聖書の言葉より(新しい人を着る)

12年間もの間、長血を患っていた女性が、イエスのうしろから近づいて"衣"にさわったところ癒された(「マルコの福音書」5章)。
女性は人目につかないように去ろうとするが、イエスは「わたしにさわったのは、誰か」と言われた。
女性は、イエスの衣にさわった理由(わけ)と、さわるとたちまち治ったこととを、皆の前で話した。
このエピソードは、病をもった女性の心のアヤを伝えているように思える。
イエスが病を癒す時、病人を見つめて「どうしてほしいのか」とその意思を確認するのであるが、この女性の場合そうした暇もなく群衆にまぎれて立ち去ろうとしたからだ。
女性が、身を隠すように生きてきたことは、「人目につかないように去ろうとした」ことなどからも推測できる。
イエスの体に触れることなく、衣にふれたのも、この女性のそんな微妙な立場を表しているのかもしれない。
当時の人々にとって病は、身体的・経済的な苦境ばかりではなく、宗教的に汚れた存在として、精神的苦境にも陥っていたはずだ。
ともあれ、”勇気ある行為”であることに違いない。
この長血を患っていた女性は「癒されたい」という思いの強さに加え、衣に触ったでけでも癒されるという強烈な信仰が感じられる。
なにしろ、12年間も病にあれば、諦めの境地に侵されて、癒されたいという気持は薄れていくに違いないが、イエスによほど特別なものを感じたのあろう。
ところで聖書は、個々の出来事の断片をみると信じがたいものがある。
しかし聖書全体に、数千年を隔ててもなお貫かれた「何か」に気がつけば、逆に否定することの方が難しく思えてくる。
この貫かれた「何か」を、「ロゴス」とよんでよいだろう。
「ロゴス」とは「ヨハネ福音書」冒頭の「世の初めに、言葉があった。言葉は神と共にあった」の”言葉”のギリシア語である。
「ロゴス」の特徴は、顕われんとするもので、数千年の時を隔てて実現する「預言」(or啓示)のように、「生きて働く神の言葉」である。
そして、イエスが他の宗教の教祖様と決定的に異なる点は、自らの生涯を旧約聖書の預言を参照しつつ、その実現として語ったことである。
さて、イエスが着た「衣」についてまず思いつくのが、いわゆる「イエスの変容」の場面である。
「六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。 ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。 すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた」(マタイ17章)とある。
この場面、西洋絵画のテーマになっているが、そういう絵画を見る限り、イエスの白い衣がまるで翼のように空をおおっている。
こうした視覚イメージは、旧約聖書「詩篇」に時折登場する「御翼(みつばさ)の陰に」という言葉を思い浮かべる。
「いと高き者のもとにある隠れ場に住む人、全能者の陰にやどるものは主に言うであろう、わが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神と。 主はあなたをかりゅうどのわなと、恐ろしい疫病から助け出されるからである。
主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう」(詩篇91)。

人が着る衣と翼(or衣)が結びつく話として思い浮かべるのは、日本の昔話「ツルの恩返し」である。
ある老夫婦が傷ついたツルを助けたところ、そのツルが人間の姿となって老夫婦の元を訪れる。
そして、命を助けてもらった恩返しに自らの羽を使って機織りをする。
機織りの姿を見てはならぬと言われていたが、夫婦が好奇心に駆られて部屋を覗くと、そこにはツルが自らの羽をつかって機織りをしていた。
ツルはその姿をみられてしまったが故に、夫婦のもとを立ち去る。
また、日本の各地に「天の羽衣」(あまのはごろも)伝説が残っている。
特に有名なのは、静岡県の三保の松原に残る「羽衣伝説」である。
ある時、ひとりの漁師が松に掛かっていた美しい羽衣を見つけ、持ち帰って家の宝にしようと思った。
その時、木の陰から天女が、私の羽衣ですから返して下さいと声をかけた。
漁師はちゃんと羽衣を返すので、天女の舞を見せて欲しいと少々厚かましい願をする。
うると、羽衣を身にまとった天女は舞い踊り、その躍動に羽衣も翻っていくうち、天女は徐々に天へと上がり、霞の彼方へと消えていった。
さて、この昔話の舞台「三保の松原」にいくと、思わぬ石碑と出会う。それが「エレーヌ・ジュグラリスの碑」である。
フランスの舞踏家エレーヌ・ジュグラリスは、1916年にフランス北部・ブルターニュ地方カンペール生まれのフランス人女性ダンサーである。
彼女が日本の「能」の中で「羽衣」に興味を持をもったのは、西洋に数多く伝わる「白鳥伝説」に通じるものがあったからだ。
彼女は、ヨーロッパの人々にも分かりやすい能楽作品の一つ「羽衣」を研究し、手探りで「羽衣」の謡をフランス語に訳した。
衣装も厚手の生地を買って自ら刺繍し、独自の創作舞踊「HAGOROMO」を作り上げた。
1949年3月、ギメ美術館ホールでの初演は成功裏に終わったが、わずか3カ月後に公演中に舞台で倒れ、「天女の衣装」をまとったまま病院に。
その後、白血病と診断され、2年後に35歳の若さでこの世を去る。
夫のマルセル・ジュグラリスは、「三保の松原」に憧れを抱いていた彼女の遺志を果たすために、エレーヌの遺髪を携え美保を訪れた。
これを機に、1952年にエレーヌ・ジュグラリスの遺徳を忍んで記念碑が建立されたのである。
記念碑には夫・マルセルが妻・エレーヌに捧げた言葉がフランス語で刻まれ、以下の和訳が書かれてある。
“美保の浦 波渡る風 語るなり パリにて「羽衣」に いのちささげし わが妻のこと 風きけば わが日々の すぎさりゆくも 心安けし”。
一方、西洋では「キリストの衣」について、あまり感心しないエピソードがある。
それは、イエスが十字架の刑死後に、その衣を兵卒たちがくじで分けたという話(ルカ23章)で、驚いたことに、旧約聖書(詩篇22)にその預言さえもある。
「彼らは互にわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引にする」。
この話に基づいた映画が、リチャード・バートン主演の「聖衣」(1953年)である。
「聖衣」の舞台となっているのは紀元30年ごろの古代ローマの統治する時代。
ティベリウス帝、カリギュラ帝が統治していた時代で、キリスト教は弾圧の真っ只中にあった。
ティベリウス帝の下、主人公のマーセラスは、有力な元老院議員の下に生まれ、ローマの護民官をつとめていた。
後に帝位をつぐカリギュラと競って、奴隷デミトリアスを買いとり、そのためカリギュラの恨みを買って、エルサレムへ左遷された。
マーセラスの好意で自由の身となったデミトリアスも行を共にした。
マーセラスの最初の仕事は、神の子と自称するイエス・キリストを捕まえ、はりつけにすることであったが、イエスの処刑を終えたマーセラスは、良心の呵責に耐えかねて苦しみ始める。
マーセラスは気持ちを紛らわそうと、酒の酔にまぎれて同僚とサイコロ遊びに興じ、イエスがまとっていた「聖衣」を手に入れた。
マーセラスがその「聖衣」をまとおうとすると、彼は突然うちのめされたように倒れてしまった。
マーセラスは、以来心の平静を失っていたが、役目をとかれてローマに帰り、幼馴染のダイアナ姫の愛情に心の落ち着きを取り戻す。
しかし、そこに現れたのは再びカリギュラ。彼はダイアナ姫を自分の正妻にしたいと望んでいたのだ。
そんな時、ティベリウス帝は、マーセラスのイエスが「真の救世主」であるかどうか調査を命じた。
マーセラスはガラリア地方に赴き、そこでイエスの教えを説くペテロと呼ばれる漁夫サイモン(マイケル・レニー)と語らい、デミトリアスとも再会することができた。
マーセラスはすっかりイエスの教えに心服し、ローマへ帰ると、すでにティベリウス帝は亡く、カリギュラが即位していた。
カリギュラはキリスト教の弾圧を行い、まずデミトリアスを捕えて拷問にかけ、マーセラスの居所を知ろうとした。
マーセラスはデミトリアスを救い出したが、自らは捕らえられ、反逆罪に問われた。
彼は信仰をあくまでもすてず、ダイアナ姫も彼に従った。2人は殉教者として死を選び、安らかな心で刑場へひかれて行った。

旧約聖書の「創世記」には、エデンの園に「善悪を知る木」が生えていて、神はここから食べてはならないと禁じてしたものを、人間がこれを食べてエデンの園から追放された、とある。
彼らが「善悪の木」を食べて知ったことが、自分達が「裸である」ということであった。
そこで、とりあえず作ったイチジクの葉で腰を覆うことにした。
しかしもっと重大なことは、エデンを追放された人間は、「死ぬ」存在になったということである。
そこで神は、命を守るのにあまりに貧弱なイチジクの葉に替えて、神が「皮の衣」を作りそれを着せたとある(創世記3章)。
、 この話で思い浮かべるのは、新約聖書のイエスのたとえ話に、父親が帰ってきた放蕩息子に「最高の衣服」を着せる話である。
これとは逆に、旧約聖書の「ノアの箱舟」の話の中に、子供の側が父親に服を着せる話がある。
ノアには、セム・ハム・ヤペテという三人の子供がいたが、ある日ノアが酒に酔って裸で寝っころがっていた。
この場面を聖書の記述のままに書くと 「彼は葡萄酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。カナンの父ハムは父の裸を見て、外にいる兄弟につげた。セムとヤペテとは着物を取って、肩にかけ、後ろ向きに歩み寄って、父の裸をおおい、顔をそむけて父の裸を見なかった」。
ところで旧約聖書の「ノアの箱舟」について、 新約聖書には、ノアの一家をおそった洪水が、「水を通過して人が救われる」という「洗礼の型」を示しているとしている。(ペテロ第一の手紙)。
それはモーセの時代に「紅海」が左右に分かれて、水を通りぬける有名な出来事も同様であり、前述したような聖書を貫く何ものか、つまりロゴスの顕われとみなすことができる。
そもそも、モーセ自身がナイル川から拾い上げられ、名前自体が「引き出される」という意味なのである。
そして、ノアの物語の中の「衣服」にまつわるエピソードもまた「救いの型」といってよい。
ノアに対する子供達の態度、つまりノアの裸を見ないように子供達が覆ってあげる姿は、神が人間に施した「慈愛」にほかならない。
さて、パウロはその慈愛につき次のように語っている。
「からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、からだのうちで、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。」(コリント人第一の手紙12章)。
パウロ自身、何らかの身体上のトゲに苦しみ、それを除いててください神に願うが、神は「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われた。
そこでパウロは神の力が覆うように自分の弱さを誇らんという信仰にまで至る。
その一方で、イエスは「衣服」にまつわる次のような厳しいたとえ話をしている。
「天国は、ひとりの王がその王子のために、婚宴を催すようなものである。
王はその僕(しもべ)たちをつかわして、この婚宴に招かれていた人たちを呼ばせたが、その人たちは来ようとはしなかった。
そこでまた、ほかの僕たちをつかわして言った、『招かれた人たちに言いなさい。食事の用意ができました。牛も肥えた獣もほふられて、すべての用意ができました。さあ、婚宴においでください』。
しかし、彼らは知らぬ顔をして、ひとりは自分の畑に、ひとりは自分の商売に出て行き、 またほかの人々は、この僕たちをつかまえて侮辱を加えた上、殺してしまった。
そこで王は立腹し、軍隊を送ってそれらの人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。
それから僕(しもべ)たちに言った、『婚宴の用意はできているが、招かれていたのは、ふさわしくない人々であった。 だから、町の大通りに出て行って、出会った人はだれでも婚宴に連れてきなさい』。
そこで、僕たちは道に出て行って、出会う人は、悪人でも善人でもみな集めてきたので、婚宴の席は客でいっぱいになった。
王は客を迎えようとしてはいってきたが、そこに礼服をつけていないひとりの人を見て、 彼に言った、『友よ、どうしてあなたは礼服をつけないで、ここにはいってきたのですか』。しかし、彼は黙っていた。
そこで、王はそばの者たちに言った、『この者の手足をしばって、外の暗やみにほうり出せ。そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。
招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」。
このたとえ話では、神の目から見て、人間は善人であろうが悪人であろうが大きな差はなく、むしろ人間は素の状態(裸)では「浄く」ないことを示している。
注目すべきは、前述の「皮の衣」を作るためには動物を屠って血を流す必要があること。
「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない」とあるように、いのちの代価である血によって罪が覆われるということが「罪の赦し」である。
神がアダムとエバに与えた衣は、血を流すことによって作られた「皮の衣」ということになる。
さて、新約聖書の御国のたとえの中に、しばしば「衣を着せる」といいう表現がでてくる。
具体的には、端的に「キリストを着る」(ローマ13章)「新しい人を着る」(エペソ4章)といった表現である。
それは、「ヨハネ黙示録7章」に登場する「子羊の血をもって衣を白くした人々」とぴたりと符合する。
新約聖書で「裸」である存在に、「着せる」「覆う」ということは、「罪の贖い」を受けることのようだ。
しかし、新約聖書は「神が着せる」衣服について、さらに一歩踏み込んだ表現をしている。
それは色の「白さ」ではなく、滅びないこと。つまり「永遠」を身に着けるということである。
「死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである」(コリント人への第一の手紙15章)。
「なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである 」(コリント人への第一の手紙15章)。
また使徒パウロは、「その幕屋を脱いだとしても、私たちは裸の状態でいることはありません。確かにこの幕屋のうちにいる間、私たちは重荷を負ってうめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいからでは ありません。死ぬはずのものが、いのちによって呑み込まれるために、天からの住まいを上に着たいからです」(コリント人への第二の手紙5章)。