聖書の素材から(乳香・没薬・瀝青)

「イエスがベタニヤでらい病の人シモンの家にいて、食事の席についておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた」。
その場にいた人々は、「なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。この香油は300デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことが出来たのに」と言って彼女を厳しくとがめた。
するとイエスは、「この人はできる限りのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、葬りの準備をしてくれた」と応えた(マルコ福音書14章)。
この場面で注がれた「ナルドの香油」は、「1デナリオン=1日の日当」であるから、労働者約1年分の給料の価値があった。
実際、「ナルドの香油」は、ヒマラヤの高山にある木の根から取れる、当時非常に高価なものであった。
その高価さよりも、「前もってわたしの体に香油を注ぎ、葬りの準備をしてくれた」というイエスの言葉に驚かされる。
イエスははやくも自分の進もうとする道を告知しているのだが、そんなことはつゆ知らぬ周囲からすれば反発を招くに十分な言葉であるから。
この女性だけが「イエスの何たるか」を感じとっていたともいえる。
一般に「メシヤ」という言葉はヘブライ語で、「メシャー」(=油を注ぐ)という動詞から派生した言葉で、メシアのギリシア読みが「キリスト」なのである。
キリストの「葬り」ばかりではなく、その「誕生」においても、東方の博士たちが、マリアと幼児イエスに「黄金、乳香、没薬」献げたとある。
ここで、「博士」あるいは「賢者」と訳される言葉「マゴイ」(マギ)の原義は天文学者である。
彼らが捧げた第一の贈り物「黄金」は、「王位」の象徴で、イエスが「諸王の王」(キング オブ キングス)というべき存在であることを、世に示している。
第二の贈りモノ「乳香(にゅうこう)」は、神への供物、礼拝を象徴するもので、聖別されたメシア(キリスト)であることを意味する。
アラビア半島の東南岸の鉤鼻のカタチをしたところの国オマーンに、アラビア海に面したシンドバッドの冒険でも有名な港町「サラーラ」がある。
世界遺産「サラーラ」郊外には、大小の岩が転がる乾燥した荒れ地に、ぽつんぽつんと乳香の木が自生し、2メートルほどのカンラン科の常緑樹でノミのような刃物で樹皮を傷つけると、真っ白な樹液がとろっと流れ出てくる。
名前どうりにミルク(乳)のようで、甘くてむせかえるような濃厚な香りが漂うが、この樹液を乾燥させると「乳香」ができる。
さて、地中海東岸に位置する現在のレバノンに相当する地域はフェニキア人の故地で、レバノンの国旗に描かれている「レバノン杉」は、この国の象徴的な存在である。
聖書(バイブル)の語源にもなったビブロス港を含む古代のフェニキア人の拠点・シドンやチルスがあり、このあたりにとれるレバノン杉(香柏)で作られた帆船は風を孕んで地中海を駆け巡った。
BC2500年頃、地中海東岸を支配したフェニキア人は、このレバノン杉を使って船を作り、エジプトやヨーロッパとの「交易」によって大いに繁栄した。
乳香や没薬なども運んだと思われるが、なんといっても一番の交易品はレバノン杉そのものであった。
詩篇には、「正しい者はナツメヤシの樹のように栄え レバノンの香柏のように育つ」(92篇)とある。
ただ、レバノン杉にとって悲劇だったのは、生育する地域が最古の文明と言われるエジプトとメソポタミアに挟まれた土地であったこと。
おまけに、もともと森の少ない地方に囲まれていたことで、レバノン杉は輸出用に伐採されつくされた。
現在、クフ王の船・ツタンカーメン王の金張り人型棺・エジプトのピラミッドから発見された「太陽の舟」などに、レバノン杉の材質をみることができる。
レバノン杉は、材質が緻密で、まっすぐな木目をしており、腐食や昆虫に強く、 磨くとつやがつき、芳香性があった。
そのためメソポタミアでは、シュメール人がレバノン杉を焚き、その香りを神に捧げていた。
第三の贈りモノ「没薬(もつやく)」は乳香と同じカンラン科の樹木からとれる樹液で、主要な産地はアラビア半島西南岸とソマリアである。
「ミルラ」ともいい本来、死体の「防腐剤」として塗られた。「ミイラ」という言葉は「ミルラ」という言葉に由来するともいわれる。
そのため「没薬」は、イエスの「十字架」の死および「復活」を意味するものある。
つまり、東方の三博士が幼きイエスに捧げた「黄金・乳香・没薬」は、そのままキリストの生涯とその意義が凝縮されたものであった。

「ナルドの香油」のようなヒマラヤ産の高級品がどのように流通していたのか。
当時の交易を支配したのは海ではフェニキア人だが、陸ではアラム人やアラビア商人であった。
アラビア半島のイエメンといえば、モカ・コーヒー。
コーヒーの原産地はエチオピアであるが、これを世界に広めたのは対岸のアラビア半島の商人達で、港街「モカ」はコーヒー発祥の地ともされている。
アラビアの砂漠をラクダの隊商とし行き来したのがベドウィン族だが、彼らが行き来したのが「オアシス都市」である。
特に、世界文化遺産「パルミラ遺跡」は特に世界で最も夕日が美しいといわれてきた。しかし2015年、IS国により破壊されたという報道があり、世界の人々が心を痛めた。
パルミラはシリア中央部にある「ナツメヤシの街」という意味をもち、タクラマカン砂漠を経て延々と続く「シルクロードの終着点」に位置しており、紀元前1世紀から3世紀までは、砂漠の交易拠点として栄えた。
このパルミラの絶頂期に君臨した、ゼノビアという気丈で美しく気高い女王がいた。
ジプシーの首領だったアラブ人を父とし、母は美しいギリシア人女性だった。
ゼノビアは子供の頃から、才色ともにすぐれ、12才になる頃には頭角を表わし、ラクダに乗れば大人顔負けの技量を発揮し、父に代わってジプシー全体を指導できるほどになっていた。
パルミラではたくさんのバザールが開かれ、東西から金、銀、宝石、絹、塩などの商品や装飾美術品、様々な珍しい品々が取り引きされ、各国の商人で賑わう毎日であった。
それだけに、東のササン朝ペルシアや西のローマ帝国が、コノ国を虎視眈々と狙っていたのである。
そしてローマ帝国はその軍隊を送り込み、パルミラを自らの支配下におき、思惑通り重税を課すことに成功したのである。
しかしパルミラの人々は、いつの日かローマの「束縛」から逃れるべく機会をうかがっていた。
その頃、ローマ帝国支配の元でパルミラを統治していた若い貴族オーデナサスが、当時18歳のゼノビアを見初め、二人は結婚し、ゼノビアはパルミラの王妃として宮殿に移り住んだ。
オーデナサスもゼノビアもローマの支配から逃れるべく、密かに砂漠に野営しては「兵の訓練」に大半の時間を費やすようになっていった。
ゼノビアの誇り高くたぐいまれな美貌で、士官たちの心を完全に掌握するようになっていた。
そして、満を持してパルミラの北に駐屯しているローマ軍に襲いかかったのである。
不意を突かれたローマ軍は、たちまち大混乱を起こし、算を乱して敗走した。ゼノビアの軍は、敗走するローマ軍を徹底的に打ち破り、ここにパルミラ市民の「悲願の独立」は達成されたのである。
この勝利に喜び、驚嘆した周辺の国々は、次々にゼノビアの軍団に寝返って、たちまちのうちに強大な力に膨れ上がった。
しかし、夫であるオーデナサスが行軍中に暗殺されるという突然の悲劇に見舞われた。
ゼノビアはオーデナサスの意志を受け継ぐことに全力を傾けて、自ら「絶対専制君主」となり、一息つく間もなくローマの「属州の」一つであるエジプトに7万の大軍を進めた。
彼女の軍団は一度の戦いで勝利をおさめ、エジプト全土を制覇してしまったのである。
ゼノビアは、すべての民から慕われ、快く最高君主として受け入れられた。
また人々はゼノビアの軍をローマからの「解放者」として歓迎したのである。
270年にローマ皇帝となったルキウス・ドミティウス・アウレリアヌスは北方異民族の侵入を撃退すると、ローマから分離・割拠した西のガリア帝国、東のパルミラ王国に目を向けた。
ローマ帝国は、パルミラを一気にタタキ潰さんと「最精鋭」とうたわれた最強の軍団を多数くり出してきた。
戦いは地中海沿岸の都市で幾度となく繰り返され、ゼノビアの軍は後退を余儀なくされていった。
しかし紀元272年ローマ軍の追手は、たちまち従者数人を殺して、ゼノビアを捕らえてしまった。
女王を捕らえたローマ軍は、パルミラにわずかの守備兵を残して、ゼノビアを連れてローマに凱旋すべく帰途についたが、まもなくパルミラの住民が守備兵を皆殺しにして反乱を起こしてしまった。
この知らせを聞いたローマ軍は、ただちに引き返すや否や、パルミラの住民に情け容赦なく襲いかかり一人残らず虐殺してしまった。
一方、ローマに連れていかれたゼノビアは、その後の記録は途絶えたままである。
歴史家ギボンは、「褐色の肌、異常な輝きを持つ大きな黒い目、力強く響きのある声、男勝りの理解力と学識をもち、女性の中ではもっとも愛らしく、もっとも英傑的である彼女は、オリエントで最も気高く最も美しい女王であった」 と書いている。

数年前、「長崎グラバー亭」を訪れた時、苑内のアスファルトが日本で最初のアスファルトであることが書かれてあった。
「アスファルト」で思い浮かぶのは、なんといっても次の二曲。
「涙の数だけ強くなれるよアスファルトに咲く 花のように」(tommorow 岡本真夜)
「土の中で眠る命のかたまり アスファルトおしのけて」(桜 コブクロ)
この「アスファルト」という言葉、英語訳の聖書に登場する。そんな昔からあるものかと調べてみると、天然のアスファルトは「瀝青(ビチューメン)」と呼ばれ、古代から使用されてきた。
聖書の中で「アスファルト」に最初に出会うのは、「ノアの洪水」の物語。
神はノアに言われた。あなたはゴフェルの木の箱舟を作りなさい。箱舟には小部屋をいくつも造り、内側にも外側にも瀝青(アスファルト)を塗りなさい。
「汝 瀝青をもて その内外に塗るべし」(創世記6章)、からわかるようにノアの方舟はアスファルト(瀝青)で防水されていたのだ。
次にアスファルトが登場するのは、旧約聖書の「出エジプト記」。
また、ナイルに流されたモーセは、パピルスで籠を編み、アスファルトで防水し、その中にこどもを入れ、ナイル川岸の葦の中に置いた。
そして エジプトの王女の使いが発見し、王女の子供として育てられる。
この天然アスファルトで栄えた古代王国がある。
ナバディア王国の名はそれほど馴染みはないがヨルダンの世界遺産「ペトラ遺跡」はよく知られている。
それどころが多くの人が、その威容を映像によってみている。あの「インディージョーンズ最後の聖戦」の映画撮影が行われた場所なのだから。
「インディージョーンズ」で記憶にの残っているのは、 ペトラへ続く一本道。「狭い谷」という意味の「シーク」と呼ばれる。
両側の絶壁は 高い所で80メートルもある道は およそ1.2キロも続いて、突然広い空間が出現。そこには目を疑う岩石をくり抜いた遺跡が出現する。
ここは、主人公を演じるハリソン・フォードがたどりついた聖なる秘宝の隠された場所だ。
都市の内部へと進んでいくと、古代メソポタミアから取り入れられた階段状のモチーフだ。
さらには、4000人が収容できる劇場があり、その形は ローマ様式である。
大神殿は 広さ7000平方メートル。さらに 研究機関の調査から、 豊富な水のプールがあり人々が泳いでいたことが判明した。大神殿の向かい側には噴水まであったことも分かってきた。
各地の文明に加え砂漠に大量の水まで集めていたペトラは、どうしてこのような富を集めたのだろうか。
歴史書によるとペトラで暮らしていた人々はもとは砂漠の遊牧民で、「ナバタイ人」と呼ばれ王国を「ナバテア王国」といった。
ペトラから北へおよそ100キロにある死海があるが、死海博物館の中に奇妙な写真が残されている。
それは、湖の底から浮かんでくる 不思議な物体。
「瀝青」とは 石油由来の○に熱を加えると 80度ほどで溶けてコーティングの材料になる。
ナバタイ人は 希少な資源で価値の極めて高い れき青を砂漠を越えて 取り引きしていった。
王国が豊かになると都のペトラには各地から多くの商人が集まるようになる。
そこで 行き届いた もてなしで人々を迎え入れ、キャラバン隊の宿があったと考えられるエリアで、2000年前の壁画が残されていた。
地中海の名産地のワインのつぼも出土しているので、舶来の一級品をふるまってもてなしたのだ。
床下が 空洞になっている。砂漠の夜は 気温が零下になることもある。薪を入れ客を寒さから守った。
そこは、各地の文明のエッセンスが香り立つ世界有数の交易都市だったのだ。
紀元前1世紀ごろ ナバテア王国の前にたちはだかったのがローマ帝国、紀元前66年ポンペイウスは いよいよ オリエントへの大がかりな遠征を開始した。
当時のナバテア王アレタスは開明的で ギリシャの進んだ文明を積極的に取り入れ、ダマスカスまで精力を拡大していた。
そこにローマのポンペイウスの大軍が大軍をひきいて勢いそのままに ペトラへと進軍する。
ところが 当時の歴史家はローマ軍の不可解な行動を記録していた。ローマ軍は結局近づけなかったのだ。
周囲は 高さ数百メートルもの岩山に囲まれていて、都ベトラへの進入路はシークと呼ばれる2頭立ての馬車が ようやくすれ違える程度の幅しかない。
さらに ペトラの背後には高さ200メートル以上の断崖絶壁がそびえる。
ローマ軍は非常に組織的な軍隊だから、ゲリラ的に攻めてくる相手には意外に弱かった。しかも水攻めとか兵糧攻めも功を奏しない。
実は岩の傾斜を利用しながら地下の岩の中に巨大な貯水槽が掘り抜かれていた。深さ3メートル 幅も3メートルのものが2つもあった。
砂漠都市としては驚きだが、邸宅には水路が張り巡らされ台所や水洗トイレなど水が ふんだんに使われていた。
そしてこれらの水設備を完璧にしていたのが、「天然アスファルト(瀝青)」によるコーティングである。
ローマはヨルダンのマサダの要害を、工兵を送り込んで土木工事をまでして攻撃し、古代イスラエルを滅ぼしたのだが、ペトラの場合は割に合わない戦いであったということだ。
とはいえ、AD100年頃になると皇帝トラヤヌスの軍隊が攻めてきた。
実は、トラヤヌス帝の時にローマ帝国は最大版図を持つに至るのであるが、ナバテア王国はついにローマに併合され、独自の宗教は奪われ「キリスト教」の拠点都市となっていった。
ちなみに「ペトラ」のギリシア語の原意は「岩」で、イエスの弟子ペテロ(「岩」)と同じ。
ペトラは その後 次第に廃れて忘れ去られていく。
ペトラから見つかったパピルスの解読から巨大地震に見舞われたことがわかっている。
地球の裂け目・ヨルダン渓谷にあってペトラを守ってきた岩山が、今度はペトラの人々に襲いかかったのだ。