「薬の街」発見

福岡から久留米に向って国道3号線を車で走ると、佐賀県の鳥栖あたり、左手に「久光製薬 サロンパス」という看板がみえる。
アノ貼り薬「サロンパス」の会社はこんなところにあるのかと、プチ発見した気がする。かつて国道202号線を車で唐津方面に走らせると、今宿あたりで「マルタイ・ラーメン」の本社を見つけた時の気分を思い出した。
久光製薬のある辺りの「鳥栖市田代(たじろ)」は、富山・大和(奈良)・近江(滋賀)と並ぶ「日本の四大売薬」の発祥の地なのだという。
その歴史は江戸時代に遡り、販売員が各家庭を訪問して、くすりを預け置く「配置売薬」は、昭和50年代頃までは、誰もが知るものだった。
家庭ごとに薬箱を置かせてもらい、その中に数種の薬を入れて預けて帰り、半年から1年後に再び訪問して、預け置いた間で用いられた薬代を集金するという商法で、我が家もお世話になった。
行商の範囲は九州を中心に四国や中国地方、朝鮮半島まで広がったが、ドラックストアの普及などで急速に衰退した。
しかし、そんな「置き薬」の記憶をとどめおくような「博物館」が残っている。
九州自動車道の鳥栖インターチェンジを降りてすぐの処にある「中冨記念くすり博物館」である。
実は、鳥栖における「田代売薬」の礎となったのが久光製薬の前身「小松屋」で、その創業は1847年にまで遡ることができる。
久光製薬はその歴史を伝えようと、1995年の創業145周年記念事業としてこの「くすり博物館」を建設したのである。
ここ田代で「売薬」が盛んになった理由は、鳥栖市東部と基山町一帯が藩政時代に「対馬藩」の飛び地であったことと、長崎街道の「田代宿」が置かれた交通の要衝だったことが大きい。
行き交う旅人の中には富山県の配置売薬人もいて、彼らを通じて田代の人々は製薬の知識を学んだ。
最盛期、田代からおよそ500人もの売り子が全国へ出掛けたという。
「中冨記念くすり博物館」は、「造形の詩人」と呼ばれるイタリアの現代彫刻家チェッコ・ボナノッテが設計した建物で、 1階の19世紀末の英国ロンドン郊外の薬局店内を移築した「アルバン・アトキン薬局」が一番の目玉である。
その棚にはニトログリセリンなどの瓶がぎっしりと並んでいて、「映画ハリーポッターの世界のようだ」と若い世代の評判を呼んでいる。
また2階は、近世から昭和期まで使われた行商用の柳ごうりや預け箱、製薬の道具類が展示され、江戸時代に大坂にあった薬局を再現したコーナーもある。
さらには「薬木薬草園」も併設しており、約2500平方メートルに350~400種の植物が植えられている。
ここを訪れる人々の中には、東京の「小石川植物園」を思いおこす人も多いであろう。
「小石川植物園」は、東京ドーム(旧後楽園球場)に隣接してあり、もともと8代将軍・徳川吉宗の造った「薬草園」であった。
この「薬草園」の設置については、「シドッチ」というイタリア人宣教師が"間接的"に関わっている。
シドッチは、江戸鎖国時代の1708年にフィリンピンのマニラから日本人に「変装」して島に潜入するも、背が高く色白のため、すぐに外国人だと見破られ捕まってしまう。
長崎に移送されて取り調べをうけ、さらには江戸の「キリシタン屋敷」に送られ、当時の幕閣の中心人物・新井白石の尋問を受けた。
シドッチは新井白石の理解によって厚遇をうけるものの、獄中で「伝道」したため独房に入れられ最後は獄死してしまう。
徳川吉宗は「享保の改革」で知られるが、その中でもユニークな政策のひとつが「目安箱」の設置で、庶民が天下の将軍様に直接意見を申し立てる機会を与えられるという画期的な政策であった。
その投書によって実現したことのひとつが、江戸の町医者・小川笙船(おがわしょうせん)の投書から実現した「小石川養生所」の設置である。
「享保の改革」では緊縮財政を布いていたものの、こうした「進歩的」な理念の背景には、新井白石がシドッチから聞き取った「文書」に触れたことが大きな影響を与えたといわれる。
徳川吉宗は元は紀州藩主で、疫病が流行し数多くの被害者が出ていることを目の当たりにして、将軍就任前から問題意識を持っていたことも確か。
シドッチの影響を強く受けた徳川吉宗により「蘭学解禁」となり、小石川薬園に「養生所」が設けられたばかりか、本草学が研究され「植物園」として発展していくのである。

今から20年ほど前に、大阪の淀屋橋付近のビジネスホテルの在処を地図で探したところ、わずか300メートルの区画に一流薬品会社の本社が密集しているのを発見した。
藤沢薬品・塩野義製薬・田辺製薬・大日本製薬・武田薬品・住友製薬・小野薬品などの名前が所狭しと並んでいるのには、一体なにごとかと思ったほどだ。
調べてみると、このあたりを「道修町」といい、江戸時代より「薬種中買仲間」が置かれた場所であったとあった。
そこで大坂は江戸時代には「天下の台所」とよばれ、多くの問屋が集まった処である。道修町には、薬の神様「少彦名神社」が鎮座して、近くには鴻池本宅跡の碑、銅座跡の碑、懐徳堂跡の碑、除痘館跡の碑などの碑がある。
また道修町は、谷崎潤一郎が描いた小説「春琴抄」の舞台となった場所で、少彦名神社内には「春琴抄の碑」が立っており、見どころが多い。
さて1876年には改称され1939年に廃止されたものの、これこそ世界に先駆けた「先物取引市場」であった。
また大阪の「堂島米穀取引所」は、世界に先駆けた先物取引の始まりの地として知られるが、大阪の千林(せんばやし)は「スーパー発祥」の地でもある。
中内功は、1957年に大阪の千林で「主婦の店ダイエー」を開店した。主婦の店とはメーカー側ではなく主婦の側に立つことであり、親しみ易いように「大栄」をカタカナにした。
薬、化粧品、缶詰、ビン詰などの食料品を並べて、キャッチフレーズは「良い品をどんどん安く売る」。
1958年に、神戸三宮に第二号店を開いた。これに続いてチェーン化を果たし、商品も食料品から衣料や日用雑貨へと拡大していった。
その店がいつしか、福岡をフランチャイズとする野球球団のオーナーとなるとは面白い展開だが、それ以上に面白いのがマレーシアとの関わりだ。
さて、マレーシアの元首相のマハティールは、1981年から2003年まで22年間にわたりマレーシアの首相を務め、2018年に92歳で再登板を果たしたアジアのレジェンド的リーダーである。
マハティール首相の「代名詞」となったのが「ルックイースト政策」。それは、経済発展のモデルを欧米ではなく日本に求めるというこの政策で、その発案は、1961年の初来日に遡る。
当時、政治活動の傍ら小さな薬局も経営していたマハティールは、取引のあった大阪の武田薬品工業を見学する。
そこで目にした日本の発展ぶりに強い印象を受け、日本人の「職業倫理、仕事へのこだわり、規律正しさ、完璧を求めるところ」を見習おうと決意する。
イギリスの植民地だったマレーシアには欧米崇拝が色濃く残り、当初この政策は評価が低かったという。
しかしマハティールは、200年をかけて発展した欧米に、極めて短期間に追いついた日本にこそ学ぶべきだという信念を変えなかった。
また、新型コロナの嵐が世界中を吹き荒れている中で、コロナ制圧で注目された国のひとつが台湾である。
その台湾で感染者の多い日本に対し、新型コロナ対策のトップから、「日本にはあの後藤新平はいないのか?」という声が聞こえたという。
後藤新平は、日本と台湾で伝染病の撲滅と公衆衛生の改善に辣腕を振るったばかりではなく、民政長官として台湾のインフラ整備を中心に近代化を行った。
それが、国家の衛生に繋がるという発想である。
後藤は1857年、現在の岩手県に生まれ、若干24才で愛知県医学校(現名古屋大学医学部)の病院長になった。
岐阜で暴漢に襲われた板垣退助を治療したのが後藤で、板垣をして「医者にしておくのがもったいない」といわせしめた。
日清戦争後、23万人もいた帰還兵に対し徹底した検疫を行い、国内への病原菌持ち込みを未然に防ぎ諸外国を驚かせた。
1898年、第4代台湾総督児玉源太郎の片腕として台湾に着任するが、当初、台湾はコレラやチフスなどの伝染病が蔓延する「瘴癘(しょうれい)の島」と呼ばれ清国も見放した島だった。
後藤は、生物学の原則に則のっとり病人を健康体にする方法で、台湾の風習や住民を尊重した上で、次々と大胆な政策を行った。
予防接種を義務化し、上下水道の敷設を行い、伝染病の予防に寄与した。
教育の充実を図り、医学校の創設も行い医療レベルを飛躍的に向上させた。
日本の習慣である「大掃除」を台湾に取り入れるため、大清潔法施行規則を定めて春秋2回の大掃除を住民に求めるというユニークなものもあった。
また、人口と土地の調査を行い租税徴収の基盤を整備、鉄道、港、河川等の整備も行い、銀行を設立し貨幣を統一した。
在籍した8年間で、あらゆる産業の基礎を作り、農業その他の産業を飛躍的に発展させ、治安を安定させた。
後藤は日本に先んじて下水道を台湾に導入しているが、その下水道整備で活躍したのは、後に「台湾水道の父」と呼ばれた 浜野弥四郎という若手の土木建築者だった。
2020年コロナ禍の中、台湾政府が素早い対中遮断を含めた水際阻止に加えて、濃厚接触者や感染者の追跡などのいわゆる疫学的調査などを極めてしっかり行ったことが、市中に感染が広がらない最大の要因であったことは間違いない。
そこには、オードリー・タンというひとりの天才の存在があったことも見逃せない。
現在の台湾の人々は、過去の「疫病の島」という「汚名」についてよく知っており、今回、新型コロナ対策が世界各国から高く評価され、完全に汚名を雪いで「防疫の島」として認められたことを、心から誇りに感じているという。
台湾人にとって衛生は、それほど大切なことであり、そこに台湾人が後藤新平を「父」と読んで尊敬する大きな理由がある。
ところで、後藤新平の幅広い人物交流のなかで欠かすことのできない人物が、杉山茂丸である。
杉山茂丸は山県有朋、井上馨らの参謀役を務め、とりわけ「台湾統治」、満鉄経営などの施策は、杉山が立案者で、後藤が実行者だとする見方さえある。
台湾総督府民政長官になったのは後藤は42歳で、杉山は35歳の若さである。
実は、その杉山家(杉山茂丸→夢野久作→杉山龍丸)は、もともと黒田藩の「馬廻り組」で、代々長崎街道「原田宿」において代官をつとめた家柄である。
面白いことに、久光製薬の発祥の地「田代宿」の次の宿場町が「原田宿」で、その次の宿場町がシーボルトが宿泊した「山家(やまえ)宿」なのである。
この杉山の書生に星一(ほしはじめ)という人物がいた。福島県磐城郡に出生し、幼名を佐吉といった。父親は村長や郡議会議長などを務めた知識人であった。
杉山茂丸と星一の二人はいわば師弟関係となるが、星一は台湾で入手したアヘンから苦労してモルヒネの抽出に成功し「星製薬」の基礎を築いた。
ちなみに、星一の息子が作家の星新一である。

我が地元「黒田藩」は「目薬」との関わりが深く、江戸時代には多くの名眼科医をだしている。
黒田藩はもともと、琵琶湖畔・賤ヶ岳近くの木の本町あたりに「源流」があったが、軍令にそむき近江を追われ(岡山)の備前長船に一旦落ち着く。
備前長船の地は刀鍛冶が多く目を病む者が多く「目薬」を作って売っていた。
6代目・黒田高政が流浪と貧困の果て没すると7代目重隆は広峰大明の神主の宣託により「目薬」の製造と販売をはじめ大きな富を築いた。
富を得た黒田氏は、ある種商人的発想で近燐の地侍や小豪族達を家臣に組み込んでいく。
そして備前福岡に移り一党を担って播磨に進出するのである。
黒田官兵衛(如水)の時代に、関が原の戦いでの功績により黒田家は九州北部の豊前にはいる。
豊前中津は後に藩医に前野良沢がでて幕末には洋学が発展した土地柄であった。
福沢諭吉の生誕地であることで知られる。
そして官兵衛の子・黒田長政の時代に中津から福岡にきた黒田藩は、高場順世をはじめとする眼科の名医に恵まれたのである。
天正期、日本で最初の医学校を開いたのはポルトガルの外科医ルイス・アルメイダである。
彼は晩年天草に住んだため、天草には古くからポルトガル系の治療法が伝わり、高場順世もその系列に属していた。
高場順世は、その後牢人の身としてさすらい、現在の福岡県粕屋郡須恵村に落ち着き眼科医を開業した。
高場順世の門下生・田原順貞、高場正節らが独立し、その医術を子孫に伝えていったのである。
というわけで須恵村は「眼療宿場」として栄え、目薬の里として世に知られるようになった。
眼医者では洗眼・点眼を繰り返し時には簡単な手術もおこなった。
効果を確かめるために、最低75日の滞在が要求されたために、「宿屋」が必要とされたのである。
村人が眼病人宿屋を兼ね、またある者は目薬の製造販売を行ったのである。
最盛期には、59軒の宿ができて人々は宿屋稼業・目薬販売・行商と忙しく働いた。
田原眼科の人気は高場眼科に優り、参勤交代の折に藩主に同行する機会が増えると、江戸で大名家に招かれて治療したためにその名声は全国に広がった。
今現在、須恵町に行ってみると、「田原眼科屋敷跡」の石碑が建っている。
石碑には田原眼科が江戸後期において大眼科であったこと、上須恵町が眼療宿場として繁栄したことが書かれてあり、59軒の宿屋の一つである「桝屋跡」が今も残っている。
また一方で、高場正節は藩医・岡家の名取養子となり「高場眼科中興の祖」とよばれている。
そして、高場眼科は上須恵町から博多の町に進出し、櫛田神社から萬行寺あたりの道に面してあったという。
我が地元・福岡には「薬院」という地名があり、その西2キロには福岡市植物園があるが、両者の関係はあまりないようだ。
薬院と関係が深いところといえば、むしろ東に約1キロの博多駅に近い全日空ホテルあたり(住吉4丁目)に「人参畑」とよばれた場所があったところだ。
黒田藩では、この地で高麗人参などの「薬草」をつくっていたことが、「薬院」という地名と関係が深いと推測される。
この場所には江戸末期に興志社、通称「人参畑塾」という私塾があった。この私塾を興した女傑・高場乱(たかばおさむ)は、高場正節の三男・正山の娘にあたる眼科医であった。
高場は頭山満など「玄洋社」につらなる人材をこの私塾で多く育てた。
なお高場正山の妻の姉ミチは、後の勤皇の歌人・野村望東尼の母である。
野村望東尼の家は、九電記念体育館跡地の近くに「平尾山荘」として今も保存されており、その墓は博多駅に近い吉塚の住宅街の中「明法寺」にある。
高場家や田原家を中心とした福岡における眼医者の繁栄もまた、日本史を「綾なす」ヒトコマといえる。

個人的には、杉山は政界の最重要人物・伊藤博文を「影で操っていた」という印象さえある。 そういえば、博多港近くにも「対馬小路(つましょうじ)」という地区があることを思い出した。
対馬の宗義智が、博多の町割りを行った秀吉より与えられた土地に、屋敷や倉庫を構えていたのがこの名の由来となっている。
この夏、屋久島を訪れると、フランス人やドイツ人の観光客が目についたのは少々意外だった。
宮崎駿監督がアニメ「もののけ姫」を制作するにあたり、屋久島の風景をかなり取り入れていることから、宮崎作品を通じてこの島の名を知った外国人も多いに違いないと推測した。
そして、目指す「縄文杉」へと向かう片道12キロの途中で、「ウィルソン株」というものに出会った。
それは昔、屋久島の住民が「年貢」として納めるためにスギの木を切りだした際に残った「切り株」なのだが、株内に潜り込んで或るポイントから空を写すと、空が「ハート型」に切り取られるため、特に若いカップルに大人気の「注目株」だという。
そこで、この「切り株」にナゼ外国人の名前がついているかが気になった。
調べてみると、アーネスト・ウイルソンというイギリス人「プラント・ハンター」の名前からつけられたということが判った。
「プラント・ハンター」とは新種の植物を探し出すことを仕事とする人のことで、ウイルソンは約2000種のアジアの植物を、ヨーロッパやアメリカに紹介し、尊敬と称賛を集めた人物である。
この人物の名前がこの「切り株」に付けられた経緯は後述するとして、屋久島にはもう一人の「異人」が足を踏み入れている。
その人の名は日本史の教科書にも載る「シドッチ」というイタリア人宣教師である。
江戸鎖国時代の1708年にフィリンピンのマニラから日本人に「変装」して島に潜入するも、背が高く色白のため、すぐに外国人だと見破られ捕まってしまう。
長崎に移送されて取り調べをうけ、さらには江戸の「キリシタン屋敷」に送られ、当時の幕閣の中心人物・新井白石の尋問を受けた。
シドッチは新井白石の理解によって厚遇をうけるものの、獄中で「伝道」したため独房に入れられ最後は獄死してしまう。
このシドッチとウイルソンという屋久島の土を踏んだ異人二人には、生きた時代、出身国、訪問目的などを見てもいかなる関係もないように見える。
しかし個人的には、この無関係に見える二つの異人の屋久島訪問には、遠巻きながら「繋がり」が感じられる。
つまり、シドッチが屋久島に潜入しなければ、ウィルソンが屋久島を訪問することはなかったかもしれないということだ。

我が地元・福岡には「薬院」という地名があり、その西2キロには福岡市植物園があるが、両者の関係はあまりないようだ。
薬院と関係が深いところといえば、むしろ東に約1キロの博多駅に近い全日空ホテルあたり(住吉4丁目)に「人参畑」とよばれた場所があったところだ。
黒田藩では、この地で高麗人参などの「薬草」をつくっていたことが、「薬院」という地名と関係が深いと推測される。
ところで、江戸幕府も現在の東京ドームに近い小石川の地で薬草を育てていたが、その場所が今日の東京大学付属「小石川植物園」となっている。
実は、冒頭で紹介したウイルソンは、1914年2月3日家族とともに来日した際、最初に何らかの情報を得ようと、当時東京帝国大学付属の「小石川植物園」を訪問している。
そこで、ウィルソンが耳にしたのが、日本の南端に位置する「屋久島」の名前だった。
その島には、太古の巨大スギがいまなお野生のまま生息していると聞き、ウィルソンは急遽予定を変更して、家族とともに日本探検の第一歩を屋久島からスタートすることにした。
さて、ウィルソンは1876年イギリス中西部の小さな村チッピング・カルデンで六人兄弟の長子として生まれた。家計を助けるために地元の園芸店で働き始め、16歳でバーミンガムの植物園の庭師見習いとして迎えられ、技術学校の夜間部に通いながら植物学の基礎を身につけていった。
人生の転機は22歳の時で、ロンドンの著名な種苗会社が中国に「プラント・ハンター」を送る計画があり、そこで当時王立植物園で働いていたウィルソンに白羽の矢を立てたのだ。
「プラント・ハンター」は、今だ未踏の土地において知られざる植物を発見し採集するのを目的に派遣される探検家であった。
チベットや四川省の楽山など中国奥深くまで調査を行い、ウイルソンの名前はアメリカでも聞こえるようになり、ボストンの社交界で尊敬されるようになり、"Chinese Wilson"と呼ばれるようになった。
しかし、4度目の中国行きで足を負傷し、フィィールドを生活の場としてきたウイルソンの心には隙間風がふいていたのかもしれない。
そんな折、ハーバード大学アーノルド植物園が用意してくれた未知の国・日本への家族をともなっての調査旅行は「気分一新」の意味合いが含まれていたに違いない。
さてウイルソンが屋久島調査で出会った「切り株」は胸高周囲13.8mにおよび、1586年、豊臣秀吉の命令により大坂城築城(京都の方広寺建立とも)のために切られたといわれる。
この切り株は、1914年ウィルソンにより調査され、ソメイヨシノなど多くの桜などの収集とともに欧米にに紹介され、後年この株は「ウイルソン株」と呼ばれるに至った。
こうした功績はアメリカで特に注目され、ウイルソンは1927年に、アーノルド樹木園の園長となった。
さらには、アメリカ芸術科学アカデミーの会員に選ばれ、ハーバード大学などから名誉学位を得ている。

小川笙船は町医者として、一度怪我や病気に罹ると運が悪ければ誰にも知られず、一気に奈落の底へという悲惨な現実を医療現場の最前線で嫌というほど見ていたといえる。
小川の「訴状」は17ヶ条からなり、貧しさから医療行為を受けられない人や身寄りのない者のための施薬院を設置するプランには、非常に具体的なものだった。
当時一流の幕府お抱えの医師(=官医)が診療にあたり、看護スタッフには健康でまだまだ十分に働ける高齢者を積極的に採用することなどが含まれていた。
ただ、シドッチは、時の幕政の指導者で儒学者の新井白石から、直接取り調べを受け、白石はシドッチの人格と学識に深い感銘を受け、敬意を持って接した。
シドッチもまた白石の学識を理解して信頼し、二人は多くの学問的対話を行った。
この対話の中で得られた世界の地理、歴史、風俗やキリスト教のありさまなどは、白石によってまとめられ世界地理の書「采覧異言」が書かれている。
やがて幕府は、シドッチをキリシタン屋敷へ「宣教をしてはならないという条件」で幽閉することに決定し、シドッチは囚人的な扱いを受けることもなく、二十両五人扶持という破格の待遇で「軟禁」された。
ところが、シドッチの監視役で世話係だった長助・はるという老夫婦が、木の十字架をつけているのが発見され、二人はシドッチに感化され、シドッチより洗礼を受けたと告白したことから、シドッチと共に、屋敷内の地下牢に移された。
その後のシドッチは、きびしい取扱いを受け、10か月後に衰弱死したのである。
とはいえシドッチは、日本にキリスト教を布教するという本来の目的は果たすことはできなかったものの、鎖国下の日本に国際世界についての「視野」を開かせる一つの契機となったのである。

偶然だが、10月21日(1714年)は、シドッチが亡くなった日、徳川吉宗が誕生した日(1684年)でもある。
明治時代に未知の国日本にやってきたアーネスト・ウイルソンが最初に向かったのが小石川植物園。そこで聞いた日本の南端の島の名「屋久島」。
江戸時代にその屋久島に現れた異人がシドッチ。そのシ ウィルソンは屋久島をはじめて世界に発信した人と位置づけられるが、こうした関係を追跡すると、シドッチの屋久島潜入がなかったならば、ウィルソンが屋久島を訪れることもなかったのかもしれない。