聖書の言葉から(み言葉をください)

聖書に、「百卒長」という指揮官が登場する。
ローマ帝国は、パレスチナなどの植民地を支配する際に軍団を送るが、千人の兵隊を統率するリーダー(千卒長)から百人の兵隊を統率するリーダー(百卒長)まで、ピラミッド形式の組織となっていた。
そして、イエスがカペナウムという町で知った一人のローマ人百卒長との出会いの場面がある(ルカによる福音書7章)。
百卒長は、自分が頼みにしていた僕(しもべ)が、病気になって死にかかっていた。
イエスの噂を聞いた彼は、ユダヤ人の長老を通じて、自分の僕をなんとか助けて欲しいとお願いした。
イエスは人々と連れだって百卒長の家に向かったが、家からほど遠くないあたりに来た時、百卒長は友人を送って「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。 自分でお迎えにあがるねうちさえない」といった。
さらに「ただ、お言葉を下さい。そして、わたしの僕をなおしてください」といった。
そして、次のように語った。
「わたしも権威の下に服している者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。
イエスはこれを聞いて非常に感心し、ついてきた群衆の方に振り向いて「あなたがたに言っておくが、これほどの信仰は、イスラエルの中でも見たことがない」と語った。
そして聖書は、「使にきた者たちが家に帰ってみると、僕は元気になっていた」と告げている。
イエスを感動させるほどの信仰とは珍しいケースだが、ここで印象的なことは、百卒長が僕(しもべ)を癒していただくために、体にに触れてくださいとか、祈ってくださいとかもいわずに、ただ「み言葉をください」といった点である。
確かにイエスの発する言葉への信頼、神のみ言葉ひとつで状況が変わるという信仰は凡俗を超えている。
しかも、神の憐みはイスラエル人だけではなく、異邦人(ローマ人)にも及ぶということは、この当時では考えにくかった。
なにしろローマは支配者であり、イエス自身はイスラエルの神(解放者)として働いていたかに見えたからだ。
実は、聖書には他にもイエスにその信仰を褒められた、フェニキア生まれ(異邦人)の女性の話がある。
彼女が娘の癒しを求めた際に、イエスは「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくない」と答える。
しかし、女は「食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます」という。
するとイエスは、そうまで言うのならと「家に帰りなさい。あなたの娘は癒されている」と応じた。そして女が自宅に戻るとそのようになっていた(マルコ7章)。
イエスは、百卒長やフェニキアの女の信仰に応え、その計画を一歩先んじてわざを顕わされた感がある。
なぜならイエスの十字架の死後にその血をもって人類との「新しい契約」がなされ、パウロなどによって「福音」として異邦人伝道がなされたからである。
さて、神の言葉が人々の信仰に応じてコトを実現させるか、それを科学的に説明することはできない。
しかしながら、聖書には「神の言葉」が、特別な働きをすることが様々なかたちで書いてある。
「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である」(第二テモテ3章)。
「神の言葉は生きていて、力を及ぼし、どんなもろ刃の剣よりも鋭く、魂と霊、また関節とその骨髄を分けるまでに刺し通し、心の考えと意向とを見分けることができるのです」(ヘブライ人への手紙4章)。
また聖書は、こうした神の働きを、「権勢によらず、能力によらず、我が霊による」(ゼカリア書4章)とも表現しているが、ここで思い浮かべるのは、日本人の言霊(ことだま)である。
言霊は、ふつうの人の言葉であってさえも、それを実現せんと働くということである。
新約聖書の「ヤコブへの手紙」には、日本人の「言霊信仰」を髣髴とさせる箇所がある。
「また船をみるがよい。船体が非常に大きく、また激しい風に吹きまくられても、ごく小さなかじ一つで、操縦者の思いのままに運転される。それと同じく、舌は小さな機関ではあるが、よく大言壮語する。見よ、ごく小さな火でも、非常に大きな森を燃やすではないか。舌は火である」(ヤコブへの手紙3章)
このように、日本人はユダヤ人は案外と通じる箇所があって、比較的理解しやすいのではなかろうか。
例えば、日本中いたるところにある「国見」という地名である。
これはその土地を治める人は、どこでも春に種を蒔く時には、自分の治める領土を高いところに上って見下ろす。見下ろして何をするかといえば、その土地をほめたたえる。
こうした国を眺望しつつ「国ほめ」の行事をやった場所に、国見山、国見峠、国見岳などちう地名がついているのである。
ただ「言霊の社会」では、言ったことに呼応して何かが起こるので、実際に起こって欲しくないことは、言ってはいけないことになる。
雨が降って欲しくない時に、誰かが明日雨が降るかもなんていうと、それがたまたま雨が降ったとしても、お前がそんなことを言ったから雨が降ったんだと責められたりする。
つまり、何事かのリスクを「想定」として語ることでさえも「災い」を招くとして避けがちなため、リスク管理の弱さの原因となっているのだ。
日本社会は、「言霊」を恐れるがゆえに、真の意味で言論の自由のない社会なのかもしれない。

旧約聖書の冒頭、「神は、”光あれ”と言われた。すると光があった」とある。
一方、新約聖書のヨハネ福音書の冒頭に「言(ことば)ははじめに神とともにあった。すべてのものは、これによってできた」とある。
両者を比べると、宇宙(もしくは天地)のはじまりが「言」と関わっているのがわかる。
ただ旧約聖書はヘブライ語、新約聖書はギリシア語で書かれていて、「言」(英語ではワード)には「ロゴス」というギリシア語があてられている。
「ロゴス」をひとことで説明するのは難しいが、そこから派生した英語の「ロジック(論理)」から、なんとなくその意味はわかる。
ソクラテスも議論する際に、まずは「言葉の定義」から始めているが、ロゴスのギリシア語におけるもともとの意味は「拾う」ということである。
では「拾う」ことがどうして「論理」へと繋がるのか。
哲人とよばれたソクラテスは、ギリシア社会の秩序を乱したものとして処刑されるが、その弟子であるプラトンの哲学の基点は、師であるソクラテスが「なぜ死ななければならなかった」という点にあった。
そして、ソクラテスの生き様や生前に語った言葉などを「拾い」つつ、「ロゴス」化していったのである。
つまり、ロゴスは具体的な言葉のひとつひとつではなく、そうした言葉が発せられる根本精神(意図・論理・方向)を表すものと考えたい。
つまり、イエスが「ソロモンの繁栄でさえ、野の花ほどに着飾っていない」という時、野の花にロゴスを見いだしなさいということではなかろうか。
ところで、冒頭の百卒長の「み言葉をください」という言葉は、イエスをすべての現象の「ロゴス」として捉えていた。
「あなたを自分の家にいれる値打ちさえもない」と語ったことを含め、イエス自身もまた、ここまでの認識をもって自分に接した信仰者とであったのははじめてで、その点につきこのローマの百卒長の信仰を絶賛したのである。
実は、このローマの百卒長とは対照的に、イエスからものわかりの悪さ指摘されたイスラエル指導者が「ヨハネの福音書」に登場する。
実は、この人物は「ニコデモ」という名前がついているぶん、聖書においては「ローマ人百卒長」よりも有名な人物といえる。
ニコデモは、ユダヤ教の中でも熱心なパリサイ人であり、その人物が、イエスと接点をもった。
なんとユダヤの国会議員にも匹敵する人が、大工のイエスのもとを訪ねて来たのである。
そして聖書において、ニコデモについて「夜、訪問した」とわざわざことわっている点で、人間心理をよくついている。
例えば今日、大統領や首相が自分の決断に迷いを生じ、宗教家や占い師なんかを尋ねることをマスコミが掴んだらどうなるだろう。
そこで、変装するか夜おそく人目をはばかって訪問するということになる。
ニコデモ自身は、イエスの中に「何か」、それまで現れた預言者とは違う権威とワザがあるのを感じたのだろうが、百卒長という民を率いる立場に周囲の目を気にせざるえないこともあったのかもしれない。
夜やってきたニコデモは、まずイエスに挨拶をした。
「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできません」(ヨハネ3・2)。
ところがイエスはそんな挨拶の言葉にかまわず、いきなりニコデモの核心をつく。
「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」と。
つまりイエスはニコデモに、先ずは「生まれ変わる」ことだと言ったのである。
ところが、ニコデモは「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」と応えた。
なんと即物的な応えかという印象だが、ニコデモという人は、ユダヤの指導者で戒律もしっかり守る人であったのにもかかわらず、こんなふうにしかものごとを捉えることができなかったのである。
イエスからも「あなたはイスラエルの教師でありながら、これぐらいのことがわからないのか」といわれている。
実際、世事に長けているが、信仰や霊的な話をすればとても幼稚ということは、社会的地位の高い人に案外と多いものだ。
イエスは、戒律を守りながらも心の目がこの世にしかむかない人に対して次のようにいっている。
「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である」(ヨハネ3)。
ところで、このニコデモがイエスを信じるようになったかは、この箇所には何も書かれていないものの、聖書はその後のニコデモにつきフォローしている。
ある時、祭司長たちとファリサイ派の人々はイエスを逮捕しようとした。
しかし、ニコデモは議員としてイエスの側にたち、「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならない事になっているではないか」(ヨハネ7)と弁護した。
さらに三度目にニコデモの名が聖書に登場するのはイエスの死後のこと。聖書には「夜御許にきたニコデモも、没薬・沈香の混合物を百斤ばかりを携えて来たる」(ヨハネ19)と記してある。
かつての「夜の訪問者」ニコデモが今度は白昼堂々と官憲に申し出て、身の危険を冒してヨセフと言う人と一緒にイエスの死体を引き取り、香料を塗って埋葬したというのである。
この「この夜御許にきたニコデモ」というスルーしそうな言葉に、ニコデモの「生まれ変わり」を知ることができる。
ともあれ、異邦人たるローマ人百卒長の信仰が絶賛されて、選民たるイスラエル人指導者の思いが幼稚すぎると叱られているのは、皮肉がきいていて面白い。

ヨーロッパ思想の源流に、キリスト教とギリシア思想がある。
キリスト教はパレスチナで生まれパウロを中心とした伝道によってヨーロッパに伝わったもので「ヘブライズム」と呼べる。
一方、ギリシア思想は、アレクサンドロス大王によってシリアやエジプトにも広まり「ヘレニズム」と呼ばれる。
実は、ローマカトリック教会の成立にあたって、旧約聖書の思想(ヘブライズム)とギリシア古典思想(ヘレニズム)がせめぎあいつつ、結びついてカタチが出来上がっていったともいえる。
新約聖書に、「ギリシア語を話すユダヤ人(へレニスト)」と「ヘブライ語を話すユダヤ人(ヘブライスト)」が登場する(使徒行伝6章)。
このユダヤ人キリスト者たちの二つのグループは、最初は一つの教会に属していた。それはイエス・キリストが復活した後、聖霊降臨(ペンテコステ)の時に成立したとされている「エルサレム教会」である。
その一方で、アンティオキア教会は、最初はシナゴーグというユダヤ教の会堂を使用して集会が開かれており、ユダヤ人と異邦人の混合教会であったことがわかる(使徒行伝11章)。
なんといっても、ギリシア語を話しローマの市民権をもつパウロも、アンティオキア教会の指導者バルナバ(パウロの教師)も、エルサレムの信徒たちとの結びつきを保っていた。
ちなみに、アンティオキアにおいて、はじめて「キリスト者(クリスチャン)」という名称が使われ始めたのである(使徒行伝11章)。
さて、ヘブライズム的キリスト教では、ヘブライ語で「救い主」を意味する「メシア」という称号が、ヘレニズム的キリスト教では、ギリシア語で普通名詞である「クリストス」という言葉になり、これは、日本語読みで「キリスト」という固有名詞、「イエス」を「救い主」として信じる人々にとっての「イエス」の称号となった。
さて、現代版聖書の序文を見れば、おそらく「七十人訳聖書」への短い言及が見つかるはずある。
「七十人訳聖書」は、BC285年~246年、エジプトのアレクサンドリアにて、プトレマイオス2世フィラデルフォスが王であった時期に翻訳されたと主張されている。
この王の図書館員(司書)であったとされるデメトリオス・パレレオスがフィラデルフォス王を説得して、ヘブル語聖書のコピーを入手させ、その後、聖書(少なくとも創世記から申命記まで)がアレクサンドリア在住のユダヤ人たちのためにギリシャ語に翻訳されたとされている。
この約70人はそれぞれ別の独房に閉じ込められ、奇跡的に彼らは一語一語同じことばを書いたとされ、そのことが、この「七十人訳聖書」全体の霊感を証明していると主張されている。
聖書全体が数千年の時間の隔たりの中で、貫かれている預言の実現などを考えれば、そのようなことがあっても少しも不思議ではない。
エジプトのアレクサンドリアにおける約70人により聖書の翻訳こそ、ヘブライズムとヘレニズム(ギリシア風)が”直接”ぶつかり合った場として、注目すべき出来事である。
ところでヨーロッパの神学は、長くプラトン流をキリスト教に採用し神秘主義に陥って、「歴史の中に現れる神」という観念が欠如してしまう傾向がある。
ヘレニズム(ギリシア風)は、マケドニアのアレクサンダー大王によってエジプトにまで広まり、大王の名に由来する都市アレキサンドリアでギリシア語聖書への翻訳なされた。
アレキサンドリアは、コスモポリタン(世界市民)な意識が芽生えた場所ともいえる。
一方、マケドニアの生まれのアリストテレスの思想はローマ帝国崩壊後、アラビアでよく保存され科学精神をさえ生んでいる。
それらは十字軍遠征を契機に14世紀にルネサンスとしてヨーロッパで花開くが、その約1世紀前に神学においてアリストテレス哲学と「啓示の宗教」(ヘブライズム)を融合させ「スコラ哲学」を築いたのが、トマス・アキナスであった。

さて、ヨーロッパの「神学」思想は、大きくわけるとプラトンとアリストテレスという二人のギリシア思想にもとづくものである。
それは、中世の「普遍論争」において、「唯名論」と「実在論」という論争にまでも及んでいる。
普遍を実在とするのがプラトン、個物と実証を重んじるのがアリステレス。
ここではその解説はしないが、常々思うことは、同じギリシアにあって、二人の思想の違いはどこから来るのかということである。
まずは、両者が生きた時代の違いや地域の違いが思いつくことである。
プラトンは、アテネという都市国家の時代に生まれ、アリストテレスはマケドニアのキリキア(現ブルガリア)に生まれ、プラトンを批判する。
そして興味深いのは、アリストテレスの思想はアラビアでよく保存され、科学的精神を生んで、それれがルネサンスにもつながっていくという事実だ。
彼はデメトリオスによって遣わされたとされています。イスラエルの最高の学者たちに、ヘブル語聖書の写本をエジプトのアレクサンドリアに持って来るよう要求し、「七十人訳聖書」の翻訳プロジェクトを始める。
より具体的にいうと、ヘレニズム・キリスト教の背景として、ストア派の「自然神学」、グノーシス、自由主義などが存在している。
「ヘブライズム」とは、旧約聖書に記された思想で、旧約聖書の時代にパレスチナ地方で起こったものである。
その思想は旧約聖書で述べられている神がイスラエルの人々を自分の民として選び、契約を結び、律法を与え、罪の中から救いに導く主であるというところに特徴がある。
それゆえに、ヘレニズム・キリスト教は、非歴史的な神秘宗教へと変化する傾向があったが、旧約聖書、イスラエルと救いの歴史と結びつきによって、その危険性から免れることができた。