「古今東西」似た話Ⅱ

日本語学者・金田一京助と15歳の少女・知里幸恵(ちりゆきえ)との出会いは、日本人にとっての真の意味での「アイヌ発見」であり、「邂逅」とよぶべき出会いであった。
知里はアイヌ酋長の家柄で、明治36年登別市で生まれ母の姉である金成マツの養女となって旭川に移った。 1918年のある日、アイヌ語研究をしていた金田一京助が旭川の幸恵の家を訪れ、幸恵の言語能力の素晴らしさに驚く。
幸恵はアイヌの口承叙事詩ユーカラの伝承者であった伯母の金成マツの養女となり、十代の少女であるのにもかかわらず多くのユーカラを諳んじていた。
幸恵はアイヌ女性としてはめずらしく女学校を卒業しており、当時においてもほとんど老人しか話せなくなっていたアイヌ語をよどみなく話し、さらにそれ以上に美しい日本語を操った。
幸恵は金田一をして、「語学の天才」「天が私に遣わしてくれた、天使の様な女性」と言わしめる存在だった。
金田一と出会う以前の幸恵は、明治期の政策で、アイヌの人々は文化を否定され民族の「誇り」を失いかけていた。
学校では日本人教師たちから「アイヌは劣った民族である、賎しい民族である」と繰り返し教えられ、幼い頃から疑うことなくそのまま信じ込み、幸恵も「立派な日本人になろう」と、自らがアイヌであることを否定しようとしていた。
しかし金田一から直接「アイヌ・アイヌ文化は偉大なものであり自慢でき誇りに思うべき」と諭されたことで、独自の言語・歴史・文化・風習を持つアイヌとしての自信と誇りに目覚めたのである。
アイヌ研究者金田一京助にとってみれば、幸恵は願ってもない存在であり、幸恵は金田一の熱意に応じて上京し、そのユーカラ研究に身を捧げた。
金田一京助のアイヌ語研究が、やがてアイヌ学の「代名詞」にまでなるのに、幸恵の存在ぬきに考えることはできない。
その後、幸恵はアイヌの文化・伝統・言語を多くの人たちに知ってもらいたいとの一心からユーカラをアイヌ語から日本語に翻訳する作業を始めた。
やがて、ユーカラを「文字」にして後世に残そうという金田一からの要請を受け、東京の金田一宅に身を寄せて心臓病という病をおして翻訳・編集・推敲作業を続けた。
「アイヌ神謡集」は1922年9月18日に完成したが、幸恵は同日夜、心臓発作のため19歳の短い生涯を終えた。
金田一にとって知里幸恵との出会いはアイヌ学者としての将来を約束したが、突然訪れたその死は、深い罪責の念を与え、金田一は19歳の墓石にすがり付いて泣いたという。
さて、知里幸恵の「アイヌ神謡集」の「序」は感動的である。
「その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は、真に自然の寵児、なんという幸福な人たちであったでしょう」という切なる言葉で始まっている。
この言葉に思いうかべるのが、南太平洋におけるゴ-ギャンとタヒチの娘の出会いである。
ゴ-ギャンは1848年、二月革命の年にパリに生まれた。父は共和系のジャーナリストであり、ゴ-ギャンが生まれてまもなく、一家は革命後の新政府による弾圧を恐れて南米ペルーのリマに亡命した。
しかし父はゴ-ギャンが1歳になる前に急死し、残された妻子はペルーで数年を過ごした後、1855年フランスに帰国した。
フランスに帰国後、ゴ-ギャンはスペイン語しか話せない自分が異邦人のように感じたという。
神学校、航海士、海軍に在籍し普仏戦争に参加後、パリで株式の仲買人をするなど仕事を転々とする。
デンマーク出身の女性メネットと結婚したが、メネットはこの時、生活力のあるゴーギャンが芸術という「呪い」に染まっていくことなど予想だにしていなかったに違いない。
この頃のゴーギャンはごく普通の勤め人として、五人の子供に恵まれ、絵を印象派展には出品するだけの一介の日曜画家にすぎなかった。
株式相場が大暴落して勤めを辞め、突然画業に専心しだすが、株式仲買人を相談もなくやめたことに妻は激怒しデンマークに帰ってしまう。
その後、ゴーギャンは、ブルターニュの安宿で画に没頭する。
同時代の天才ゴッホは、日本の浮世絵に魅かれ、浮世絵にある光を求めてアルルにいいた。ゴーギャンはそのゴッホに呼ばれて共同生活をするが、個性的な二人は2か月後にはげしくぶつかる。
ゴ-ギャンは「ひまわりを描くゴッホ」を描くが、ゴッホはそれを「狂気の自分だ」と激怒し耳を切り落としたのである。
そんな修羅場を経験した後に、ゴッホはゴーギャンにタヒチ行きをすすめ、ゴーギャンはその勧めに従いタヒチに渡った。
ゴーギャン43才がタヒチで、金田一が知里幸恵と出会ったように、ひとりの少女との出会いがあった。
ゴーギャンは、13歳の少女テフラの褐色だが黄金のような肌、そこに装飾のないまぎれもない美しさを見出し、彼女の一瞬一瞬の表情やしぐさを燃え立つような色づかいで描いた。
ただ絵の方は依然売れるあてもなく、貧困のなか最愛の長女が20歳の若さで亡くなる。
またフランスでの乱闘時の傷の痛みや病も進行し、死を決意して最後の一枚ときめて書いたのが代表作「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」である。
それぞれのポーズの中に暗示的なものがあり、中央には知恵の実をとろうとする人間の姿が描かれていて、人間の知恵がいかに大地を犯してきたのか示しているようだ。
ゴーギャンが死を意識して人生の総決算として書いたその絵には、強くその命に引き込む力をもっている。
北の大地における金田一と知里幸恵との出会いが、南太平洋におけるゴーギャンとタヒチの娘の出会いと重なるのは、原始と近代の相克ゆえか、どこか「悲劇性」を孕んでいたということである。

パール・バックといえば小説「大地」。中国を舞台に描いた世界は、今も変わらず多くの人々を魅了している。
両親は熱心なクリスチャンで、宣教師として中国へ赴いていたが、母は出産のため一時里帰りして娘のパールを生んでいる。
そしてパールが見た世界とは、男尊女卑はもちろんのこと、一夫多妻(妾に掠奪婚)、幼児の間引き殺人、纏足、女に教育を施さない世界であった。
当時の中国では、実に多くの女性が、夫や親類の女性たちの酷い仕打ちのために自殺していたのだ。
こうした体験に接するたびに、パールは虐げられている女性のために何かを書かねばならないという気持ちを強くした。
1900年には義和団事件が勃発し、残酷な暴動で被害を受けたり、殺されたりした外国人が沢山いた。
パール一家は暴動を避けるべく上海に向かい、そこからアメリカへ戻ったのである。
「大地」は1930年南京において執筆され、1931年に出版され大反響をよび、他の自伝的作品とともにノーベル文学賞をもたらした。
さて処変わって、ロシアのウクライナ地方キエフの町に住むユダヤ人音楽家レオ・シロタ・ゴードンと貿易商の娘との間に、ベアテという娘が生まれた。
ゴードンは、世界の三大ピアニストに数えられるほど超絶技巧を誇るピアニストとして世界で活躍していたが、1917年のロシア革命の混乱で帰国不能となり、家族と共に「オーストリア国籍」を取得した。
しかし、当時のヨーロッパ経済は不安定で公演のキャンセルが続き、ドイツを中心として「反ユダヤ主義」が台頭していたこともあり、演奏旅行中に山田耕筰に出会い、東京音楽学校(現・東京芸術大学)教授に招聘され、日本で暮らすことになる。
ベアテ一家は、東京の赤坂区檜町に居をかまえた。そこには、両親と娘ベアテのほか、英語の家庭教師であるエストニア人の女性がいて、山田耕筰や近衛秀麿、ヴァイオリニストの小野アンナなどの芸術家・文化人、在日西欧人や訪日中の西欧人、徳川家、三井家、朝吹家など侯爵や伯爵夫人らが集まるサロンとなっていた。
幼いベアテにとって、家の近くの乃木神社の境内などは格好の遊び場となった。
そこで、遊びと結びついた童歌や童謡などをも聞きながら日本の文化を学び、日本に来て3カ月ぐらいで日本語を話せるようになっていた。
そして当時目黒区にあったアメリカンスクールで、卒業までの残り2年間をのびのびと過ごした。
ただ、音楽の才能に恵まれていないことは、両親の態度でなんとなく気づいていったが、ベアテ自身はさして努力をすることもなく、日本語をはじめとする5カ国語の会話とラテン語をマスターしていったのである。
そして、ベテルの精神形成に大きな影響を与えた出会いが、家政婦の小柴美代であった。
ベアテ家の近くに、洋画家・梅原龍三郎が住んでいた。
あるとき、近所に著名なピアニストが引っ越してきたと聞いた梅原が、自分の娘にもピアノを教えてもらえないかと訪ねてきた。
ところが反対にベアテ家の方から梅原に、身の回りの世話を頼める家政婦さんを紹介してくれないかという申し出があった。
そして紹介されてやってきたのが、小柴美代であった。
静岡県の焼津の漁村に生まれ、高い能力がありながら、「教育を受ける機会」がなかったという、当時の日本人女性を「代弁」しているような女性であった。
小柴から日本では正妻とおめかけさんが一緒に住んでいるとか、夫が不倫しても妻からは離婚は言い出せないとか、夫が他の女性に産ませた子を養子として連れ帰ったとか、東北の貧しい農家では娘を身売りに出しているとかいう話を聞いた。
結婚の前に一度も会わないことすらもある、そういう結婚の仕方のために嫁いだ先でトラブルに悩まされ、理不尽な生活に追い込まれている女性達の話を聞いた。
もちろん、ベアテ自身も様々な体験の中から、日本女性が置かれている状況について、身をもって感じ取ることができた。
日本のお母さんの家庭での働きぶりを見たり、日本の女性たちが夫と外を歩くときには必ず後ろを歩くこと、客をもてなすときにあまり会話に入らないことなど、自分が育った環境とのチガイを感じ取った。
自分の父母と比べてみても、日本では夫婦で話す時間が少なく、まして夫婦で何かをする時間がほとんどナイように感じられた。
またベアテにとって忘れられないの日が、1936年2月26日の大雪の日であった。
226事件が起こった際には、ベアテの自宅の門にも憲兵が歩哨に立ったのだが、ベアテはそれを実際に見ながら、日本人は表立っては優しいのに、内面にカゲキナなものを秘めていると、強く思わせられたという。
また軍神・乃木希典をまつった乃木神社には、戦地で亡くなった兵隊達の葬列を見かけることが増えるにつれて、日本の雰囲気が次第に慌しくなっていっていることも、子供心に感じとった。
1939年5月、ベアテは日本のアメリカンスクールを卒業し、もうすぐ16歳になろうとしていた。
ヨーロッパでは、「ユダヤ人敵視」をかかげるナチス・ドイツが目覚しい台頭がを見せつつあった。
そこで両親は、ベアテをアメリカ・カリフォルニア州サンフランシスコ近郊のオークランドにあるミルズ・カレッジに留学させることにした。
ベアテは、大学卒業後アメリカ国籍をとり、一時期ニューヨークのタイム社でリサーチの仕事をしたことがある。
1945年太平洋戦争の終結とともに、一刻も早くに日本にいる両親に会いたくて、日本に入国可能な「軍関係」の仕事を探した。そして、偶然見つけた仕事がGHQの民生局であった。
民生局の仕事を見つけた当日、民生局課長ケーディス大佐の面接を受けて、政党科に配属されたという。
そして、ベアテ・シロタ・ゴードンが22才の若さで、日本国憲法制定の「人権委員会」のメンバーに選ばれたのである。
ただGHQ民生局のメンバーとして日本に帰ってきたベアテにとって、美しい風景が無残な焼野原に変ってしまていることに、「悲しみ」を抑えることができなかった。
乃木坂にあった家は焼けつくされており、玄関の門の柱だけが、かつての自宅の場所を確認する唯一の目印だったという。
日本に帰って1ヶ月ぐらいして、突然に民生局に「憲法草案作成」の指令が出た。
そしてベアテの抱いた悲しみは、日本で新しい「憲法草案」を作るという「使命感」によって打ち消されていった。
それどころか、全人類に適用できる、民主的で世界に誇れる憲法を作ろうという理想にも燃え立っていたのだという。
そしてケーディス大佐は、この大学を出て間もない22歳の女性に、「女性の権利」についての条文を書くことを命じた。
ベアテは10年にわたる日本の暮らしから、日本人女性に何の権利もないことを知っていた。
実は、ベアテに対する指令は「極秘」であり、彼女は気づかれないようにジープで図書館を回り、世界の憲法が「女性の権利」をどのようにに定めているかをリサーチした。
ベアテは草案の中に、母親・妊婦・子供、養子の権利、職業の自由までをも含めて書き、それを民生局課長ケーディス大佐の所にもっていた。
しかし大佐は、「社会保障について完全な制度をもうけることまでは民生局の任務」ではないと一蹴され、その権利条項の大半が削られたのだという。
ベアテはその時、悲しさと悔しさで涙が止まらなかったという。
しかしこの時ケーディス大佐が「削除した部分」こそが、その後の世界的な人権の流れの中で、日本の女性たちが勝ち取っていかなければならないものであった。
ベアテは、日本での仕事を終えると、アメリカに戻るが、講演会などで、必ずといっていいほど小柴との出会いを語っている。
そして1966年には、ニューヨークの自宅に小柴を呼び寄せたりもしている。
ベアテ自身の著書「日本国憲法を書いた密室の九日間」の中で「日本女性の地位の低さ」を小柴美代の口から子守唄のように聞かされていたことを語っている。
またベテルはあるインタビューで、憲法14条「法の下の平等」・24条の「男女平等」を盛り込んだ経過を、日本の女性のためにほとんど感情で書いたとも語っている。
実は、小柴をベアテ一家に紹介した梅原龍三の同期の画家に赤松麟作いるが、その娘を描いた「良子」という作品がある。
このモデル赤松良子は東大法学部を出て女性キャリアとして労働省に入省する。
そして赤松良子こそがベアテが出来なかった「男女雇用均等法」の実現の立役者となる。
個人的なことだが、女流作家の円地文子の小説「女坂」をたまたま読んでいて、ハタと思った。これはパールバックの「大地」の焼き直しだと。
そして「大地」の訳者をあらためて確認すると、そこに「円地文子」という名を見出したのである。
「女坂」は、パールの「大地」を日本の明治という時代、つまり成功した男が何人も妾を囲って生きている社会に舞台を置き換えている。
女性が生きるにつらい長い道のりを円地文子は「女坂」と表現したのだ。
そして、この坂をあえぎながら登っていた女性の一人が家政婦の小柴美代であった。
ベアテが「日本国憲法」条文に込めたことと、中国でパール・バックが「大地」で訴えようとしたことは、カタチの違いはあれよく似たものであったといえよう。