立場を超えて思いはひとつ

マーガレットミッチェルの「風と共に去りぬ」はスカーレットの恋愛物語である。と同時に、スカーレットとメラニーの友情の物語である。
激しいスカーレットと優しいメラニーは、男性をめぐって敵対してもおかしくないのに、最後まで支えあう。その裏には、南北戦争を共に生きぬこうという、いわば「戦友」としての友情があった。
「前篇」最後の場面で、スカーレットが親も屋敷もすべてを失い故郷タラに戻って来た時、畑に生えている泥だらけの大根をそのまま貪りながら、こう訴える。
「神様、私は二度と餓えません!私の家族も飢えさせません!その為なら人を騙し、人の物を盗み、人を殺してでも生き抜いてみせます」。
この場面、戦争ですべてを失った人々の気持ちを代弁しているような気がするが、インパクトが強かったのは女性が語ったことだった。
日本の戦後まもなく、キャリア官僚と労働組合幹部という違う立場ながら、「男社会の壁」に挑んだ二人の女性のことが思い浮かんだ。
赤松良子は1953年東京大学法学部を卒業して、労働省に入省し婦人少年局婦人労働課に勤務、1975年には女性で初めて山梨労働基準局長に就任する。
女性官僚キャリアの草分け的存在として、「男女雇用機会均等」法成立に尽力した。
この法律成立のキーパーソンとなったもう1人の女性がいる。日本最大の労働組合「総評」の女性幹部の山根和子で、赤松とこの法律をめぐって論争相手となった”労働者側代表”であった。
山野は三重県出身、高校を卒業して愛知県の会社に入りアシスタント的な仕事ばかりをしてきた。
1976年から89年まで総評・婦人局長となり、当時加入人数380万人にも達する日本最大の労働組合の全国組織・総評の婦人局長であった。
一方、赤松は国連公使として1979年に、「女子差別撤廃条約」に賛成の投票を行い、翌年コペンハーゲンの世界女性会議で同じ労働省出身の高橋展子がこの条約に署名している。
次に、条約が国会で承認され批准されなければならず、そのためには国内法と条約の相容れない部分を是正ないといけない。
通常、新しい法律を作るには、まずは関係団代の代表者が出席する審議会などで法案の趣旨や必要性を訴え、統一見解とされた「審議会答申」を国会の委員会に提出するという手順をふむ。
したがって、立場を異にする人々をまとめて接点を見出すまでの「根回し」が大きな仕事になる。
実際に、労働省婦人少年局の赤松良子を中心としたプロジェクト・メンバーは、のちに”鬼の根回し”と異名をとるほど懸命に各界への調整を続けた。
そして、法案を通す際の最大の障害は経営側であり、それは「男社会」の壁との戦いでもあった。
赤松は、依然意識の低い経営者代表に、なんらかの「男女平等法」をつくらないと、国際的に人権意識が低い国と見られ、様々な分野での交渉にも支障が生じると訴えた。
こうした赤松チームの説得で少しずつ経営者側の意識が変わっていった。
しかし、「法案の内容」については、経営者側、労働者側の立場が激しく対立した。
そこで、法の実効性を罰則抜きの”努力義務”とした点にとどまった。
赤松らの経営側に寄った法案に対して、労働者代表の山根和子は、”手ぬるい”と批判し、男女差別をした企業への「罰則」が科せられる厳重な法律が必要だと訴えた。
それに対して経営者側は、男女平等というのであれば、女性の深夜業禁止など女子の”保護規定”をはずすべきだといい、労働者側は、むしろ男子にも保護規定を認めるのがスジだと相互に主張して譲らない。
結局、法案では妊娠出産の以外は「女性保護規定」を見直すことにした。
実はこの法案成立には、タイムリミットがあった。1975年が国際婦人年で、日本も10年をめどに男女平等法をつくる「行動計画」を批准していたからだ。
法案の成立には、通常「審議会答申→法案提出→事務次官会議→閣議→国会上程」という過程を経る。
ところが、1984年4月、国会提出のタイムリミットぎりぎりの審議会で、労働者側代表の山根和子は、「手ぬるい法律は認められない」と激しく異論を唱え、審議会への出席を拒否した。
赤松は時間との戦いの中で、山根が出席を拒否すれば審議会は成立しない、つまり法案の成立は実現しないところまで追い詰められた。
1984年4月まで法案要綱つくらなければ、国際婦人年「10年の行動計画」の期限1985年までに、法が成立しないのである。
赤松は役所の窓から外の景色を見た。すべての苦労が水泡に帰するかもしれないと涙があふれた。
そして、赤松は山根に最後の電話をかけてみようと思った。
そして訴えた。「不十分な法律であることはわかっている。しかし今法律をつくっておくことが大事である。法律ができなければ、国連の女子差別撤廃条約を批准できない。これでは世界の動きからいっそう遅れてしまう」。しかし、電話は"無言"で切れた。
その翌日、山根和子は審議会に山根が現われた。山根は赤松を睨んだようにみえたが、実は赤松は山根が来てくれるような気がしていた。
赤松は、法案の説明をしながら、心の中で赤松は山根に頭を下げていたという。
そして1984年、国会で「男女雇用機会均等法」が成立。新法には罰則規定がないという弱点があった。
しかし「小さく産んで大きく育てよう」という赤松の確信は正しく、1997年に男女雇用機会均等法は大幅に改正され、赤松がかつて無念の涙を呑んで見送った"禁止規定"が盛り込まれた。
後日、当時を振り返って赤松は山根に言った。「あなたはたいしたものだった」。山根も「あなたこそたいしたものだった」と返した。

日本を代表する私鉄・小田急線は新宿・小田原間を結ぶ。東京から観光名所の小田原や箱根の温泉への直通が「売り」だが、その小田急にとって強力なライバルは国鉄であった。
東海道線が東京ー小田原間を75分で結ぶのに、小田急は戦時中の酷使で線路が傷んでおり、当時の車両で100分かかった。
このままでは東海道線にまったく対抗できないと連日会議を開いたところ、ひとりの男が「劇的に軽量化した新型特急を開発しよう」という提案をした。
提案者は、取締役運輸担当の山本利三郎で、戦前、鉄道省・東京鉄道管理局の列車部長だった。
そして1954年、山本の情熱が実ってスーパーエクスプレス(SE車)の開発が承認された。
しかし車体が軽くてスピードがでる特急列車とはいっても、小田急の技術だけでは自ずから限界がある。
そこで山本は思い切った行動に出る。<>向かった先は、なんと国鉄の「鉄道技術研究所」で、そこは敵方の「心臓部」といってよい。
私鉄から特急開発の技術援助を求められるなど、鉄道技術研究所にとっても前代未聞のことであった。
しかし意外なことに、「鉄道技術研究所」はその申し出をこころよく引き受けた。
当時の「鉄道技術研究所」には、終戦で仕事を失っていた陸・海・空軍の優秀な技術者が集まっていたが、当時の国鉄本体は「高速電車」に対して否定的な意見が強かった。
そうした「否定的意見」を打ち消すためにも、小田急からの申し出は、鉄道技術研究所にとって「渡りに船」、「技術者魂」を揺さぶられる機会でもあった。
そして私鉄と国鉄の「垣根」を超えた新しい「車両開発」が進み始めた。
1950年代前半の国鉄は事業損益は184億円となって危機的状況にあった。当時の国鉄は幹線の輸送力増強が急務であり、その設備投資にかかる費用が莫大なものとなっていたからだ。
また、国会議員からローカル線の建設の要求が高まっており、その建設費が国鉄の財務を圧迫していた。
当時の東海道線は、すでに輸送量の限界近くになっており、新幹線開設が待たれていたが、これ以上の輸送力増加は不要と考える勢力も存在した。
それは、航空機輸送の発達と、モータリゼーションの時代の到来を見越してのことであった。
そうした勢力と戦うためにも、東海道線の「抜本的」な輸送力の拡大が求められていたのだ。
満州にて「あじあ号」を実現させた実績をもつ十河信二(そごう しんじ)が総裁に就任するが、その1952年には、赤字体質の改善と幹線の輸送量の増強を東海道線の「狭軌複々線」での輸送力増強がすでに決まっていた。
だが十河は「広軌新幹線」建設にこだわり続け、総裁に就任するやいなや副総裁と技師長に「広軌新幹線」の研究と報告を求めた。
しかし「狭軌複々線」での増強案が決まっていたから、当然ながら副総裁と技師長は「広軌新幹線」に乗り気ではなかった。その結果、報告の内容は既存のデータをなぞっただけの代物だった。
これを見て十河は、何より体制つくりが先決と考え、技師長を辞任させ、後任には桜木町事故の責任問題で国鉄を去っていた「島秀雄」を再び招き入れることにした。
島秀雄は、かつて特攻機「桜花」の開発をしていた人物で、戦後は自分の技術を日本の平和と安全のために活かすことを願っていた。
島はその当時、住友金属工業の取締役の職を勤めていたが、十河は難色を示していた島を「副総裁格」の技師長として招きいれた。
こうして国鉄は十河総裁、島技師長のもとで「広軌新幹線」実現へと動き出した。
十河にとっての最大の懸念は、列車のる高速化の実現が、自動車の普及に間に合うのかだった。
そこで島は、小田急電鉄から鉄道技術研究所に開発依頼がきて、すでに特急電車の研究開発が進んでいることを報告する。
そして、小田急電鉄の運行が成功すれば、国鉄内部の「電車反対派」も説得できると訴えた。
というわけで、満州の「あじあ号」と東海道「新幹線」との間に、もう一章の新宿と小田原を結んだ小田急線開発の「ストーリー」が介在することになる。
技術的見地からみて、「小田急電鉄特急」は「新幹線」の試作品というものだった。
その「試作品」は、狭軌鉄道としては、当時「世界一」という記録を出したのだ。
驚いたことに、その時小田急特急「SE3000」は、整備状態がよかった"国鉄の線路上"を走っての記録達成だった。

読売新聞の元社長・渡辺恒雄は1934年生まれで、戦時下で反軍青年であった。日中戦争が深まる1939年、渡辺は開成中学に入学し、哲学書を読みふける日々を過ごす。
1945年4月、渡辺は東京帝国大学文学部哲学科に入学する。太平洋戦争で徴兵され、この時代の軍隊生活の例に漏れず、上官から厳しい暴行を受けたこともある。そんな暴行も、天皇の名の下に行われていた。
その年の8月、日本が敗戦すると渡辺は復学、東大のキャンパスに戻ってみると、保守政党から社会党まで「天皇制護持」だったが、共産党だけが「天皇制打倒」を宣言していた。
渡辺は天皇制と軍隊の二つを叩き潰すために、日本共産党に入党を申し込み、下部組織である日本青年共産同盟のメンバーとして活動を始める。
街のビラ貼り、他の学校へのオルグなどから始まり、教員の解雇問題のあった女子校を実力占拠するなど、活躍した。
母校である東京高等学校に行き、インターハイを目指す野球部員に「野球なんてくだらないものをする時ではない」と活動に誘ったこともある。
そして、東大の学生党員約200名のトップに立つまでに至った。
だが渡辺はある日、「党員は軍隊的鉄の規律を厳守せよ」と書かれたビラを目にして、それまで自分が感じていた違和感にはっきり気づくことになる。
共産党は上意下達のタテ社会であり、軍隊とそっくりだったのだ。天皇制を否定していた渡辺だが、「報いられることなき献身」を求めるマルクス主義は、神なき宗教だ、と確信する。
また党内の抗争に敗れ、共産党本部から「警察のスパイ」とレッテルを貼られ、除名されることになる。
1950年、渡辺は東大を卒業すると、読売新聞社に入社した。
一方、日本共産党は1951年、第4回全国協議会(四全協)で武装闘争路線を明確にしていた。
農村に“解放区”を作ることを目指す「山村工作隊」や、「中核自衛隊」などの非公然組織が作られ、各地で火焔瓶を用いた交番の焼き討ちなどが行われた。
1952年4月、奥多摩の小河内(おごうち)村に作られた、山村工作隊のアジトのひとつに渡辺は単身で赴く。
その3日前には、小河内工作隊の23名が警察隊に包囲されて逮捕されるなど、緊迫した雰囲気が漂っていた最中である。
渡辺は工作隊のメンバーたちに捕えられられ、渡辺は新聞記者だと名乗るが、メンバーは訝った。
「このまま帰せば、明日にでも、どっと警官隊が押し寄せてくるだろう」「どうだい、殺った方が安全じゃないのか」「ここで片付けてしまうんだ! 簡単じゃないか!」。
高は、そんな殺気立ったメンバー達を制して、渡辺のインタビューに応じた。
「我々は危害を加えるつもりはない。新聞記者であろうと、なかろうとだ。俺たちは、ただみんなに俺たちの願いを知ってもらいたいだけだ。俺たちがここにきているのは、自分たちの楽を求めての事じゃない。それを知ってほしいと思う」と語った。
この時、髙史明は、渡辺の中に”同族”を嗅ぎ取ったにちがいない。それは、戦争の不条理を生きた者としての匂いだったようだ。
渡辺の取材は、同年4月3日の読売新聞で「山村工作隊のアジトに乗り込む」というスクープ記事となり、渡辺は本紙政治部に抜擢され、後年、政界への影響力を持つまでの存在になる。
ところで、渡辺恒雄が他の新聞記者と一線を画するのは、自らが政治のプレイヤーであった点である。
実は、1965年日韓基本条約、1999年のの「自自公」連立や2007年の幻となった自民民主大連立の背後で動いたのが渡辺であった。
、 そんな渡辺がライバル紙である朝日の論壇誌に登場したことがある。
その内容は朝日新聞の論説主幹(当時)の若宮啓春(よしぶみ)と、読売新聞の論説主筆(今なお現役)の渡辺恒雄の対談であった。
この対談の仕掛け人は当時の「論座」の編集長(当時)の薬師寺克行(後の朝日政治部長)であった。
きっかけは、中曽根首相以来といわれる小泉首相の終戦日における靖国神社公式参拝についての読売の社説から、朝日と同じ問題意識をもっていると感じ、対談をしてみたらどうかという思いがきたという。
薬師寺が読売の方に電話をかけると、1時間ほどでやってみようという返事がきた。
両社のエースどうし、データ型の渡辺と感覚型の若宮のそれぞれの必死の対談となった。
薬師寺から見て、渡辺が首相の靖国公式参拝は控えるべきで、戦争責任の所在、責任の軽重を明確にすべきと語るのを聞いて、「保守の論客」としての渡辺のイメージが随分変わったという。
渡辺はイデオロギー先行型ではなく、リアリスト。戦争に対してはリベラル。報道人であると同時に政治のプレイヤー、それが一つの人格に共存していた。
さらに渡辺は、首相の靖国参拝への疑問を、読売も朝日も同意するカタチで政府に提言する必要があると訴えた。
1985年6月の月刊誌「論座」のタイトルは「朝読共闘宣言 小泉靖国参拝を問う」であった。論壇誌としては異例の売り上げを示し、アッという間に完売。
薬師寺は、この対談を振り返って、論壇が輝いた「最後」と、コメントしている。