聖書の言葉から(雲の柱 火の柱)

旧約聖書によれば、「出エジプト」後モーセに率いられたイスラエルの宿営が進む時に「特別な出来事」が起きた。
「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱を持って導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった」(出エジプト記13章)。
神は、荒野をさすらうイスラエルを、前を進むだけではなく、時に後ろへまわり、追撃するエジプトの陣の間へ入り込んで守って、故郷カナーンの地に導く。
ちなみに、キリスト教社会運動家の賀川豊彦は、この出来事にちなんで、「雲柱社」という結社をおこしている。
最近、インターネットの世界で、雲を意味する”クラウド”が立ち上がり、大活躍している。
コンピュータのデータ環境をハードデスクに保存しておけば、そのコンピュータ上では環境を何度でも再現できるのだが、なにしろ持ち運びが大変である。
そこで「雲の上」にデータを保存しておけば、そこからダウンロードすればいつでもどこでも、自前のパソコンとして利用できるのだ。
ここで、「雲の上」は比喩であって、ネット上のサーバーに保存しておくという意味である。
イメージとしては、天に上る柱のようにインターネット上に保存する使い方をするこのサービスのことを、「クラウド・コンピューティング」とよぶ。
そして、「クラウド・コンピューティング」を略して「クラウド」と呼ぶことが多い。
そして昨今、「クラウド・ファンディング」という新たな資金集めの方法が発達している。
新型コロナ下で、飲食業や劇団、ロックハウスなどの支援のために、クラウドファンデイングが大いに役立っている。
また、いつもカメラで撮って「クラウド」に保存しておけば、あの日あの時、家族は何をしていたか、いつでもどこでもダウンロードできるサービスもできているという。
それは、あたかも人の歩みが「天に記される」イメージである。

日本でも外国でも、「雲」は様々な意味を合いをもって表現されている。
「真田十勇士」といえば猿飛佐助だが、もうひとり雲隠才蔵というキャラクターがいる。
名は体(たい)を表すとおり、都合が悪くなるとすぐ雲隠れする三枚目であった。
しかし、ルパン3世のように決める時は決めるので、それなりに人気があるが、大坂の陣ではこの「雲隠れ」の悪い癖が発動する。
戦況が劣勢になった途端に才蔵は雲隠れしてしまい、主の真田幸村は孤立して戦死してしまった。
主の戦死を見届けた才蔵は、自分の雲隠れが取り返しのつかないことをしたことを悔やみ、せめて徳川家康と相打ちになって死のうと突撃したが、影武者一人と相打ちになってその生涯を終えたという。
また、司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」とは、封建の世から目覚めたばかりの日本が、昇って行けばやがてはそこに手が届くと登って行った雲のことである。
つまり日本が、近代国家をつくり列強に仲間入りしようとした「時代精神」を表している。
そして高度経済成長から石油ショックを経て、安定成長に入った時代を「峠の時代」とよんだのは、通産官僚の堺屋太一である。
堺屋は大阪万博を主導した官僚としても知られるが、赤穂浪士の登場する元禄時代を題材に「峠の群像」(1981年)を書いている。
この小説は、上りから下りに上ろうとする時代を、日本の社会情勢と重ねながら、現代的視点で「忠臣蔵」を描いたものだった。
ちなみに、1975年に「青春の門」を書いた五木寛之は、いまや「下山の哲学」を勧めておられる。
一方、病室から日がな見ていた「雲」が大ヒットにつながったのが、作詞家の大石義雄。赤穂浪士のような名前に相応しく、波乱万丈の人生を送った人だ。
若い頃から放蕩三昧で、30歳を過ぎた頃から原因不明の痛みで歩けなくなった。
4年間の入院生活を送り、下肢麻痺で車椅子生活となった。その間に、経営していた建築会社も閉じた。
どん底の中、病院の窓から雲ばかりを見てすごした。そんなある日、雑誌の歌詞募集を知り、体は歩けなくなったけど心は青空を飛ぶんだと、書いたのが「雲にのりたい」で、1968年、黛じゅんの歌で大ヒットした。
大石は、「車椅子党」を立ち上げて参議院の八代英太議員などを精力的に応援し、2010年、77歳で亡くなっている。
1980年代の前半に日本は、外国人記者のエズラ・ヴォーゲルが書いた本のタイトルから「ジャパン アズ ナンバーワン」などと呼ばれ、やがてバブル経済期を迎えることになる。
その時、日本はアメリカのコロンビア映画を買収したり、ロックフェラー・センターを買収したりして、「雲」を下に見た感さえあった。
バルがはじけた後、日本経済の「雲行き」が急激に怪しくなり、債務におわれて「雲がくれ」する人々などが多かった。
思い起こすのは昨年、東京江戸川区のアパートで、火災にあって亡くなった一人の老人のこと。
生活保護を受けていたこの老人の名前は中江滋樹。驚いたことに、彼こそは、バブルの寵児として一世を風靡し、芸能人との交際までフライデーされた「投資ジャーナル」の主催者であった。
「雲をつかむ」ような話で大儲けし、その後に富が雲散霧消した人生だった。
ところで、中国唐代の禅僧で臨済宗開祖の臨済義玄の言行をまとめた語録「臨済録」がある。
その中のの言葉で、松老雲閑。曠然自適」、「まつおい くもしずかなり こうねんとして じてきす」とよむ。
老いた松のごとく、静かに流れる雲のごとく悠々と生きよ、という意味である。
つまり、世の中のシガラミにとらわれず、心任せに生きる様を表している。
「老松」の強みとは、「世の中」を高みから見る気持ちの余裕から生まる。
さて、「松老雲閑」の情景の中で、老松の上にモウ一つ上空に浮かぶのが、「閑かな雲」の姿である。
松は「松・竹・梅」の筆頭だから「吉」をもたらすものらしい。
それでは「雲」はどうかといえば、「暗雲」という言葉もある一方で、「慶雲」という言葉がある。
「慶雲」(けいうん)は、日本の元号のひとつで大宝二年に死去した持統天皇の葬儀などが済んだ大宝四年(704年)に、藤原京において現れた「雲」だったという。
この雲の形がとてもめでたく、704年から708年までの元号を「慶雲」としている。
ちなみに、我が実家で飼っていた犬に、国文科出身の姉がこの故事にちなんで「慶雲」(=よしくも)と名づけた。
「慶雲」は、曠然と自適して、隣近所の犬達にもよく慕われ、天寿を全うした。
案外と雲は吉兆ともなっており、仏教では紫色や五色の珍しい雲をめでたい兆しとして出現するもので「瑞雲」とした。

新約聖書に「わたしたちは、このような多くの証人に"雲"のように囲かこまれている」(へブル12章)という表現がある。
その信仰の証人の一人が、旧約聖書「列王記」に登場する預言者エリヤである。
アハブ王に仕えた預言者エリヤは、雨がふらず飢饉で苦しむ民のために、カルメル山の頂上に上って地にうずくまって祈る。
そして従者に「上って来て、海の方をよく見なさい」というと、従者は上って来て、よく見てから「何もありません」と答えた。
そんなやりとりが何度か繰り返され、7度目に従者から「手のひらほどの小さい雲が海のかなたから上って来た」いう報告を受けた。
するとエリヤは従者にアハブ王のところに上って行き、激しい雨に閉じ込められないうちに、馬を車につないで下って行くように伝えなさいと命じた。
すると時を経ずして、空は厚い雲に覆われて暗くなり、風も出て来て、激しい雨になった。
この故事にあるとおり、砂漠の民にとって「水」は欠かすことはできない。そのため、雲の存在が「吉」であったことであったことは容易に推測できる。
ただ、この「手のひら状の雲」というのは、雨が降る”しるし”ということだけに限らす、なんらかの”しるし”を見て進むという信仰者の生き方を示すものである。
そして、このような「雲」を体現したような人物が、旧約聖書「歴代誌40章」に登場するヤベツである。
ヤベツについての記述は短く、プロフィールもよくわからず、系図も不明、まるで空に浮かんだ”ひとひら雲”のような存在である。
近年アメリカで、ブルース・ウィルキンソンという人が書いた「ヤベツの祈り」という書物がベストセラーになっている。
著者自身が、「ヤベツの祈り」を実行してみて、運が開けたということが、説得力を生んだのであろう。
ヤベツの祈りは次のように簡潔である。
「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように」。
そして一番大事なことは、神はヤベツの願ったことを受け入れ、ことごとくかなえられたということである。
まず、ヤベツの名から推測されることは、「逆転の人生」ということである。
というのはヤベツの母が、「悲しみのうちにこの子を産んだから」と言って、彼にヤベツという名をつけたとあるように、「ヤベツ」という名は「痛み、苦しみ、悲しみ」を表わしている。
イスラエルでは生まれた状態が名前になるのが面白い。
例えば、アブラハムとサラの子である「イサク」は笑ってしまうくらい高齢で生まれた「笑う」という意味で、ラケルが夫ヤコブに12番目の息子を産んだ時、あまりの難産で亡くなってしまうが、その間際に自分の子どもに「ベン・オニ」つまり「苦しみの子」と名づけている。
ここからイスラエル12部族の末っ子、「ベニヤミン族」の先祖になったのだが、世界的伝道者パウロもベニヤミン出身である。
パウロは、「コリント人への手紙」の中で、「イエスは、月足らずで生まれたようなこのわたしにも、現れてくださった。わたしは使徒たちの中では最も小さな者」と自己紹介している。
ヤベツの祈りは、ことごとく受け入れられている点で、「ヤコブ」の祝福を思わせる。
ヤコブは荒野で、神のみ使いが天にかかるはしごを上り下りする場面と出会い、自らの祝福を願ってみ使いを離さなかったので腰のつがいを外される。
そして神より「神と戦う」つまり「イスラ エル」の名前を受けるが、その人生は波乱に満ちたものではあったが、ヤコブは経済的に祝福されて、「ヤコブの産業」を資本主義の源流と評するムキさえもある。
ヤベツの祈りは、神がヤコブを「イスラエル」という新しい名前をつけてその生涯を祝福したように、彼の人生をも一転させたのである。
また「ヤベツの祈り」の中の「私を大いに祝福し、私の地境を広げてください」という祈りは、ダビデ王の祈りとぴったり重なる。
ダビデは、「測り綱は、私の好むところに落ちた。まことに、私への素晴らしいゆずりの地だ」(詩編16編)と、神を賛美している。
ヤベツの生きた時代は、イスラエルの十二部族に約束の土地が分割された頃であった。
ヨシュアが大まかな割り当てを決めたが、それは地図の上でのことであって、実際に土地を自分のものにするには、先住民と戦い、町を建て、畑を耕さなければならなかった。
そうした戦いは、ダビデ王が異民族と戦い、王国の確立していくプロセスをも予想させる。
また「ヤペツの祈り」の最後の「御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてください」は、イエスが弟子たちにすすめた「主の祈り」の一箇所を思わせる。
それは、「私を試みにあわせず、悪より救い出したまえ」(マタイ6章)という箇所である。
さて聖書にある「雲の柱・火の柱」を見ながら進むということは、「神と共に歩む」ということを示している。
イエスが十字架の死後、弟子達は失望してエマオという村に向かう途中、復活したイエスが弟子達が気づかぬまま、共に歩いていたという場面がある。
実は「エマオに向かう道」というのはシンボリックで、エマオとは最も古い市場(いちば)がありイエスを失った弟子達は、イエスの「復活」の約束を信じられないまま、再び「この世」に向かい始めたのである。
彼らが、語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。
しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。
イエスが彼らに何を語り合っていると聞くと、彼らは悲しそうな顔をして「あなたはエルサレムに泊まっていながら、この都でこのごろ起ったことを知らないのか」と聞く。
結構ユーモアのある場面だが、イエスは「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ」と、聖書の預言から「復活」を説き明かしている。
後に弟子たちは、目が開かれイエスと気づくが、気がついた時にはイエスは見えなくなってしまう。
後に彼らは、「イエスが語られていた時、こころが燃えたでないか」と振り返っている(ルカ24章)。
作家の遠藤周作は、十字架で亡くなった弟子達がエマオの町に行く時に、復活したイエスが共に歩んでいる場面にインスピレーションを得て「同伴者イエス」をコンセプトに「イエスの生涯」を書いている。
さて、旧約聖書には神を「同伴者」とした多くの人々が登場する。
そのひとりが「ノアの洪水」のノアである。
そのノアについて、聖書は次のように語っている。
「ノアはその時代の人々の中で正しく、かつ全き人であった。ノアは神とともに歩んだ」。
ノアは、酒を飲んで裸のまま地面に倒れ寝込んでしまい、息子達から布をかぶせられた失態を犯したこともあるにもかかわらず、「全き」なのである。
この時に試されたのは、むしろ3人の子供「セム ハム ヤペテ」の方で、父親の弱点に対応する彼らの姿勢が、その子孫の運命を左右することとなる(創世記3章)。
結局、神の視点から見た「全き」は、人間の視点でいう「全き」とは違うようで、ポイントは「神とともに歩むこと」にあるようだ。
冒頭の「出エジプト」の出来事に現れた「雲の柱」と「火の柱」はイスラエルの民衆からみて、次のように見えている。
「雲が幕屋を離れて昇ると、イスラエルの人々は出発した。旅路にあるときはいつもそうした。雲が離れて昇らないときは、離れて昇る日まで、彼らは出発しなかった。旅路にあるときはいつも、昼は主の雲が幕屋の上にあり、夜は雲の中に火が現れて、イスラエルの家のすべての人に見えたからである」。
イスラエルの民を導いた「雲の柱」と「火の柱」は、聖書の他の箇所を参照すると、雲は「神の臨在」を表し、火は「使徒行伝」のペンテコステ(五旬節)に、炎のように集団に下った「聖霊」を指している。
この時、エルサレムで初代教会が誕生している。
さて、旧約聖書「ミカ書」は神が人に求めることにつき、簡潔にまとめている。
「主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか」(ミカ6:8)。