聖書の場面から(この杯が飲めるか)

新約聖書に、「過越の祭の間、イエスがエルサレムに滞在しておられたとき、多くの人々は、その行われたしるしを見て、イエスの名を信じた。 しかしイエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった」(ヨハネ福音書2章)とある。
ここで「お任せにならなかった」とはどいういうことだろうか。聖書は、次のように続いている。
「それは、すべての人を知っておられ、また人についてあかしする者を、必要とされなかったからである。それは、ご自身、人の心の中にあることを知っておられたからである」。
イエスは誰に聞かずとも人々の心はアテにならず、自分を人に「任せなかった」というように聞こえる。
しかし、イエスはある時を境にして、人に自分を完全に「任せる」ことになる。
イエスはエルサレムへ上るとき、十二弟子をひそかに呼びよせ、その途中で彼らに言われた。
「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に渡されるであろう。彼らは彼に死刑を宣告し、 そして彼をあざけり、むち打ち、十字架につけさせるために、異邦人に引きわたすであろう。そして彼は三日目によみがえるであろう」(マタイ20章)。
その時、ヤコブとヨハネの母が、イエスに跪いて神の御国で、ひとりはイエスの右に、ひとりは左にすわれるように願った。
それに対してイエスは、「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない。わたしの飲もうとしている杯を飲むことができるか」と問うた。
それに対して、彼らは「できます」と答えた。
イエスは、「最後の晩餐」ではさらに具体的に自分にこれから起きることを話す。
実はこの最後の晩餐は、イエスが人の心を熟知されているかを示す場面といっていい。
イエスは自分を裏切ろうとしている者がいることを告げ、さらには自分がひときれの食べ物を浸して与える者こそがそれだとも明言した。
実際イエスは、その食べ物をイスカリオテのユダに与えたのだが、弟子たちはさっぱり何のことかわからなかったので、気にも留めなかったようだ。
そもそもイエスはローマの支配から彼らを解放してくれるはずであり、自らすすんでローマ官憲などに身を任せるなどありえないし、ましてイエスを裏切る者がいるなどということも、頭の片隅にもなかったからだ。
それでもペテロは、もしそんなことが起きたら、イエスに最後まで従っていくと誓うのである。
それに対してイエスは、ペテロが「にわとりが三度なく前に、私を三度知らないであろう」と告げている。
結局、イエスが自分を任せなかったのは、人々が自分の真意を十分理解しておらず、全てを語ると人々がイエスから去ることを知っていたからである。
その後、イエスは弟子たちとともにオリブ山のゲッセマネの園で祈っている時に、ユダから情報を得ていたローマの官憲に逮捕される。
その時、弟子たちはイエスから逃げ出し、ペテロはイエスの取り調べの場所を遠くから眺めていた。
その時、通りすがりの人に「イエスと一諸にいた者ではないか」と問われ、それを否定する。その時、にわとりが鳴く。
そんなことを三度繰り返し、イエスの預言どうりになり、ペテロは泣き崩れる。
一方、官憲におちたイエスは、ローマ兵や取り調べを行うピラト総督に対して、周りが不思議に思うほど、自分を弁護する言葉を発することもなかった。
イエスはあたかも、すべての運命をすべてローマ兵に「任せた」ごとく、ゴルゴダの丘つまり「十字架」に導かれていく。
さて、日本史でイエスが刑死するに至る過程と、少し似た場面がある。それは、東京裁判における廣田弘毅の態度である。
第二次世界大戦において、外務大臣や首相を務めた廣田は、第一級(A級)の戦争犯罪を問われる。
しかし外国人弁護担当者が、「廣田には自分を弁護しようという意思がない」と思うほど黙して語らず、自らの「弁護」を放棄しようとするほどだった。
そして廣田は、「有罪(ギルティ)」の判決に従容として従い、巣鴨の刑場の露と消えたのである。
それでは廣田はなぜ言葉を発しなかったのか、それは自分の発言が「天皇の戦争責任」になることを恐れたからだと、いわれている。
いうまでもないことだが、イエスの十字架の死は、廣田の死とは、根本的に意味合いが違う。
また、新約聖書には次のような言葉がある。
「あなたがたのうちで、愛するもののために、命を捨てるものはあるかもしれない。しかしながら、罪びとのために命を捨てるものなどいないであろう」(ローマ人への手紙)。
また、イエスがヤコブ・ヨハネ兄弟に語った「この杯が飲めるか」といった意味が、自分を官憲の手に任せ十字架に向かったプロセス全体をさすのならば、人にはとても飲めそうもない杯である。

我が地元・福岡の「黒田節」誕生のエピソードの中にも「この杯が飲めるか」という問いがでてくる。
母里(ぼり)太兵衛は、黒田長政より使いにだされ、豊臣秀吉配下の実力者・福島正則に面会した。
母里は、あらかじめ酒豪・福島正則の話を聞いており、役割を果たすためにも酒を控えるつもりでいた。
しかし母里は福島正則に「この盃が飲めるか」と大杯を差し出された。ならば、その挑戦を受けるのが黒田武士、しかも、この大杯を飲みほすならば望みのものは何でもあたえよう」という。
母里は、黒田武士の威信をかけて見事大杯を呑み干したのである。
そして母里が所望したのは、部屋に置かれた「日本号」と呼ばれた名槍だった。
「日本号」は元は正親町天皇が所有していたもの。信長・秀吉の手をへて福島正則が所有していたもので、福島からすれば、自己の存在価値の表象のようなもの。
そして苦りきる福島正則から「日本号」をうけとった豪傑・母里太兵衛の話は、福岡城内で評判となった。
明治になって作られた謡曲「黒田節」によって名槍「日本号」はあまりにも有名になった。
「酒は飲め飲め飲むならば、日の本一のこの槍を、呑みとるほどに飲むならば、これぞまことの黒田武士」。
ところで、昭和天皇が行ったことの中に、「この盃が飲めるか」と、我々に問うような場面がある。
終戦直後にアメリカ大使館で撮ったマッカーサーと天皇が並んだ撮った写真。マッカーサーのリラックスした雰囲気と緊張した天皇の姿が並んでいる写真だが、アメリカの占領に国を明け渡すに充分な「敗戦の重み」を実感させた。
天皇が玉音放送で国民に敗戦をよびかけて2週間後、アメリカ大使館のマッカーサーを訪問した。アメリカ大使館が位置するのは、天皇が摂政時代に重大事件に巻き込まれた「虎の門」である。
マッカーサーはパイプを口にくわえ、ソファーから立とうともしなかった。その姿は、あからさまに昭和天皇を見下していた。
そんなマッカーサーに対して昭和天皇は直立不動のままで、国際儀礼としての挨拶をした後に自身の進退について述べた。
「日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行なわれました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟があります」。
そして「罪なき8000万の国民が住むに家なく着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように」と語った。
この言葉に、マッカーサーは驚いた。自らの命と引き換えに、自国民を救おうとした国王など、世界の歴史上殆ど無かったからだ。
それは「この杯が飲めるか」とい問いに価するほどのものだったといえる。
マッカーサーはこの時の感動を、「回想記」にこう記している。
「私は大きい感動にゆすぶられた。この勇気に満ちた態度に、私の骨の髄までもゆり動かされた。私はその瞬間、私の眼前にいる天皇が、個人の資格においても日本における最高の紳士である、と思った」。
35分にわたった会見が終わった時、マッカーサーは予定を変えて自ら昭和天皇を玄関まで送った。
この年11月、アメリカ政府はマッカーサーに対し、昭和天皇の戦争責任を調査するよう要請したが、マッカーサーは「戦争責任を追及できる証拠は一切ない」と回答している。
ちょうどイスラエル総督のピラトがイエスを取り調べた時のように。
マッカーサーと昭和天皇は、この後合計11回に渡って会談を繰り返し、昭和天皇は日本の占領統治の為に絶対に必要な存在であるという認識を深めるようになった。
当時、国際世論として「天皇を処刑すべきだ」と主張していたが、マッカーサーはこれらの意見を退けて、自ら天皇助命の先頭に立ったばかりか、深刻な食糧不足に悩まされた日本に対して食糧支援を行い日本の危機を救っている。
さてもうひとつ「この杯が飲めるか」という問いたくなるほどのことが、昭和天皇が行った「地方巡幸」である。
なぜならそれは、天皇が自分の体をはった出来事であったからだ。
この点について、世界史的な意味を考察したようものは、ほとんど見当たらない。
世界のどこに、それまで絶対君主であったものが、ほとんど人々の中に入り込むように、触れ合ったといったことがあるだろうか。
さて、昭和天皇が狙撃されたことがあるといったら、多くの人は驚くかもしれない。
ただしそれは皇太子時代のこと。銃弾はハズレたものの、車の窓ガラスを破って同乗していた侍従長が軽症を負っている。
この出来事を「虎ノ門事件」(1923年12月27日)という。
狙撃犯・難波大介はその場で取り押さえられたが、現場指揮官ばかりか山本権兵衛内閣が辞任する事態に発展した。
ところで、一度狙撃された経験をもつ昭和天皇が21年から29年にかけ8年間にわたり国中をまわって戦争で多くを失った国民に声をかけ励まされた「全国地方巡幸」の勇気は大変なものだったと思う。
こういう観点から語られることはないが、天皇としても死の覚悟ができなければ全国巡幸などできなかったことではなかろうか。
終始巡幸に随行した侍従長は「昭和22年は大巡幸が5回、小巡幸が1回で、21県を行脚せられた。その自動車での走行距離だけでも、優に1万キロを突破するだろう。合計67日間は文字通りの南船北馬であり、櫛風木雨の旅であった」と語った。
1946年2月、クリスチャンの賀川豊彦が巡行の案内役を勤めた時ののこと、賀川が一番驚いたのは、上野駅から流れるようにして近づいてきた浮浪者の群れに、天皇が一人一人に挨拶をした時であった。
左翼も解放せられている時代に、天皇は、親友に話すように近づき、「あなたは何処で戦災に逢われましたか、ここで不自由していませんか」と一人一人に聞いていったのである。
そして1947年歓迎側の余りのフィーバーぶりに外国人特派員を中心に批判が起こり、「日の丸」を掲げる者がでてきたことともあいまって、天皇の政治権力の復活を危惧したGHQは、巡幸を1年間中止することにした。
このあと1949年に再開され、足かけ8年、1954年8月に残っていた北海道を巡幸して、1946年2月19日からの総日数165日、46都道府県、約3万3千キロの旅が終わる。
ただし、悲惨な地上戦(沖縄戦)が展開され多大な犠牲者を出した沖縄は除かれたが、沖縄訪問(巡幸)は、昭和天皇終生の悲願であったようである。

イスラエルが世界で最もワクチン接種が進んだ国といわれている。
全人口に占める接種した人数の割合では世界トップ。
国民の半数を超す510万人が1回目を終え、うち460万人は2回目も済ませた。
なかでも60歳以上では8割以上がすでに2回の接種を終えた。
どうしてそんなに速いのかというと、ワクチンを作った米国の製薬会社ファイザーと「特別な契約」を結んだからだ。
大量のワクチンを早めに届けるのと引き換えに、イスラエル側は、接種の効果などのデータを提供する約束をした。
イスラエルは全国民の医療情報を集約してデジタル管理しているので、すぐに詳しく分析することができる。
それでは、ワクチンの効き目は出ているのか。
先に接種を進めてきた高齢者では、感染率や重症化率が若者に比べて大きく下がり始めた。
16歳以上の約120万人を対象にした研究論文によれば、2回目の接種から7日以上が経った場合、未接種の場合と比べて発症する人数が94%減り、重症化は92%減る効果があったそうだ。
ファイザーが事前に実施した臨床試験と同じぐらいの効果があることがわかってきた。
接種後に痛みや発熱を訴える人は多いが、深刻な副反応はごく少数のようだ。
ところで、日本には「医療データ」と引き換えに、社会的生命を長らえた人々がいる。彼らは、今風の言葉でいえば「上級国民」ということになろうか。
1996年の「薬害エイズ事件」は、そうした人々の存在を浮きぼりにした事件であった。
この事件は、すでにエイズ・ウイルスが発見され、非加熱製剤の安全性に国際的にも疑問が出ていた1983年以降ですら、目の前の血友病患者に対して、まるで人体実験のようにミドリ十字社製の非加熱製剤を打ちつづけたというもの。
感染者2000人以上という最悪の結果を招いたエイズ事件の中心にいた人物(帝京大学副学長)に対し、地裁では無罪判決が出て国民を怒らせたが、最終的には、被告に心臓疾患や認知症を発症したため公判停止となり、88歳で死去した。
この事件は、人命より社益を優先させた製薬会社の体質・行政の怠慢と天下り・医師の低い人権感覚などだけではない。
本当に問われたのは、中国で人体実験を行った医療関係者が多く関わった事件だったからだ。
すなわち、元731部隊の中枢にいた元軍医中佐が戦後創業した製薬会社こそ旧ミドリ十字であり、そこには多くの731部隊員が就職していた。
細菌兵器を開発するために多数の人間を人体実験に供し、アメリカへの「資料提供」の見返りに東京裁判で「免責」となり、裁かれることなくして戦後社会の中に再び復帰した。
実は、戦争中の日本社会の上層部は「様々な情報」と引き換えによって「裁き」を免れた面がある。それは何も医療データに限られるものではない。
「薬害エイズ事件」の意義は、そうした戦争中の「亡霊」を引き出したということにある。
さて現在、個人データが民間にビッグデータとして蓄積されている段階から、国家が個人情報とひもつきでデータを管理する段階に移行することに恐ろしさを感じる。
今や国家理念(民主主義か専制主義か)の違いが、そのまま我々の個人情報の有り様を反映している。
最近、行政と連携したアプリを展開していた「LINE」の情報漏洩がおき、そのサーバーが中国や韓国に置かれていた事実を知って驚いた。
また、2018年には、日本年金機構のデータ入力業務を請け負った会社が業務を中国企業に「再委託」していたことも発覚している。
今後、個人情報を行政に委ねてしまうことは、我々の「生殺与奪」の権をかなりの部分を、政府「任せた」ということにほかならない。具体的にはマイイナンバー制度などを指すが、それを受け入れるかどうか。
まるで我々に差し出された「杯」のように思えますが。

また1947年に設立された厚生省の国立予防衛生研究所の歴代所長には、731部隊で人体実験に関与した医師が就任していた。 昭和天皇がマッカーサーとの会談につき一切語らなかったのは、両者の固い約束のためだといわれるが、当時の通訳によってようやくその一部が明らかになった次第である。