「世界神話」トラバース

世界の神話を、重なる箇所を拠り所に横断しよう。
まずは天地の創生で、「古事記」と「旧約聖書」は、最初に「カオス」(混沌)から始まる。
古事記の冒頭を現代語訳すると「天と地もしっかり固まりきらないで、両方ともただ油をうかしたようにとろとろになって、くらげのようにただふわりふわりと浮かんでいた。その中にちょうどあしの芽がはえ出でるように、二人の神様が生まれた」としている。
つまり「混沌とした世界」にイザナミ(女神)とイザナギ(男神)が生まれる。
一方、聖書の「創世記」には「地は形なく、むなしく、闇が淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた」とあるように「カオスの状態」から始まっている。
そこへ「光あれ」という神の言葉から「天地創造」がはじまる。
「古事記」によると高天原に住むイザナミとイザナギという二神が様々な神々を生むのだが、「火の神」を生んだことで、イザナミは火傷を負い、命を落とす。
「火の神」で思い浮かべるのは、「ギリシア神話」のプロメテウス。
最高神ゼウスが神を人を区別しようとした際、プロメテウスは大きな牛を殺して二つに分け、一方は肉と内臓を食べられない皮で包み、もう一方は骨の周りに脂身を巻きつけて美味しそうに見せた。
そしてゼウスを呼ぶと、どちらかを神々の取り分として選ぶよう求めた。
プロメテウスはゼウスにひと泡吹かせようと思ったらしく、ゼウスは騙されて脂身に包まれた骨を選んでしまう。
それを知ったゼウスは、人間が神よりよいものをとっていいものかと怒り、人類が覚え始めたばかりの火を取り上げる。
プロメテウスは、ゼウスに火を取り上げられ、自然界の猛威や寒さに怯える人類を哀れみ、「鍛冶の神」ヘーパイストスの作業場の炉を点火し、それを地上に持って来て人類に「火」を渡した。
そうして、人類は火を基盤とした文明や技術など多くの恩恵を受ける。
そこでゼウスは、人類に災いをもたらそうと「女性」というものを作るようにヘーパイストスに命令する。
ヘーパイストスは泥をもって彼女の形をつくり、「パンドラ」(パン:すべて ドラ:贈りモノ)という名前をあたえる。
さらに、神々は彼女(パンドラ)に様々なモノのはいった箱を与え、彼女に決して開けてはいけないと言い含めてプロメテウスのもとにおくる。
しかし、最初に出てきたのは、弟エピメテウス(後に考える人の意味)で、兄プロメテウス(先に考える人)の「ゼウスからの贈り物は受け取るな」という忠告にもかかわらず、美しい彼女の虜となって妻とする。
そればかりか、パンドラは好奇心に負けて、おくりモノの箱の蓋を開けてしまう。
するとそこから疫病、悲嘆、欠乏、災害、戦争などなど様々な災いが飛び出した。
それは、人間がようやく取り戻した火と結びついて、自然界になかったものさえも生んでいく。
そういえば1960年代はじめ熊本県の水俣では猫が狂い死にするなど可解な現象が起きていた。
ある町医者は、体の不調を訴えにくる患者を前に診断したことのない症状に不安を抱いていた。
ある日、町医者が友人と囲碁をうっていた時に、友人が「ギリシア神話」の話をした。
村の人々の誰もが憧れる美しい湖に毒が投げ込まれ、村の人々が冒されていく話であった。
町医者はこの話に不安を抱き、熊本大学医学部に相談した。それが熊本大学医学部を中心とした調査により「水俣病発見」につながった。
「海の幸」が有機水銀を含み、このような災いの原因となるとは皮肉である。
ちなみに、記紀神話には、「山幸彦」と「海幸彦」の話が、天孫族と隼人族との争いの中に登場する。
さてギリシア人は、事物の根源に遡って探求しようという人々で、すべてが原子(アトム)で出来ていると考える人さえもいた。
実際、現代に到るまで原子の構造の探求がなされたのは、物理現象や化学現象を解き明かす秘密が隠されていると推測されたからだ。
そして人間は、ほんの微量の原子核には膨大な「核エネルギー」が秘められていることを知り、それをまずは平和のためよりも、戦いのために利用する。
まさに、「パンドラの箱」が開けられた感がある。
ところで、ギリシアの「パンドラ」の物語は、旧約聖書の「人類創生」におけるアダムとイブの話を思い起こす。
神が人間を土から創造する点や、女性の言葉にそそのかされて、神が禁じたことに手を伸ばし、それが災いの元になる点である。
旧約聖書では、エデンの園を追放され人間に「死」が入り込んだ点がもっとも重要だが、その外にも地上はイバラとアザミを生じて男は「働く」という労苦により糧を得て、女は「生む」という苦しみを増す。
さらには、アダムとイブにはカインとアベルの兄弟が生まれるが、兄カインは「嫉妬」にかられて弟アベルを「殺害」に至る。つまり人類に、死・労苦・嫉妬・殺人などが起きていく。
さて、「古事記」における天の神々の出来事は、「地上」の出来事に影響を及ぼしいることがわかる。というより、天上の出来事を「反映」して地上の出来事が起こっているといってよい。
それは、古事記のハイライトである「天の岩戸」の故事に最もよく現れる。
また聖書でも、天の出来事(霊界)と地の出来事(この世)が繋がることが示される。
新約聖書の中に「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタイ18章)とある。
また、「みこころが天に行われるがごとく、地にもおこなわれますように」(マタイ6章)という一節が「主の祈り」の中にあることでもわかる。
さて、古事記における「天の岩戸」の故事とは、前述のイザナキとイザナミの後半部分の展開である。
火傷を負ったイザナミが死んだあと、イザナキは妻に会いに「黄泉の国」へと向かう。
しかしイザナキは、妻が絶対に自分の姿を見てはならぬという約束を破って、その醜い姿を見てしまったことが永遠の別れとなってしまう。
妻から遣わされた悪鬼に追われ、命からがら地上に戻ったイザナキが「穢れ」を落とそうと河で禊をした時、アマテラス・ツキミヨ・スサノオの三神が生まれる。
スサノオヲは、海や地を収めるように命じられていた。母を失ったせいか、どうしようもない乱暴者で、仕事もせず周りの者を困らせてばかりいた。
あまりの傍若無人さに遂にはその地を追われ、スサノオは姉のアマテラスの元に向かう。
「高天原」を治めていたアマテラスは、「高天原」を奪いにきたのでは、と警戒する。
そこでスサノオは身の潔白を証明するために、互いの持ち物を交換してそれぞれに神が生まれたら邪心がないという誓約をした。
まずアマテラスが「スサノオの剣」を三つに折り、天の真名井の水とともに噛み砕いたものを吐き出すと「女の三神」が生まれた。
この三神が我が地元・福岡県「宗像の三女神」である。
次にスサノオが「アマテラスの髪飾り」の珠を同様に噛み砕き吐き出すと「男の五神」が生まれた。
スサノオは、これにより「潔白」と証明されたと言いはり、高天原に居すわってしまう。
ところが高天原でもスサノオの乱行は変わらず、アマテラスは嘆き・怒り、ついいは「天の岩戸」にひきこもり、入り口を大岩で「閉ざし」てしまった。
「太陽の神」が隠れてしまったことで世界は闇となり、さまざまな「禍い」が生じるようになる。
困り果てた八百万(やおよろず)の神々は「天の安河原(あまのやすかわ)」に集まり相談をして様々な儀式を行った。
常世の「長鳴鳥」を集めて鳴かせ、「八咫鏡(やたのかがみ)」・「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」ナドを作り供え、祝詞を唱えた。
そしてアメノウズメノミコトが岩戸の前で、足を踏み鳴らし胸をはだけ袴まで押し下げて舞い踊ったところ、八百万の神は笑い転げ、その声は高天原中に鳴り響く。
そしてついに、アマテラスが好奇心に負けて天の岩戸を開くや、神々は鏡を持ち出しアマテラスは自らの姿に惹き出され天の岩戸をでる。
そして地上には太陽の陽が戻り、スサノオは地上へと追放される。
さて聖書では諸々の霊が住む「第一の天」、天使の住む「第二の天」、神が住む「第三の天」というものが存在している。
あえていえば、スサノオのようにより高い天から追放されたような「霊」が住むところがこの地上が属する「第一の天」である。
パウロは「わたしは14年前に第三の天にまで引き上げられたひとりの人を知っている」(コリント第二13章)と語っているが,実はこの「ひとりの人」とはパウロが自分のことを婉曲に語っているである。
そして「古事記」、創造神イザナギやイザナミが住む「高天原」、そして高天原と地上との間の「葦原中国」というような第二の天のゴトキものがある。
そこにに住まう神々の性格からして、それは「神々の位階」を示しているのではなかろうか。
また、日本では「天が開く/閉じる」といいう言い方は雨乞いの時などに使われるが、聖書にもこの言葉は頻繁に登場する。
また、天が開けて梯子が下りたように「天使」が上り下りする場面がある。
ヤコブが荒野で過ごした時ある場所に着き、石を枕に寝ようとしたところ夢か幻をみる。
「ひとつのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使いたちがそれを上り下りしているのを見た」(創世記28章)。
伊勢神宮の「式年遷宮」には、「天の岩戸」の故事をおりこんだ儀式であることを知った。
また「天戸が開く」ということは旧約聖書「創世記」のマナという食べ物にみるとうり、「神の恵み」が天から降りることに近いものがある。
特に申命記28章には、「天が開いた」時の「恵み」と、「天が閉じた」時の災いが鮮やかなコントラストをもって描かれている。

旧約聖書の「バベルの塔」は、天に昇ろうとした人類が神の怒りをかい、言葉を乱され地上に散って暮らす話である。
「ギリシア神話」には、太陽に向かって飛んで、"ろう”で塗り固めていた体ともに溶け落ちた神「イカルス」の話がある。
さだまさし主演の「飛べイカルス」は、ピエロを演じる青年が子供たちを喜ばそうと難度の高い業に挑んで、ついには墜落死する。
しかし、子どもたちを悲しませまいと、別の団員がピエロに扮装して現われる実話に基づく話である。
他にも、「ギリシア神話」の英雄「アキレス」の弱点(アキレス腱)と、旧約聖書に登場する怪力男サムソンの弱点が重なる。
サムソンは「髪の毛」を切られると力を失うが、敵が遣わした美女「デリラ」にその弱点をつかれる。
旧約聖書「創世記」のヤコブ(イスラエル)の末っ子ヨセフは、「兄たちが自分のもとに来て頭を下げる」という預言をそのまま語ってしまい、兄たちの怒りをかって荒野に連れられライオンがやってくる穴に投げ込まれる。
死んだかと思われたヨセフだが、ラクダの商人に拾われ神の恵みをえてエジプトの宰相となる。
そこにパレスチナは飢饉に襲われ、食糧を請いにエジプトを訪れたヤコブとその兄弟達は、それと気付くことなくヨセフと再会し、かつてあった「兄は弟に頭を下げる」という預言が実現する。
最後は父子と兄弟の感動的な再会の話だが、「ギリシア神話」の「オイディプス王」は父母と悲劇的な再会をする。
古代ギリシャの都市テーバイで、「アポロンの神託」が下される。
ライオス王が妃イオカステとの間に男子が出来たら、ライオスはその子によって殺され、イオカステはその子に犯されるだろうという恐ろしい予言だった。
ところが、子どもが出来てしまったため、「アポロンの神託」を恐れたライオスは、牧人に命じ、山中に捨てさせた。
ところが、牧人はその赤子を哀れに思い、コリントスにいた羊飼いにあずけることにした。
その羊飼いは、コリントスの王ポリュポスに仕えていたので、このことを王に話した。
こうして、赤子はコリントス王のもとで育てられた。子に恵まれなかったコリントス王ポリュポスと妃メロペは、その子を実の子のように慈しみ育てた。
オイディプスは、コリントス王の王子として育つが、それを妬んだ友人に「偽りの子」とののしられる。
自らの出生を怪しんだオイディプスは、「アポロンの神託」にその真偽を問おうとするが、その答は得られない。
その代わり、彼が故郷に帰れば、父を殺し、母と交わるだろうと告げられた。
オイディプスは「親と信じる」コリントス王とその妃を敬愛していたので、予言が成就されぬよう、コリントスに帰らず、テーバイに向かう。
その途中、オイディプスは戦車にのった老人の一行に出くわす。双方が道を譲らず争いになり、オイディプスはこの老人を殺してしまう。
実はこの老人こそ、オイディプスの実父テーバイ王ライオスであった。かくして、「第1の予言」は成就される。
オイディプスがテーバイに着くと、町はスフィンクスの災難に悩まされていた。
スフィンクスは女の顔に、ライオンの身体、鷲の翼をもち、テーバイの国境に居座り、市民に「謎かけ」をしてそれが解けないとそれを喰らう怪物。
オイディプスが来た時の「謎かけ」は「声は1つながら、4本足、2本足、3本足となるものは何か?」であった。
オイディプスは、「それは人間である。生まれたときは4本足で、成人して2本足になり、老いると杖をついて3本足となる」と謎をとく。
それに驚いたスフィンクスは、崖から転落して命をおとす。
テーバイを災難から救ったオイディプスは、新しい王として迎えられ、死んだライオス王の妃イオカステを娶り、2男2女をもうけた。かくして「第2の予言」も成就された。
しかし、その事実に誰も気づくこともなく、テーバイの町は平穏に過ぎていく。
ところがある時、テーバイで疫病が発生した。大勢の人が死に、大地も家畜も人も、何も産まなくなった。
オイディプス王は、「アポロンの神託」を得るため、妃の弟であるクレオンをデルフォイにつかわした。
そしてクレオンはそこで驚くべき神託を得る。
「テーバイで、ライオス王殺しの犯人がまだ罰せられずにいるから、災難がおきるのだ。地の汚れを払うため、ライオス王殺しの犯人を罰せよ」。
やがて、盲目の予言者ティレシアスが呼ばれ、彼はオイディプス王こそがその犯人であると告げる。
オイディプス王は、これは王位を狙うクレオンの謀略だと考え、予言者ティレシアスを追い返す。
やがて、殺されたライオス王の一行で逃げのびた男が帰ってきた。かつてライオス王にオイディプスを捨てるよう命じられた牧人で、牧人はオイディプス王こそ紛れもなくライオスの子であると告げる。
次々と秘密が明らかになって、悲嘆した母であり妻でもあるイオカステは寝室で首を吊って死ぬ。
すべてを知ったオイディプス王は、自らの手で両目を突き刺して潰し王位を退き、娘のアンティゴネに手を引かれ諸所をさまよううちに死んでしまう。
ギリシア悲劇「オイディプス王」では、人間が逃れられぬ「運命」というものを感させる。
だがオイディプスはどうして自ら両目を潰したのか。
「見ゆるところ」に欺かれ続け、何も真実を知ることの出来なかった自分を呪ったのかもしれない。

そのとき、コリントスから使者が到着した。この使者は、昔、テーバイの牧人から受け取ったオイディプスをコリントス王に預けた羊飼いだった。
使者は、コリントス王が死んだので、帰国して王位に就くよう、オイディプス王に願い出る。
しかし、オイディプス王は、先のアポロンの神託が気がかりだった。
コリントス王は死に、父王を殺すことはないが、母と交わるという予言はまだ生きている。そのことを告げた上で、オイディプス王は帰国を断った。
それを聞いた羊飼いは、「自分がテーバイの牧人からオイディプス王を渡され、コリントス王に預けたのだから、コリントス王妃はオイディプス王の実の母であるはずがない」とうち明ける。
水俣病・加害者側の罪の深さは、当初調査した東大医学が企業側に都合の良くデータをまとめ、当時の超一流企業チッソの幹部は東大出身者が多く、官僚ともども有機水銀による汚染を隠蔽したことである。
これによって水俣病の発見が遅れ、救われるべき多くの命が失われた。成長と環境、中央と地方、官僚と草の根、人間の尊さと浅ましさなど、様々な問題を提起したシンボリックな事件であったと思う。
日本国憲法13条に「幸福追求権」があるが、「幸福を追及する権利」などというものをわざわざ規定するとは奇妙な権利である。
幸せの追及なんてわざわざ憲法で定めなくても、生命や財産の所有以上に当たり前の権利ではないのか、と思ったからである。
学問の自由、信教の自由、表現の自由、結社の自由いずれも「幸福の追求の権利」であるのだし、わざわざこのような具体性をかく権利を憲法に取り入れる必要が、どこにあったのだろうかと思った。
日本国憲法は、欧米の憲法のエキスを集大成したような「マッカーサー草案」をベースとして作られたものであるから、1776年アメリカ独立宣言「生命、自由および幸福の追求」にそれがあり、さらにその淵源であるフランス人権宣言にもあった。
「幸福を追求する権利」のことを考えていると、古代ギリシアの「知られざる神」というものを思い浮かべた。
古代ギリシアは多神教の社会で、美の神、戦いの神、自然の神など色々あって、人々はそれぞれの願いをもってそれぞれの神々に願ったのである。
憲法条文の「権利」のところにこうした「神々」と入れ替えて、学問の神に、表現の神に、結社の神にすると、人々はそれぞれの神に祈りつつ「幸せ」を引き出すということになる。
ただギリシア人にとって自分たちがまだ知らない神様がいるかもしれないということで、その他諸々をまとめて「知られざる神」として祭壇をもうけたそうだ。
日本国憲法の「幸福追求の権利」も、将来日本国憲法に羅列された数々の人権では対応できない知られざる権利をひとまとめにして、「幸福追求の権利」とした感がある。
憲法の解説書によると、こういう権利のことを「包括的権利」というらしい。
実際に世の中の進展とともに、この「幸福追及権」を根拠に、「環境権」「プライバシーの権利」「知る権利」「肖像権」「日照権」「眺望権」「嫌煙権」 「愛煙権」「情報権」「アクセス権」「平和的生存権」 などが派生し主張されるようになった。

唐突に思い浮かべるのは、 シンクロナイズドスイミングの小谷実可子さんの体験談を思いおこした。
なぜなら小谷さんの話の中で、競技中の演技の好・不出来が人智を超えた要素で左右されることを教えてくれたからだ。
小谷さんのアスリートとしての演技の中で、「水と一体化」するような体験が二度ほどあったという。
通常の演技では心の中で審判に点数をもらう為にああしよう、こうしよう、ここでアイキャッチしよう、など色々思っている自分がいる。しかし或る時、青い空にエネルギーをもらって動いている感じで、水中で息を止めてもまったく苦しくはなく幸せでしょうがない時間があった。
演技が終わってもほとんど疲れがなく、しかもこの時人生で最高得点をとって優勝したという。
小谷さんにとっての人生の転機は、ソウルオリンピックの後、野生のイルカと出会ったことであった。
オリンピックの後、小谷さんの演技をテレビで見ていた全く知らないアメリカ人から電話があった。
男は「君の演技は素晴らしいが、水の中には君よりももっと美しく泳ぐものたちがいるから会いに行こう」と誘われた。
お節介にも毎年ように電話をかかってきて「シンクロが全てじゃない」と言われた。ずっと疎ましくと思っていたが、次のバルセロナオリンピックでは補欠にしかなれなかった。
後輩の奥野史子との壮絶な本番出場争いに敗れて身も心も傷ついていた。何しろ本番出場2時間前までどちらがデュエットに出場させるかコ-チ陣は迷っており、本番わずか二時間前に「試験演技」をさせて奥野・高山組で出場することが決まった。奥野・高山組はその時、銅メダルをとっている。
その後小谷さんは「シンクロだけが全てじゃない」という言葉を思い出し、1993年あの男がいうとおり夏にイルカを見にバハマに行った。
そしてイルカと並走して泳いだ時に体の中に電流のようなものが走ったという。海と一体化し自分のちっぽけさを知り幸福感に浸り、人生観が変わった。
イルカはこちらの心の持ちようで「親しみ方」が違うのだそうだ。それからはイルカと対面するためにいつもピュアな気持ちでいようと心がけるようになったという。
小谷さんの体験は、ドルフィン・ヒーリングなどといった体験よりもさらに深い実存的なものであったように思う。オリンピックの代表争いなど自分を大きく強くしようともがき奮闘してきた。世にある限り様々な競争やシガラミに巻きとられてきた自分を見つめなおした。
小谷さんの幸福感には、自分の「ちっぽけさ」の体験がある。ただそれは、自分がイルカを通じて圧倒的に大きなものの一部であるという認識だった。
今の我々はこうした根源的体験から、あまりにも遠い処に生きていように思う。
ところで小谷さんがイルカと泳いだ時、オリンピックの金メダリスト・マット・ビョンディも共にいたそうだ。小谷さんがシンクロの最中に水と一体化した体験を語ると、ビョンディも同じような体験を語った。
クイックターンで壁を蹴って折り返した途端に、何かポンと自分が離れたような感覚になって、斜め後ろから自分の泳いでる姿ずっと見ていたという。
そして最後にゴールタッチする時に、フッと自分自身に戻って電光掲示板を見たら、世界新記録がでていたそうである。
その時、小谷さんは、ビョンディとこの話をする為にバハマに来たと思ったという。さらにオリンピックに出たのもイルカと出会うためかと思ったそうである。つまり彼女はメダルを取るより尊い体験をしたのだった。
小谷実可子さんは、かつてテレビの取材でギリシャに行ったことがある。
ギリシャの島の壁画にイルカと共存していた人の絵があるのを見た体験を思い起こし、自分はるか以前から目に見えぬ力でイルカと出会うべく導かれていたのかもしれない、と語っている。

アインシュタインの有名な言葉に「神はサイコロを振らない」という言葉がある。
この言葉は「量子力学」を批判して使った言葉だが、アインシュタインの「等価原理」を当てはめると、人間にとって「偶然」に見えることでも、神の側にたてば「必然」ということにもなりうる。
シンクロナイズドスイミングの小谷実可子さんの体験談を思いおこした。
なぜなら小谷さんの話の中で、競技中の演技の好・不出来が人智を超えた要素で左右されることを教えてくれたからだ。
小谷さんのアスリートとしての演技の中で、「水と一体化」するような体験が二度ほどあったという。
通常の演技では心の中で審判に点数をもらう為にああしよう、こうしよう、ここでアイキャッチしよう、など色々思っている自分がいる。しかし或る時、青い空にエネルギーをもらって動いている感じで、水中で息を止めてもまったく苦しくはなく幸せでしょうがない時間があった。
演技が終わってもほとんど疲れがなく、しかもこの時人生で最高得点をとって優勝したという。
小谷さんにとっての人生の転機は、ソウルオリンピックの後、野生のイルカと出会ったことであった。
オリンピックの後、小谷さんの演技をテレビで見ていた全く知らないアメリカ人から電話があった。
男は「君の演技は素晴らしいが、水の中には君よりももっと美しく泳ぐものたちがいるから会いに行こう」と誘われた。
お節介にも毎年ように電話をかかってきて「シンクロが全てじゃない」と言われた。ずっと疎ましくと思っていたが、次のバルセロナオリンピックでは補欠にしかなれなかった。
後輩の奥野史子との壮絶な本番出場争いに敗れて身も心も傷ついていた。何しろ本番出場2時間前までどちらがデュエットに出場させるかコ-チ陣は迷っており、本番わずか二時間前に「試験演技」をさせて奥野・高山組で出場することが決まった。奥野・高山組はその時、銅メダルをとっている。
その後小谷さんは「シンクロだけが全てじゃない」という言葉を思い出し、1993年あの男がいうとおり夏にイルカを見にバハマに行った。
そしてイルカと並走して泳いだ時に体の中に電流のようなものが走ったという。海と一体化し自分のちっぽけさを知り幸福感に浸り、人生観が変わった。
イルカはこちらの心の持ちようで「親しみ方」が違うのだそうだ。それからはイルカと対面するためにいつもピュアな気持ちでいようと心がけるようになったという。
小谷さんの体験は、ドルフィン・ヒーリングなどといった体験よりもさらに深い実存的なものであったように思う。オリンピックの代表争いなど自分を大きく強くしようともがき奮闘してきた。世にある限り様々な競争やシガラミに巻きとられてきた自分を見つめなおした。
小谷さんの幸福感には、自分の「ちっぽけさ」の体験がある。ただそれは、自分がイルカを通じて圧倒的に大きなものの一部であるという認識だった。
今の我々はこうした根源的体験から、あまりにも遠い処に生きていように思う。
ところで小谷さんがイルカと泳いだ時、オリンピックの金メダリスト・マット・ビョンディも共にいたそうだ。小谷さんがシンクロの最中に水と一体化した体験を語ると、ビョンディも同じような体験を語った。
クイックターンで壁を蹴って折り返した途端に、何かポンと自分が離れたような感覚になって、斜め後ろから自分の泳いでる姿ずっと見ていたという。
そして最後にゴールタッチする時に、フッと自分自身に戻って電光掲示板を見たら、世界新記録がでていたそうである。
その時、小谷さんは、ビョンディとこの話をする為にバハマに来たと思ったという。さらにオリンピックに出たのもイルカと出会うためかと思ったそうである。つまり彼女はメダルを取るより尊い体験をしたのだった。
小谷実可子さんは、かつてテレビの取材でギリシャに行ったことがある。
ギリシャの島の壁画にイルカと共存していた人の絵があるのを見た体験を思い起こし、自分はるか以前から目に見えぬ力でイルカと出会うべく導かれていたのかもしれない、と語っている。

人間は生活のために「労苦」するであるが、「喜び」や「生きがい」のためにも働くものである。
そして前者に偏るか、後者に偏るかは、各国各民族の「労働観」にサによる部分が大きい。
ラテン民族の労働観は、「天の召し(選び)」と「労働」を結びつけたプロテスタンテイズムの国々、儒教倫理と労働を結びつけ、「お茶くみ道」から「窓拭き道」まで「道」にまで高めた日本人のソレとは随分違うようだ。
あんまり宗教的なことを持ち出すまでもなく、「マズローの心理学」でいう「社会的な認知欲求を満たす」というのが、我々に一番よく実感できる「労働観念」ではなかろうか。
しかし世界には、「ナゼ働かないのか」と問いよりも、「ナゼ働くのか」という問いの方が自然な「国民性」というものがある。
つまり「労働」に士気高揚というものを必要としない国民性である。
例えばギリシア人は古代から生活の中で「テオーリア」(観想)を重視し、労働を「奴隷の仕事」と思っていた。
アテネでは市民の4倍もの奴隷がおり、ギリシア民主主義の実態は「奴隷制の土壌」に咲いた蓮の華のようなものだった。
そんな社会で、市民にとっての労働には、「刑罰」というほどの意味を持っていたのである。
真理について考えたり徳を実践したりするための貴重な時間も、農作業という苦役のために、大半を費やされてしまい、少しも人間性の向上には有益ではない、というわけだ。
絶え間なく生成をくり返す世界のにあって、変化を回避して「不変の」自分探しに没頭すべく、独自の魂の奥底にヒキコモルことこそが、ギリシャ人の理想の生きかたであった。
「肉体労働」は魂と物質を混同し、物質との接触で魂を汚すことによって、イデアの視野から魂を遠ざけてしまう。
それゆえに労働は不可避的な悪徳であり、可能な限り「排除」すべきものであった。
あのプラトンでさえもが、勤勉に働くものに対して「彼らに生きている価値があるといえるだろうか」などと述べているのである。
また、同じ「働く」といっても、資本家に拘束され「奴隷的」に働く場合もあれば、自然の営みの中で何の「拘束」を受けることなく働く場合もある。
前者を仮に「賃金労働」とよび、後者を「自然労働」とよぶならば、南米のイスパニオラ島の原住民は、両者の「性格」を考えさせられる恰好の材料を提供してくれている。
コロンブスがイスパニオラ島の原住民に「奴隷制」を導入するのはいとも簡単なことであった。
彼らは「武器」で戦うことを知らなかったので、白人の言うことをイトモ簡単に聞いたのである。
ところが、彼らは全くプランテーション労働に全く向いていなかった。どんどん死んでいくのである。
病気で死ぬ。うつ病になる。反抗ではないが、座り込んで死ぬまで動かない。
子供を奴隷にするくらいならば、いっそ子供はつくらない。
「少子化」がおき、原住民は100年後に完全に滅んでいった。奴隷労働を期待したコロンブスの目論見は見事に外れたのである。

人は「見ゆるところ」に欺かれやすく、真実に近づくのに、目隠しをした方がいい場合さえある。
、 古今東西の物語の中には、数多くの「視力喪失者」の話が登場するのも、作者の中にそんなハカライがあるからではなかろうか。
古代イスラエルの系図は、アブラハム・イサク・ヤコブと続く。そして、ヤコブ(イスラエル)には12人の子がいて、その下から二番目がヨセフ。
ヨセフはヤコブが年老いて出来た子なので、ネコっかわいがり。
そんなヨセフは、あるとき夢をみた。それも繰りかえしみる夢だという。
畑で束を結わえていると、ヨセフの束が起き上がって、兄たちの束がまわりに来て、ヨセフの束を拝んだという夢である。
普通なら、こんな夢は胸にしまっておくのだが、ヨセフはよほど世間知らずなのか、その夢を兄弟たちに語って聞かせた。
それは当然に兄弟を不快にさせ、彼らは「おまえはわれわれの王になるというのか。実際われわれを治めるつもりか」と怒った。
そして、兄弟達はヨセフを陥れる計略を行う。
荒野を遊牧していた時、ヨセフを落とし穴に落とした。そして父ヤコブに切り裂かれた服を見せて、ヨセフがライオンに食われたと嘘の報告した。
ヤコブは、誰も慰めることができぬほどの悲しみを味わった。
しかし、死んだと思われたヨセフは生きていた。ラクダの隊商に発見されエジプトの役人に売られていたのだ。
その売られた先で、ヨセフは特異な能力を発揮して主人の信任を得て、重用されるようになる。
ところがまたもや"落とし穴"が待ち受けていた。
主人の妻に誘惑され、それを拒んだヨセフはその女の虚言により主人の怒りを買い、獄屋につながれるハメに陥る。
ところがある時、同じく獄屋に繋がれていた王家の料理番が奇妙な夢を見てふさいでいた。
そこでヨセフがその夢を解き明かす。それによれば、料理番の罪なきことが明らかとなって解放される夢だった。
実際、彼はヨセフの解き明かしどおりに獄屋より釈放される。
その料理番は、ヨセフに大いに感謝して王へのとりなしを約束するが、無情にもヨセフのことをすっかり忘れてしまう。そして、2年の月日が経過する。
ところがまたある時、エジプト王が7頭の肥えた牛と7頭の痩せた牛が現れる夢を見て不安に慄いていた。
そのことを知った料理番は、ようやく獄屋に繋がれたヨセフのことを思い出し、王にヨセフの特異な能力について語った。
ヨセフは、王の夢の解き明かしのために獄屋から出され、王の夢がエジプトにまもなく起こる7年の豊作と7年の飢饉を示すものであることを解き明かした。
そして、ヨセフの解き明かしに基づいて豊作の7年間に備蓄を行い、それに続く7年間の飢饉を乗り越えることができたのである。
この功績により、ヨセフはエジプト王の信任を得て、ユダヤ人でありながらエジプトの宰相となる。
奴隷として売られ、獄中生活から解放されて「宰相」となった時、ヨセフはすでに30歳になっていた。
さて、7年間の飢饉はヨセフの家族が住むカナン(パレスチナ)の地にも及んだ。
ヨセフの父ヤコブとヨセフの兄弟たちは、「エジプトの備蓄」のことを知り、食糧を買うためにエジプトの宰相に面会を求めた。
その宰相とは、誰あろうヨセフ。それとは知らぬ兄弟達は、地にひれ伏して彼を拝んだ。
その時、ヨセフは20年も前に故郷で見たアノ夢が現実になったことを知る。
そしてヨセフは、扉ごしに兄弟達が弟に犯した罪の「報い」だ語り合っているのを聞いて号泣した。
それでも宰相ヨセフは、素知らぬ顔をして、残してきた幼い弟を連れてくるように命じた。
そして幼い弟をつれて再び、エジプトの宰相(ヨセフ)を拝んだ。
ところが意外や、宰相は「あなた方の父は、その老人は無事か」とその安否を問い、彼らを食事の席に招いた。
そこでヨセフは自分を制しきれず、ついに「わたしは弟のヨセフです。あなた方がエジプトに売ったヨセフです」と語った。
兄弟たちは、ヨセフを陥れた罪につき、ひれ伏して詫びるが、ヨセフは兄弟に対して「恐れることも、悔やむこともありません。神が命を救うために、先にわたしをエジプトにつかわされたのです。ききんはなお五年は続きます。帰って父に告げなさい。ためらわずにエジプトに下ってくださるように。わたしが家族も家畜も、すべてのものを養いましょう」と語った。
そしてヨセフは同じ母親(ラケル)をもつ幼い弟を抱きしめて泣き、他の兄弟たちとも抱きあって口づけをした。
兄弟たちは父のもとに帰り、すべての事情を話した。
ヤコブは気を失うほど驚き、なお信じられず、わが子の数々の贈り物を見て、ようやくそれを信じた。
そしてヤコブはエジプトに向かい、一族は、再会を果たして抱きあった。
さて、ヨセフが兄弟に対して恨みをおくことがなかったのも、すべての神の計画と配慮のもとに行われたことを知ったからだ。
しかし、ヨセフは無罪のため合計13年間獄屋に繋がれ、助けを頼んでおいた料理人が自分のことを忘れるなど、あまりにも無情な時の経過のように思える。
だがヨセフは「夢見る人」(創世記37章)であった。幻を見る人であるばかりか、それを信じられる人であった。
聖書は「遅くあれば、待つべし」(ハバクク書2章)といい、「信仰とは、望んでいることがらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」(ヘブル人への手紙書11章)と語っている。

ピエロが主人公の映画「翔べイカロス」(1980年)。
さだまさし演じる主人公の栗原徹は写真家をめざして被写体になる素材を求め、サーカスに写真を撮りにきたのだが、サーカス団で働く人々に魅せられ、頼み込んで働かせてもらうことにした。
そして栗原は、サーカス暮らしの中で次第に芸の魅力にとりつかれ、「ピエロ」という生き方を愛するようになる。
そして、当時日本のサーカスではまだ幕間のツナギでしかなかった「ピエロ」が主役になり得るのではないかと思うようになる。
そして先輩のピエロ役に教えを請うて練習をし、綱渡りや曲芸など、コミカルなだけではない「ピエロ像」を創作していく。
また、厳しい訓練を重ね、高綱渡りの曲芸に観客の拍手と歓声が贈られたとき、彼は生きていることを実感する。
彼は大人気となり、ますます難しい危険な演技に挑戦するようになっていく。
しかしある日、彼は非常に難度の高い綱渡りの最中に落下。テントに観客の悲鳴が鳴り渡り、凄惨な現場を子供たちに見せないために、照明が消される。
舞台裏に運ばれた栗原は、息も絶え絶えに「子供に知らせないで欲しい」と語った。
栗原の心を理解した同僚の団員が、急いで栗原の扮装に着替え、メイキャップして舞台に飛び出した。
落下して負傷したのかと思いきや、ピエロが元気に飛び出してきたので、観客は「演出だったのか」と歓声があがる。
しかしその夜、病院で栗原は亡くなる。ラストに流れた、さだが歌う「道化師のソネット」は、この実話に基づく物語をいやがおうにも盛り上げた。
「ピエロ」を主役にしようとして落下した栗原は、「イカロス」のような存在であった。