のための日本銀行総裁、集団的自衛権を実現させるための内閣法制局長の人事、やや広くいえば共謀罪などに反対した学者などを排除した学術会議、親安倍派とよばれる人物を検事総長にするための「定年延長」などにおいても、露骨といえるほどの人事介入をおこなった。
実は、北条政権もその大きな特徴は、朝廷に対する「人事面」の影響力の行使で、朝廷側から北条氏に対して忖度する場面さえ生まれたのである。
鎌倉幕府の将軍は源氏三代が滅びた後、幕府は危機的状況を安定化させるために朝廷から皇族将軍を迎えようとして画策したが、朝廷はそれを拒否したため、頼朝の遠縁にあたる幼い藤原(九条)頼経を迎えた。
しかし、北条氏にとって、源氏と血のつながりのある将軍は、成人すればむしろ危険な存在となりうるからで、実際に頼経は人望を集めるようにになり、頼経を京都に追い返している。
この時、幕府は将軍ではなく「執権」が、朝廷は天皇ではなく院が実権を握っていた。その意味では変則的で、幕府はその院に対して「院評定衆」を設置させ、それを「親幕派」で固めるという露骨な人事介入が行うのである。
御嵯峨天皇が「北条泰時追討令」をだすが、源頼朝の頼朝の遠縁にあたる藤原氏から将軍を迎えたのでは、ので、「皇族」から将軍を迎えるための「伏線」といってよい。
そして幕府は、念願の皇族将軍(宗尊親王)を実現させる。なにしろ後嵯峨上皇の子供である故に、朝廷が幕府に倒そうとする動きはほぼ封じられることになる。
ところで、鎌倉幕府の強さは、将軍と御家人に主従関係の強固なことといえる。
その力の源泉が、所領に関して公正な裁判をするということである。
当時の御家人たちは、「一所懸命」という言葉ができるほど、土地を安堵してもらうことが、「いざ鎌倉」と将軍のために参陣するという御恩と奉公の関係が確立していたのである。
そして荘園領主とのもめごとなどが起きた際に訴訟を起こすには、原告が解状(訴状)と具書(証拠書類)を備えて、鎌倉か六波羅の問注所に差し出すと、賦別奉行から引付へ配り、それを引付の開こう(書類の出納、記録、文案作成などを司る)が受け取って、専任の奉行(担当裁判官)が決まるのである。
そこで被告に下問状を発して答弁書を提出させ、原告を弁駁を許可するが、ここでは原告側に立つ本奉行に対し、被告側に立つ合奉行がいて、さらに両奉行を監督する証人奉行がいた。さらに訴訟当事者の代理人も、弊害のない程度でこれを許可した。
こうして原告、被告が法廷で対決するまで三問三答させ、なお弁論すべきことがあれば、追訴状の提出を許可し、口頭弁論(法廷対決)が行える道を開いた。しかも訴訟手続き上の不法や、判決に不服がある者は、覆勘、庭中、越訴という再審、上告の道も開かれていたのは驚きである。
しかし、北条氏一強が強まるにつれて、この裁判を審理する「引付衆」を北条氏の御内人で固めるようになり、裁判の公正さが失われていくのである。

アメリカのトランプ大統領は、ホワイトハウスのスタッフを次々更迭して、もはや頼りにできるものというのは、いよいよ「身内」の息子、娘、娘婿ぐらいかなどと、と思ったことがある。
一応彼らは、「特別顧問」といった国家の「役職」をついてはいるものの、国家の意思がホワイトハウスよりも「トランプ一家」の意向で左右される状況が生まれつつあるのではないか、と。
さすがにそこまで政治が私物化されることはなかったものの、日本でも、森友学園や加計学園の問題にかかわる安倍夫人や親友といわれる人との関係、「お仲間」内閣から官邸主導まで、政府の中に「インナーサークル」が出来ているのではないかとさえ思った。
そして「安倍一強」が濃くなるにつれ、「憲法軽視」があらわになった。
さて、首相の意志ひとつで衆院を解散すること自体は、憲法7条で認められ「伝家の宝刀」とよばれるが、多くの人々はその権限を無制限に認めていいのかという疑問を抱いた出来事があった。
2017年、通常国会の閉幕直後、「森友疑惑」や「加計疑惑」の審議が尽くされていないと、衆院でも参院でも4分の1以上の議員がそろって「臨時国会」の開催を要求した(憲法53条)が、3カ月もたなざらしにしたうえ、召集した途端、所信表明もなく冒頭解散するということを行った。
理由としては、北朝鮮からの核攻撃の圧力を引き合いに、「国難突破」ということであった。
また臨時国会といえば、2020年8月にも、野党が「新型コロナ対策」に対する補正予算の使い道につき臨時国会召集を求めたが、緊急事態を理由に臨時国会は開かれないままで、国会の国政調査権(憲法62条)さえも踏みにじっている。
それは、「元寇」という国難以後の鎌倉時代の「北条一強」(得宗専制政治)へと至る過程を連想させるものがある。
そして北条政権は、元寇という国難に対して、広く西国の大名に対しても統制力を発揮し、博多に置かれた九州探題も北条氏一門が独占するかたちとなった。
こうした事態に、鎌倉幕府の「御家人(ごけにん)」と「御内人(みうちびと)」の対立のことを思い浮かべた。
鎌倉幕府は、源氏三代が滅びたあと、執権北条氏を中心に有力御家人の合議体制(評定会議)が採られた。
ところが、「元寇」という国難を境として北条氏一門の中でも、得宗といわれる本家が圧倒的な力をもち、その後に得宗家の家人つまり、「御内人」が大きな力を握ったのである。
これまで、幕府の屋台骨をささえた「御家人ファースト」つまり御家人の合議という政治スタイルは次第色褪せに、執権の北条一族が次第に権力と権益を一手に独占するようになり、そこに仕える者たち(御内人)が手厚く遇されるようになる。
北条時宗が亡くなった後、時宗の側近が争いだし、不満を募らせる御家人と御内人の対立から、1285年に「霜月騒動」という紛争が起きる。
それは、御家人代表の安達泰盛と御内人代表の平頼綱との戦いとなり、結末は平頼綱の勝利となる。
以後、御家人勢力は押されて、幕府は「北条氏専横政権」になってしまった。
こんな体制でも北条政権が継続したのも、他にとって代わるものがなかったからである。
最後に、北条氏は元寇という国難に遭遇するが、、それ以前に、臨時国会を「国内突破内閣」を名目に開かなかったことや、臨時国会の冒頭解散などにも「憲法軽視」が露骨にみられる。
そんな中で、泣きねいりせず「働くもの」の権利をしっかり訴えた御家人がいる。鎌倉時代にモンゴル軍が日本に攻めてきた元寇の様子を描いた「蒙古襲来絵詞」という絵巻物がある。
実は、この絵巻物を書かせたのは、子孫に「己の奮戦」を伝えようとした肥後の御家人・竹崎季長である。
竹崎の担当は福岡市西部の姪ノ浜海岸で、現在は元寇防塁が整備され、竹崎奮戦のレリーフが埋め込まれている。
さてこの絵巻物の展開は、戦果をあげたにも関わらず、竹崎のもとには幕府からの褒美の知らせが来ず、恩賞奉行の安達泰盛に直訴しに行く。
朝廷に至っては、武士の奮戦どころか神のご加護力と認識していたくらいだ。
安達泰盛という幕府の大物相手に直訴に行くこと自体が大変な勇気だが、竹崎を突き動かしたのは命がけで戦い戦果をあげたのに報われない理不尽さに対する怒りがあったことが推測できる。
竹崎の熱心さに折れた安達は、竹崎に対して褒美として竹崎の地元の地頭の地位、それから名馬一頭を与えている。
このことは、鎌倉武士の志気を高め、弘安の役でも勝利に繋がる要因の一つとまでいわれている。
竹崎の行動の意義とは、刀伊の入寇で「私闘」とみなされ泣き寝入りした武士達と対照的に、幕府に"公けの戦い"であることを具体的なカタチで認めさせたことにある。
これは、モンンゴル撃退を国土防衛の「公務」として認めるかといった点で近代性をもっている。
ただ、国内での戦いとは違い、領土が増えなかった元寇において活躍した御家人に対する恩賞が大きな問題となる。
そこで出したのが御家人救済のための「徳政令」、つまり借金帳消しである。
特に、御家人同士の借金と御家人と凡下との借金を区別したあり方は、結果的に二度と御家人には金を貸さないという風潮を生み、かえって御家人を苦しめる結果ともなったし、経済はいたく混乱した。
ポストコロナおいてに、戦後に出された「モラトリアム」(支払い猶予)などが参考になろうが、「医療従事者の奮戦」にいかに報い、自粛を余儀なくされた業種に対する保障をどうするかが課題となってくる。
「安倍一強」をひきつぐ菅政権だが、果たして「国難」を境に「自民一強の時代」は続くのか。