聖書の言葉から(パンと魚)

新約聖書には、イエスが空腹になった民衆に数少ないパンと魚を割いて与える場面が2度ある。
内容が具体的だけに、そのメッセージをなんとか理解したいが、難解すぎる。
最初の場面は、次のとおりである。
「夕方になったので、弟子たちがイエスのもとにきて言った、ここは寂しい所でもあり、もう時もおそくなりました。群衆を解散させ、めいめいで食物を買いに、村々へ行かせてください"。するとイエスは言われた、"彼らが出かけて行くには及ばない。あなたがたの手で食物をやりなさい"。弟子たちは言った、"わたしたちはここに、パン五つと魚二ひきしか持っていません"。イエスは言われた、"それをここに持ってきなさい"。そして群衆に命じて、草の上にすわらせ、5つのパンと2ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさいて弟子たちに渡された。弟子たちはそれを群衆に与えた。 みんなの者は食べて満腹した。パンくずの残りを集めると、12のかごにいっぱいになった。 食べた者は、女と子供とを除いて、おおよそ5千人であった」(マタイ14章)。
この場面をどう解釈するか?「聖書のことは聖書に聞け」という原則に立てば、案外とヒントが見つかる。
最近そのヒントを、イエスの十字架の死後の「使徒の働き」(使徒行伝4章)に見出した。
「マタイ14章」と「使徒行伝4章」の出来事は全く無関係に見える。しかし聖書の出来事は、しばしば「来たるべきこと」の預言となっているケースがある。
さて、イエスは十字架の死後に復活して弟子達に約40日の間多くの弟子達に現われる。そして「あなた方を孤児にはしない」(ヨハネ14章)という言葉を残して昇天する。
そして死後50日目(ペンテコステの日)にエルサレムの会堂に聖霊が下り「初代教会」が誕生する。
この「初代教会」で「福音」を語ったのは、ペテロとヨハネであるが、イエスの復活と神の国の到来のメッセージに心動かされて信者の数が「男だけで5000人」に達したという(使徒行伝4章)。
この「男のみの数5000人」という数こそは、冒頭の場面でイエスがパンと魚を与えた民衆の数とピタリと一致しているのだ。
しかし、同じ「男のみの数5000人」だとしても、両者にどんな関係があるのか?
カギは、イエスが「パン」を割いて祝福を祈り、弟子を通じて人々にパンを与えたということ。
実は聖書で「パン」というのは単に食べ物としてのパンとは限らない。
イエスは次のように語っている。「よくよくあなたがたに言っておく。信じる者には永遠の命がある。わたしは命のパンである。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」(ヨハネ6章)。
イエスの死後50日目に下った聖霊は、実は「命のパン」たるイエスキリストそのものをさしている。
ちなみにイエスの言葉にある「マナ(Manna)」はイスラエルの民が荒野で飢えた時、神がモーセの祈りに応じて天から降らせた食べ物である。
旧約聖書「出エジプト記」に「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる」(出エジプト記16:4)とあり、この時人々は「これは何だろう」と口にし、このことから「これは何だろう」を意味するヘブライ語の「マナ」と呼ばれるようになった。
この「マナ」は、十字架に死後に下った聖霊として下ったイエスの「影」(型)を示している。
イエスが自らを「天からのパン(マナ)」と表したように、復活後イエスは「12人の弟子や、イエスに従った女たち、また、500人以上もの人々に同時に現れた」(第一コリント15章)とある。
さてイエスは5000人の空腹な民衆を満足させるほどのものを与えたとあるが、聖書にはパンや魚がどのように増えたかなどという説明はない。
一応、「パン種がパン全体を膨らませる」ということは別の箇所に書いてあるが、それより不思議なのは、イエスが残ったパンを集めたところ「12カゴ」にもなったという点である。
普通、残り物のパンの量を集め、その量を聖書に記録するのは実に奇妙な話である。
この「パンの残余量」については、この「5000人の空腹な民衆のエピソード」のすぐ後に出てくるエピソードにヒントがある。
イエスがツロの地方に行った時、けがれた霊につかれた幼い娘をもつ女が、イエスのことをすぐ聞きつけてきて、その足もとにひれ伏した。
この女はギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生れであった。そして、娘から悪霊を追い出してくださいとお願いした。
イエスは女に言われた、「まず子供たちに十分食べさすべきである。子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。
すると女は答えて言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、食卓の下にいる小犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」。
そこでイエスは言われた、「その言葉で、じゅうぶんである。お帰りなさい。悪霊は娘から出てしまった」。そこで、女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた(マルコ7章)。
このエピソードからわかるのは、イエスが5000人の民衆に割いて与えた際に「残ったパンくず」とは、「異邦人」に与えられるパンを指している。
イエスは、次のように語っている。
「わたしにはまた、この囲いにはない他の羊がある。私は彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、一つの羊飼いになるであろう」(ヨハネ10章)とある。
冒頭のエピソードで注目したいのは、イエスはパンと魚を弟子たちに渡して、弟子達がこれを分けたという箇所である。
実際イエスは十字架の死後3日後に復活し、弟子たちに「全世界にでていって福音を宣べ伝えよ」というミッションを与える。
このことから「12カゴに残ったパン」は、12人の使徒達による異邦人伝道を示しているのではなかろうか。

冒頭のエピソードで民衆に割いて与えたパンの他に「魚」があるが、この「魚」は何を意味するのであろうか。
キリスト教がローマで迫害されていた約300年間、初期のキリスト教徒たちは自分たちの信仰を共有するシンボルとして「魚」を使っている。
理由は次の3つであり、その一つめは、旧約聖書の「ヨナ書」によるものである。
主のことばを受けたヨナは、主から逃れるために舟に乗って海に出た。
直後に大きな嵐に見舞われ、船長に主から逃げていることを告げる。
そして嵐をしずめるために自らの手足を縛らせ、荒れ狂う海に投げ込ませまた。
主は巨大な魚に命じてヨナを飲み込ませ、三日三晩、魚の腹の中にとどめた後、海に吐き出させた。
このヨナの出来事は、後のキリストの十字架の死と3日目の復活にたとえられて、キリスト教のシンボルとして魚が使われるようになった。
もう一つの理由は、弟子のリーダーであったペトロが漁師であり、「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と言われたところから、魚が使われるようになった。
3つめは、ギリシャ語で「イエス・キリスト・神の子・救い主」と書くと(ΙΗΣΟΥΣ ΧΡΙΣΤΟΣ ΘΕΟΥ ΥΙΟΣ ΣΩΤΗΡ)。
その頭文字を合わせると、ΙΧΘΥΣとなり「魚」を意味する。
ローマで迫害を逃れたキリスト者はカタコンベ(地下墓所)を礼拝所として使っていたが、その入り口には「魚」のマークが施してあったのである。
さて復活したイエスは、ガリラヤ湖で魚を獲っているペテロら漁師と出会う場面がある。
イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに「あれは主だ」と言った。シモン・ペテロは主であると聞いて、裸になっていたため、上着をまとって海にとびこんだ。 しかし、ほかの弟子たちは舟に乗ったまま、魚のはいっている網を引きながら帰って行った。陸からはあまり遠くない五十間ほどの所にいたからである。彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。イエスは彼らに言われた、「今とった魚を少し持ってきなさい」。シモン・ペテロが行って、網を陸へ引き上げると、153びきの大きな魚でいっぱいになっていた。そんなに多かったが、網はさけないでいた」(ヨハネ21章)。
ところで、この箇所にでてくる「153」というのは、世にも不思議な数字なのだ。
ピタゴラスは「三角形の頂点から数字をおいて出来る三角形」を形成する数の合計を「三角数」とよんだ。
最も単純なのは、1、2、3を三角の頂点においてできる合計、つまり1+2+3=6は三角数である。
また、三角形を拡大すると1~17までの数字がハマルが、それを全部足した数、1+2+3+4+5+6+7+8+9+10+11+12+13+14+15+16+17=153となり、これも三角数である。
また、153を逆さまにした351も、153と同様に三角数で、26番目の三角数である。
しかし「153」の不思議さはソレにとどまらない。
各桁の数字それぞれを三乗して足してみることを「立方化」よぶとすると、「3で割りきれる数」は、いかなる数字といえども「立方化」を繰り返せば、必ずこの「153」という数字に帰着するのだ。
まずは、153の各桁の数値(1、5、3)を3乗して足す「立方化」することからはじめてみよう。果たして、どんな数が出てくるか。
153→(1の3乗)+(5の3乗)+(3の乗) =1+125+27=153。
つぎに3で割り切れる手ごろな数「99」でためしてみよう。
(1)99→(9の3乗)+(9の3乗)=1458。
(2)1458→(1の3乗)+(4の3乗)+(5の3乗)+(8の3乗)=702。
(3)702→(7の3乗)+(0の3乗)+(2の3乗)=351。
(4)351→(3の3乗)+(5の3乗)+(1の3乗)=153。
聖書で、網にかかかったの魚が「153匹」わざわざ書いてあるのも何かの暗号のようのでもある。
さて、聖書の中の数字といえば、「666」が一番有名なのではなかろうか。
「ヨハネ黙示録」では世の終わりに「666」と数字がついた「反キリスト」または「偽キリスト」が出ると預言している(13章16節)。
新約聖書は、ギリシア語で書かれているため、アラビア数字ではない。
古代ギリシアイオニア式は、ローマ数字のようにアルファベットを数字として用いる。
例えば、「α」は文字(アルファ)を表すが、「αʹ」は1、「͵α」または「͵αʹ」は1000を表す。
「Αʹ αʹ アルファ →1」「Βʹ βʹ ベ-タ→ 2」Γʹ γʹ ガンマ →3」といった具合である。
「Ιησουs(イエスース)」は、10+8+200+70+400+200=「888」。ちなみに、「888」も3で割り切れる数であるから、先ほどの「立方化」を繰り返せば、「153」に帰着する。

冒頭でイエスが男のみの数5000人に5つのパンと二匹の魚を割いて与えたとあるが、この場面での「二匹の魚」の意味はなんなのだろう。
聖書にはもう一か所、イエスが空腹な民衆にパンと魚を与える場面がある。
「イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「この群衆がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない。しかし、彼らを空腹のままで帰らせたくはない。
恐らく途中で弱り切ってしまうであろう」。弟子たちは言った、「荒野の中で、こんなに大ぜいの群衆にじゅうぶん食べさせるほどたくさんのパンを、どこで手に入れましょうか」。
イエスは弟子たちに「パンはいくつあるか」と尋ねられると、「7つあります。また”小さい魚”が少しあります」と答えた。 そこでイエスは群衆に、地にすわるようにと命じ、7七つのパンと魚とを取り、感謝してこれをさき、弟子たちにわたされ、弟子たちはこれを群衆にわけた。
一同の者は食べて満腹した。そして残ったパンくずを集めると、7つのかごにいっぱいになった。食べた者は、女と子供とを除いて4千人であった。
そこでイエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダンの地方へ行かれた」(マタイ15章)。
イエスが「男の数5千人の空腹な民衆を食べさせた」場面で、12カゴは「12使徒」と推測できるが、この「男の数4千人の空腹な民衆」を満たした「7つのカゴ」とは何を意味するのだろうか?
実は「使徒行伝」に「7人の使徒」とピタリ一致する場面がある。それは12弟子(裏切ったユダのかわりのマッテアを含む)、あらたに「7人の使徒」が加えられる場面である。
「そのころ、弟子の数がふえてくるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して、自分たちのやもめらが、日々の配給で、おろそかにされがちだと、苦情を申し立てた。そこで、十二使徒は弟子全体を呼び集めて言った、「わたしたちが神の言をさしおいて、食卓のことに携わるのはおもしろくない。そこで、兄弟たちよ、あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判のよい人たち七人を捜し出してほしい。その人たちにこの仕事をまかせ、 わたしたちは、もっぱら祈と御言のご用に当ることにしよう」(使徒行伝6章)。
そして7人を選び出し、それによって「神の言は、ますますひろまり、エルサレムにおける弟子の数が、非常にふえていき、祭司たちも多数、信仰を受けいれるようになった」。
エルサレムの初代教会は「男の数5000人」に達したとあるが、その際に「神の言葉」を語ったのは、ペテロとヨハネであることがはっきりと記載されている(使徒行伝6章)。
彼ら2人はいずれも漁師で「直弟子」であることからも、「2ひきの魚」とはペテロとヨハネもしくは「神の御言葉」を意味するのではないか。
次にイエスが対面した「男の数4000人の空腹な民衆」にでてくる「小さい魚」とは誰のことかというと、新たに加わった7人のいわばイエスの「孫弟子」を意味し、彼らによって増えたエルサレムの弟子の数が4000人に達したということではなかろうか。
初代教会において彼らもまたイエスという「天のパン」にあずかったのである。
聖書はかくも「来たるべきこと」を言葉ばかりか、「出来事」を通じても、預言しているのだ。
さて12使徒に加えられた「小さな魚」たるいわば「孫弟子」7人の中で特に知恵と信仰にあふれたステパノは、ダマスコにて殉教する。
そのステパノを殺した一団にパウロがいた。
パウロはその後、強烈な光に打たれキリスト者となるが、ユダヤ教律法学者の指導的立場から一転、「異邦人伝道」の中心となっていく。
それはちょうど、旧約聖書においてアベルの犠牲(血)によてカインが生かされたように、新約聖書においては、ステパノの犠牲(血)によってパウロが生かされた。彼らの罪を彼らに負わせないという「もの言う血」により生かされたのである。
パウロは「(イエスの血)をアベルの血よりもさらに力強く語るそそがれた血である」としている(へブル人12章)。