理系女子リーダー

2020年10月、日本学術会議で6人の研究者が任命されなかった問題について、菅首相は「総合的・俯瞰的」観点からバランスを考慮したと応えた。
首相は国会で、きわめて誠実に、ムリな答弁を繰り返したが、人員のバランスなら他にもよほど気にしなくてはならないことがある。
それは巷間でよくいわれる女性閣僚の少なさばかりではなく、大臣閣僚の中での「理系」の少なさである。
2018年、サイバー・セキュリティー戦略本部の担当大臣である桜田義孝衆議院議員が、「これまでPCを自分で使ったことがない」「USBを知らない」と発言をして、国民を唖然とさせたばかりか、世界に笑撃を与えた。
台湾では、デジタル担当政務委員(大臣)のオードリー・タン(唐鳳)が、新型コロナウイルスの騒動のなかで、マスクの在庫が一目でわかるアプリのプログラムを開発し、コロナ感染抑制に成功しているというのに。
ちなみに、オードリー・タンは自らトランス・ジェンダーであることを公表されていて、トランス ジェンダーの人物が閣僚に任命された世界で初めてのケースである。
今やAI対策やウイルス対策が必要な時代、理系大臣がいればもっと説得力をもった発信ができるのではなかろうか。
日本の政界で、理系女性議員となると、ほとんど思いあたらない。その点につき、東大の入学式で上野千鶴子が学長代理で語った祝辞が思い浮かぶ。
上野教授は、はじめに東京医科大で女子の合格ラインが男子より高く設定されたことにふれたうえで、次のように述べた。
「がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください」と。
上野教授は東大生であっても、実社会では様々な不条理に出会うこと、特に女子学生がぶつかるであろう壁のことを自らの体験を踏まえて語ったのである。

高校の頃、人知れず日本の古典にみつけた「理系姫君」のファンになったことがある。
それは、堤大納言物語に登場する「虫めでる姫」で、同調圧力を超越した彼女につき、現代語訳では次のように描かれている。
「いろいろ不気味な虫を捕まえては"これが成虫になる様子を見るのよ"と、様々な虫をかごにお入れになっています。
特に、毛虫が思慮深げにしているのが可愛らしい、とのことで、明け暮れ髪を耳にかけて、毛虫を手のひらの上に這わせてじっと見つめておられるのです。
若い女房達は怖がって大騒ぎするので、男の童で怖がったりしない取るに足らない低い身分の者を召し集めて使っています。
箱の中の虫を取り出させ、名を調べ、新しく見つけた虫には名前をつけて、面白がっているのですよ。
”人間はすべてありのままがいいのよ。取り繕ったりするのって良くないわ”と言って、眉毛を抜いたりなさいません。
お歯黒なんかも”うっとうしいわ。きたならしいし”という事でお付けにならないのです。
白い歯を見せて笑いながら、この虫たちを朝な夕なに愛しなさいます」。
さらにこの姫君、「人間たるもの、誠実で物事の本質を見極めようとする者こそ心ばえも立派」などと、平安時代にも理系女子がちゃんと存在したことをうかがわせる発言をする。
ときどきは、「かたつぶりのぉ~、角の争そふやぁ~、なぞぉ~」などと吟唱したりもするさが、そんなエキセントリックな彼女に心を寄せる貴族が現れる。
この貴族は「はふはふも君があたりにしたがはむ 長き心の限りなき身は」(這いながらも貴女のおそばによりそっていようと思いますよ)という洒落のきいた愛の告白をするのである。
また、現代小説で理系女子を探せば、大原富江原作の「婉( えん)という女」、1971年の岩下志麻主演で主演で映画化もされた主人公もリケジョの部類であろう。
主人公の野中婉は、江戸時代中期の土佐藩の実在の女医である。父・兼山の死の翌年である16664年に、その遺族は罪を着せられ幡多郡宿毛に幽閉される。
幽閉は兼山の男系が死に絶えるまで約40年にわたって続いた。
幽閉された当時、婉は4歳であったが、兼山の海南学派再興に努めていた谷秦山の支援を受け、文通によって儒学や詩歌、医学の指導を受けた。
野中家最後の男子である兼山の四男が自死したため、1703に釈放されて土佐郡朝倉に移住し、医師として開業する。
名医として知られ、糸を用いて橈骨動脈を診るという特色ある診断法は「おえんさんの糸脈」と称され、後に土佐藩から8人扶持を与えられた。
生涯独身を通して、非業の死を遂げた父母や兄弟姉妹の菩提を弔うためのお婉堂(現在の野中神社)を建立している。
異様なストレス環境に負けなかった婉に、軍事政権下での長い軟禁生活に耐えたミャンマーのアウンサン・スーチーのことが思い浮かぶ。
また、「野中」という名前に思い浮かぶのが新田次郎の小説「芙蓉(ふよう)の人」で、富士山頂に気象観測所をもうけた野中到(いたる)・チヨ夫妻のことが描かれている。
1960年代の大ベストセラー小説「流れる星は生きている」は、満州から博多に引き揚げた人々の体験を綴ったもので、先日亡くなった作詞家なかにしれいの「赤い月」と重なる。
著者である藤原ていの夫は、戦争中満州にあった気象台に勤めていた藤原寛人(ひろと)である。
日本の敗戦が決定的になり藤原ていと子供三人は、男は軍の動員命令があり、女ばかりとなった観象台(気象台)の家族と共に日本への決死の「逃避行」を行った。
妻のその時の実体験「流れる星は生きている」が戦後ベストセラーになったことに一番刺激されたのが夫の藤原寛人で、「新田次郎」のペンネームで知られれるようになる。
ちなみに藤原夫妻の次男は「国家の品格」で知られる数学者・藤原正彦である。
藤原寛人は作家活動を続けながらも、同時に気象庁職員として長年勤めて1966年に退職している。
1932年から1937まで富士山測候所に勤務し、公務員時代の最後の大仕事が、気象庁測器課課長として携わった富士山頂の気象レーダー建設であり、明治期の野中夫妻の80日を越える「冬季観測」の成功という先例の上に建つものであった。
藤原にとって野中夫妻は、尊敬する先輩という範疇を超えた存在であったといってよい。
そして作家新田次郎として、富士山の別名を「芙蓉峰」をタイトルにして野中夫妻を描いたのが小説「芙蓉の人」で、富士山頂の冬の苛烈さの描写は鬼気せまるものがある。
そして藤原は実際に、野中夫妻と面識をもち、高山病に苦しんだ野中夫妻の惨状をも描いている。
野中到は、福岡藩士・野中勝良の息子として筑前国に生まれる。
人工衛星がない時代に、日本に高層観測所がないことを憂い、富士山山頂に気象レーダーを設置することを志す。
そのため、私費で気象観測所を設置するため1890年、東京大学予備門を中退して「気象学」を学んだ。
世界において富士山より高いところにある高層観測所は二山だけしかなく、夏期しか観測していなかった。つまり、当時3776mという高地で冬季の気象観測をしている国はなかったのである。
父・野中勝良は東京控訴院(現東京高等裁判所)判事であったが、そうした息子の志について理解しなかったが、たまたま東京天文台長の寺田寿(福岡市春吉出身)らから「もし、富士山で冬期の気象観測に成功したら、それこそ世界記録を作ることであり、国威を発揚することである」と聞いてから俄然息子を応援するようになった。
そして、資金捻出のため、福岡県の旧宅を売り払った。
1893年に野中は、福岡藩喜多流能楽師の娘チヨ結婚したが、妻チヨとの間には当時2歳の娘園子がいた。
妻チヨは野中が御殿場に滞在して観測所建設の指揮を執ると姑の反対を押し切って、御殿場に向かい会計を担当した。
野中の計画は綿密ではあるが、チヨからみて食料品や衣料品の準備に甘さがあると感じたからである。
御殿場でそれらの調達を担当しながら、自分も夫と共に富士山頂で越冬観測をしようとひそかに決意したのである。
しかしこんなことを舅、姑はもちろん、夫も許さないのは自明なのだが、とうとう彼女は婚家と実家の親たちを押し切り、福岡の実家で防寒具を整え、山で足腰を鍛えたのである。
野中チヨは、御本人が理系というよりも、理系(気象観測)の夫を支えた女性といった方が正しいが、その意味では、江戸時代に医術の発展のために、自ら実験台になることを申し出た華岡青洲の妻・加恵と重なるものがある。
有吉佐和子の小説「華岡青洲の妻」では、加恵の夫への異常なまでの献身の姿が描かれている。
さて、「芙蓉の人」野中到がいかに気象観測のエキスパートであったとしても、野中夫妻は山に関してはまったくの素人であった。
氷点下20度以下の寒さや強風の中でともに倒れ、心配して登ってきた慰問隊にようやく救出されたりしたこともある。
それでも10月から12月まで82日間もの間観測を続け、後に山頂に国の観測所が造られ、「通年観測」が行われる土台を作ったのである。
野中父子は、或る意味、明治という時代を象徴する人物であったといってよい。
息子は自らの夢のために一筋に進み、父は私財をなげうち、息子の夢を支える。
そして世界最初の高層観測所という名誉のために、御国の為に見返りを求めずに打ち込む姿があった。
新しい国家を自分たちが担おうという気概に満ち、それに従う妻がいる。
さて、「芙蓉」は古くは往々にして蓮の花を意味し、美女の形容としても多用された表現である。
新田次郎は、「芙蓉の人」の中で野中チヨについて次のように述べている。
「野中千代子は明治の女の代表であった。新しい日本を背負って立つ健気な女性であった。封建社会の殻を破って日本女性此処にありと、その存在を世界に示した最初の女性は、野中千代子ではなかったろうか」。
後年、野中到は御殿場馬車鉄道をも一時期経営したが、チヨ夫人は1923年に亡くなり、野中到は1955年に亡くなっている。

現代ヨーロッパには、強烈な存在観を放つ二人の女性リーダーは、いずれも理系女子である。
イギリスのサッチャー首相、ドイツのメルケル首相だが、二人には驚くほど共通点がある。
サッチャーは大学で化学を専攻し、民間企業の研究員であり、メルケルは博士号をもつ物理学者である。
サッチャーは「鉄の女」と呼ばれ改革を断行し、イギリス経済を浮上させ、メルケルは東西統一後不況だったドイツをまとめ、好景気にした。
二人はリケジョにふさわしく、感情に流されない冷静さと緻密さをもって臨む。ものごとを距離をおき、まきこまれない資質をもっている。
アンゲラ・メルケルは1954年、ドイツ北部のハンブルクに生まれた。東独で牧師・神学者の長女として育ち、今もベルリンにあるルーテル派教会の会員である。
「アンゲラ」とは「天使」(エンジェル、アンジェラ)という意味の女性名。
生後間もなく、父ホルストが牧師不足の東ドイツに赴任することになり、両親と共に東ドイツへ移住する。
そして、東西ドイツが統一される90年、36歳まで共産主義下の東ドイツで暮らした。
ゲーテやニーチェなどを輩出したライプチヒ大学で物理学を専攻し、後に博士号を取得した。
在学中の23歳で学生結婚をするが、4年後に離婚。東ベルリンの科学アカデミーに就職し、そこで知り合った現在の夫ヨアヒム・ザウアー氏(フンボルト大学教授)と98年に再婚している。
メルケルが政界に転じるのは89年、ベルリンの壁が崩壊してドイツが再統一される直前のこと。
翌年、CDU(キリスト教民主同盟)から連邦議会選挙に出馬して初当選する。
メルケルはコール首相の後ろ盾を得て、91年には第4次コール政権の婦人・青年担当大臣に初当選ながら抜擢される。
第5次コール政権では環境・自然保護・原子力安全担当大臣に就任するも、98年、コール政権が終わりを告げると、下野したCDUの幹事長となる。
そして2000年にはCDU党首となり、05年歴代最年少の51歳で第8代ドイツ連邦共和国首相に就任した。
ドイツ史上初の「東独出身」の女性首相誕生で、以後ドイツ政界のみならずEUにおける最も影響力ある政治家として指導力を発揮し続けている。
特に、物理学者として原子力の安全性と必要性を主張してきた原発推進派だったが、日本の福島原発事故後、政策を180度転換した。
メルケルはその時、日本の出来事から分かるのは、科学的にあり得ないとされたことが起こるということだと語り、私たちが変われるかどうかではなく、どれだけ素早く変化できるかどうかだとし語った。
そして、福島事故の3カ月後には連邦議会で、2022年末までの「原発完全廃止」を決定している。
さらに、特筆すべきは2015年、100万人以上の難民の受け入れを決めた。
しかしその後、アラブや北アフリカからの難民がケルンで起こした集団性暴行事件なども影響して支持率は急落し、メルケル氏は最大の政治的危機にさらされる。
その一方、ナチスによるホロコーストの十字架を背負うドイツ国民にとって、メルケルによって「人道国家」として称賛を受けたことは大きな誇りともなた。
一方、サッチャーはヒラリー・クリントンのような華やかなイメージはなく、地味な実務型の生真面目なタイプである。
サッチャーは、イギリス・エリート社会のリーダーの中では、異例なほどの庶民派。
要するに父や祖父の威光により国家のリーダーになったのではない、いわゆる「たたきあげ」だが、その点、メルケルも「二級市民」とみなされる旧東ドイツ出身であることから、似た境遇にあったともいえる。
二人は、それぞれが自分を引き立ててくれた前任者に反旗を翻したのも共通しているが、サッチャーは、自らの信念にたって「合意政治」に対して批判的である一方、メルケルは様々な異なる立場を理解し、何事にも協調をもとめるタイプである。
そして二人の共通の土台は、”プロテスタンチィズム”といえそうだが、著書「プロテスタンティズムと資本主義の精神」で知られるマックス・ウェーバーによれば、政治を天職とするものに求められるのは、情熱・責任感・そして判断力としている。
二人は文書によく目を通し、会議の準備をして臨む勤勉さや、目的を達成する粘り強さに表れている。
雑貨店を営むサッチャーの父はメソジスト教会の説教師で、メルケルの父はルター派の牧師である。
また、サッチャリズムの核心には個人の「自立自助」の義務の観念が存在する。
そこにはイギリスの思想家ジョン・スチュアート・ミルの「自助論」の影響も大きいであろう。
メルケルで目立つのは人権やより普遍的なもの、つまり国家を超えた欧州への意識の高さか。
サッチャーもメルケルも、それぞれのハンディを乗り超えるだけの「何か」をもった女性である。
こうなると日本社会において女性の国家的リーダーが出ないのは、"出る杭(くい)"になりうる内面形成”の違いといえるかもしれない。

メルケル氏率いる与党キリスト教民主同盟(CDU)が二つの州議会選挙で大敗したことを受け、党首のメルケル氏が、「12月の党首選には出馬しない。首相の職も、2021年の任期満了をもって退く」と記者会見で発表したばかり。これまで彼女がどのようなキリスト教信仰を背景に、難民政策などで揺れるドイツの舵(かじ)取りをしてきたのか、改めて振り返るいい機会だ。 たとえば彼女は、2005年福音主義教会大会でマラキ書の聖書講解をし、最後に、「『ぼくたちは何のためにこの世にいるのか』と子どもに聞かれたとき、答えるのがどんなに難しくても答えをはぐらかさないで」という大会テーマソングの歌詞を取り上げる。「これがわたしたちの使命です。キリスト者として──教会でも政治の場でも、職場や家庭でも──こうした問いの答えをはぐらかすことは許されません。わたしはこのことを、政治家として自覚しつつ申し上げます。これは、神と人の前で果たすべき責任なのです。共に新しい道を進む勇気を持ちましょう!一緒に歩んでいくことが重要です。キリスト者として、わたしたちはいずれにせよ勇気を持つことができます。なぜならわたしたちの行く先には、『正義の太陽』が約束されているのですから」(74頁)