聖書の言葉から(剣を鋤に、槍を鎌に)

旧約聖書の言葉、「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし槍を打ち直して鎌とする。 国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(イザヤ書2:4)。
これは、紀元前8世紀のの預言者イザヤの言葉で、国連本部にある壁に刻まれており、その壁は「イザヤ・ウォール」と呼ばれている。
また、NHK「八重の桜」にも登場した、主人公八重の兄・会津藩士・山本覚馬は、亡くなる前年の同志社英学校の卒業式の祝辞で、この言葉を語った。
山本は、戊辰戦争後に宣教師からもらった本を読んで、これからの日本に必要な「教え」だと確信した。
戦争で日本人同士が切りあい、殺しあうという修羅場をくぐり、自身のふるさとも政府軍によって攻撃されて、悲惨な経験をしたからこそ、この「イザヤ書」の言葉が彼の心にしみたのに違いない。
実際のことをいうと、このイザヤの言葉は預言の「一部」を切り取ったもので、この前にあるのが「主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る」である。
実は、この世界の様々なもの、それが「社会思想」であっても、「シオンから」つまりユダヤ人の生き残りの「戦略」として生み出されたものだ。
「シオニスト」とは、旧約聖書の予言にもとづいて、世界に散ったユダヤ人の祖国復帰を信じた人々で、ユダヤ人の聖地であるシオンの丘がエルサレムに戻ることから「シオニスト」とよばれた。
ところで、約30年前の「社会主義の崩壊」は、しばしば「資本主義の勝利」といわれた。しかし今日の状況をみて、誰がそんなことをいいきれるだろうか。
そもそも「労働者の権利」などは社会主義思想なしでは考えられないことであり、ムキダシの資本主義に対抗し、それを抑止する力として働いてきた。
実は、この資本主義と社会主義は対極のようだが、いずれもユダヤ人によって生み出されたものである。具体的には、カール・マルクスの「社会主義」、ミルトン・フリードマンの「市場万能主義」である。
両者は正反対のシステムだが、「共通」なのはWASP(白人イギリス系プロテスタント)などの「既得権益」が確立している分野で、ユダヤ人がハジケだされずに生きていくためのシステムを構築しようとしたものだったともいえる。
なぜならば両システムとも「平等」を追求したものだからだ。
ただし社会主義では「結果の平等」、市場万能主義では「機会の平等」を追求した経済システムであるということだ。
例えば、ユダヤ人Mフリードマンの出生について述べると、貧しい「炭鉱夫」の子供として生まれ、奨学金をもらいつつシカゴ大学を卒業している。
市場というのは、金をいかに運用し利益を出すかという世界であり、身分や出生は関係なく「規制」をトリハズセば完全に自由で平等な世界である。
ということは、「参加資格」における平等の追求が結果として「格差社会」を生んだことになるが、それをいうならば社会主義にもあてはまることである。
何しろフリードマンは医療や教育など、「生存権」が関わる分野においても市場を貫徹させる極端な「市場万能主義」を唱えた。
生存権に関わる分野でこそユダヤ人は差別されてきたというころをフリードマンがどのくらい意識していたかは不明だが、ある種の「ユダヤ的宿命」というものが身に沁みていたことは間違いない。
ところでユダヤ人が一番多く住んでいる国はイスラエルではなく、アメリカである。
アメリカは「機会均等」を建国の精神とした国だから、ユダヤ人にとって世界で唯一住み良い国である。
なぜなら、自由さえ与えられれば、必ず頭角をアラワすのがユダヤ人である。
だからユダヤ人は規制が大嫌いで、中途半端に規制するくらいならばイッソ社会主義になった方がチャンスがある、と考えたかどうかはわからない。
ただ、ユダヤ人が生み出した両極端の「社会システム」を反映するかのように、ユダヤ人が操るグローバル金融の中心地アメリカでは「市場万能」がハバをきかす一方で、ユダヤ人の故郷たるイスラエルでの社会生活は、意外にも「社会主義的」なのである。
その最大の理由は1950年代のシオニズム運動でイスラエルに帰還人々は、ソビエトという社会主義圏から帰還したものがおおく、ソ連の集団農場に近い「キブツ」といった集団農場で生活を営んでいる。
ただし、キブツは国家管理されていているわけではなく、農業従事者の「自主管理」的要素がつよい。
体育祭などで集団で歌いダンスする「マイム・マイム」がユダヤ民謡であることである。
この「マイム」の意味は「水」だったとは迂闊だった。手をつないで輪を狭めていくのは、「井戸」を掘り当てた喜びを表現している。
それは国を失ったユダヤ人達によるパレスチナ「入植」の歴史が秘められていたのだ。
そして今、世界の金融技術で流行っているのは、「ハイリスク・ハイリターン」の技術であるが、それは「リスク」をおかさなければ「既得権益」と対抗できなかったユダヤ人の宿命があり、そこから導き出された「ノウハウ」が世界を覆ったといえる。
ユダヤ人が世界に離散した体験から生まれたものは、ユダヤ人的「宿命」から生まれたものであり、少数民族が生きるスベとして考案したことが、そんなに儲かるコトならばと、異邦人までマネてやったことが、今日の世界的危機の「元凶」なのである。
共産主義にせよ市場万能主義にせよユダヤ人が生んだものは、かりそめの「夢」を見させたが、世界全体にダメージを与え疲弊させる結果になった。
日本の平等社会も市場万能主義のツナミ的被害にもまれてきたし、「機会平等」をはかった規制緩和がどんなに「結果の不平等」を生み出したかということも教えられた。
資本主義の「市場万能」も社会主義の「計画経済」も、対極的のように見えるが、ユダヤ人の「機会均等」を軸に、円環を描いて一つに結ばれるということだ。

冒頭のイザヤの言葉「剣を鋤に」にあるように、様々なものが戦時と平時でドラスチックに「転生」している。
それは平和の願いを込めたケースもあるが、基本的には、実用の面からの転用である。
家の中には、軍事転用技術が溢れている。ペンタゴンが通信施設が破壊されても情報交換が可能になるように開発したのが「インターネット」。
家の中を見渡すと、「ミシン」は機関銃、「ライター」は手榴弾、「掃除機ロボット」は地雷探査機、「缶詰」はナポレオンの時代の戦時食用に開発された。
一番手近なところでは、ボールペンやライター、衣服においてもカーディガン、トレンチコート、さらには割烹着までも戦争と関わりがある。
一番身近なボールペンが生まれた背景には「戦争」がある。
第二次世界大戦のこと、爆撃機などが高空でも航空計算に使える筆記具を必要とした。なぜなら万年筆ではインクが漏れるからだ。
折しも元校正職のハンガリー人がボールペンの開発に取り組んで、完成させた。ある米国人がそれを特許に触れないように改良し、米軍は大量に採用し、爆撃攻撃に大活躍したのである。
クリミア戦争のバラクラヴァの戦いにおいて勇猛な突撃を行ったイギリスの国陸軍軽騎兵旅団長がいた。
その名は英の第7代カーディガン伯爵ジェイムズ・ブルデネルである。
司令官として参戦したイギリス軍のカーディガン伯爵は、負傷兵が着やすいように「前あきのセーター」を考案した。
保温のための重ね着として着られていたVネックのセーターを、怪我をした者が着易いように、「前開き」にしてボタンでとめられる様にしたのである。
この服は、男爵の名前をとって「カーディガン」と名づけられた。
映画「カサブランカ」でハンフリー・ボガートが着ていたトレンチコート姿は、「ハードボイルド」のイメージを植え付けたといってよい。
第一次世界大戦のイギリス軍で、寒冷な欧州での戦いに対応する「防水型」の軍用コートが求められた。
その原型は既に1900年頃には考案されていたが、「トレンチ(塹壕)」の称は、このコートが第一次大戦で多く生じた泥濘地での「塹壕戦」で耐候性を発揮したことによる。

東京タワーは1958年に完成した高さ333mの電波塔である。
関東一円に電波を送るのに必要な高さが、これだけ必要だったということだ。
その戦争にはアメリカ軍の戦車も参加していたが、激しい戦火を潜り抜けた戦車はボロボロになったものも多くあった。
それらをアメリカ本土まで持って帰るのはコストがかかるし、古いものをわざわざ持って帰るより「新型戦車」を作りたいというアメリカの思いがあった。
戦車装甲は戦車の砲撃を受け止められるほどに丈夫に作るので、とても質の良い鉄でできている。
スクラップとなっても溶かして使えば、建材としても優秀である。
良質な鋼材がなく鉄不足だった日本とアメリカの利害は一致し、日本はスクラップ戦車90台を建材として買い取った。
中にはろくに戦闘の機会がなかいまま日本に運ばれてきた戦車(M26パーシング)もあり、燃料や弾薬も装填されっぱなしだったようである。
そして戦車から作られた鉄骨は東京タワーの展望台から上の部分に使われることとなり、 およそ3分の1の高さ分が戦車から作られている計算になる。
さて10年ほど前に、九州国立博物館における大英博物館展「100のモノが語る世界の歴史」を見た。
実は、その中で最も印象的なものこそ、モザンビークで製作されたモノで、97番目の展示物「銃器で作られた母像」であった。
「ライフル銃」を解体して、その部品、部品を見事に組み合わせて「母親像」をつくったもので、母親像のその手には部品で作ったハンドバッグが握られており、確かに「力強い母親」のイメージとなっている。
ちなみにこのハンドバッグは内戦で使われた「ソ連製ライフルAK47」の弾倉から作られているという。
モザンビークでは1976年から92年まで激しい内戦が繰り広げられ、東西冷戦を背景に諸外国から敵対する各陣営に莫大な武器が提供された。
内戦後、700万丁の銃などが残されたが、それをミシンや農具といった生産的な道具に交換する「平和プロジェクト」が始まった。
2011年、地元の芸術家がこの廃棄された武器を使って、高さは102センチにもおよぶ「母」という力強いシンボルを作りあげたという。
個人的に思い出すのは、この「母親像」を見ていた近くの小学生が、「ターミネーターみたい」という率直すぎる声をあげたことだった。
映画「ターミネーター」で、戦争がロボット同士の戦いになるという未来予想図を提示したが、昨年のノーベル平和賞を受賞した国連世界食糧計画(WFP)による食糧支援の現場で、「ターミネーター」レベルの先端技術が使われ始めている。
2020年8月、レバノンの首都ベイルートの港で化学物質による大爆発が起きた。
市民らが食料を手に入れることが難しくなりそうな中で、WFPはすぐに緊急支援に入った。
このとき、人工知能(AI)で災害状況を分析するツール「Skai」がWFPの活動現場で初めて本格的に使われた。
WFPが紛争地や被災地へ入る際には、現地の建物やインフラがどれぐらい損壊しているかを調べ、物資を運ぶ最適なルートや必要な支援をいち早く判断する必要がある。
衛星画像などをもとに人の目で分析してきたが、AIによる分析を取り入れ、大幅な時間短縮を見込む。
2019年にサイクロンが襲ったモザンビークで試験的に使われた際には、人の手で2~3週間かかる被害の評価が、地形によって差はあるが1~2日に短縮できたという。
テクノロジーの力で目指すのは、効率化だけではない。政情が不安定な地域では食料が武装勢力などによる「略奪」の格好のターゲットになる。
運搬途中にスタッフらが襲われて命を落とす事案が度々起きているという。
紛争や洪水、伝染病など様々な危険がある活動地域で、スタッフが命を危険にさらすことなく食料が運べると期待されている。
これがあれば、カンボジアにおける日本の「国際貢献」第1号の犠牲者である文民警察官の死も防ぐことができたであろう。
シリア難民が多く暮らすヨルダンでは4年前、WFPからの支援金受け取りに「ブロックチェーン」の技術が導入された。
難民らが地域の食料品店などに行き、設置されたカメラによる生体認証で本人確認をすると、電子化された支援金を受け取り、買い物ができる。
この決済がブロックチェーン技術で「暗号化」され、安全性が担保されているという。
身分証明書などがなく銀行口座を開くことが難しい難民のニーズに合い、これまでヨルダンだけで10万人以上に利用されてきた。
さて、新型コロナウイルス感染が広まるなか、図らずもイノベーションの力は存在感を増している。
人と接触せず、オンライン上でできることが多くなったからだ。
代表的なものが電子マネー、モバイルマネーなどによる「現金支給」である。
WFPは近年、食料の現物支給から金銭の支給にシフトしてきた。地域に食料が流通している場合は、そこで購入してもらうほうが地域経済を活性化する効果があるためだ。
支給を受けた人が、必要や好みに合わせて買う物を選ぶこともできる。
「現金支給」は年々増え、19年にはWFPの年間支援金額全体の38%を占めるようになった。
従来の現物支給では、食料を受け取るために人々が列に並び、支援スタッフらも集まって密な状態が生まれやすかった。だが、例えば中東などでは、スマホアプリを通じて複数の地元店の値段を比べ、注文できる仕組みが導入されている。
ソマリアでは、オンライン上で注文すると家まで届けてもらえるアプリに10万人以上が登録している。
さて日本は世界で唯一の「被爆国」であるのに、どうして世界一の40基の原発をもつ「原発大国」になったのであろうか。
新たに登場する社会科「公共」の探求のテーマになっていいものである。
「日本の原発大国化」を推進したのは日本自身ではなく、アメリカであることが重要なポイントである。
現在の日本の技術は、アメリカから買ったもので、ウェスティング・ハウス(WH)からは三菱が技術を買い、ジェネラル・エレクトリックからは東芝と日立が技術を買った。
その背景に、アメリカが広島・長崎で原子爆弾で無差別殺戮を行った開発の「罪責感」を、「原子力の平和利用」というカタチで、打ち消そうとした面もあることを否定できない。
実は、純粋に技術面をみると、原発と核兵器との距離はそれほど大きくはない。ウランの濃縮度を変えるだけでいいのである。
核アレルギーが高く「非核三原則」を厳守する日本において、原子力利用が核兵器開発に繋がる心配がほとんどなかったという面もある。
新型コロナ以降の技術展開において、社会貢献も破壊悪用も境界は曖昧で、プログラムの書き換えやアルゴリズムの修正で即両用の「転用」が可能で、その結果の落差が大きい。
どんなに、人々の平和や幸せに活用を目指したものでも、簡単に悪用される可能性を意識せざるをえない。
それはモノだけではなく、社会制度にもあてはまる。例えば、様々な助成金が不正・悪用されている。
イザヤの言葉にある、剣も鋤も、槍も鎌もない、「両義性」の際立った社会になりそうだ。