友あり 遠方より来る

論語にある「友あり、遠方より来る、また楽しからずや」という言葉。
友人が遠くからやってきて久しぶりに酒が呑めてうれしい、ぐらいの意味と解釈しては志しが低すぎる。
その真意とは、思いもよらぬ自分の理解者が、わざわざ遠方より自分を訪れてくれた時の喜びを表す言葉なのだ。
2004年「ノーベル平和賞」をとったワンガリ・マータイさんは、1940年、ケニア中部のニエリの農家の娘として生まれた。
アメリカのピッツバーグ大学で修士号、ナイロビ大学で博士号(獣医学)を取得し、1971年にはナイロビ大学教授に就任した。
1977年に「グリーン・ベルト・ムーブメント」を設立して土壌の浸食と砂漠化を防止する植林活動を開始し、アフリカ大陸全土で植林活動を行い、民主化や「持続可能な開発」の推進に取り組んだ。
2005年2月に10日間、「京都議定書」関連行事出席のため来日。日本語の「もったいない」という言葉の奥行きを知って感銘し、それを「Mottainai」として、世界に紹介した。
また、独裁政権下にあったケニアにおいて、公然と政権を批判したことで数度の逮捕と投獄を経験。
「男尊女卑」が根強かった当時のケニア国内においては、その自己主張と信念の強さを持つ異色の女性であったがゆえに、コントロール不可能であると夫が国に訴え離婚させられた経験をもつ。
そんなマータイさんは、日本語の「KAWAII」を学ばなかったのかなんていうと、それこそ”炎上”しそうだが、実は皮肉をいっているのではない。
「KAWAII」は、世界に知られる、今やクールジャパンを代表する言葉。
日本語で「かわいい」は、英語で「Cute」と訳されることが多いが、あえていえば「Cherish」(慈しむ)という言葉のニュアンスを含んでいる。
それは「メインテナンス」よりも奥行きがあり、「Mottainai」にも通じる言葉なのである。
実は、マータイさんと同じ大学ピッツバーグ大学で学んだのが、約10年ほど前に日本に来日して活躍した演歌歌手ジェロである。
ピッツバーグ大学・情報科学を専攻し在学中には関西外国語大学に3ヶ月間の留学をした経験がある。
この留学期間中に演歌歌手になることを決意した。
ジェロは15歳の時、「高校生による日本語スピーチコンテスト」で初めて日本の地を踏んだ。
その時のスピーチタイトルは「ぼくのおばあちゃん」だったという。
ヒップホップ系ファッションを採りいれて、その外見はラッパーのスタイルであるのも、高校時代にダンスチームの主将を務めた経験からくるのだろうかか。
大学卒業後に再び日本の地を踏み、英会話学校の教職やコンピュータ技術者の仕事に就いた。
その傍ら「NHKのど自慢」に出場し合格するなど各地のカラオケ大会に自ら応募した上で、演歌歌手を目指して独自に活動を続けた。
坂本冬実主宰のカラオケ大会で優勝した際、スカウトの目に留まりオーディションを受けて合格した。
2008年に「海雪」でプロデビューし日本レコード大賞の最優秀新人賞を受賞した。
NHK紅白歌合戦では、実母が来日し感涙したというエピソードがある。
デビュー曲となった「海雪(うみゆき)」は、新潟県の出雲崎町が舞台で、作詞をした秋元康は、出雲崎を訪問したことはなく、積もることなく海にむなしく消える雪のような女心を、想像力だけで書いた。
出雲崎といえば庶民に愛された良寛の出身地。出雲崎町では、町民を対象に「海雪」のCDの購入の際に町から補助費を出す法案を可決し、「町ぐるみ」でジェロを応援した。
ちなみに、 ジェロの好きな日本語は「一期一会」と「ちんぷんかんぷん」、好きなアーティストは坂本冬美、好きな食べ物はホッケ。ワサビとトロロは苦手。
さて、日本人の心を歌った黒人歌手といえばクリス・ハート、1984年サンフランシスコ・ベイエリアでアフリカ系アメリカ人の両親との間に生まれた。
幼少の頃に両親は離婚し、母によって育てられた。
12歳の時、中学校で日本語科目を受講して初めて日本語に触れた。
その頃、現地のケーブルテレビでオンエアされていた日本の歌番組などから小田和正、徳永英明、ZARDなどのJポップスを見聴きして大きな影響を受けた。
13歳の時、夏休み中に茨城県新治郡新治村(現土浦市)で2週間ホームステイしていた。
この時の経験から日本へ移住したいという想いを強く抱くようになった。
2009年に日本への移住を決断し、最初は東京の下町である足立区に居を構えた。
自動販売機の営業で生計を立てながら、YoutubeにJPOPのカバーやオリジナル曲の動画をアップ。2011年にアップした動画が日本テレビのスタッフの目にとまり、翌年3月のゴールデン番組出演へと繋がった。
特に、透き通った声で歌う尾崎豊の「I LOVE YOU」、松田聖子の「あなたに逢いたくて」などが、日本人の心をワシづかみにした。

日本社会になじんだ黒人の肉体派としては、一時期、鈴木宗男の私設秘書を務めていた「ムルアカ」という身長2m9㎝の大男がいた。
一方、最近テレビでの露出が多い黒人といえば、京都精華大学の「ウスビ・サコ」学長である。
この人もある意味、「オバケ」といってよい。
なんのオバケかといえば、日本語能力とコミュニケーションについての傑物という意味である。
これほど日本語が上手な黒人は、空前絶後ではなかろうか。
その流暢さは、「大阪弁」だけになお際立っている。
サコさんは2018年より「コミュニティー論」を教えていて、学内の選挙で学長に選ばれた。
サコさんの母国は、西アフリカのマリ共和国で、日本初のアフリカ出身の大学学長ということになる。
、 マリは人口は2千万人ほどの国で、1960年に独立するまでおよそ60年間フランスの植民地で、サコさんが生まれたのは独立から6年後。
父は税関の公務員 母は専業主婦。首都バマコで経済的に恵まれた暮らしていた。
そしてフランス式の教育を取り入れた私立の男子校で学んだ。周囲は旧植民地で役人の子弟で、超エリートのお坊ちゃんばかり。
サコさんは、中国雑技団の真似をして屋根から転落して病院に運ばれたこともある活発な少年だった。
マリでは、家族と一族そしてよく知らない人も30人ほど同じ家に寝起きし、子供は「親の子」というより「地域の子」。
悪いことをしたり、勉強をさぼると、よく知らない人からも叱られた。
高校で優秀な成績を収めたサコさんは19歳の時 国費留学生に選ばれ中国へ渡ることになる。
意気揚々とマリを出発したサコさんは乗り継ぎで立ち寄ったフランスで思わぬ光景を目にする。
大使館のオフィスから見える風景 もう90%近く全部黒人が道路掃除している。しかも マリ語をしゃべっている。
サコさんはナイーブにも、フランスにいるマリの人たち全員オフィスワーカーというイメージを抱いていたが、すっかり裏切られた。
フランス人たちは、黒人が掃除してるのに、歩きながらまたゴミ捨てる。犬を散歩してる時に また犬がそこでウンチしたりする。
彼らがそれを掃除し続けているという、ほとんどプライドをゼロにされて、黙々と仕事を続けている。
さらに路上で働く同郷の人々が、サコさんたちに向ける視線も、けして温かいものではなかった。
彼らの目は、「お前ら 苦労なんか知らないよね」ということを物語っていた。
サコさんは彼らから見ても国から選ばれたエリート層であり、彼らにとては別世界の存在であったのだ。
同じマリ人同士だったのにショックだった。
かつて中国の魯迅が留学した際に、東北大学の幻燈室で日本人が中国人を打ちのめしているシーンで、学生たちが拍手喝采している。
それは仕方ないことだとしても、画面の中の同胞が、そのことに怒りさえもなく、プライドもなく見ていた姿にショック受ける。
この時、魯迅は医者ではなく心の医者になろうと「作家」になる決意をした出来事を思い浮かべる。
さてサコさんは、留学先の中国で親しくなった日本人留学生の実家に招かれ、1990年に初めて日本を訪れた。
その家は 東京・下町の商店街にあり、同行した2人の友人と共に「珍しい客人」として地域の人たちから歓迎され10日間ほど過ごした。
実は、サコさんはがそれまで見た日本人というのは「不自然」な人々に見えた。
留学してる日本人のグループは 日本人同士でよく集まることが多く、 他の国との交流がかなり少ない。
食べるものもインスタント的なものが多く、急ぐ必要もないのに走っている。
しかしこの日本滞在で、そんな味気ないメージが劇的に変化した。
商店街のおばさんたちがすごいビール飲んで酔っ払ってるし、時々音楽をかけてカラオケを歌ったり踊ったりしていた。
そこに、すごい人間くささを感じ、直観的に日本をもっと見たいという思いが起こった。
その直感を頼りに翌年、中国の大学を休学して来日。
しかし、実際に暮らしてみると旅行では見えなかった壁にぶつかる。
言葉が通じないのは時間の問題としても、日本人の表情が読めない。何を考えてるかっていうのが伝わってこない。
サコさんに関心があるようでナイ。それでも見たいけど、見れない。それでチラミをする。
人との距離感に悩みながらも信頼を置いていたのが、京都大学大学院(建築学)の研究仲間であった。
同じ目標に向かって寝食を共にする同世代の友人はサコさんにとって 家族も同然と思っていた。
実際に、彼らとの友情をきっかけに交友関係は広がって、サコさんの大家さんの家には、先輩、同級生、アルバイトの同僚などがいろんな人がくるらしいという評判がたった。
しかし、それがいつしか遊んでばかりいるという「悪評」となってしまった。
日本人社会では、同じパターンの友達を呼ぶが、違うパターンの友達を取り換えてよぶということをあまりしないようだ。
彼らと共にいて、自分たちの居場所にして愛着を持っていると思っていた。
しかし、彼らはその場所を楽しみながらも、その場所を批判してたことに気がついた。
誰かがそんな批判めいたことを告げ口したようで、サコさんは仲間を信頼できなくなって、これから日本でやっていけるのかという思いにかられた。
そこでサコさんは、一旦ふるさとのマリに戻った。
4年の研究成果をひっ提げて自分は国の将来に貢献できる人間だという自負があったのだが、母国での反応はサンザンであった。
例えば、「省エネ」といっても、そもそもエネルギーがない。「窓あけて」といわれてもいつも開けっ放し。「風通しよく」といっても、もともと自然の風がとおっている。
詰まるところ、「お前は、 日本に行って何をとぼけたことを言うのか」という批判に晒される。
サコさんも黒人のコンプレックスから逃れられず、無意識に先進国に同化しようとしているのではないかということに気がついた。
そこでサコさんは 一時帰国する度にマリの人々に聞き取り調査をするなどフィールドワークを重ねる。
そのうち、今まで「恥ずかしい」と思っていたマリに、「宝」があることに気がつく。
一番に見えてきたのは、幼い日々を過ごしたあの混沌とした「中庭」がマリの社会に欠かせない人間関係を育んでいたことであった。
自前のルールでコミュニティーを作っていて、ケンカもしながら 調整しながらネゴシエーションしながら生活する場所。
マリの中庭を「再発見」したことで日本を見つめる目も変わる。
京都を舞台に町家などの建築物だけでなくそこで暮らす人々の関係性にも研究対象を広げた。
これが「空間人類学」という学問への目覚めである。
ちょうど日本の青森県民が恥ずかしいと思っていた野良着の「ぼろ着」が、外国人によって美しいと評価され、「BORO」として世界で認められたように。
すると これまで気に留めていなかった日常の風景に日本人が築いてきた人づきあいの形が見えてきた。
日本での大きな発見だったのは道路に水をまく、自分の家の前だけでなく 隣家との境界線を越えて「打ち水」をすること。
マリの「中庭」では、彼らは迷惑をかけ合うこと自体がすごく大切なことだった。
西洋は、我々をどんどん孤立化・個別化していく。
サコさんの思い込みを見事に覆した一人の女子学生が良い例である。
サコさんが始めた マリの滞在プログラムがある。2011年に参加したのが ケイさんで、出発前の面談では 少し質問をしただけで緊張で泣きだした。
マリでの生活は正直難しいと思っていたが、彼女が ホームステイに入って、見る度に次第に明るくなっていった。
学生たちが、ジャパニーズパーティーを披露するので、日本料理を作って日本の何かを見せることになっていた。
そこで「ソーラン節」を踊ることになったのだが、なんとあのケイさんが先頭をきって踊っていたのだ。
日本では、あのこの子 しゃべらないから、放っておきましょうという風になる。
しかし本人にすれば、それを乗り越えたいのに、皆はその有り様を尊重するため、結局は何の手助けもないということになる。
しかしマリの人々は、相手の気持ちを考えずに、とにかく表にだそうとする。
ケイさんのケースをよくよく考えると、彼女が変われたのは マリの「中庭」が安心できる場所だからだ。
サコさんは、大学は社会の「中庭」でありたいと思うようになった。
サコさんの専門はもとは「建築」。建物を作る時は、まず人の行動を調べ、その空間に求めらえている条件に答えていく。
空間要求に応えるためには、どんなものを立てるか、誰がそれを使うか、その人の行動パターンはというのが欠かせない。
サコさんは今や「空間人類学」の観点にたって、社会学的・人類学的な方法で、人間の集団行動を調べていくと意外なことに気がつかされる。
例えばインドのスラム街に足を踏み入れて、一般の人々の反応は「かわいそう」ということかもしれないが、その段階で心の目が曇る。
実はインドのスラム街の家の組み合わせはや配置はレベルが高い。レベルが高すぎて建築の知識では教えることができないほどのものだ。
あんなに狭いところで、小さいシンプルな建物をたくさんつくり、そこで生活が出来ているというのは、西洋建築の概念を超えた知恵である。
サコさんは、インドのスラムを勉強すれば、京都の町屋再生をもっと効率よくできるのではないかという。
そして「空間人類学」の主題の一つはコミュニケーションでもある。
日本でコミュニケーションとは、すぐ仲良くなれること捉えがちだが、”揉めた”時になんとかする力が本当のコミュニケーション能力ではないか。
これと全く同じことを、イギリス暮らしの介護福祉士プレディみかこさんがシンパシーとエンパシーという観点から述べている。
日本は、揉めないように責任を曖昧なままにして過ぎ行く。これでは、「真の多様性」は生まれようもなく、ダイナミックな変化も期待できない。