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「古今東西」似た話

20世紀初頭、イギリスはパレスチナを手に入れれば、インドなど他の植民地への行き来が容易となるが、パレスチナはオスマン帝国の統治下にあった。
1914年 第一次世界大戦が起こると、イギリス・フランス・ロシアなどの連合国に対して、当時、中東地域を支配していたオスマン帝国は、同盟国側のドイツの援助を受けて参戦を決めた。
第一次世界対戦当時、アラビア半島には、オスマン帝国の統治に不満を持つアラブ人がいた。
イギリスのマクマホン(駐エジプト高等弁務官)は、アラビア半島に住む、アラブ民族の有力者フサイン(メッカの太守)に近づく。
彼らにオスマン帝国への反乱を起こさせ、戦争を優位に展開しようとしたのだ。
イギリスのマクマホンはフサインに、「アラブの人々がオスマン軍に勝利した暁には、アラブ独立国家の建設を支援しよう」と持ちかける。
オスマン帝国からの独立を夢見ていたフサインは、これに同意する。
思惑が一致したイギリスとアラブは、1915年「フサイン・マクマホン協定」を結んだ。
そして翌年、イギリスのロレンス大佐(アラビアのロレンス)を指導者とする「アラブの反乱」が始まった。
しかし、イギリスは、今度はアラブの人を裏切るような外交を展開する。
オスマン帝国を滅ぼし、パレスチナを手に入れたら、イギリス・フランス・ロシアで、オスマン帝国の領土を、分割統治する秘密協定を結ぶ。これれが1916年の「サイクス・ピコ協定」で、さらに翌年、戦費が不足していたイギリスは、ユダヤ人の財閥に資金援助を求める。
その引き換えとして、「オスマン帝国からパレスチナを奪ったら、ユダヤ人のための祖国の建設を支援する」と約束をするのである。これが「バルフォア宣言」。
3つの宣言・協定は、イギリスの「三枚舌外交」ともよばれており、特にアラブ人との約束(マクマホン宣言)とユダヤ人との約束(バルフォア宣言)とは明確に矛盾している。
それらは、ユダヤ人とアラブ人の2つの民族に対して、パレスチナという一つの領土を与えるという約束をしたとみなされるからだ。
第一次世界大戦は、1919年に終結。イギリスを含む連合国側が勝利し、パレスチナを統治していたオスマン帝国を含む中央同盟国側は敗れ、パレスチナ(イスラエル・ヨルダン・イラク)は、イギリスの委任統治下に入り、1920年には実質的に植民統治を開始する。
パレスチナでは、「バルフォア宣言」を信じたユダヤ人はパレスチナへ次々と移住してくる。
さらに1933年頃からは、ナチスによるユダヤ人迫害がはじまり、ユダヤ人の移住に拍車がかかる。
これを容認できないアラブ人との摩擦が激しくなっていき1936年には、アラブ人の不満が爆発し「アラブの大蜂起」が起きる。
結局、イギリスはアラブ人とユダヤ人との対立も激化に手に負えなくなり、問題の解決を国連に委ねることとなっていく。
さて、パレスチナから遠く離れた長崎県では、2つの矛盾した法的根拠をもつ判決によって、住民たちが分断されている。
諫早湾干拓事計画は干潟を干拓して農地を広げるというもので、計画当初は国を挙げての「食糧の増産」の時代であったが、今は時代の様相がまったく異なる。
国はごく最近まで「減反」を推進しており、これからもさらに人口減が予想されるのに、今更ナゼ「農地拡大か」というのが素朴な疑問である。
そこで、役所は「農地拡大」だけでは埋め立ての理由不十分と思ったらしく、「防災」という名目も新たに付け加えた。
どうやら、日本の役所というものは、充分に愚かしいと考えられる政策でも、一度決めてしまったものは止められないものらしい。
ところが、国と長崎県が主導に行った諫早湾干拓に対して、周辺の特に佐賀県の漁民の不漁が生じていることを訴えた。そのため、漁民は堤防の門を開いてその被害を調査してほしいという「開門要求」をした。
一方、国がおし進めた埋立地に移住してきた農民は、門を開いたら塩害により農作物に被害が出るので「開門」に反対したのである。
両者は真っ向から対立し、2010年12月に福岡高裁が漁民の被害を認めて「開門」を認め、その猶予期間を3年後とした。
その理由は「潮受け堤防」が果たす洪水時の防災機能や、排水不良の改善機能などを代替するための工事のために、3年間は各排水門の開放を猶予するとしたのである。
しかしその3年が過ぎても、開門はしないままの状態が続いている。
そこには、自民党から民主党への政権交代が大きくものいっている。
この埋め立ては、そもそも自民党が推し進めた政策だったが、福岡高裁判決が出た段階で、民主党の菅首相だったということもあり、「上告」をせずに判決は確定してしまったのである。
国は司法の判決にのっとって「開門」をしなければならないのだが、今度は長崎地裁が開門による農民の被害の訴えを認め、「開門差し止め」の仮処分を決定したのだ。
「仮処分」は、差し迫った被害が生じる場合になされるもので、暫定的なものとはいえ「判決」と同じ効力をもつもので、「閉門派」の農民もまた法的な「後ろ盾」を得たことになる。
とはいえ、この仮処分の審理に国は参加しているので、国側は「漁業被害」の方をちゃんと主張すれば、相矛盾するような義務を負う必要もなかったのである。
しかし、農林省中心に計画した公共事業の非を認めたくなかったのか、あるいは自民党の農政族の圧力にしり込みしたのか、国は漁業被害を主張せず「仮処分」が決定してしまったのである。
結局、国は一方で開門(福岡高裁判決)、他方で閉門(長崎地裁仮処分)という相矛盾するという二つの義務を背負ったことになる。
諫早湾干拓をめぐる対立は、パレスチナ紛争とは問題の質が全く異なるとはいえ、相矛盾する決定が下され、政治に住民が翻弄された点、解決の見通しが立たない点など、似た要素を含んでいる。

ポ-ランド系移民のルース・ハンドラーは、1916年コロラド州デンバーで生まれた。
彼女は夫とその友人と共にガレージワークショップ「マテル」を設立した。
マテルの初期の製品は「額縁」であったが、夫のエリオットは額縁のスクラップから「ドールハウス」用の家具を作り始めた。
そして1955年、同社は人気の「ミッキーマウスクラブ」製品の製造権を取得することとなった。
ハンドラーは或る時、娘のバーバラと友達が紙人形で遊びつつ、子供たちはそれらを使って、大学生、チアリーダー、そしてキャリアウーマンの役割を想像しながら、作り話をしているのをみた。
そしてハンドラーは、若い女の子が人形で遊ぶ方法をより容易にするような人形ができたらいいというイメージを抱き始めた。
そしてハンドラーがヨーロッパを旅行中、スイスで目に留まったのが、「リリ」という人形である。
ハンドラーは娘のバーバラへのお土産に買った「リリ」をベースに、そのエッセンスを取り入れた人形「バービー」の構想をした。
そしてその構想を固めると、人件費が安い町工場がたくさんある東京の会社に社員を派遣した。
この会社は「国際貿易」といい、1918年創業で 東京都葛飾区に現存している。
そしてハンドラーは、最初のバービー人形の個人的なストーリーを作成した。
彼女はバービーミリセントロバーツと名付けられ、ウィスコンシン州ウィローズ出身。バービーは10代のファッションモデルであった。
そして今では、この人形はアメリカ大統領を含む125以上の異なる経歴に関連する多くのバージョンで作られている。
ただ、「バービー人形」については、絶えず「子どもにどんな影響を与えるか」が議論されてきた。
長い足、細いウエスト、大きな胸を強調する姿は、フェミニストや母親たちから批判を浴び、バービーで遊んだ女児はスリムな容姿への憧れのあまり、「醜形恐怖症」の原因という研究結果も出たこともある。
それに対してハンドラーは、バービー人形は若い女の子と女性にとっての自由と可能性の象徴であることを強調する。
そして、「バービーは常に女性には選択肢があることを表明してきました。例えば、看護師、スチュワーデス、ナイトクラブの歌手としてのキャリアを開始するための服を持っていました。バービーが表す選択こは、社会がそこに最初に追いつくのに役立ったと思います」と述べている。
さて、娘に買った人形から生まれたバービー人形の誕生は、人形にまつわる物語性も含めて、日本の「雛人形」を思い出させる。
さて、日本史おいて女性天皇といえば8人いる。その7番目に即位したのが明正(めいしょう)天皇で、奈良時代の孝謙天皇(称徳天皇)以来、859年ぶりの女性天皇である。
この明正天皇の即位については、幕府と皇室との間で緊迫した「駆け引き」があり、「雛人形」はそうした一連の出来事の中で、一陣の薫風のごとき役割を果たしている。
明正天皇の父は後水尾天皇で、母(和子:まさこ)は2代将軍の徳川秀忠だから、明正天皇は徳川家康の孫にあたる。
徳川秀忠がその娘(和子)を天皇家に入れたということは、徳川家がかつての藤原氏と同じように「外戚」として権力を振るおうとした意図が感じられる。
しかし、和子に男の子は生まれず、その娘が天皇の中宮の地位ではなく、自ら天皇になったのであるから、徳川家としても複雑な思いだったに違いない。
なぜならば、女性天皇は結婚できず、子も産めない立場であるため、せっかく入れようとした「徳川の血」も途絶えてしまうのだから。
この点こそが「女性天皇」即位をめぐる、天皇家(皇室)と徳川家(将軍家)との「駆け引き」のエッセンスである。
古代より「天皇」となった女性は即位後、終生独身を通さなければならない」という不文律があり、皇位継承の際の混乱を避けることが主なねらいであった。
だが、結果から判断すれば、後水尾天皇はこの不文律を利用し、皇室から徳川の血を排除し、後世までその累が及ばぬようにする意図が、娘の明正天皇即位の中に込められていたのではないか。
実は、後水尾天皇は、1629年の紫衣事件や将軍・徳川家光の乳母春日局が無官のまま参内した事件に関して、江戸幕府への憤りをつのらせていたことが推測できる。
明正天皇は、その父である天皇から、突然の「内親王宣下」と譲位を受け、わずか7歳で践祚した。
一見すると、明正天皇は徳川将軍家を外戚とする唯一の天皇であるため、幕府は朝廷に対する介入がやりやすくなったと捉えられるかもしれない。
じかし事実は逆で、朝廷内においては「院政」を敷いた後水尾上皇が依然として「実権」を握っていたからである。
院政は本来、朝廷の法体系の枠外の仕組みであり、「禁中並公家諸法度」ではそれを統制できなかったのである。
したがって「女帝即位」は、かえって朝幕関係の緊迫を招く結果となったのだ。
女帝が成人すれば、公家や諸大名にも通じて幕府に影響を与えかねない。
そこで幼く即位した明正天皇を、できるだけ外部と交流がない状態にしておく必要があった。
実際、明正天皇の治世中は後水尾上皇による「院政」が敷かれ、明正天皇が朝廷における実権を持つことは何一つなかった。
一方で、母・和子の娘の成長を祈る気持ちは、さぞや強いものがあったことであろう。
外部との交流の薄い娘を憐れと思ったのか、父母は娘に豪華な「雛人形」を与えたのである。
それは親の心情が雛人形にこめられいるかのように、今日のように雛段の上に鎮座する「座り雛」のかたちとなったのである。
この豪華な「飾り雛」が定番となって、雛祭りの際に、全国的に広まっていくのである。

モーツアルトの「フィガロの結婚」は、彼のもっとも成功したオペラのひとつ。
しかしこのオペラは、上演されるかどうかが微妙な状態にあった。というのも、原作のボーマルシェの芝居は、帝都ウィーンでは上演禁止だったからである。
原作者ボーマルシェはヴェルサイユ宮殿に出入りする身分ではあった、平民の出身で、たびたび上級貴族の横暴に悩まされてきた。
また、時計職人、ビジネスマン、音楽家、詩人そして劇作家といろいろな顔を持つ多彩な人たちで、どちらかというと当時の貴族社会に批判的で、「フィガロ」三部作には、当時の貴族社会をからかう題材をこれでもかと詰め込んだのであった。
当然、まだ王家の統治が続いているおひざ元フランスでは上演禁止、そして、ハプスブルグ皇帝ヨーゼフ二世が統治する神聖ローマ帝国でも上演禁止。
しかし、こんな面白い物語はない、と目を付けたイタリア人興行師ロレンツォ・ダ・ポンテによって、モーツアルトが音楽をつけたオペラとしては、上演が可能になった。
政治的な風刺であるセリフをなるべく取り除き、男女入り乱れてのドタバタ劇に見えるように仕立てられたからだと推測される。
横暴な貴族と、それを機転でやりかえして、ぎゃふんと言わせる才気あふれるフィガロの物語と、軽快なオペラにしたモーツアルトの才能が結合して、なお一層の痛快劇に仕上がったのである。
さて話は日本に転じて、室町時代はじめ南北朝の動乱のころ。時の征夷大将軍・足利尊氏は、弟の直義を使者として京から鎌倉に下向させた。
この直義の接待役を命じられたのが、播磨の大名だった塩谷判官で、そして、判官の指南役を高 師直が務める。
ところが、師直は判官の妻に横恋慕し、言い寄るのだが拒絶された腹いせに、判官に恥をかかせる。
怒った判官は、師直に斬りかかりるが、失敗。判官は即日切腹。塩谷家も取り潰されてしまった。
その仇を討つべく、塩谷家の家老、大星由良之介が放蕩しながら、同志たちと準備を進め、ついに仇の高師直を討つという物語である。
このストーリーは、誰にも思い当たるのが「忠臣蔵」。
江戸城松の廊下での刃傷事件から吉良邸討ち入り、さらには赤穂浪士たちの切腹で終わる。
「仮名手本忠臣蔵」が、元禄時代の舞台設定にしなかった理由は、処罰罰を恐れたからである。
元禄赤穂事件に関していえば、浅野内匠守の切腹について、十分な審議が行われずに下された処分であった。
そして、当時の武士の規範の根底は、「喧嘩両成敗」であって、鎌倉時代に制定された御成敗式目で成文化されているが、それ以前からの武士の規範であった。
その規範に照らしても赤穂浅野家は主君は切腹、お家断絶の一方で、吉良家への処分は一切下されなかったのは不公平で、処分の理由は当然公開されていない。
徳川綱吉へ面と向かって批判すれば、「ご政道批判」として、最悪死罪の可能性があった。
そこで、芝居では「全く別の時代の架空の物語」としてシレッと上演することで、処罰を逃れることを狙ったのである。
「仮名手本」とは、子供達が手習いで文字を覚えるための本で、いわゆる「いろは」の練習帳であった。
この「いろは」で始まる仮名手本で、この仮名の数は47文字。そして、吉良邸に討ち入った赤穂浪士も47名。
この「仮名」を赤穂浪士にかけてタイトルにするなんて、大胆にしてお見事。