我が祖国「ソビエト」

アフガン・カブールの空港に民衆が国外脱出をする映像に、幾つかの場面を思い起こさずにはいない。
アメリカのサイゴン撤退から、フィリピンのマルコス大統領亡命(1986年)やベニグノ・アキノ暗殺。
飛行機と船との違いはあれ、日本人の満州引き揚げも、こんな事態が生じたのではなかろうか。
現在、中国による香港の非民主化、ミャンマーでは軍事クーデターなどの政変でも、脱出したくても本国にとどまざるをえない人々も数多くいるであろう。
最近、民衆は「専制的(軍事的)な力」の前に屈服せざるをえないかという気持ちにさせられることが多い。
しかし、民衆の力で巨大な権力をなぎ倒した例は過去にいくつもあった。
ソビエト崩壊、ベルリンの壁崩壊、アラブの春など。
軍といえども、民衆の勢いに押され、民衆の側につくということもある。
その一方で、かつて成し遂げた輝きが、色褪せてきていることも否定できない。これはどうしてであろう。
最近たまたま、NHK・BSで「ゴルバチョフ 老政治家の“遺言”」という番組を見た。
今年90歳を迎えたミハイル・ゴルバチョフ元ソ連大統領の今を伝えるものであった。
モスクワ郊外で静かに暮らすソビエト連邦最後の最高指導者が、ソ連崩壊後の人生をインタビューに答えて語った。
「ペレストロイカ」と「グラスノスチ」を旗印にして、ソビエトの民主化という「偉業」をなしたゴルバチョフ。
一番印象的だったことは、そのゴルバチョフが最愛の妻ライザさんが亡くなったことによって「生きる意味」を失ったと語ったことだった。
インタビュアーが、人生にはもっと高尚なものがあるのではという質問に対して、ゴルバチョフは、しばらく間をおいて、人を愛すること、それ以上に高尚なことがあろうかと答えた。
その答に、ゴルバチョフの深い孤独を見た感じがした。それは、モスクワの郊外の広い邸宅で、通いのお手伝いさんと生きる寂寥感というばかりではなかった。
実は、ゴルバチョフ元大統領は、西側からみてソ連を民主化させ崩壊に導いた「偉大な政治家」という評価がある一方、国内では「ソビエト崩壊」を引き起こしたとして批判されてきたのである。
旧「ソビエト連邦」といえば、ロシアやウクライナやなど15の共和国を束ねた連邦で、共産党の一党独裁に基づく中央集権体制であった。
ゴルバチョフは西欧諸国に比較して生産の停滞などの面で追いつくために、「ペレストロイカ=改革」と、「グラスノスチ=情報公開」を旗印に改革を断行した。
当時ソ連に滞在した日本人によると、「店のパンがいつも焼きたてでおいしくなった」「アイスクリームの包装がカラフルになった」「テレビでエアロビクスを放送した」「車体に広告を付けたバスが走り始めた」。
別の日本人は、「マクドナルド1号店」がそこにあったし、「いらっしゃいませ」店員さんのほうからサービスしようなんて意識、以前のソビエトには全然なかったと語った。
ペレストロイカがすべて良しというわけではなく、「マルボロ、コカコーラ、ドル紙幣、チューインガム、粗悪な輸入品の衣類がたくさん入ってきた。いたるところに億万長者や盗賊がいた」などという人もいた。
ある人は、一番大きな変化は外国人との接触が出来るようになったことという。
それまでモスクワでは、外国人は監視付きの決められたアパートに住まわされていたが、ソ連の人たちと行き来することはほばなかった。
ソ連人宅を訪問し、一家が暮らすアパートのエレベーターを降りると、薄暗いフロアで近所の人の目を気にするように、人さし指を口にあてて「静かに」というしぐさをした。
それだけ外国人の家を訪れるのは勇気のいることだったが、娯楽の少なかったソビエト時代だけにペレストロイカはまるでお祭りのような出来事だった。
「ペレストロイカの時代なのだから、誰もとがめはしないよ」と、外国人との家族ぐるみの交流をためらわなくなった。
確かに、ゴルバチョフによって、社会の雰囲気が開かれ、悪しき魔法から解けた感があった。
最近、6000ページもの「外交文書」が開示され、ペレストロイカ時代の外国人対応にも変化が見られた。
1988年1月、濃霧でモスクワの空港が閉鎖され、多くの旅客機がレニングラード、現在のサンクトペテルブルクに目的地を変更した時、大勢の日本人乗客が、空港で一晩を過ごさざるを得なくなり、現地の日本総領事館が邦人保護の対応を行った。
おなじみのソ連式非能率と無責任と手間のかかる折衝が続くと思っていたら、アエロフロート(ソビエトの国営航空)側が、我が方の要求に応じる形で、レニングラード・東京間の直行便を出してくれたことや、オスロの女子レスリング世界大会に参加する日本選手チームのために骨を折ってくれて、エントリーに間に合うよう計らってくれたことがあった。
つまり、以前には不可能に近い注文をこなしてくれ、こうした緊急時の対応にも、ペレストロイカによるソビエト社会の変化が見えた。
しかしゴルバチョフ時代の「最大の悲劇」は、1986年4月26日のチェルノブイリ原発事故。
ソビエト国営放送のニュース番組では、いつまでたっても十分な情報は放送されなかった。そんな時、モスクワに住んでいる日本人に、日本から空輸された牛乳が配られた。
なぜ、日本人に牛乳が配られたのか。文書によれば、「大きな影響を被るのは、ミルク、畜産である。特に牛は、いずれ汚染された牧草を食べることとなるであろうから、汚染地域の程度や広さ如何によっては深刻な問題となろう」と記述している。
結局、ゴルバチョフ書記長が強力に推進してきた「情報公開」とは、停滞したソ連の経済社会を活性化するための、やる気を起こさせるのが狙いであって、国内の事故から国民を守るといったものではないと分析している。
例えば、事故直後の1986年5月1日、ソビエト各地で、市民によるメーデーのパレードが行われた時の報告。
「ニュース番組でも放送され、事故が起きたチェルノブイリ原発があるウクライナ共和国のキエフも映し出された。そこでは、ほかの街と同じように市民が行進していた」。
あたかも、事故など何もなかったかの如くに行われたのである。
ゴルバチョフは従来のソ連の指導者にない“新鮮さ”と“柔軟さ”を印象づけてきたが、大きなイメージダウンとなったことは間違いなかった。

1991年8月19日、「ゴルバチョフ連邦大統領が病気で職務執行不能となりました」という衝撃のニュース。
それは、ゴルバチョフの失脚を推測させるもので、実際に ゴルバチョフはこの日を境に政治の舞台から姿を消した。
これは、ソビエト共産党、軍、治安機関の「保守派」が民主化の流れを止めようとした事実上のクーデターであったが、民主化を支持する市民が立ち向かった。
モスクワの「ロシア最高会議ビル」の周りに、特殊部隊が制圧に来るとの情報が流れる中、数万人の群衆が恐怖にひるむことなく集まっていた。
外国メディアに、人々は「自由がなかった時代に戻りたくない」その一心だったと答えている。
それにロシア共和国が屈服するかどうかが焦点であった。
ロシアのエリツィン大統領のもとには19日朝の時点で、10人に満たない警護しかなく、武力の面では軍と治安機関を握る連邦のクーデター側が圧倒していた。
また国営テレビやラジオはクーデター側が抑えていて、クーデターは、完全勝利であるかにみえた。
しかし、ここから今も色褪せない「ロシアの3日日間」の始まりであった。
19日昼、ロシア最高会議ビルに軍の戦車が近づいてくるとエリツィン大統領は、側近の制止を振り切り、兵士たちと話をしたいと外に出て、戦車の上に乗っかって顔を出した兵士に話しかけたかと思うと、国民への「呼びかけ」を読み上げた。
「テレビもラジオも放送してくれない。合法的な連邦大統領が失脚させられた。これは右翼反動勢力による非合法なクーデターだ」。
国家非常事態委員会を「非合法」と決めつけたこの演説はクーデターに対する民衆の抵抗に法的基盤と勇気を与えた。
戦車の上に立つエリツィンは巨大なソビエト体制への「抵抗のシンボル」となった。
ほかの共和国の指導者が日和見を決め込む中でこの時のエリツィンの決断力は傑出していたといえる。
当時は今とは異なり、インターネットも携帯もなかった。
しかし市民は様々な伝達手段を使い"情報封鎖"に穴をあけた。外国メディアの情報を受信する衛星放送。
また国営テレビでも記者がコメントバックとして抵抗する人々の映像を流した。
民間ラジオ、ファクシミリを使った民間通信社も現れ、20日夕方には数万人の人々が最高会議ビルの周囲に集まった。
国際社会もエリツィン大統領に呼応して「非常事態委員会」は認めないとの厳しい態度を明らかにした。
モスクワの抵抗が各地に広がる中、軍や治安部隊が命令を「拒否」する事態も相次ぎ、軟禁されていたゴルバチョフ大統領がモスクワに戻り、クーデターの参加者は逮捕され、わずか3日で失敗に終わった。
そしてエリツィンの存在感が急に増すことになる。
連邦の大統領ゴルバチョフがいてロシアの大統領エリチィンがいる。双方の"綱引き"が焦点となった。
実は91年当時、ゴルバチョフの「改革(ペレストロイカ)」は行き詰まりを見せていた。
独立の動きを進めるバルト三国、一方最大の共和国ロシアも国家主権を宣言、エリツィン氏が大統領に就任し、ウクライナなどほかの共和国と連携を強めていた。
ゴルバチョフは「連邦を維持する」ためにロシアやウクライナなど9つの共和国と共和国の権限を大幅に拡大した新たな「連邦条約・主権国家連邦条約」で合意した。そして、その調印は8月20日に行われることになっていた。
その前日に軍と治安機関のトップを含む連邦の保守派が「国家非常事態委員会」を組織して事実上のクーデターを起こしたのである。
彼らは、社会主義もソビエトという言葉もない「新連邦条約」の内容に激怒し、既存の「連邦」を守ろうとした。
クリミアの別荘に休養中だったゴルバチョフ大統領を病気として「軟禁」、19日秩序と国の統一の回復を訴えて「全権掌握」と「非常事態」をテレビで布告、モスクワには戦車部隊を導入した。
つまり、ソビエトを構成する民族共和国が、それぞれ独立する動きを強めたことを受けて、ゴルバチョフの改革は”行き過ぎ”だと、危機感を抱いた保守派が、彼を軟禁したののである。
しかし前述のとうり、ロシア共和国のエリツィン大統領をはじめ、数万人の市民が抵抗のために立ち上がり、クーデターの試みは3日間で失敗に終わった。
ただし、解放されてモスクワの空港に降り立ったゴルバチョフの疲れた姿は、ソビエトが「終焉」に向かっていることを印象づけた。
実際、この「クーデター未遂」事件はその後の歴史にも大きな影響を与えた。
まず社会主義運動の中心だった「ソビエト共産党」が消滅した。自然の流れで、ゴルバチョフ大統領が共産党書記長を辞任した。
組織的にクーデターに関与していたとしてソビエト共産党中央委員会に解散を命じた。
その一方で、新たな「連邦条約調印」の可能性は消え、各共和国の自立は一気に進み、8月24日ウクライナの最高会議が独立宣言を採択し、またそれまで自立に消極的だった中央アジア諸国も「主権宣言」を行った。
「ロシア、ウクライナ、ベラルーシの3共和国に加えて、カザフやウズベクなど8つの共和国も加えて、「CIS(独立国家共同体)」を創設する協定が調印された。
これでソビエトは完全に消滅。ソビエトのシンボルが、どんどん取り外されていく。
共産党の消滅と「連邦の形骸化」の中でゴルバチョフ大統領の権力基盤は無くなった。
彼はその後も「新連邦条約」を生き返らせようと必死の努力を続けるが、最終的には12月に「ソビエト連邦」は崩壊する。

現在のロシア人は、民主化よる不安定さよりも、社会の安定を望んでいるという実態がある。
最新の世論調査で、あの軍事クーデター事件で誰が正しかったのかという質問に、どちらも正しくない66%、国家非常事態委員会13%、エリツィンら民主派10%。ーデターへの抵抗に直接参加した世代、今の40代以上でクーデター派が正しいとする意見が15%ともっとも多くなっている。
事件当時は圧倒的に「民主派支持」だった世代であったが、連邦崩壊後のロシアの混乱の中で期待が失望に変わったこともある。
まさにこの世代といえるプーチン大統領自身の複雑な立場も影響を与えている。
ところで、プーチン現大統領は当時レニングラード・今のサンクトペテルブルクで「民主派市長」の側近として「反クーデターの前線」に立っていた。
クーデターの失敗はありふれたKGB機関員に「エリツィン派」としての出世の道を開いた。
その当のプーチンは「ソビエト連邦の崩壊」は悲劇としている。
そして、かけがえのない「祖国ソビエト連邦」を喪失したという気持ちは連邦を守ろうとした「保守派」の心情と相通じるものがある。
90年代の混乱の中で自由よりも安定と秩序を求める国民の意識が強まった。その上に安定と秩序を優先するプーチン体制が築かれている。
それゆえプーチン大統領はこの事件について公言することはほとんどない。
かつてビートルズの通称「ホワイトアルバム」(1968年)に、「バック インザ USSR」という曲があったのを思い出した。
タイトルにある「USSR」とは、ソビエト社会主義共和国連邦(Union of Soviet Socialist Republic)である。その歌詞は、次のとおりである。
♪はるか南方まで伸びる、雪を抱いた山々を見せておくれ父なる国家の農場へ連れてっておくれ。バラライカの響きを聴かせておくれ君らの同胞とともに暖かく迎えておくれ教えてあげるよ、ハニー、僕は、僕はソビエトに帰ってきた。なんて素敵な場所だろう そうさ、僕は、僕はソビエトに帰ってきた。
ウクライナの女の子にノックアウト。西側の女なんて目じゃないね、モスクワの女の子を見ていると”わが心のジョージア”を大声で歌わずにいられない。
ソビエトに帰ってきたこれがどれだけ幸せか、君にはわからないだろうソビエトに帰ってきたんだ♪。
ところで、アメリカ南部ジョージア州の州歌でもある「我が心のジョージア」だが、ソビエトで「ジョージア」といえば現ジョージア(旧グルジア)を指し、ここではダブルミーニングとなっている。
ロシアの人々に今、「我が祖国ソビエト」を懐かしむ心情があるようだ。
旧約聖書でエジプトの奴隷生活を脱して砂漠をさまようと、人々はエジプトの方がよかった。我々をここで殺すつもりかとモーセに不満をぶつける場面が思い浮かぶ。
さて、「我が祖国」といえば、スメタナの『わが祖国』の2曲目「モルダウ」がある。モルダウ川の流れに託した祖国チェコを思う気持ちが表れている。
それにしても、ビートルズは「バック インザ USSR」を、東西冷戦下のきわどい時期に、どんな意図をもって作ったのだろうか。
チャック・ベリーの「バック インザ USA」をパロディ化して作ったものらしい。
偶然できたというのが真相のようだ。