聖書の言葉(なんの係りがありますか)

マリアはヨセフと婚約していたが、聖霊によって身重になった。
そして御使いがマリアに、身ごもったのは、人々を諸々の罪より救う「救世主」であることをつげ、マリアは、御使いが示す通りに「イエス」と名づけた。
その時のマリアは、その喜びとおそれを次のように詠っている。
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救主なる神をたたえます。この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。 今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう、力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。そのみ名はきよく、そのあわれみは、代々限りなく主をかしこみ恐れる者に及びます」(ルカの福音書1章)。
さてイエスが大人になって自らを「神の子」としての姿を顕わし始めた頃、イエスはカナの街であった知り合いの結婚式に出席した。
そこでイエスは最初の「奇蹟」を行う。
「ガリラヤのカナに婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれた。ぶどう酒がなくなったので、母はイエスに言った、"ぶどう酒がなくなってしまいました"。イエスは母に言われた、"婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません"。母は僕たちに言った、"このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい"。
そこには、ユダヤ人のきよめのならわしに従って、それぞれ四、五斗もはいる石の水がめが、六つ置いてあった。イエスは彼らに"かめに水をいっぱい入れなさい"と言われたので、彼らは口のところまでいっぱいに入れた。そこで彼らに言われた、"さあ、くんで、料理がしらのところに持って行きなさい"。すると、彼らは持って行った。
料理がしらは、ぶどう酒になった水をなめてみたが、それがどこからきたのか知らなかったので、(水をくんだ僕たちは知っていた)花婿を呼んで言った、どんな人でも、初めによいぶどう酒を出して、酔いがまわったころにわるいのを出すものだ。それだのに、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました”。 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行い、その栄光を現された。そして弟子たちはイエスを信じた」(ヨハネの福音書2章)。
このエピソードは「水をぶどう酒に変える」という、キリスト教における「洗礼」の本質を示してくれるエピソードである。
人が洗礼で水で洗われるのは、ブドウ酒に譬えられた「イエスの血」に変って洗われ、「罪が浄められる」ことを意味するからだ。
しかし問題は、このエピソードの前半、イエスが母マリアに語った「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか」という言葉は、とてもイエスの言葉とは思えない。
イエスが接した他の女性でも、このような突き放したような表現はない。しかも、自分の母親に対して「婦人よ」とはありえない。
上述のように「母マリアは聖霊によって身ごもった」ということなので、イエスが人間の血肉の思いとはかけ離れた存在であることを差し引いたとしても、受け入れがたいものがある。
それに、「私の時はまだきていません」とは一体どういう意味なのだろう。謎が深るばかりである。
実は、イエスが母親に語った「あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません」と、全く同じ言葉が発せられる場面がある。
それは、なんとイエスの言葉ではなく、悪霊から発せられたものである。
イエスがガリラヤの地に着いた時に、悪霊につかれた二人の者と出会う(ルカの福音書8章)。
二人は手に負えない乱暴者で、誰もその辺の道を通ることができない程であった。
その時彼らがイエスに叫んだ。「神の子よ、あなたはわたしどもとなんの係わりがあるのです。まだその時ではないのに、ここにきてわたしどもを苦しめるのですか」。
そこからはるか離れた所に、おびただしい豚の群れが飼ってあった。悪霊どもはイエスに願って言った、もしわたしどもを追い出されるのなら、あの豚の群れの中につかわして下さい。
そこで、イエスが行けと言われると、彼らは出て行って、豚の中へはいり込んだ。
すると、その群れ全体が崖から海へなだれを打って駆け下り、水の中で死んでしまった。
ドストエフスキーの「悪霊」という小説にインスピレーションを与えた場面なのだが、似たような場面がもうひとつある。
イエスがカペナウムの会堂で、権威ある者のようにで教えられていた。
ちょうどその時、「けがれた霊」につかれた者が会堂にいて、叫んで次のように言った。
「ナザレのイエスよ、あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです。わたしたちを滅ぼしにこられたのですか。あなたがどなたであるかわかっています。神の聖者です」。
イエスはこれをしかって、「黙れ、この人から出て行け」と言われた。すると、けがれた霊は彼をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。
(マルコの福音書1章)。

聖書の物語が舞台化されて特別な装置があるならば、カナの結婚式において、イエスが母マリアを「婦人よ」とよんだのを合図に、一機に場面を「エデンの園」に切り替えてみたい気がする。
カナの結婚式のイエスの言葉「婦人よ」のヒントは「エデンの園」にある。
神はエデンの園でエバを「女よ」と呼んだが、英語版聖書を読むと、同じ”Woman”が使われているからだ。
「主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、”園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか"。女はへびに言った、わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました"。 へびは女に言った、"あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです"。女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。
彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。
そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。主なる神は人に呼びかけて言われた、”あなたはどこにいるのか”。 彼は答えた、”園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです"。
神は言われた、”あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか”。
人は答えた、”わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです”。そこで主なる神は女に言われた、”あなたは、なんということをしたのです”。
女は答えた、”へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました”。
主なる神はへびに言われた、”おまえは、この事をしたので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう。
わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。
彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう”。つぎに女に言われた、”わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう”」。
さて人間は、エデンの園で必要なものを自由に得ていたのだが、人間が「善悪を知る木」を食べて以来、自然界では「あざみといばらを生じた」とある。
イエスは他の場面で「いばらからぶどうを、あざみからいちじくを集めるものがあろうか」と語っている。
つまり、自然がエデンの”実り豊かな世界”とは異質な世界に変ったことが感じられる。
だが、自然における最大の異変は、人間が「死ぬ存在」になったということだ。
神はあらかじめ人に、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」と告げていたからだ。
ところが、人はヘビの巧みな誘いに乗ってしまい、「善悪を知る木」からその実を食べたことにより、もともと永遠に生きる存在であったのに、「死ぬ存在」となったのである。
しかし、エデンの園における「善悪を知る木」の実をたべて人が「死ぬ」存在となったというのは、我々の常識からすれば、かなりブッ飛んだ話である。
なぜなら、家庭でも学校でも、まずは子供達を、善悪をわきまえた人間に育つように教育しているからだ。
だがそれは、人間が「楽園追放」後の寄る辺なき環境と身の安全との折り合いをつけるべく、「善いこと/悪いこと」を仕分けするようになったことにはじまる。
我々は、この世を生きる子供達にそうした善悪の判断基準を伝えるべく教育をしている。
しかし、「エデンの園」の出来事が教えるメッセージとは、本来のコトの良し悪しは、人間がこの世の経験で学んだ「善/悪」にあるのではなく、神の意思そのものにあるということだ。
しかし人間はもはや、神の意思をたずねることをしない、自ら「良し」と思うことを基準にして生き、その基準で人を裁く存在になったのである。
実際、聖書から”道徳的”な生き方だけを求める人にとっては、めまいを起こしそうな世界である。
さて、「善悪の木の実」を食べて以来の善悪をわきまえた人間存在とはなんなのだろうか。
「エデンの園」では、神の心と人間の心が調和していて、そもそも「善/悪」という概念自体がなかったのである。 そこでは人が神の意思に沿っていきることがごく自然なことであった。
すなわち、人間が善悪を判断す能力とは、本来の姿からみて”過剰”、つまり「イチジクの葉」なのだ。
そして、「エデンの園」からはずれて、神の意思とは別に生きなければならなくなった人間の状態を「原罪」とよんでよい。

聖書には、エデンの園の中央に「善悪の木」とは他に「命の木」が植えてあったことが書いてある。
「また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に"命の木"と、"善悪を知る木"とをはえさせられた」。
なぜか、「善悪を知る木」の方は、話題になることが多いが、「命の木」については話題にならない。
神は、人にたいして次のように語った。「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る”。
さて、人はその妻の名をエバと名づけた。彼女がすべて生きた者の母だからである。 主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。
主なる神は言われた、”見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない”。そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。 神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた」(創世記3章)。
「エデンの園」での出来事で確認しておきたいことは、神は「善悪を知る木」についてのみ、取って食べてはならないと言っているが、「命の木」について、何もふれていないということである。
しかし神は、人間が「善悪の木」の実を食べた後、つまり人間が「死ぬ存在」になった後に、「命の木」に対して、あることを施している。
「彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」と、「命の木」の周辺に回る炎の剣(つるぎ)を置き、そこに人が近づかないようにしたという。
それは、神が人間を、死についてみずからの力ではどうすることもできない”無力な状態においた”ということである。
パウロは「被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによる」とある。 とはいえ、被造物全体の生みの苦しみにあって、パウロは「ローマ人への手紙」で「神の子の栄光の自由にはいる」望みが残されていると語っている。
この”望み”とはどのようなものであろうか。
パリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは、「神の国は、見える形では来ない。 『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17章)と応えている。
日本人一般は、この言葉を「神の国」とは心の持ちようのことと思いがちであるが、「神の国」があなたがたの内にあるとはそのような意味ではない。
イエスは、ニコデモというユダヤ人指導者とのやりとりの中で、人が「生まれ変わる」ことにつき、日本人一般が思いもよらない応えをしている。
「人は水と霊によって生まれ変わらなければ神の国にはいることはできない」(ヨハネ3章3節)。
人は聖霊を受けて、この世にあっても、先んじて「神の国」にはいるということなのである。
それは同時に、聖霊によって復活の保証を受けるということなのだが、聖書は、"人間の自然"については肯定的ではない。
「生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない」(第一コリント人への手紙2章)。
最後に、母マリアが語ったカナの結婚式で「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません」の後半部分「わたしの時がくる」とは、どういう時なのであろう。
聖書は、人間が「エデンの園」から追放されてから早々に、「女から生まれるものがヘビをくだく」(創世記3章)と預言している。
この「女から生まれるもの」とは誰か。
それこそがイエスであり、自ら”死人の蘇り”の初穂となって「滅びのなわめ」すなわち”死”を打ち砕くということである。
ダビデは「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ」(詩篇110篇)と詠っている。
この言葉は新約聖書(ヘブル人への手紙)でも引用され、神がサタンを撃ちくだく意味で使われている。
エバがすべての人の母となったとあるが、エバは騙されて「死」を持ち込んだ。
神は「わたしは”恨み”をおく、おまえ(ヘビ)と女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に」とある。
イエスが十字架から復活によって死に打ち勝った「その時」、”恨み”はのぞかれた。つまり和解したのだ。
実際、イエスが聖霊となって母の内に住むことで、イエスと母が”係る”こととなった。
「カナの結婚式」と「エデンの園」に繋がりを感じたのは、イエスがカナの結婚式でマリアを「婦人よ」と呼んだことが、神が「エデンの園」でエバを「女よ」と呼んだ時と同じ響きを感じたからだ。
かくして、イエスが母に語った「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません」という言葉に、聖書の言葉の深淵さを垣間見た思いがする。