聖書の人物から(水瓶をもっている男)

新約聖書に、次のような出来事が記されてある。
除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊をほふる日に、弟子たちがイエスに尋ねた、「わたしたちは、過越の食事をなさる用意を、どこへ行ってしたらよいでしょうか」。
そこで、イエスはふたりの弟子を使いに出して言われた、「市内に行くと、水瓶を持っている男に出会うであろう。その人について行きなさい。そして、その人がはいって行く家の主人に言いなさい、『弟子たちと一緒に過越の食事をする座敷はどこか、と先生が言っておられます』。
するとその主人は、席を整えて用意された二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために用意をしなさい」。
弟子たちは出かけて市内に行ってみると、イエスが言われたとおりであったので、過越の食事の用意をした。(マルコの福音書14章)
実はこの場面、レオナルド・ダヴィンチで有名な「最後の晩餐」の場所を探している場面なのである。
ところで、現在でもユダヤ教徒は昔とかわらず厳格な戒律を遵守している。
日本人と似ているのは水を様々な場面で、洗うためだけではなく、「きよめ」として用いていることである。
「念入りに手を洗ってからでないと、食事をしない。また、市場から帰ったときには、身ををきよめてからでないと食事をせず、なおその他にも、杯、水差し、銅器を洗うことなど、昔から受け継いで堅く守っていることが、たくさんあった」(マルコの福音書7章)。
当然ながらたくさんの水が必要で、家族の若い女性の重要な役割に〝水汲み”があった。
そのため女性達は、朝早いうちに、「水瓶」を肩にのせて、井戸までを汲みに行くことが日課であった。
自然と「井戸端会議」なるものが生じたに違いない。
イエスは、サマリアの町をとおりかかりヤコブの井戸というところで休んでいた時に、水汲みに来たひとりの女性と出会う(ヨハネ4章)。
イエスが「水をください」というと、女は逆にサマリア人の自分にどうして声をかけるのかと訊ねる。
当時、ユダヤ人とサマリア人は仲が悪く話をすることさえしなかったからだ。
その時の時間は「第6時ごろ」とあるので、正午ぐらいの時間、水をくむには遅すぎる時間である。
この女性は、ほかの女の人たちと顔を合わせるのを避けようとしたかもしれない。
というのもイエスが、「あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではない」と言い当てた、そんな事情があったからだ。
女性は、初対面なのに自分の人生を言い当てたと素直に驚いているが、イエスは女性が水を与えてくれたことに対して、「自分は永遠に至る水を与えることができる」と語っている。
すると、女性は「自分がこの井戸まで水を汲みにこないで済むように、その水なら与えて欲しい」とこれまた素直すぎる反応をしている。
イエスのいうところの「永遠の水」とは、人間のうちから溢れ出る「聖霊」を指している。
さて、聖書には、「水瓶」を肩に載せて運ぶ女性の話については、もっと「めでたい話」がある。
ヘブライ民族の租アブラハムは、年頃になったイサクのために、年頃の娘を探す為、故郷メソポタミアへ忠実な家僕エリエゼルを差し向ける。
自分の息子イサクの妻にはカナン人でなく、自分の故郷つまりメソポタミヤのカルデア(新バビロニア)の女性を迎えたいと思っていたらしい。
アブラハムの住むヘブロンから故郷ハランまで、直線距離にして800キロで、ラクダでおおよそ1か月の旅である。
家僕エリエぜルは長旅の末にたどりついた町外れの井戸の傍らに休み、次のように祈る。
「今日わたしを顧みて、主人アブラハムに慈しみを示してください。この町に住む人の娘たちが水をくみに来たとき、その一人に、『どうか、水瓶を傾けて、飲ませてください』と頼んでみます。その娘が、『どうぞ、お飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう』と答えれば、彼女こそ、あなたがあなたの僕イサクの嫁としてお決めになったものとさせてください。そのことによってわたしは、あなたが主人に慈しみを示されたのを知るでしょう」。
家僕がまだ祈り終わらないうちに、ひとりの女性が「水瓶」を肩に載せてやって来た。
家僕は、「水瓶の水を少し飲ませてください」と頼むと、彼女は、「どうぞ、お飲みください」と答え、すぐに水瓶を下して手に抱え、彼に飲ませた。
彼が飲み終わると、彼女は「らくだにも水を飲ませてあげましょう」と言いながら、すぐにかめの水を水槽に空け、また水をくみに井戸に走って行った。
彼女は10頭のらくだすべてに水をくんで与えたが、それはかなりの重労働であったことであったであろう。
家僕は、この美しい女性こそが神が選んだ女性であると確信し、家に泊めてもらえないかと尋ねた。
すると彼女は名前をリベカといい、アブラハムの弟の孫にあたることが判明した。
アブラハムが望んでいた条件が「親族の中の娘」であったので、条件に合っていた。
家僕はそのような娘の処に導いて下さったことを神に感謝したが、この結婚は、その家族とリベカ本人の了解なしには実現しない。
家僕は娘の父ベトエルと兄ラバンと会いそのことを確かめると、二人は「このことは主の御意志ですから、わたしどもが善し悪しを申すことはできません。主がお決めになったとおり、御主人の御子息の妻になさってください」と答えた。
肝心のリベカもそのことを受諾したため、家僕は神に大感謝をささげリベカと共にアブラハムとイサクの待つカナンへと旅立つ。
そして、家僕はアブラハムの元に戻り、自分とリベカとの出会いの経緯をすべて報告した。
イサクもこの結婚が神によって整えられたことを納得し、リベカを妻に迎えることにした。
ちなみに、イサクとリベカはこの間、一度も顔あわせをしてはいない。
とはいえ、イサクは妻リベカによって亡くなった母サラに代わる「慰め」を得たばかりか、イサクはリベカを深く愛した。

冒頭の場面つまり、(最後となる)晩餐の準備をしていたペトロとヨハネの兄弟は、街中にはいって「水瓶をもった男」という言葉だけを頼りに、エルサレムに行った。
するとペトロとヨハネは迷うこともなくその男にたどりつき、後を追って男が入った先の主人に「先生が過越の食事をする場所はどこかとあなたに尋ねておられます」とだけ言った。
するとその家の主人は、すべてを察したかのように、さっそく二人をある二階座敷に案内したのである。
二人が行ってみると、イエスが言われたとおりで、そこで過越の食事を準備をしたのである。
それにしても、どうして話がこれほどとんとん拍子に進んでいくのだろうか。
また、この家の主人は、どうしてすべてのことを知ったかのように、主の用にかなう場所を提供したのであろうか。
それは、アブラハムの家僕エリアザルとリベカとの出会いにもいえることだ。
こうした出来事から想起されるの場面がサウロとアナニヤが出会う場面だ。(使徒行伝9章)
パウロ(サウロ)は、当時、十字架に架けられて死んだイエスをキリスト(救い主)と信じるクリスチャンたちに憎悪を抱き、キリスト迫害に加わっていた。
非常な怒りと殺害の意に燃えてエルサレムからダマスコという町に向かって旅をしていた。
青年サウロは、イエスを信じるというクリスチャンがユダヤ教のしきたりを破ったりすることを教えていると聞いて、その正義感から許すことができず、クリスチャンであれば、男でも女でも見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためにダマスコの町に向かって旅をしていたのである。
そして、ダマスコの町の近くまで来たとき、突然、天からの光(復活されたキリストの栄光)が彼を巡り照らした。
彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞く。
サウロが「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町にはいりなさい。
そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです」との答えがあった。
そして、サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなくなっていた。
そこで同行していた人々は彼の手を引いて、ダマスコへと連れて行った。
彼は3日の間、目が見えず、また飲み食いもしていなかった。
さて、ダマスコの町にはアナニヤという弟子がいたが、神はアナニヤに、幻の中で、「サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています」と命じた。
しかし、アナニヤは神に対して、サウロがエルサレムで、クリスチャンたちにどんなにひどいことをしたかを訴えた。
しかし、神は彼に次のように言われた。
「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです」という答えがあった。
そしてアナニヤはサウロと出会い、手を置いて祈ると、サウロの目からうろこのようなものが落ち、目が見えるようになった。
アナニヤとサウロの出会いは、その前から準備が整っていたのだ。
ちょうどヨハネやヤコブが「水瓶をもっている男」と出会って「晩餐」の場所に導かれた時のように。
そもそも、「過越の食事の準備」を任せられたペトロにしてもヨハネにしてもガリラヤ出身で、エルサレムには祭りの時以外には訪れることはほとんどなかったにちがない。
イエスから「エルサレムにいって、水瓶をもっている男に出逢うだろう。その人に頼みなさい」といわれても、雲を掴むような話しだったに違いない。
しかし、「主の山に備えあり」である。

聖書の奥深さは、先の出来事が数百年、もしくは数千年後の「預言」であるかのように起きることである。
つまり、預言とは預言者によって言葉で語られるものだけではなく、先の出来事が、来たるべき出来事の「預言」であるかのように起きているのだ。
リベカの「嫁さがしの場面」は、どこか「イエスとサマリアの女の出会い」の場面を想起させるものがあるのではなかろうか。
しかし、「出来事」を通じてなされる預言の一番の典型が、アブラハムがイサクを神に燔祭(生贄)としして捧げようとする場面である。
実は、この出来事が起こった山こそは、神の子羊ともよばれたイエスが「人類の罪の贖い」として十字架の刑に処される場所なのである。
ところでサウロに起こった「目からうろこ」や「豚に真珠」とかという日常語は意外にも聖書に由来する。そして「主の山に備えあり」という言葉は日本ではそれほど馴染んでないが、外国ではよく知られたたとえである。
「主の山に備えあり」という言葉は、旧約聖書「創世記22章」に次のような出来事に由来する。
神はアブラハムを試みて彼に言われた、「アブラハムよ」。彼は言った、「ここにおります」。
神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。
アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。
三日目に、アブラハムは目をあげて、はるかにその場所を見た。
そこでアブラハムは若者たちに言った、「あなたがたは、ろばと一緒にここにいなさい。わたしとわらべは向こうへ行って礼拝し、そののち、あなたがたの所に帰ってきます」。
アブラハムは燔祭のたきぎを取って、その子イサクに負わせ、手に火と刃物とを執って、ふたり一緒に行った。
やがてイサクは父アブラハムに言った、「父よ」。彼は答えた、「子よ、わたしはここにいます」。イサクは言った、「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」。
アブラハムは言った、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」。こうしてふたりは一緒に行った。
彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。
そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、 主の使が天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。彼は答えた、「はい、ここにおります」。
み使が言った、「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。
この時アブラハムが目をあげて見ると、うしろに、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいた。
アブラハムは行ってその雄羊を捕え、それをその子のかわりに燔祭としてささげた。
それでアブラハムはその所の名を「アドナイ・エレ」と呼んだ。
それは「主の山に備えあり」という意味である。

「水瓶を肩に載せて運ぶ女性」は、古代イスラエルの風物詩のようなものにちがいない。
したがって「水瓶をもっている男」というのは、幾分違和感がある。
しかし、それは「過越し」というユダヤ人最大の祭り(除酵祭第一日)における出来事なので、ハレの日のことは日常(ケ)の風景と異なっていたのであろう。
その点で参考になるのは、「水瓶」が登場する結婚式というハレの場面である。
新約聖書の「カナの結婚式」の場面で、イエスは親族のひとりとしてこの結婚式に出席していたのだ。
「ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。……さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水瓶が六つ置いてあった」(ヨハネの福音書2章)とある。
「きよめのしきたり」で使われる水瓶は大小あって、女性達が日々に運ぶ水瓶よりも、大きなものであったことが推測できる。
結婚式が進んでいくと葡萄酒がなくなっていく。
しもべがそのことをイエスに告げると、イエスが水瓶に水を満たしなさいと命じた。
しもべ達がそのようにすると、驚いたことに水瓶の水が濃厚で芳醇な「葡萄酒」に変ってしまったのだ。
この結婚式で、水が葡萄酒に変ったという奇跡を認識できたのは舞台裏にいて水瓶に水を満たしたしもべ達だけで、「水をくみししもべは知れり」(マタイ8章)と告げている。
聖書全般を読めば、葡萄酒は「イエスの血」を意味するので、「水が血に変わる」ということ。
これは洗礼を受けることの意味を示し、「イエスの血」をもって罪がきよめられるということを意味する。
これよ千年以上も前に、モーセが杖をナイル川に差すと水が血の色に変った出来事が、後の出来事(カナの結婚式)の預言となる一例である。
さて、冒頭の「水瓶をもった男」は、過越祭のきよめのしきたりに沿って、カナの結婚式で使われたような大きめの水瓶を運んでいたのにちがいない。
だとすると、(最後の)晩餐にむけ水瓶を運んでいたのは、カナの結婚式に居合わせていたような「しもべ」のひとりだったのではなかろうか。

弟子たちは、習慣に従い、過越の準備のことをイエスに尋ねました。「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」(マルコ1