森の恵みと花粉症

森の恵みと聞いて真っ先に思い浮かべるのは、松茸。この松茸の値段が高騰したのは、チコちゃんによれば、プロパンガスの普及が原因であるという。
なんだか風が吹けば桶屋が儲かる式の話だが、それは次のような経過を辿る。
マツタケは、樹齢50年を超えるアカマツの近くにシロという菌糸の塊ができると発生する。
加えて、マツタケは栄養が多すぎる土では生えてこない。栄養が多いと、他のキノコやカビがたくさん生えてくるため、マツタケは生存競争に負けてしまう。
戦後まもない頃は、落ち葉や枝を拾って煮炊きをしていたため、山には落ち葉が少なかったが、1953年ごろからプロパンガスが普及したことで、状況は一転。落ち葉、枝を拾って煮炊きをする必要がなくなったことで、土が富栄養化。その結果、マツタケが減少し、価格が高騰するようになったという。
さて、 地球上を美しい緑に彩る樹木には、大きく分けて「広葉樹」と「針葉樹」の2種類がある。
両者は、葉の形が違うだけではなく、広葉樹は枝分かれして丸くこんもりと、針葉樹は真っ直ぐ円錐状に伸びた形で育つ。
広葉樹は複雑な細胞の種類が多いが、針葉樹は単純な細胞で出来ていている。
そのため、細胞密度が高い広葉樹は空気を通す穴が少なく、細胞密度が低い針葉樹は穴が多く風通しがよい。
この差により、広葉樹は硬く重い材質となり、針葉樹は柔らかく軽い材質となる。
木造住宅では古来、広葉樹は傷がつきにくいことから床の材料などに用いられ、幹が真っ直ぐな針葉樹は柱などに利用されてきた。
またスギやヒノキなど針葉樹はよくしなるため、桶や樽の素材として使われている。
つまり、木材はその特性を生かし、その用途によって使い分けられているということだ。
思い浮かべるのは「桐箪笥(きりだんす)」。広葉樹のひとつ「桐」は、その木目の優雅な美しさに加えて、湿気を通しにくい、虫がつき中にくい、熱を通しにくいなどの理由から、古くから衣服や貴重品の保存保管に最適な材料として重用されてきた。
火事が起きてすべて焼失と諦めていたら、収めていた着物や書類が無事だったという話をきく。
さて、針葉樹は、冬でも葉を落とさない「常緑樹」が大部分を占めているが、広葉樹には、冬に葉を落とす「落葉樹」と、季節を問わず葉をつけている「照葉樹」の二種類がある。
宇宙衛星から見ると、日本の西日本からヒマラヤのあたりまで「照葉樹林」が広がるが、日本の植物学者の中尾佐助(1916~1993)は「照葉文化地帯」とよび、そこにはある共通の「文化的特性」があると指摘した。
照葉樹林の森は、葉が落ちずに一年中生い茂っているため、落葉広葉樹のブナ林に比べても薄暗く、ここに雨が降ると「発酵」にもってこいの湿気の多いジメジメとした環境が生まれる。
こうした環境が「発酵文化」を生むことになる。
インド世界では、多種類の豆類が食用に供されているが大豆は特に重要ではない。
しかし、ヒマラヤの照葉樹林帯に入ると大豆が「発酵食品」として様々なカタチで用いられている。
照葉樹林の風土のなかで、人々は菌の作用(発酵)に気が付き、大豆を中心に利用してきたのだ。
例えば「納豆」で、煮た大豆を稲わらで包むことで、わらに付着している納豆菌が繁殖し、大豆は納豆になる。わらと大豆の出会いがあってこその話だ。
また「醤油」はもともと醤(ひしお)と呼ばれ、東南アジアでは魚を発酵させた魚醤が一般的である。
日本では、ゆでた大豆や小麦に麹を加えたものを塩水で発酵させるともろみがつくられ、これを絞ると「醤油」になる。
そして、こうした大豆系発酵食品は、照葉樹林のエリアにとどまらず、時代とともに日本列島全域に広まっていったのである。
日本人は、湿気が多くモノが腐りやすい環境に生きたため、「発酵」という分解作用を食料にいかすワザを磨いた。
「発酵」とは、カビや酵母、細菌など微生物の働きによって、食材に含まれているでんぷん質やたんぱく質が分解されて、アミノ酸や糖分などが生成される過程をいう。
夏に高温多湿な日本では、その気候から特に「カビ食文化」が発達した。
西欧でカビ食といえば、ブルーチーズやカマンベールだが、日本の代表的なカビ(麹菌/ニホンコウジカビ)は、清酒・味噌・醤油など「和食」に欠かせない食材を生み出している。
味噌や酒、醤油、納豆など、腐敗をもたらす「悪玉菌」を増やさず、善玉菌だけを増やしてくことによって生まれたものだ。
実は「麹菌」は、大陸から伝わったものではなく、日本独自に発生したものらしく「国菌」といわれ所以である。
こうた発酵の技こそが、「和食」をユネスコの無形文化遺産に導いた最大の要因であろう。

「日本のウイスキーの父」と呼ばれたマッサンこと竹鶴政孝は、広島県竹原市)で酒造業・製塩業を営む家に生まれた。
摂津酒造の社長の命で「純国産」のウイスキー造りめざし、1918年スコットランドに赴き、グラスゴー大学で有機化学と応用化学を学んだ。
帰国後、スコットランドに風土が近い北海道余市町でウイスキー製造を開始し、「ニッカウヰスキー」と命名した。
ところで、ウイスキーを造るためには樽職人の仕事が欠かせない。
木の一本一本の木目が異なるように、目的とする原酒に応じたひとつひとつの樽をつくるには、熟練した技と勘が必要である。
ニッカウヰスキーの樽づくりの技術は、創業以来名人とも評される匠たちに培われ、伝えられてきた。
創業時からニッカの樽づくりを担ったのは小松崎与四郎で、当時、竹鶴政孝が工場長を兼任していた横浜のビール工場から迎え入れた樽職人である。
当初はスコットランドから輸入したウイスキー樽を分解したりして研究していたが、元々確かなビール樽づくりの技を体得していた小松崎は、ほどなく立派なウイスキー樽をつくり出していく。
小松崎は「木には個性があり、癖がある。人間と同じ。修理のときも元の木の癖を読んで、それに沿って新しい木を入れなければならない」とい語っている。
ウイスキーが歳月をかけて熟成するように、樽職人が育つにも経験を積む長い年月が必要である。
樽の中のウイスキーは5年、10年と時を経るに従って琥珀色になっていく。
ところで「琥珀(こはく)」(英語: amber)という美しい固まりをデパートなどで見かけることがある。
琥珀は、「木の樹脂」(ヤニ)が地中に埋没し、長い年月により固化した「宝石」である。
「琥」の文字は、中国において虎が死後に石になったものだと信じられていたことに由来する。
実は、琥珀をマサツして静電気でモノを引きつける「現象」は、ギリシャ語で「琥珀」を意味した文字から「エレクトロン」と名づけられた。
これが「電気( electricity )」の語源であるが、琥珀と電気が結びつくとは意表をつかれる話である。
意表をつかれる話というと、錬金術と酒造りの関係もそれがあてはまる。
お酒には、大きく分けて3つの種類がある。穀物などの原料を酵母で発酵させて造る「醸造酒」、醸造酒を蒸溜して造る「蒸溜酒」、醸造酒や蒸溜酒に果物や種子などを混ぜて造る「混成酒」の3つである。
このうち、蒸溜酒のことを「スピリッツ」というが、ウイスキーは蒸留酒の一種で、麦芽や穀物を糖化、発酵させた後、樽の中で熟成させてできる酒である。
巷間では、「蒸留酒」を見つけたのは錬金術師であるといわれている。
ある時、錬金術師が気まぐれに既存の醸造酒を彼らの仕事道具である蒸留器に入れてみると、それまで味わったことのない、素晴らしい味の液体ができあがった。
錬金術師はその液体を不老不死の効果がある霊液と信じ、ラテン語で「アクアヴィテ(生命の水)」と呼んだ。これが蒸留酒の始まりである。
その後、錬金術師によって見つけられた蒸留酒の製法は、ヨーロッパ各地に広まり、同時にその共通語であるアクアヴィテが各地の言葉に訳され蒸留酒をさすようになった。
この技術を穀物から作った蒸留酒に応用したのが、ウイスキーの始まりである。
蒸溜技術を使って、ウイスキーやブランデーなどのスピリッツを造り始めたころのヨーロッパでは、“スピリッツには医薬効果がある”と考えられていた。
医学的に未熟な時代には、マラリアやペストなどの感染症対策に使われていたともいわれている。
また、1812年秋からナポレオンが行ったロシア遠征の際、冬将軍が襲ってきて、ブランデーの蓄えが尽きたナポレオン軍の士気が下がって、ウォッカを豊富に蓄えていたロシア軍に敗れてしまったともいわれる。結構ありそうな話だ。
ところで、ウイスキーのコクを決定づける「樽」は、照葉広葉樹林で育つ「オーク材(ナラやカシ)」で造られる。
樽がウイスキーに影響を与えるポイントとしては、樽にどれだけのスピリッツが入っているのかに大きく関係している。
仮に、小さな樽にウイスキーを入れておけば、オーク樽由来のラクトン、ヴァニリンなどの成分が溶け出すため、オーク由来の香りや味わいが前面に押し出されるウイスキーができあがる。
一方、大樽に詰め込む場合は、スピリッツ全体にオーク樽由来の成分が行き渡る量が少なくなるため、より原酒に近い味わいが楽しめる。
つまり、ウイスキーは樽の違いによって、大きく味わいに違いが生まれるということ。
ウイスキーに使用されている樽の種類としては、一般的には「アメリカンオーク」、「ヨーロピアンオーク」、「ミズナラ」がある。
アメリカンオークの場合、バーボンと呼ばれるウイスキーの殆どに使用されていることで知られている。
ヨーロピアンオークはタンニンを多く含んでいるために、シェリーのような酸化熟成かつ長期熟成を目的とした酒類に使われている。
日本ウイスキーなどでよく見られるのが、「ミズナラ」を樽材として使用したウイスキーで、樽材らしい樹脂の香りと、白檀、バニラの香りをしっかりとキャッチすることができるという。

2021年春、宮崎県の都城(みやこのじょう)に行って、そこからレンタカーで2時間半をかけて宮崎県綾(あや)を訪れた。
髙さと細さでスリリングな「照葉(てるは)大吊橋」を渡ることが目的であったが、ここが日本を代表する「照葉樹林地帯」のド真ん中であることを知った。
宮崎県綾町には中核部分(コアエリア)約700haを含め、約2500ha(東京ドーム約535個分)の日本で最大級の照葉樹林が残っている。
この地域の照葉樹林構成種の高木種数は、25種~30種程度とされている。
無知ゆえに驚いたことは、日本で照葉樹林の大部分が失われ、まとまった面積の森林はほとんどないということであった。
九州の宮崎県には日本最大級の照葉樹林が広がっているが、そのほかは、香川県の金毘羅宮、三重県の伊勢神宮のように、社寺林として残っているものがほとんどである。
森林大国と呼ばれる日本において、残念ながら照葉樹林はごくわずかというのが現状である。
現在の全照葉樹林の面積は日本の総森林面積のたった1.2%程度に過ぎない。
つまり、縄文期より西日本全域にあった多様で豊かな森は、建築用資材の需要により「針葉樹林」(杉や松)に変ってしまったということだ。
実は、これこそが現代日本人を悩ます「花粉症」の原因なのだ。 自然の生態を破壊することの恐ろしさは、なによりも新型コロナウイルスの発生が教えてくれる。
感染源はコウモリということだが、原因は何と森林伐採にある。昼行性のゴリラはふだん夜行性のコウモリと出会わないが、伐採で樹木が減り、ゴリラが寝ている木にコウモリがやってきて接触したのだろう。
感染したゴリラに森のハンターたちが接触したことで人間にも感染が広がった。さらに、森林伐採によって現金経済が奥地まで浸透し、伐採会社が去って失業した人々が現金を得ようとして野生動物の肉を都市に売りさばこうとし始めた。
伐採会社が作った森林道路と携帯電話が一役買い、都市からの注文を受けて野生動物の肉がすばやく都市に運ばれ、感染が広がったというわけだ。
こうした自然の大規模な改変やグローバル経済の浸透は地球の至る所で起きている。それは地域の文化を急速に変容させ、今まで微妙なバランスで抑えられていた細菌やウイルスを都市に運ぶ結果となる。
戦後の復興で建材の需要が高まり、日本の各地で大規模な造林が進み、広葉樹林がスギやヒノキの針葉樹に置き換えられた。
その計画は安価な外国材の導入により宙に浮き、針葉樹林は間伐などの手が入れられないまま放置された。
それがシカやサルなど野生動物のすみかを奪って畑地や里に侵入させる結果を招き、「花粉症」の原因となり人々を困らせている。
少し前の話だが、元農林水産相が、大手鶏卵業者から多額の賄賂を受けとる事件が発覚した。
この贈収賄のきっかけになったのが「アニマルウエルフェア」(動物福祉)といわれる新たな潮流だった。
鶏舎にニワトリをつめこみ、ひたすら卵を産ませるのではなく、家畜を開放的な環境で飼育してストレスを減らす。
これが主流になると、これまでの投資を根本から見直す必要があり、業者にとっては死活問題。それが政治家への賄賂に繋がった。
時をほぼ同じくして、鳥インフルエンザの流行で、何万羽ものニワトリが各地で殺処分されるというニュースが報道された。
こうした不自然な飼育が原因なのは明らかである。
戦後の土建国家政策は、全国に道路網を敷き、河川に大小のダムを建設し、海岸にコンクリートの防波堤を張り巡らせた。
その結果、川の流れがせき止められ、森に十分な水や栄養が行き渡らず、保水力が落ち土壌は崩れやすくなり、森里川海の循環が断ち切られた。
それがかえって災害の規模を拡大させ、漁場の劣化にもつながった。
加えて、日本は単位あたりの農薬使用量が世界トップクラスの「農薬大国」でもある。
こどもの発達障害の原因が農薬にある疑いもある。
日本列島は自然の多様性に富み、それをもとに人々は多様な文化をはぐくんできた。
科学技術はその文化と寄り添い、地域の特性に合った暮らしを設計する役割を担う。
思い浮かぶのは、静岡県で起きているリニア新幹線への反対運動。これによって水源が失われるなど、地域になんの利益をもたらさないと反対が続く。
予定されている静岡県内の工区は8.9キロで、南アの真下を全てトンネルで通る。
トンネル工事やトンネルが完成すると、湧水によって南アの地下水を源泉とする大井川の水量に影響が出る可能性がある。何も対策を講じなければ、毎秒2トンの水が失われるという試算さえでている。
静岡といえば「楽器の街」浜松がある。ピアノの素材は主にマホガニーという木材だが、南アルプスから天竜川で運ばれた木材と、山を越える乾いた空っ風による乾燥という地形的な面でも、浜松は木製品を作るのに適していた。
ところで、日本人ほど「花粉症」に苦しんでいる国民は世界にいるのだろうか。
豊かな野生の動植物が生息する貴重な森は、政府の林業政策の方針に基づいて破壊され、生物の遺伝子銀行となる原生林ほとんど残されていない。
現代日本人の「花粉受難」も、そうした反自然的政策の行き着いた必然なのであろう。