武漢と都城(みやこのじょう)

「ふるさと納税」で受入額の全国1位の自治体はどこか? 答えは、宮崎県・都城(みやこのじょう)。
一体どれだけの人が「正解」を答えられるだろうか。
都城市の受け入れ額は42億3100万円、受け入れ件数は28万8000件超。それぞれ全国トップの数字で、しかも連続1位を継続中だ。
都城に皆が支援したくなるような困った事情があるのかと思ったら、その真逆である。
「返礼品の魅力」こそがこの快進撃の理由である。
都城市は、財務相出身の市長の方針で、“日本一の肉と焼酎の産地”を強力にPRしてきた。
その努力に水を差して悪いが、そんな「ふるさと納税」をこのまま放置してよいのだろうか。
そもそも都城をPRするなら、「推しどころ」は他にもあるだろうに。
「島津」と聞くと、鹿児島というイメージだが、実はそのルーツは都城(みやこのじょう)なのだ。
平安時代に「島津荘」というよばれる地域があり、都城を中心に国内最大級の荘園が置かれていた。
1185年3月、源頼朝は、弟の義経らの力を借りて、壇の浦の合戦で平家を滅ぼし実権を握った。
そこで、頼朝は同年8月、島津荘(しまづのしょう)の下司職(げすしき=荘園の管理人)に「惟宗忠久」(これむね ただひさ)を任命した。
その後、忠久は日向・大隅・薩摩3か国の守護と島津荘の地頭(じとう)を兼ねるまでになっていった。
そして忠久は、自分が治める荘園の名前をとって「島津忠久」と名乗るようになる。
この「忠久」こそが南九州の覇者となる島津家の祖となる人物である。
忠久は、都城の「祝吉(いわよし)」に館を造って移り住んだといわれ、今もその跡地と伝えられる場所「祝吉御所」に顕彰碑が立てられている。
どこにもある住宅街の中に、堂々とした顕彰碑が立っていて、こここそが「島津家発祥の地」という石碑が立つ。
南北朝時代にはいると、島津本家4代忠宗の6男の「資忠(すけただ)」が、足利尊氏より合戦の恩賞に都城内の「北郷」という地を授かり、「北郷資忠」を名乗る。
その2代め北郷義久の時代、1375年に北郷氏が現在の「都城歴史資料館」(都城市都島町)のところに城を築いた。
その城を「都島にある城」ということから、「都城(みやこのじょう)」という地名となった。
この北郷家が「都城島津家」を名乗るが、江戸幕末で討幕の中心勢力となる「薩摩島津家」は、島津本家4代忠宗の嫡男・貞久の流れである。

都城をPRするに、もうひとつの有力な材料がある。それが、中国・武漢との関係である。
世界的に新型コロナウイルスの発生源として取り沙汰されている中国の都市と都城がどう関わるのか。
実はこの関わりこそが都城市を「ふるさと納税全国1位」に押し上げたといってよい。
中国武漢は、長江水域の漢口、武昌、漢陽の「三鎮」を統合した、広い都市圏を持つ「内陸」有数の大都会である。
武漢は、中国の歴史に深く名を刻んだ都市でもある。
1911年10月10日、中国同盟会が指導する清朝政府に対する蜂起が武昌城で勃発。歴史上「武昌蜂起」と称され「辛亥革命」に発展。
1926年、国民革命軍による「北伐」が始まると、国民軍は武漢を占領し「武漢国民政府」を成立させた。
この武漢国民政府は翌年「南京国民政府」と合流し解消されている。
そして北伐軍が「武昌」を占領した際に、武昌・漢陽・漢口の「武漢三鎮」が合併して「武漢市」が成立したのである。
さて、歴史上名高い「赤壁の戦い」が行われた古戦場は、武漢より南方の上流、岳陽より北方に位置するとされている。
大小の河川と無数の湖水沼沢の上に浮かんだ武漢は要害の地であるが、水陸の連携がなければ守ることも攻める事も難しい。
長江に漢水がほぼ直行して注ぎこむことで、”T”字に地域が分割され武漢の基礎となった「漢口鎮」「漢陽鎮」「武昌鎮」の領域に三分されるのである。
三国時代にこれらの大河川に架橋する技術はなく、すべての領域を支配するには水上輸送と水軍の力が必要である。現在の武漢市と鄂州市の境界付近には孫権軍の大部隊がおり、この周りに商人が集まり「武昌」と呼ばれる都市を形成した。伝承では孫権が「武運昌盛」の意をこめて武昌と命名したと伝わっている。
この広大な一帯は、その昔の後漢から三国時代には、”江夏(こうか)”と呼ばれ、実際に、「江夏区」という武漢市の行政区画に地名が残っている。
時代を下って1646年、明末の乱をさけて、中国広東洲より、船を出して薩摩の国内之浦に入港した一団があった。
鹿児島県・内之浦は当時都城藩の「飛地」であったが、この一団の中に漢方医・何欽吉(かきんきつ)がいた。
彼らは志布志を経由して都城の唐人町に入居する。
欽吉は漢方の医者としてかなり功績があり島津家に仕えていた。
その一団の一人が 江夏七官で武漢(江夏)を出身地とするが、その出身地まつわる日本名を名乗り都城に住み始めた。つまり、この江夏七官が「江夏家第一代」である。
江夏の祖先は漢学者であったらしく島津家で漢学を教えていた。
江夏七官は日本人と結婚した後、都城市三股町梶山に住み、そこに氏神様を祭って大切にしていた。というわけで都城には江夏の子孫が多く住んでいる。
都城市営「西墓地」の北側に黒い自然石で墓石があり、これが「何欽吉」の墓である。
なんと、「西墓地」に石材や墓石を提供している「江夏石材」という看板をみつけた。
1916年、「霧島酒造」は創業者の江夏吉助が、都城で芋焼酎の製造を始めたのが会社の起源である。
1955年、工場近くで掘り当てた天然水を「霧島裂罅水」(きりしまれっかすい)と命名し、それ以降は一貫して「霧島裂罅水」で仕込んだ焼酎を中心に作り続けている。
「乙類焼酎」を「本格焼酎」の名称・表示にすることを提案したのは、二代目社長・江夏順吉で、1957年に熊本県で開かれた「九州旧式焼酎協議会」での会議で「本格焼酎」の名称使用を提唱した。
そして、1962年の大蔵省令により法的にも「本格焼酎」の呼称が正式に認められた。
江夏順吉は地方酒造会社の跡継ぎながら、東京帝国大学(現・東京大学)工学部で応用化学を学んだ学者肌の人物でもあり、自ら焼酎のブレンディングや蒸留機の改良などに取り組んだ。
しかし、3代目社長の江夏順行の経営体制下では、順吉時代の高品質路線を継承しつつ、芋焼酎の臭みを押さえた新商品「黒霧島」の開発と営業拡販に努め、2000年代の焼酎ブーム期にも着実な事業拡大を継続した。
その結果、2012年には売上高が500億円超となり、本格焼酎メーカーで売上高日本一となっている。
ところで「江夏」という姓に、元阪神タイガースのエース江夏豊を浮かべる。
実際に江夏豊は、鹿児島県出身の母親が、大阪大空襲で疎開した奈良県吉野郡で父親と知り合い、そこで生を享けた。
間もなく両親が離婚し父も失踪したため、生後半年で鹿児島県市来町の母の実家に移って5年間を過ごしている。
その後、母と二人の兄と共に兵庫県尼崎市に移り、高校 卒業まで尼崎で育っている。
母親が鹿児島の「江夏」姓を名乗っているので、先祖は中国武漢(江夏)をルーツとする可能性が高い。

1644年 徳川家光の時代、中国では李自成が反乱を起こして北京を占領したため、明の崇禎帝が自殺し明は滅びた。
その後、満州族(女真族)の世相・順治帝が即位して「清朝」が成立し、中国における漢民族の歴史が終わった。
しかし、「明朝復活」をはかろうという遺臣達がいた。
その一人が明の武将・鄭成功(ていせいこう)で、海上経営を行っていた父親を引き継ぎ、清に降伏したのちも海上権を守って、大陸に「反攻」を試みようとしていた。
鄭成功はあえなく39歳の若さで台湾で急死したため、明末の儒者であった朱舜水(しゅしゅんすい)は「明朝復興」を諦めざるをえず、日本に亡命した。
そして長崎の地で朱舜水と最初のコンタクトをもったのが、福岡柳河藩の安東省庵(あんどうしょうあん)であった。
安東が京都で朱子学を修めている時、日本に亡命している朱舜水の情報を得てさっそく長崎に赴き、朱と会談して「師弟」の交わりを持った。
この時、安東は朱が日本に居住できるよう長崎奉行に働きかけ、柳川の地にあって6年もの間、自分の俸禄の半分を朱舜水のために送りその生活を支えた。
そのうち、明朝を救おうとした「大義の人」朱舜水の名は江戸にも届いた。
朱舜水ははや60を過ぎ、五代将軍・家綱の時代になっていた。ここで動くのが4代家綱の叔父、水戸光圀(水戸黄門)である。
水戸藩は「江戸定府」の定めにより、藩主の光圀は江戸小石川すなわり現在の東京ドーム近くの水戸藩上屋敷に居る事が多く、朱舜水は駒込に邸宅を与えられ、光圀に儒学を講義した。
ところで朱舜水の教えは朱子学と陽明学をベースにした「実学」で、藩内の教育・祭祀・建築・造園・養蚕・医療にも及んだ。
光圀は庭園の造成に当たっても朱舜水の意見を用い、円月橋、西湖堤など中国の風物を取り入れた。
後楽園の名は、中国の范仲淹(はんちゅうえん)「岳陽楼記」にある「先憂後楽」から名づけられた。
「民衆に先立って天下のことを憂い、民衆がみな安楽な日を送るようになって後に楽しむ」という光圀の政治信条によったものといわれているが、朱舜水こそ「後楽園」の名の提案者である。
現在東京ドームがある場所にあった「後楽園球場」における圧巻は、巨人・王貞治と江夏豊の対決ではなかっただろうか。
江夏豊の風貌とかプレーばかりではなく、その生き方が薩摩隼人を感じさせるものがある。よくいえば「美学を貫く」、悪くいえば「頑ななまでに不器用」。
江夏豊が巨人戦に初めて登板したのは、1967年5月31日後楽園球場のゲームであった。
リリーフの大役が廻って来た高卒ルーキー江夏は、怖じることもなく当時5年連続本塁打王の大打者・王貞治と対戦し、三球三振で斬って取った。
この時はじめて「プロでメシが食える」と自信がついたと、回想している。
そして先輩の村山実が長嶋茂雄との対決にこだわったように、王貞治との対決にこだわった。
そして王との対決ではほとんどストレート真っ向勝負にこだわり続けた。
そして江夏が、生涯でもっとも本塁打を多く打たれたのも王貞治であった。
その一番のエピソードは1970年6月11日。通算1000奪三振記録を「王さんから獲る」と志願の登板。王に対し「ストレートの握り」を見せて勝負を挑んだ。
しかしその王に2ホーマーを打たれ、新聞は「個人記録に拘り、チームの勝利を犠牲にした」と批判した。
また1968年には401奪三振世界記録を樹立するが、日本タイ記録である353個目の三振を王から奪った。
さらに「新記録は王さんから獲る」の公約を守るため打者一巡「三振を獲らずにアウトだけを獲る」という曲芸をやってのけ、実際に新記録の354個目の三振を王から奪った。
こうした江夏は、「勝ち負け以上のものがあること」をプレーで示したサムライともいえる。
わが心の内に中国をルーツにした「役者」がそろった感がある。
王貞治のルーツが浙江省なら、江夏豊のルーツは湖北省。そして、両者の対決の舞台は、明末の亡命者・朱舜水が名付け親となった「後楽園」球場。
脳裡に、中国の伝統劇「京劇」の舞台が閃いた。
「京劇」とは、清朝・北京を中心に発展した中国の伝統的な古典演劇である戯曲のひとつである。
京劇の一番の見せ場は、銅鑼の音が伴なった「顔面切り替え」。
その秘技は、中国の国家機密とさえいわれている。
京劇において「一瞬」にして顔面が切り替わるのは、「一球」で局面が変わる投手と打者の駆け引きを思わせる。
日本刀の素振りで一歩足打法を磨いた王と、野球界のラストサムライ・江夏との真っ向勝負は、「京劇」の舞台さながらであったに違いない。

我が地元・福岡と宮崎県「高鍋市」との関係にも、歴史上面白いものがある。
福岡藩を興した黒田長政はその死に際して、三男の長興に5万石を分知するよう遺言した。
この遺言に基づき1623年8月、福岡藩を継いだ兄・忠之から長興に、秋月で5万石の分知目録およびの名簿が渡され、ここに長興を藩主とする「秋月藩」が誕生する。
長興は1610生まれで、少年期から聡明で、父の長政は何かと不行跡の多い長男・忠之よりも三男・長興に世継ぎの期待をかけていたともいわれている。
長興は1624年7月に秋月に入り、梅園(現在の秋月中学校)にあった古い屋敷に普請を加えて居城(御館)とした。
城下町の縄張り(都市設計)が行われ、武家屋敷や町家の建築が進み、当時の槌音高い秋月町の賑わいが想像される。
このように、秋月氏はもともと「筑前秋月」を領していたが、豊臣秀吉の九州征伐のとき、時の当主・秋月種実が秀吉に恭順を示し、これにより日向国串間3万石に移封された。
関ヶ原の戦いのとき、秋月種長は西軍に与して岐阜大垣城を守備していたが、関ヶ原本戦で西軍が壊滅すると、いち早く東軍に寝返って大垣城にあった西軍の諸将を殺害して開城したため、所領を安堵された。
その後、1604年に居城を財部城(高鍋城)に移し、正確にはこの時点より「高鍋藩」が成立する。
江戸時代中期、6代種美の「次男」は米沢藩(上杉家)にはいった。この人物こそ、名君として有名な上杉鷹山(ようざん)である。
その兄に当たる7代種茂も、高鍋藩の歴代藩主の中の名君として治績を上げ、1778年には「藩校明倫堂」を開いている。
結局、筑前秋月をルーツとする秋月家は10代にわたって「高鍋」を支配し、明治時代に至った。
鷹山は高鍋藩主・秋月種美(たねみつ)のニ男として江戸屋敷で生まれた。
幼名は松三郎、または直松で、16歳に元服して治憲(はるのり)と改名した。そして、1769年に19歳の時に東北・米沢へ入部している。
35歳で家督を譲り、自ら「鷹山」と名乗り、生まれた子・治広(はるひろ)には第10代米沢藩主を継がせた。
上杉鷹山は反対勢力に押されながらも「大倹約令」を実行し、米沢の財政を立て直し発展の基礎を築いた人物である。華美な生活は一切せず、質素倹約な生活を自ら行い藩の手本として生涯続けた。
ケネディ大統領就任の際に、最も尊敬する人物は誰か聞かれ「上杉鷹山」をあげた。
どうしてケネディがその名を知ったのかが謎だが、一応、内村鑑三の英語版「代表的日本人」には鷹山のことが紹介されている。
財政改革では自分を例外とせず、障害のある正室を大切にし、無用と思われた藩士の才を生かし、産業を育成し、国中が豊かさに満ち溢れた。
70年の長寿を生き、民はその死を祖父母のように悼んだ。

 福岡藩を興した黒田長政はその死に際して、三男の長興に5万石を分知するよう遺言しました。この遺言に基づき元和9年(1623年)8月、福岡藩を継いだ兄・忠之から長興に、秋月で5万石の分知目録および2人の付家老と47人の付属する家臣(御付衆)の名簿が渡され、ここに長興を藩主とする秋月藩が誕生しました。長興が14歳のときでした。  長興は慶長15年(1610年)生まれで、母・永子は徳川家康の養女(親戚の保科正直の娘)です。幼名を犬万といいましたが、少年期から聡明で、父の長政は何かと不行跡の多い長男・忠之よりも三男・長興に世継ぎの期待をかけていたともいわれています。長興は13歳のとき、祖父・官兵衛孝高(如水)の名をもらって勘解由孝政を名乗り、23歳で長興と改めました。 長興が大名として認められ秋月藩が公認されるためには、江戸に出て将軍に拝謁し、所領安堵の御朱印を拝領することが必要です。そのため秋月では家老の堀平右衛門たちが長興の江戸参府を計画しました。ところが、福岡本藩から長興の江戸参府を禁止する命令が届きます。これは兄・忠之が弟・長興を家来として処遇し、秋月の5万石は福岡藩領内の一部であると解釈するもので、秋月側としては承服できないことでした。  長興は、この命令を拒否して江戸参府を強行しました。福岡藩の監視の目をかすめて、僅か十数人の供回りで密かに秋月を出立し、夜陰に小さな漁師船で関門海峡を渡るなどの苦労を重ねて江戸に到着しました。寛永3年(1626年)正月に、長興は三代将軍・徳川家光と前将軍・秀忠への拝謁が許され、同年8月には朝廷から甲斐守に叙任されて正式に大名に列座することができました。  このあと長興は、江戸に滞在して将軍上洛のお供をしたり江戸城警備や幕府普請の手伝いなどをして将軍家への忠勤に励み、ようやく寛永11年(1634年)に秋月領5万石の朱印状を賜ることができました。孝政から長興と改名したのもこのころで、黒田長政血縁の新しい藩を立派に興そうとする決意がくみとれます。 ●藩政の基礎固め  このころ国元の秋月では、城下町の建設が進み。併せて新しい家来の雇い入れが行われ、藩の行政組織や藩士の役割編制がなされました。ちなみに長興時代の家臣の数は(詳細にはわからないものの)、馬廻・無足・組外等の上士身分の者が100人、徒士・郡方・目付等の下士身分の者が150人、足軽身分の者が300人くらいであったと考えられます。  このような藩の仕組みを整える過程で、その仕事の中心にあったのが上席家老の堀平右衛門(知行5000石)ですが、次第に彼の独断専横が目立つようになり、家臣の中に不満の声が出てきました。このことで藩主・長興から厳しく叱責された堀平右衛門は秋月藩を退去してしまいました。同時に堀一派の十数人も集団で脱藩し、藩内に大きな動揺が起こりました。しかし、長興は19歳の若年ながら沈着冷静に対処してこの混乱を見事に収拾し、家臣領民の信望を集め藩政の基礎を固めていきました。 ●島原の乱に出陣  寛永14年(1637年)10月、島原の乱が起こりました。天草四郎を総大将に奉じた一揆3万人余が島原半島の原城に立て籠もって、領主の過酷な重税とキリシタン弾圧に抵抗して反乱を起こしたのです。この乱の鎮圧に幕府は、九州の諸大名に号令して12万人もの大軍を動員しました。  寛永15年(1638年)1月、幕府の命令を受けた黒田長興は、約2000人の兵を率いて島原に出陣しました。同年2月末の原城総攻撃のときに秋月勢は奮戦しましたが、このときの長興の泰然とした大将ぶりと的確な采配は、家臣たちに勇気と安心を与えました。  この乱は激しい戦闘の末に鎮圧されましたが、秋月勢は戦死者35人と負傷者345人を出しました。秋月に帰陣後、戦死者の葬儀を盛大に執り行い、遺族や負傷者への見舞いを懇篤にしました。また、各人の働きに応じた褒賞が適切公平であったので藩主・長興に対する家臣たちの敬愛は絶対的なものになりました。 さらに「閨閥」をナゾルと、武見太郎夫人英子の妹・治子は日本ケミカル会長の黒田慶一郎に嫁いでいる。
現天皇の長女・黒田清子さんの夫黒田慶樹氏の伯父に当るのが黒田慶一郎氏である。
「山科鳥類研究所」は秋篠宮が総裁で、その妹にあたる黒田清子さんとも関係が深い。
ところで「鳥の殿様」とよばれた黒田長禮が出た福岡の大名家黒田氏と関係が有るのかと思われがちだが、両者には関係はないということを付言しておきます。

例えば11代黒田長溥は、薩摩藩・島津重豪の子で、開明的な島津斉彬の大叔父にあたるが、実際には黒田長溥と島津斉彬とは年が近く兄弟のような付き合いをしていたという。
自然に長溥は、薩摩の「開明」性を福岡に持ち込んだのである。
黒田長溥は、シーボルトに直接、医学の指導を受けたことがあるし、さらに養子の黒田長知が岩倉使節団として海外留学をする際に、藩士の中から大日本帝国憲法の起草者である金子堅太郎、あるいは後に三井財閥を率いる団琢磨(作曲家・団井玖磨の祖父)を同行させた。
黒田長溥は種痘の実験を行った際に、団琢磨の兄を誤って死に至らしめている。その「罪滅ぼし」的な部分が団琢磨の海外派遣に込められていたのかもしれない。
黒田家が今もって「鳥」の研究と関係が深いのは、東京赤坂にあった黒田藩邸に鴨池があって鳥と親しんできて、明治にはいって黒田長禮(ながみち)は「鳥の殿様」といわれるほどであった。
後にこの鴨池は、その名もズバリの「羽田」に移され、現在は羽田空港の滑走路になっている。
ところで11代黒田長溥は、国事との関連である重要な役割を果たしている。
今日、日本の国旗「日の丸」は、幕末の1854年「日本総船印」という限定つきの形からはじまった。
幕末には、多くの欧米各国の船舶が日本にやってきたし、わが国でも洋式船を保有することになったので外国船との区別をはっきりするため、「国旗の制定」がせまられていたのである。
稲作中心に生活し太陽の恵みに感謝してきた日本人は、古来より皇室の元旦・朝賀の際にも「太陽を形どった旗」を掲げてきた。
幕末こうした「日の丸」を「日本総船印」として用いるように幕府に強く建議したのは薩摩藩主・島津斉彬で、幕政の実力者であった水戸藩主・徳川斉昭もこれに賛意を示したのである。
ところで「日の丸」を染める「赤」を染めるための染料と技術をみつけるのが容易ではなかった。
第8代薩摩藩主・島津重豪は、彼の九男であり福岡五二万石の養子となっていた福岡藩藩主・黒田長溥に相談したところ、福岡藩内で現在の筑穂町に古くから伝わる「筑前茜(あかね)染め」を知った。
そこで福岡藩、穂波郡山口村茜屋に家臣をつかわして古くから伝わる茜染めの技術を修得させ「日の丸」を染めさせた。
そして福岡藩で染められた「日の丸」が第11代薩摩藩主・島津斉彬を通じて老中・阿部正弘に提出され、「日の丸」国旗制定の基となったのである。
日本で最初の洋式軍艦「昇平丸」のマストに、わが国最初の国旗「日の丸」の旗がひるがえった。
ところで筑前茜染は、野や山に自生する多年生ツル草の、茜草の根を染料とする染め技法で、江戸時代初期、筑穂町茜屋地区の染物師が偶然発見し、「黒田藩の秘宝」として幕末まで守り伝えてきたものであった。
福岡県・大宰府から筑穂町に抜ける「米の山峠」を車で20分程のぼると「筑前茜染めの碑」がたっている。
それは江戸時代末期、国旗制定の基となった「日の丸」の旗を、我が国ではじめて染め上げた筑前茜染めの偉業を讃えて建立されたものである。
そこには鮮やかな「日の丸」を染め上げた17代松尾正九郎の墓と、当時、茜染めに使った「さらし石」、記念碑と「さらし石」とを結ぶ遊歩道が整備してあった。
以上のような経過で染められた幕末の国旗は、わが国の船が他国の船とまぎれぬための「総船印」といういわば「限定的」なものであったが、明治になって西洋文明との接触がはじまると積極的な意味での国旗が必要になってきた。
そこで1870年太政官布告で新政府は「日の丸」を国旗として正式に認め、日本の近代国家としての発展と帝国主義的傾向の強まりから日清・日露戦争へと突入する過程の中で「日の丸」は常に国家の表象として翻ってきたのである。
日本の「国旗制定」には、島津重豪と黒田長溥という「親子ネットワーク」が大きく関わっていたのである。