コペルニクス的転回

天地がひっくり返るような発見や学説は、およそ関係がないと思われる学問分野にも、どこかで影響を及ぼすのではなかろうか。
天文学で知られるコペルニクスはポーランド人のカトリック司祭であるが、1540年頃には医者としても名声を得ていた。
そんな科学的精神をもつ彼は、辻褄合わせで醜くなっていた「天動説」に我慢がならなかった。
コペルニクスは、古代ギリシアの「ピタゴラス派」がとなえていた地動説の方が、より自然に観測される現象を説明できることに気づいていたからだ。
そして、地球の方を動かした方がよほどスッキリするという思いに駆られるばかりだった。
地動説では、地球も太陽の周りを公転しているので、惑星が行きつ戻りつするのは当たり前のことだが、地球を宇宙の中心に据えると、見かけ上の惑星の迷走を説明するのに、無理なトリックを駆使していた。
しかし、地球を動かせば、惑星の逆行現象は地球が外側の惑星を追い抜く時の見かけの動きとして簡単に説明できたからである。
しかしカトリック司祭という立場もあって、生前はその発表をためらったようで、死後に太陽を中心にした地動説を「天球の回転について」として発表する。
しかも、その著書の中で、コペルニクスは「これはあくまで数学的な考察として出版するものである」と、自ら地動説が真実であることを主張するのではないと書くほどの念の入れようであった。
当時のキリスト教の教義に反するのは異端尋問にかけられ、最悪、火あぶりにされることもあった。
コペルニクスが慎重を期して、自らの著作を死後に発表したのも理解できる。
コペルニクスの地動説では、太陽のまわりを地球を含めた惑星が回り、地球のまわりを月が回るというモデルで、まさしく現実の太陽系をいい当てていた。
それは、それまでの天動説の内容を完全に覆すものあったことは、誰しも認めるところだ。
18世紀に活躍したドイツの哲学者カントは、この天動説から地動説への転換のような、思想的な大変革を象徴的に「コペルニクス的転回」という言葉で表した。現在でも見方や考えがまったく正反対に変わる時に、この言葉を使う。

ビートルズのヒット曲「フール・オン・ザ・ヒル」(丘の上の愚か者)は、時代に先んじすぎて受け入れられないが、誰よりも賢い孤独な人物について歌った曲である。
ガリレオ・ガレレイこそはまさにそんな人であった。
1630年、ガリレオは地動説の解説「天文対話」を執筆した。
この書は、天動説と地動説の両方をあくまで仮説上の話として、それぞれを信じる2人とその間をとりもつ中立者の計3人の対話という形を取ったもの。
つまり、地動説のみを唱えて禁令にふれることがないよう、注意深く書いたものであった。
ガリレオの説は文字通り天地がひっくり変える学説であるが、すこし遅れて世にでた「社会契約説」は、天と地を入れ替えたような社会思想であった。
「社会契約説」では、ホッブズ、ロック、ルソーの3人の名前があがるが、ホッブズが1651年に先陣をきって「リバイアサン」を発刊している。
リバイアサンとは「ヨハネ黙示録」にある海上に出現する巨大な生き物の名で、ここでは教会権力から解き放たれた「主権国家」(近代国家)のことをさす。
人間は生れつき平等ではあるが、自然状態においては「万人は万人に対して戦い」の状態にある。
この自然権の自己否定を脱するため、理性がみずから発見する自然法によって自然権を制限し、さらに絶対主権設立の社会契約によって国家の成立へと導かれるという思想である。
それまでは、王権は神に由来するという「王権神授説」があって絶対王政を支えてきたが、社会契約説は、民主主義社会を切り開く思想的根拠を提供したといえる。
ただホッブズが、「絶対王政」を擁護する理論となったのは、 30年戦争という戦乱の時代を生きたという時代制約的なものがあったことは否めない。
それでも、ホッブズは王権の正当性を神からくるのではなく、人々の契約によるものであるとした点で、ロックやルソーの嚆矢となるものであった。
後に、ロックの思想が明示するように、国民の自然権を守るという契約を守らない王権(政府)ならば、打倒してもよい(革命権)の主張に繋がる。
つまり、社会契約説は王権を”天来”のものから”地来”のものへと認識をひっくり返したという点で、「パラダイムシフト」(コペルニクス的転回)ということがいえる。
というわけでガリレオの「地動説」が、そのダイナミズムという点で、ホッブスの社会思想にも影響を与えたのではないかと推察している。
実は、ホッブズに社会科学上の転換をもたらすインスピレーションを与えたのは、意外にも「ピタゴラスの定理」(三平方の定理)であったという。
そして、このピタゴラスこそは、古代ギリシアにおいて「地動説」を唱えた人物にほかならない。
ヨーロッパ中世において、石工のギルドから生まれた現代にも続く秘密結社は、「ピタゴラスの定理」をシンボルに使うほどである。
建築関係の仕事に携わる設計や測量などにおいて、それがいかに重要であったことがわかる。
さて、ヨーローッパ精神の源流のひとつとさえいわれるのが「ユークリッド幾何学」であるが、ユークリッドの「原論」は、書かれた当時の数学上の英知が、原理や公理として掲載されていた。
ある日、ホッブズは知人の書斎でユークリッドの「原論」を見て、それを紐解き「ピタゴラスの定理」を見出した。
最初はそんなことがあるはずはないと思いつつ、ほかの命題の参照指示にしたがって読み続けるうちに、この定理が正しいと確信するようになった。
こうしてホッブズは「幾何学」を愛するようになるのだが、この幾何学への没頭が彼の学問活動の内容をガラリと変えてしまった。
「ピタゴラスの定理」の定理との出会いは、ホッブズにとって「天啓」ともいうべきものだった。
それは、新しい推論の方法とその成果を普遍的な形で表現する方法を得たホッブズは、当時の倫理学者や政治哲学者らが、厳密さに欠け無批判に先人たちを称賛していると非難するようになった。
しかしその結果、ホッブズはガリレオほどではないにせよイバラの道をたどることになる。
当時のイングランドは内戦が行われ、政治的に非常に不安定な状態にあった。
なぜなら、チャールズ1世と英国国教会派を中心とする国王派と、ピューリタンや独立派を中心とする議会派が対立していたからである。
当時優勢だったのは議会派で、これがのちにピューリタン革命(清教徒革命)につながる。
ホッブズは1640年に、彼の社会契約思想に沿って国王派を支持する内容を含んだ「法の原論」を出版すると、議会派からの攻撃をうけ、そこから逃れるためにフランス・パリに亡命する。
パリでは、同じく亡命していたチャールズ皇太子(チャールズ2世)の数学の家庭教師をした。
ところがホッブズが「リヴァイアサン」を出版すると、今度は国王派のパリの亡命宮廷にもいられなくなってしまう。
なぜなら、「リヴァイアサン」に書かれていた宗教論がローマ・カトリック教会を痛烈に批判する内容で、それに対しフランスの聖職者たちが黙っていなかった。
一方で、同じく「リヴァイアサン」に書かれた内容に議会派が正しいかのような記述があったことで、国王派から裏切り者とされてしまう。
こうしてイングランドに帰国したホッブズだが、1660年になると、イングランドはホッブズが家庭教師をしていたチャールズ2世を迎えて王政復古をする。
そのような縁もあってか、チャールズ2世はどちらかといえばホッブズの肩をもってくれたが、その周囲からは “裏切り者のホッブズ” の烙印を押されたままであった。
晩年は政治的著作を上梓することができないまま、1679年に91歳で死去する。
ホッブズ思想の過渡期性が、彼の人生を迷走させたともいえそうだ。

アインシュタインが物理学を志したきっかけは、少年時代に「光の速度で光を追いかけたら、光はとまって見えるのか」という疑問にとりつかれたことによるものだったと「自伝」に書いている。
そうなると、顔の前に鏡をもって光の速度で移動するならば、鏡にはなにも写らないことになる。
光は電磁波のひとつといっていいが、アインシュタインにはどうしても、凍てついたように静止している電磁波というものを想像することができなかった。
それから10年後、アインシュタインは「光速不変の原則」を中心におく論文「運動物体の電気力学について」(1905年)が発表する。
それまで支配的であったニュートン力学の時空は、宇宙のあらゆる場所の物理量が一義的に指定できる、秩序正しい絶対的な時空である。
アインシュタインは、ニュートンがこだわった絶対時間や絶対空間を捨て、「光速不変の原則」を中心にすえたことにより、時間と空間の概念が、観測者の運動状態に依存するという、人間の日常感覚を覆すような理論を提唱する。
アインシュタインの美学なのか信仰なのか、どの観測者にとっても、光速が不変であるということは奇妙な結果をもたらす。
光速に近づくと物体が縮んだり遅れたりするばかりか、光速に近づくと物体が重くなるというのだから。
アイシュタインは、それから2年後の1907年に、突然に自由落下している人間は「重さ」を感じないのではないかという考えが閃いた。
つまり、落下中はエレベーターに乗せた体重計はゼロを指し続けるということだが、それは、落下という加速度運動は、地球の重力を打ち消す働きをしていることになる。
それから9年後、アインシュタインは加速度系と重力場を等価とみなす原理に基づく、「一般相対性理論」を発表する。
それによると、大きな質量にもつ物体の存在などの強い重力場では時空が歪むという、これまた我々の日常感覚を覆す理論を提示する。
とはいえアインシュタインの「一般相対性理論」の正しさは、水星の近日点移動や日食を利用した光の屈曲などの観測から、早くも1910年代に証明されたのである。
これらは、まさに「コペルニクス的転回」で、速度が光の速度に近づくときや、重力による空間の歪みが無視できなくなる時にはニュートン力学が適用できなくなるということである。
ただ、アインシュタインの相対性効果は、GPSなどの高精度の計算が必要な時には考慮する必要があるが、光速よりはるかに遅い日常の営みでは、ニュートン力学(古典力学)で充分であるということだ。
つまり、アインシュタインの世界は、古典的力学世界を特殊なケースとして包摂することができるということにほかならない。

天文学者のコペルニクスは経済学上においても重要な発見をしている。
それは、貨幣の額面価値と実質価値の間に乖離が生じた場合、実質価値の低い貨幣のほうが流通し、価値の高い方の貨幣は退蔵され流通しなくなる 。つまり「悪貨は良貨を駆逐する」ということである。
そして20世紀、貨幣の退蔵がもたらす経済的影響に注目したのはJMケインズである。
1930年代の大不況の処方箋として登場したケインズは、マクロの視点で経済を捉えようとした。なぜならば、全体像(マクロ)でみなければ、「大恐慌」の説明ができなかったからである。
古典派経済学は市場機能を信奉し、労働市場は完全雇用が実現しているので所得は一定、マクロの視点を必要とはしなかった。
しかし、大恐慌は倒産と失業の連鎖をもたらすのみで、市場経済は機能せずに古典派経済学ではどうすることもできなかった。
そこでケインズは、有効需要というマクロでの需要水準を導入する。
ケインズの「有効需要の原理」は、アインシュタインの「光速不変の原則」にあたるのかもしれない。
それによると、我々は所得の多くを消費に回し、残りを貯蓄にまわす。
この貯蓄の部分は「有効需要」からの「漏れ」であるが、この「漏れ」の部分が金融などを通じて投資に回れば、その所得はすべてその「有効需要」によって実現する。
しかし、ここで投資を決定するのは企業の収益(期待)率であるから、投資が貯蓄に一致する保証はない。
そこで投資が貯蓄を上回れば有効需要が所得を上回り、「貯蓄=投資」となるまで所得が増す。
逆に投資が貯蓄に満たなければ、有効需要が所得に達せず、「貯蓄=投資」となるまで所得が縮小し、不完全雇用(失業)が生じる。
つまり古典派済学の主題が「価格決定論」なのに対して、ケインズ経済学の主題は「所得決定論」なのである。
ケインズ革命のもうひとつの側面は「貨幣因子」に注目したこと。つまり血液に病が生じることによって経済が縮小しっぱなしの状態がおこる。この貨幣因子が原因で、「投資<貯蓄」状態がいつまでも長引き長期不況となる。
この問題にケインズは、世の中で貨幣がどれだけがどうして必要かを分析した。
まず、経済規模の拡大に比例して取引が増えるため貨幣が必要となったり、不測の事態に備えて予備的に保有しようとすることもある。
さらには、債権価格との関係で貨幣を保有しようとする「投機的需要」があり、これこそが利子の決定因である。
ケインズは、金融資産を貨幣と債券だけと仮定する。それは債券を買うためには貨幣を支払い、逆に貨幣を保有するためには債権を売るという完結世界である。
実際の資産には、土地、宝石、貨幣、株式、債権などがあるが、ケインズは単純化のために、貨幣を代表とする「リスクは低く収益も低い(ゼロ)資産」と、債券を代表とする「リスクは髙く収益(利子)も高い資産」の二者択一の世界を想定する。
そして、金利がとても低い時には、将来金利があがって債権の価格が下がるばかりなので、現金のまま後生大切に保蔵しておこうとする。
この場合、マネー供給が増えても、誰も債権を買わなくなるのでこれ以上金利が下がることはない。金利が下がらなければ、民間投資が増えることもない。
こうした極端な貨幣選好つまり「流動性選好」こそが大不況の原因であり、経済政策としては金融政策でドンナに貨幣供給を増やしても、お金が回らずに投資も行われない。
このような事態に陥った場合には、政府自ら建設国債を発行して公共投資を行い、民間の投資不足を穴埋めして「有効需要」を増やすのである。
アダムスミス以来の古典派経済学が所得を一定(完全雇用水準)で価格の自由な変化を考察(価格理論)したのに対して、独占・寡占や労働組合で価格(賃金)が一定で、所得水準が変化する世界を考察(国民所得理論)した。
その意味で、「コペルニクス的転回」という言葉がふさわしい。
そしてケインズが自分の理論を「雇用・貨幣・利子の一般理論」としたのは、アダム・スミスらの古典派経済学が「完全雇用」による所得一定水準を前提とした特殊な理論であり、自らの理論の中に包摂されるという意味をこめたものだ。
ケインズは、ニュートン資料の蒐集家としての側面をもち、アインシュタインの「一般相対性理論」にも大いに啓発されたに違いない。
アインシュタインが力学の分野で「一般理論」を目指したごとく、ケインズも経済学における「一般理論」を構想したのではなかろうか。

これがアメリカのニューディール政策などで生かされた。 前者が「取引需要」、後者が「予備的需要」で、利子とは関係なく所得水準と比例すると考えてよい。