「車窓」は名曲の舞台

最近、新型コロナのせいで旅に出られないせいか、「車窓」からの風景を歌った曲が、思い浮かぶ。
「岬めぐり」は山本コウタローとウィークエンドの1974年のヒット曲である。
♪岬めぐりのバスは走る 空に広がる青い海よ 悲しみ深く沈めたら この旅終えて 街へ帰ろう♪
我が"岬めぐり"は一昨年、薩南の笠沙岬と野間岬のバス旅で、この歌が聞こえたような気がした。
笠沙は、「古事記」で有名なコノハナサクヤヒメ(木花咲耶姫)の舞台。ニニギノミコトが、ある日、"笠沙の岬"を散歩している時、コノハナ姫に出会うところからはじまる。
さて、列車の車窓といえば、その始まりは駅のホームで、そこには様々な出会いと別れがある。
ホームでの別れのシーンが印象に残ったのはJR東海の「クリスマスエクスプレス」のCMで、バックに流れた山下達郎「クリスマスイブ」がぴったりとはまった気がする。
ホームの情景が歌詞に書かれた曲といえば、イルカの「なごり雪」。聞くものの心の中で何かを呼び覚ます言葉の力が素晴らしい。
春が来て旅立つ君との別れを描いたのは、「かぐや姫」のメンバーだった伊勢正三。
大分・津久見の出身だった伊勢正三には、きっと郷里の津久見駅の大きくカーブした長いホームが脳裏に浮かんだに違ない。
大分から特急で約40分、左手に豊後水道を眺めながらいくつものトンネルを抜け、狭い平野に出ると列車は津久見駅に到着する。
近くには石灰岩を産出する山があり、津久見湾の良港に面しているためセメント工業が盛んである。
海沿いには大規模な工場のプラントが並んでいるが、この地名を有名にしたのは、高校野球の甲子園における強豪校・津久見高校である。
駅前には記念碑があり、津久見の主要産業であるセメントの原料、石灰岩に赤ミカゲ石のプレートには「なごり雪」の歌詞が刻まれている。
駅近辺の観光スポットに「つくみイルカ島」あるのも面白い。イルカと人間との「ふれあい・癒し」をテーマにした体験型施設なのだという。
「なごり雪」に匹敵する駅ホームでの別れ曲で思い浮かぶのは、スキマスイッチの「奏(かなで)」。
「スキマスイッチ」の二人のメンバー、大橋卓弥と常田真太郎はいずれも愛知出身。
「改札の前 つなぐ手と手」ではじまるこの名曲の駅がどこなのか知りたいが、名鉄線には車体の色にちなんだ「スカーレット」という電車が走っている。
スキマスイッチは「スカーレット」をタイトルにした曲まで作っているので、名鉄線のどこかかもしれない。
さて、「車窓」に見える風景が創作に生かされた名曲が、久保田早紀の「異邦人」である。
その風景は、中近東ではなく、久保田の通学時の風景がもとになっている。
父が仕事でイランに赴いた際に購入してくれた現地のアーティストのアルバムを繰り返し聴いたことが、「異国情緒」を伴う音楽の創作に繋がった。
そして自分で曲を作り、自分で歌う女性歌手に憧れをもつようになる。
久保田が心酔した松任谷由実も教会音楽に親しみバッハの音楽に心酔していた点で共通している。
短大時代、八王子から都心へと通学する電車の中、広場や草原などで遊ぶ子供達の姿を歌にして「白い朝」というシンプルな曲を書いた。
「子供達が空に向かい 両手をひろげ 鳥や雲や夢までもつかもうとしている」と。
そして、自分の曲がプロの世界で通用するかチャレンジしてみようと、自分の歌を弾き語りで録音したカセットテープを送った。
そしてこのテープにある「哀愁のある声」に注目した、新進の女性音楽プロデューサーがいた。
「魅せられて」の制作スタッフの一人であった金子文枝は、ポルトガルの郷愁を帯びた音楽「ファドの世界」に引き込まれていた。
そして久保田のテープを聞いてポルトガルのファドに近い曲ができないかと考えた。
そして久保田にファドの女王「アマリア・ロドリゲス」のレコード数枚を渡した。
それは郷愁に溢れた曲で、レコードを聴いた久保田は、何も恋愛を歌う必要はないと思ったという。
一方、金子文江の中には「次はオリエンタルなもので行こう」という思いがあり、オリエンタルの雰囲気を強く出そうと、萩田光雄に編曲を頼んだ。
萩田光雄は、シルクロードの雰囲気をだすために「ダルシマー」というペルシアの民族楽器を使い「シルクロード」のイメージを完成させた。
そして、分厚いオーケストラと「ダルシマー」の音色が溶け、久保田の透明な声がよく響き合い、そして壮大な「郷愁の世界」を築きあげた。
さて、数年前に松本に旅した時にのこと。中央高速道をバスに揺られながら、松任谷由実の「中央フリーウエイ」(1976)の中に、「右に競馬場、左にビール工場」という歌詞があった。
近くにさしかかった時、背伸びして確認するとまぎれもなく「右手の東京競馬場」「左手にはサントリー武蔵野ビール工場」だった。
松任谷の卒業ソングといえば「卒業写真」、この歌の歌詞も車窓からの風景が描かれている。
「話しかけるように揺れる柳の下を通った道」は松任谷の青春そのものだったようだ。
「卒業写真のあの人」を異性の先輩とばかり思っていたら、松任谷が高校時代に通った美術教室の女教師だという。
当時、高校生だった松任谷は東京芸大への進学を目指していた。実家が呉服屋でもありった彼女は、ゆくゆくは着物のデザインなども手がけてみたいというのが夢だったという。
その頃の彼女は高校が終わると、美術教室に通って受験に備える日々を過ごしていた。
美術教室の先生は20代の女性で、それほど好きな先生ではなかった。
だが、名門大学を受験しようという彼女に対して、厳しく熱心な姿勢で指導してくれた。
松任谷は、東京芸大という大きな目標のために教室で絵を描き続けていたが、先生は画家の自叙伝や評論を読むことを薦めてくれた。
そんな日々の中で少しばかりの自信をつけて受験に臨むが、結果は不合格。公衆電話から涙声で先生に結果を知らせた。
彼女は浪人受験を選択することなく、多摩美術大学へと進学する。
心機一転、大学生となり新生活を送る中、ある日彼女は街で美術教室の先生を見かける。
彼女は先生に声をかけることなく、思わず隠れてしまったという。せっかく美大へ進んだのに音楽にのめり込みはじめていた松任谷。
「卒業写真」には、「人ごみに流されて変わってゆく私をあなたは時々 遠くで叱って」とある。
歌詞にでてくる「話しかけるようにゆれる柳の下」とは、当時彼女が頻繁に通っていたアルファスタジオへの道(田町海側)の風景なのだという。
ちなみに、RCサクセションの忌野清志郎が担任の美術教師を歌った曲がある。
「僕の好きな先生」(1972)という曲で、”僕”と同じく職員室が嫌いなようで、美術教室でタバコをくゆらせながら、キャンバスに向かっている姿が好きだったという。

駅のホームが推理小説のトリックに使われたのが松本清張「点と線」。
東京駅2番ホームから8番ホームが見渡せる「4分間」が、犯人のアリバイ工作に使われるのだが、この時間は松本清張が、実際に生じる東京駅のホームで見つけた「間隙」なのだという。
黒澤明監督の「天国と地獄」(1963年)も車窓が重要な役割を果たしていた。
ある会社の社長の運転手の子供が誘拐され、犯人は身代金の受け渡しに、現金の入った鞄の大きさを細かく指示してきた。
電話で連絡があって、東海道線の特急の鉄橋の手前で誘拐した子供を見せるから、川を渡りきったところで「車窓」から鞄を投げろと言う。
そして犯人が指示してきた鉄橋のある川の名前は「酒匂(さこう)川」であった。
カーブする川沿いの道に挟まれた狭い三角地帯がある。映画ではこの部分に砂利を盛って高くし、その上に子供と共犯者を立たせ、目立つようにしていた。
この三角地帯は現存しているらしいが、完全主義者の黒澤明は、「あの建物が邪魔だ」と酒匂川沿いにある二階建て民家の二階部分を壊させ、撮影後には元通りに作り直したというエピソードが残っている。
実はこの「酒匂川」は、個人的な思い出がある。それはこの川に隣接した「小田原アリーナ」に4年連続に通ったことがある。天井が高くバレーボールやバトミントンの会場には、もっとも適した施設である。
試合開催中に氾濫が起き、釣り人がヘリコプターで救出される出来事が新聞一面トップを飾った。
実はこの川は、結構暴れ川であるらしい。
小田急線・蛍田(ほたるだ)駅が小田原アリーナの最寄り駅だが、「酒匂川」を語るには、黒澤明よりも二宮金次郎(尊徳)が先であろう。
二宮は、この酒匂川の氾濫を契機として一家離散の状態に陥り、その苦難から立ち直る経験を生かして、その後の数多くの「農村復興」をもたらすことになる。
小田急線・蛍田(ほたるだ)駅から二つめの駅「栢山(かやま)駅」から歩いて15分で二宮金次郎の生家に着く。
新幹線の「車窓」で学生時代より記憶に焼き付いているのが、東京圏に新幹線が入ってき、目につくのは川崎や大田区あたりの広大な工場群である。
高いビルはほとんどなく、遠くまで見渡せる。
品川に近づくと高層ビルが増え、田町あたりで一瞬、東京タワーがビルのはざまにみえる。
ここを新幹線は比較的ゆっくりしたスピードで通過し、東京の新橋・丸の内のオフィス街が見える東京駅に到着する。
途中の中小企業群は、まるで日本産業の”肺”であるかのように息づいていたが、グローバル化のもと少なからずアジアへ移転している。
誰かがこの街で何かを作って欲しいというメモを紙飛行機にして飛ばせば、数時間のうちに「完成品」がとどくといわれるほどに、「モノつくり」の精神に溢れている地区ということである。
ただ見た目は小さな工場の集まりのようであるが、こうした小工場の中には産業用ロボットの精巧な部品をつくるなど、世界的な技術を持っていると聞く。
池井戸潤氏の小説「下町ロケット」で、工場群が宇宙産業で使うような精度の高い技術を生み出してきたことはようやく知られているようになった。
さて、東京の羽田空港から都心(品川方面)に向かう京浜急行の「大森町駅」から出発すると、線路沿いに建つ「大森貝塚跡」の石碑が目につく。
そこで大森町駅を降りて線路にそって「大森貝塚縄文庭園」に向かうと、盛土が壁のように囲む廃墟のような場所があり、その中に発見者モースの胸像が建っていた。実際モースは、日本考古学の先駆けとなるこの場所を列車の窓から見つけたのだという。
また「大森海岸駅」に停車した際、列車の窓から「大経寺」という寺がみえるが、ソコにどうにも気になることが書いてある。「鈴が森刑場跡大経寺」。
こんなものを見ると、予定にもなく降車したくなる。
江戸時代に知られた刑場の名前だからだ。
江戸時代に刑場といえば、北の浅草・南の芝、二か所にもうけられていた。
しかし、幕府成立から半世紀がたち人口も増え、刑場付近まで人家が建ち並ぶようになり、ヨリ人目のつかないところに移されることになった。この時、浅草から千住に移されたのが北の「小塚原」で、芝から移されたのが南の「鈴が森」だった。
そして、大森という地名から見て、その森とは「鈴が森」もそれに含まれているのだろう。
その刑場跡地は、大森海岸駅で降りてすぐ第一京浜道路を渡ったところにあった。
1683年3月29日、江戸・鈴ヶ森刑場にて「お七」という女性が火あぶりの刑に処せられた。
江戸の駒込の八百屋の娘お七は、天和の大火(1682年12月の)で焼け出され、一家で菩提寺の円乗寺へ避難したが、そこでイケメンの小姓と出会う。
その小姓の指に刺さった棘を抜いてやったのが縁になり、相思相愛の仲になってゆく。
翌年正月新しい自宅にお七一家は戻るが、お七はその小姓のことが忘れられずに悶々とし、火事になればまた会えると思い込み、自宅に放火をする。
ただし、火をつけたものの怖くなり、自ら火の見櫓に登って半鐘を叩きその結果、実害のないボヤで消し止められた。
しかし、お七の生まれる10年前には明暦の大火(振袖火事)がおきたため、放火は「大罪」であった。
そんな時、お七は放火の罪で捕らえられ、取り調べの奉行がその若さを憐れんで、年少者は罪一等を減じるという気持ちで、お七に「その方は十五であろう」と何度も念をおすが、お七は「十六」と正直に答えるばかりで、ついには鈴が森刑場で火あぶりに処される。
この物語をもとにつくられた曲が坂本冬実の「夜桜お七」(1994年)である。
作詞家の林あまりは、究極の孤独にあっても、自己の意志で貫いて夜桜のように潔く散ろうという女性の姿を描いたのだという。
「鈴が森刑場跡地」には、火炙用の鉄柱や磔用の木柱を立てた礎石などが残されていた。
京浜急行空港線で「大森町駅」から三つめの駅で「大鳥居駅」につく。大鳥居駅は、4人組みバンド「SEKAINO OWARI」のゆかりの地である。
彼らの「原点」となるクラブハウス「クラブ アース」があり、今も存在している。
Fukaseが音楽活動を始めたころ、仲間の集まることのできる拠点を作るために土地を探し、見つけた地下空間に自分達で作業をして作ったのが始まり。
4人は東京大田区蒲田出身で、幼稚園から高校まで友人だった。唯一の女性で、ピアノをひく藤瀬彩織は1年後輩で音楽大学出身である。
さて彼らが活動の拠点とした「大鳥居」の地名の由来は 駅近くの羽田の「穴守稲荷」の鳥居に由来する。
終戦後、アメリカ側は羽田付近の住民を強制退去させ、重機を使って街を更地にした。しかし穴守稲荷の一の鳥居だけは残っていた。
鳥居の移転が何度も取り沙汰されたが、羽田沖日航機墜落事故などの事故がおきたため沙汰やみとなった。
1999年、滑走路拡張に伴い鳥居が一度は多摩川河口に移されたものの、住民の願いからかヤハリこの地(弁天橋交番前)に戻ってきている。
セカオワ誕生の地は、東京で有数のパワースポットの地なのである。
冒頭の薩南の旅の帰り道、薩摩川内から八代駅までの「おれんじ鉄道」に乗って不知火海の沿線を走った。海岸のすぐそばを線路が通り、まるで海の上を走っているかという錯覚に陥った。
夕陽が照らす海はどこまでも静かで美しかったが、1960年代にこの海は有機水銀で汚された海であった。
柳田國男は「旅人の為に」(1934)で、列車の車窓から眺められる全国の絶景区間を列挙して、「この間を走っていると知らずしらずにも、この国土を愛したくなるのである。旅をある一地に到着するだけの事業にしてしまおうとするのは馬鹿げた損である」と述べている。
哲学者の内田樹は「この国土を愛したくなる」感情というのはパトリオティズムであって、目に見える具体的な国土を愛する感情であって、目に見えない抽象的な国家を愛するナショナリズムとは区別されるものだという。
ところが柳田が車窓から見えた絶景を、現在のJR北陸本線の車窓から眺めることはできない。
北陸トンネルが開通し、車窓はトンネルの闇に覆われてしまったからだが、長いトンネルが連続する新幹線では、もはや風景がブラックアウトとなっている。
全国の列車が国家により統一系統に整備され、「車窓」が失われていく過程は、意外にもナショナリズムの異様な高まりと関連していたのかもしれない。