聖書の言葉から(十人の乙女)

イエスのたとえ話に「10人の乙女」の話がある。
「そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。 花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。 夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。 ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。 だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである」(マタイ福音書25章)。

芥川龍之介が書いた短編の多くは、仏教説話からとっているが、「蜘蛛の糸」をはじめ、なぜか聖書を思い起こさせるものが多い。
「蜘蛛の糸」のあらすじは次のとおりである。
「地獄で苦しんでいた犍陀多(かんだた)という悪党にも一つだけ善行をしたことがありました。それは、地面を這っていた蜘蛛を踏み潰すのを思いとどまったということです。それで、お釈迦さまは、極楽から蜘蛛の糸をたらしてやり、犍陀多は、その糸にすがりついて極楽に上って行きました。ところがふと下を見ると、自分の後から沢山の人が登って来るのです。犍陀多は、それでなくとも切れそうな蜘蛛の糸ですから、みんながぶらさがったら、切れてしまうと思い、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は俺のものだ。お前たちは一体誰に尋いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」と喚きました。と、その途端に、今まで何ともなかった蜘蛛の糸が、急に犍陀多のぶら下っている所から、ぷつりと音を立てて切れ、あっという間にくるくるまわりながら、みるみるうち中に暗の底へ、まっさかさまに落ちてしまいました」。
実は「蜘蛛の糸」という作品は、芥川が「ルカの福音書」を読んだ後に書かれたものだという。
それは、よく知られた「金持ち主人と貧民ラザロ」(同16章)の話だが、ラザロは天に迎えられ、金持ちは地獄で苦しんでいた。
金持ちがこんな苦しい思いをするなら、ラザロをこの世に送って家族にここに来ないように伝えてくれというと、神様は「もし彼らが、モーセと預言者に耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう」と応じる話である。
実は「蜘蛛の糸」を読んで、個人的に思い浮かんだのはこの「金持ちとラザロ」の話ではなく、冒頭で紹介した「10人の乙女」のたとえ話だ。
両者はかなり違った話のようだが、少し補足すると、いくらか近づいてくる。
第一に新約聖書では、イエスが「花婿」、教会が「花嫁」に譬えられている。聖書は「花婿キリストは犠牲的に愛をもって教会を花嫁として選ばれました」(エペソ人への手紙5章)としている。
第二に、キリストの再臨とは、花婿(イエス)と花嫁(信者)が出会うことであるが、それは「花嫁」が天に引き上げられる「携挙」によってなされる。
聖書は「主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会う」(テサロニケ人への第一の手紙4章)としている。
第三に、思慮深い乙女がもった「油」が「聖霊」を指すと推測できる。それは、「キリストの聖霊を持たない者は、キリストに属していません」(ローマ人への手紙8章)から知ることができる。
以上のように、命綱たる「糸」を「聖霊」と置き換えてみると、キリスト教の再臨における信徒の「携挙」の場面と重なる。
これは芥川の作品云々というより仏教とキリスト教には案外似た要素があるということにほかならない。
他に仏教で、キリストの「再臨」場面を思いこさせるものといえば、なんといっても「高野山阿弥陀聖衆来迎図」をはじめとする「来迎図」ではなかろうか。
ところで、世界には文化的交流はなくても、不思議に似た文化というものがある。
特に、神話や民話ではそれがみられるもので、心理学者のユングは「集合無意識」の存在を指摘している。
例えば、岡本太郎は、「美の世界旅行」のなかで、スコットランドなどのケルト文化と日本の縄文文化につき次のような指摘をしている。
「地球の反対側と言っていいほど遠く離れているし、時代のズレもある。どう考えても交流があったとは思えない。そして遺物も、一方は狩猟・採取民が土をこねて作った土器だし、片方は鉄器文化の段階にある農耕・牧畜民のもの、石にほられたり、金属など。まるで異質だ。しかし、にもかかわらず、その両者の表現は双生児のように響きあっている。まったく想像を超えた不思議な相似である」。
この岡本氏が指摘する点につき、個人的にも思いあたることがある。
「ペイズリー」とは、インド北西部のカシミール地方で織られたカシミア・ショールに付けられたパターンが起源だが、19世紀にヨーロッパでカシミア・ショールの模造品が作られるようになった。
その代表的生産地こそがスコットランドの町「ペイズリー」なのである。
スコットランドといえば、ケルト文化圏にありハローウインやスコッチウイスキー、タータンチェックなど独自の文化で知られる。
実は「ペイズリー」のカタチ、我々日本人にとって馴染みがある。日本の古墳で時折発掘される装身具の代表「勾玉 (まがたま)」と実によく似ている。

エーゲ海南東部に「パトモス島」という小島がある。ローマ時代・紀元94年ドミティアヌス帝によりイエス・キリストの弟子であったヨハネがこの島に流刑となった。
島の洞窟に身を置いたヨハネは、あるとき神の啓示を受け、弟子とともに『黙示録』を著したといわれる。
その中に、「四人の天使」(ヨハネ黙示録8章)というものが登場する。
「この後、わたしは大地の四隅に四人の天使が立っているのを見た。彼らは、大地の四隅から吹く風をしっかり押さえて、大地にも海にも、どんな木にも吹きつけないようにしていた。わたしはまた、もう一人の天使が生ける神の刻印を持って、太陽の出る方角から上って来るのを見た。この天使は、大地と海とを損なうことを許されている四人の天使に、大声で呼びかけて、こう言った。"我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならな"。わたしは、刻印を押された人々の数を聞いた。それは14万4千人で、イスラエルの子らの全部族の中から、刻印を押されていた」。
さらに聖書は「14万4千人」の内わけについて、イスラエル12部族それぞれ1万2千人(合計14万4千人)と具体的に示している。
ところで、イスラエルの12部族とイエスの弟子12使徒の数が一致しているのは不思議といえば不思議。
偶然かと思っていたら、新約聖書に次のような言葉を見出した。
「12人の使徒たちは12の玉座に座り、イスラエルの12部族を裁く」(マタイ福音書19章)。
ところで仏教寺院を訪れると、山門を入ってすぐの建物の中に甲冑を身にまとい恐ろしい形相で見下ろしてくる「四体の仏像」に気がつく。
彼らは仏教の護法神で、「四天王」と呼ばれている。
四天王は「帝釈天」につかえ、それぞれ須弥山の東西南北の門を守るものとされ、それぞれ「持国天」「広目天」「増長天」「多聞天」という名前を持つ。
ちなみに、寅さんの映画で有名な葛飾柴又の「帝釈天」はどのような神であるか。
もともとはインドの古聖典「リグ・ベーダ」に現われるインドラ神(雷神)で、仏教に入ると「梵天」とならび称される仏教の守護神である。
「四天王像」は一般に甲冑を身にまとい、剣や戟などの武器を持ち、足下に「邪鬼」を踏みしく武将の姿であらわされ、寺院の金堂や本堂などの須弥壇、また寺院の入り口を守る四天王殿や石窟の前室などに四人一組であらわれることが多い。
この四天王の中で、北方を守る「多聞天」は別名を「毘沙門天」といい、単独の神格としても篤く信仰を集め、中国大陸から日本列島に至る広い地域で多くの「毘沙門天」像が制作されている。
実は、個人的には東大寺「戒壇院」で見た「四天王像」の恐ろしげな表情よりも、むしろその足元の4体の「邪鬼」のなんともいえない表情が心の奥深くに迫るものがあった。
これら毘沙門天を含む四天王の起源は仏教成立以前のインドに求められる。
古代インドの四大ヴェーダの一つ、「アタルヴァ・ヴェーダ」や「マハーバーラタ」などに出てくる四方を守る神々が仏教に取り入れられ、「四天王」となったのである。
日本では上杉謙信がその旗に「毘」をかかげ、「毘沙門天」の化身と自らをあらわしている。
さらに、仏教で人が亡くなってもこの世にとどまる期間に、「49日」というのがある。
この期間は不思議とキリスト教と符合する場面がある。
聖書によれば、イエスが十字架にかけられ3日後復活するが、その後、弟子たちはに40日の間その復活の姿を現される。
その40日目にイエス様は天に帰られる「昇天」の出来事が起こり、それから10日目、つまり50日目に聖霊がエルサレムの教会に降り、「キリスト教会」が誕生した。
この日「50日目」を「ペンテコステ」という。
通常、日本では家族が亡くなると葬儀を執り行う。そして、仏教では49日、神道では50日のお祭りがある。
また仏教では亡くなってから7日ごとに法事・法要があり、49日までの法要を『追善法要』と言う。
この間7日ごとに「閻魔大王」による裁きが行なわれるということなのだという。
極楽浄土に行けるかどうかの判定が下されるのが49日目。それが決まれば、『忌明け』(喪に服する期間が終わる)となる。
ちなみに「閻魔大王」は仏教、ヒンドゥー教などでの地獄、冥界の主。 冥界の王として死者の生前の罪を裁く神。 日本の仏教においては「地蔵菩薩」の化身とみなされ同一視されている。

仏教とキリスト教が実際に接したのであれば、ユングの「集合無意識」をあげるまでもなく、相互に似た部分があって当然である。
例えば、パウロ書簡と親鸞の「歎異抄」が似ていると指摘されるが、キリスト教は「景教」として日本に伝わっており、親鸞はなんらかのカタチで「パウロ書簡」に接したのかもしれない。
だが仏教界で、キリスト教との「接点」を最も強く感じさせるのは、空海である。
空海は佐伯氏という中流豪族の一族ではあったが、31歳の時に入唐留学生として遣唐使の一員となる許可が与えられ、804年遣唐使一団に混じり、一路唐の長安をめざした。同じ船団には最澄の姿もあった。
空海が学ぼうとした長安の高僧青龍寺の恵果(けいか)は、恵果は空海に出会うなり、空海を恵果自身の師匠である「三蔵」の生まれ変わりとみたのである。
そして自分の持つ物すべてを空海に惜しげもなく開陳し譲ることをはばからなかった。
恵果は空海に会ってわずか3ヶ月で最高位である「亜闍梨」の位を授け、空海を密教の正統なる「継承者」と認定したのである。
空海の入唐は、「大秦景教流行中国碑」が建てられてから23年後のことで、空海がいた当時の唐では景教文化が栄えていて、空海がそれに関心を示さなかったハズはない。
空海にサンスクリット語を教えた人物である「般若三蔵」は、実際に当時景教に心酔し始めていたのである。
真言密教の「大日如来」の考えや「弥勒菩薩来迎」の信仰は、キリスト教における「天地創造の神」やイエスキリストの「再臨」の信仰に符合している。
仏教における「仏」は、もともと「(真理に)目覚めた人」という意味であった。
つまり「仏」とは、導師シャカ(釈迦)のことであり、ひとりの人間を示す言葉にすぎなかったのである。
ところが密教の「大日如来」では 「永遠の実在」としての仏の存在を認め、「絶対神」に近づく。
また、空海が創建した高野山の儀式では、最初に棒で十字を切る(中印と呼ぶ)し、真言宗の儀式にある灌頂(かんじょう)は、キリスト教の洗礼そのものである。
カソリックの洗礼では「三位一体」の意味をこめて、三度水を頭にかけるが、「灌頂」でも三度度水滴をかけるし、信者は手に数珠(ロザリオ)を持っている。
さらには、空海が灌頂を受けて授かった「遍照金剛(へんじょうこんごう)」という法号は、「あなたがたの光を人々の前で輝かせ」(マタイ福音書5章)の言葉を彷彿とさせる。
さて空海との関係で、彼の作との説があるものの、一般には「作者不明」とされているのが「いろは歌」である。

(い) ろ は に ほ へ (と)
ち り ぬ る を わ (か)
よ た れ そ つ ね (な)
ら む う ゐ の お (く)
や ま け ふ こ え (て)
あ さ き ゆ め み (し)
(ゑ) い も せ   (す)

ここで、一番下の文字を続けて読むと「とがなくてしす」(歌の中で清音と濁音は一つになっている)となることがわかる。つまり「咎なくて死す」である。
更に、左上(い)左下(ゑ)右下の文字(す)を続けて読むと、「イエス」と読める。
「いろは歌」に秘められた「暗号」は、「罪なきイエスが十字架上の死を遂げた」ということである。
さて恵果は空海に早く日本に帰国して、日本に密教の奥義を伝えることを願った。
そして空海は、師・恵果のすすめで帰国を決意し、806年10月帰国したのである。
しかし当初20年の予定で中国に渡ったのである。わずか2年あまりで勝手に帰国しては「国法」をおかしたことになる。
空海は大宰府・博多の地にあって、唐より持ち帰ったものの「目録」を朝廷に送ってアピールしていく。
そして博多に滞在していた空海に、807年の夏朝廷より勅令が来た。それは京ではなく、まずは和泉国槙尾山寺に仮に住めと言うものであったが、とにかく空海の幽閉はとかれた。
さらに2年後、朝廷が空海に「京にのぼりて住め」として与えたのは高雄山寺(現在の神護寺)であった。新天皇の嵯峨天皇は空海の書や詩を愛していたのだ。
平安京をはさんで、東西に比叡山の最澄、高雄山の空海と平安仏教の「二大リーダー」が並び立った。
さて、我が地元・博多駅近く祇園に空海が創建した「東長寺」がある。
空海が博多滞在中に創建した寺で、その門には「密教東漸第一の寺」とあり、「東長寺」の名は空海が東に長く密教が伝わることを願ってつけた名前である。