連合国占領と「社会派推理」

最近、BSで「生誕100年記念 松本清張ドラマスペシャル 霧の旗」(2010年版)を見た。
出演者は、市川海老蔵(大塚弁護士)、相武紗季(柳田桐子)、その兄・正夫を、カンニング竹山((柳田製作所の社長) が演じた。
原作は北九州の「K市」だが、ドラマでは北九州小倉、つまり清張の故郷が舞台となっていた。
大塚弁護士は「新進気鋭の弁護士」で、出身は柳田桐子と同じ「福岡県」という設定になっている。
桐子は「殺人罪で逮捕された兄の無実を証明してほしい」と同郷の大塚を訪ねるが、今や法曹界の寵児となった大塚は詳しい事も聞かず、「費用が払えないならば弁護は出来ない」と冷たくあしらう。
それでも桐子は「費用はなんとかするから、大塚先生に助けてもらいたい」と懇願する。
その1年後、大塚弁護士に桐子から手紙が届く。それは兄の正夫が公判中に獄中死した知らせであった。
さて、このドラマの中で、大塚弁護士が桐子に「同郷だからどうにかしてくれるというような甘えは嫌いだ」という場面がある。
一方、捜査にあたった刑事は大塚の冷淡さについて、「同郷だから関わりたくなかったのかもしれない」と推理する。
つまり、世の中には、故郷を大事に思う人もいる一方、故郷を忘れたがる人もいるということである。
そして、大塚弁護士にも、貧しさと両親の不和に苦しんだ過去があったことが明らかになる。
このドラマにおける「犯人捜し」のカギとなるのが、正夫の高校時代の野球部の人間関係で、ドラマでは、小倉第一高校野球部という設定になっていた。
このドラマ「霧の旗」を見ながら、小倉出身の俳優「草刈正雄」のことを思い浮かべた。
草刈の父親はアメリカ軍の兵士であったが、日本人の母親が草刈を妊娠していた最中、朝鮮戦争で戦死している。
それは、草刈が生まれる前のことであり、母子は四畳半一間の生活を身を寄せるように送った。
少年時代は現在の小倉北区昭和町あたりで過ごし、貧しい家計を少しでも楽にしようと小学生より新聞配達と牛乳配達の仕事を掛け持ちして登校した。
中学卒業後は本のセールスマンとして働きながら小倉西高等学校定時制に通い、軟式野球部のピッチャー(控え投手)として全国大会に出場している。
或る時、ふとしたことで出会ったバーのマスターの強い勧めで、福岡市で開催されたファッションショーを観に行った際スにカウトされる。
そして17歳で高校を中退し上京。1970年に資生堂専属モデルとしてデビュー、売れっ子モデルとなる。
草刈は、故郷のことを忘れようと、上京後は小倉との繋がりを失っていた。
しかし年を重ねるにつれ、「自分の土台はふるさと小倉にある」ことに気付きはじめた。
そして、地元で行われる祗園太鼓の舞台などにも積極的に参加するようになったという。
さて、松本清張原作の「霧の旗」というタイトルはどのような意味であろうか。
高々と掲げた旗印に、疑惑の霧がかかっているという意味か、すなわち高く昇る「旗」は大塚弁護士、その「旗」には霧のように疑惑がかかっているということ。
実際には、大塚の交際相手の女性への疑惑だが、「霧が移動する時は音がする」という大塚の言葉が不気味であった。
さて、松本清張は「日本の黒い霧」というノンフィクション作品を書いている。
1960年「文藝春秋」に連載されたもので、アメリカ軍占領下で発生した重大事件について、清張の視点で真相に迫ったもの。
この当時、「黒い霧」という言葉が流行語になるほどの社会現象を起こした。

終戦直後の連合国軍による占領期に、「松川事件」「三鷹事件」「下山事件」という鉄道に関わる不可解事件が相次いだ。
この事件の一つを追及した人物の系譜が面白い。
遡って、豊臣秀吉の島津征伐の時、当主・島津義久が降伏した後も秀吉に抗戦し、罪せられたのが島津蔵久である。
この蔵久から何代か後に、久留米の有馬家に仕えた「儒者の家柄」が広津家であった。
そして、明治時代「この家系」から一人の小説家が生まれた。
広津柳朗で、日清戦争前後の暗い世相の中、家族の重圧に逃れて本能の発動から犯罪を犯す人々を描いた。
その息子が広津和郎であり、小説家でありながら、なぜか「松川裁判」批判がライフワークとなった。
その際、広津の戦う道具はペンであり、武器は「言葉」に対する感性であったといえる。
1949年8月、福島県の松川駅(福島市)付近で、列車の脱線転覆事故が起きた。
松川事件は東北本線松川駅で列車が転覆し、機関士3名が殉職した事件だが、線路の枕木を止める犬釘がヌカレており、誰かが「故意に」何らかの目的をもって「工作」したことは明らかであった。
国民の大半は共産党の仕業という「政府談話」をそのまま信じ、小説家の広津和郎とてその例外ではなかった。
実際に、国鉄の労組はそれによって「世論」を味方にすることあできず、「馘首」はすみやかに行われていったという経緯がある。
広津和郎は「長い作家生活の間で、私は書かずにいられなくて筆をとったということはほとんどなかった。しかし松川裁判批判は書かずにいられなくて書いた」と語っている。
広津がこの事件に関わった契機は、「第一審」で死刑を含む極刑を言い渡された被告達による「無実の訴え」である文集「真実は壁を透して」を読んでからである。その文章に、一片の翳りもないと直感した。
陪審員の一人が、被告になった青年を見た時、その「透明さ」に、犯罪者とはどうしても思えなかったことによる。
この点では、アメリカ映画「十二人の怒れる男」を思いだす。
実は、「松川事件」の公開された資料自体が極めて少ないものだったが、広津は新資料を探すでもなく、あくまでも「公開された」裁判記録のみを材料に、この裁判の「虚偽性」を追及していったのである。
広津はその乾ききった「言葉」の背後にあるナマナマしい真実を暴くために、言葉の端々を「吟味」していったのである。
その吟味の結果、警察が当初、組合に属しない立場の弱いものを捕まえて「嘘の自白」を強制し、その「調書」から「架空の」組合員による「共同謀議」にもっていこうというプロセスを浮彫にしていった。
第一審、第二審でそして死刑、無期その他の重刑が、二十人の被告に対して判決が言い渡されている。
広津は後に、「ああいう納得のゆかぬ裁判で多くの青年達が死刑や無期にされているのを黙視できない」と語っている。
国費によって裁判費用がまかなえる検察側に対して、裁判を戦うのに一文の費用も出せない被告達に対するカンパは当初、広津自身の「言論」活動にかかっていたのである。
しかし、広津の「中央公論」に掲載された裁判批判は少しずつ「世論」を動かしていった。
広津の処女作は「神経病時代」という作品だが、そのアプローチは松川事件に生かされた。
松川裁判の被告の言葉から、監禁状態の中で取調官のコントロールにより「自己喪失」していった青年達の心理を見抜いたのである。
また、被告のひとりの身体障害と歩行の程度を調査した医師の鑑定書が非科学的な根拠づけによるものでないこと。同一被告の数次にわたる調査の間にズレがあること。
検事調書の中心から外れた記録などから、それ以前の警察調書における強制と誘導を論証していった。
広津の「筆鋒」は確実に世論を喚起し、1961年最高裁は、松川裁判の被告に「全員無罪」を言い渡した。

1949年7月15日、旧国鉄三鷹駅で無人の電車が暴走し6人が死亡。いわゆる「三鷹事件」である。
この事件もまた国鉄に影響力を持っていた共産党を弾圧するために行われたものと言われているのだが、意外にも”党員でない”竹内ひとりが有罪となっている。
竹内は厳しい取り調べを受けて、二転三転させるが単独犯であると自供し、一審では無期懲役、二審では死刑判決が出された。
しかし、その後は一貫して無罪を主張するが、1955年最高裁で上告棄却。つまり、「単独犯」として死刑が確定したのである。
当然、判決後それを批判する意見も多く、すぐに再審請求を申し立てたが10年も放置され、ようやく再審の動きが起き始めた矢先に竹内が獄死してしまう。
その遺志を継ごうとしていた妻も、その後1984年に死去している。
松川事件では逮捕された全員が無罪になっているが、三鷹事件は、逮捕された10名のうち9名は無罪になったのだが、その残る1人には1959年、死刑が確定している。
その竹内景助元死刑囚は1967年、脳腫瘍で獄死してしまうのだが、最近も遺族によって再審請求が行われてきたが2019年7月再審請求は棄却された。
その息子の竹内健一郎によると、小学校に入学した年の7月に三鷹事件が起った。
父親は国鉄職員であることを誇りにして、父はいつも私たち子どもたちを可愛がってくれた。
ところが事件から半月後、突然に警察に連れて行かれ、それ以降、一度も家に帰ることはなく、死刑判決を受けたまま、45歳の若さで獄死してしまう。
家族全員、父親の無実を信じていたが、死刑囚の子どもだということで、就職や結婚にも言葉では言い尽くせないさまざまな困難を経験した。
健一郎は中学卒業後、働きに出るのだが、映写技師やトラック運転手など仕事を転々とする。
特に母親が亡くなってからは社会から隠れるようにして暮らすしかなく、父親の無実を信じながらも、「再審」を申し立てることなどとても出来ない状況であった。
さて、2011年の再審請求で、弁護団が出した新証拠は、交通工学の第一人者の曽根教授によってなされた暴走した電車のパンタグラフについての明確な鑑定であった。
事件当日に構内の合図所から目撃していた人が「暴走して行く時に、目の前でスパークが続けて二度した」と法廷で証言している。
そのことから、2つの車両のパンタグラフが上がっていたことは間違いない。
2つ目のパンタグラフを上げるのには、犯行に関わった者がもう一人いないといけない。
2つのパンダグラフが走行中に上がっていたことを、曽根教授は現場検証の際に撮られた写真を解析し、さらに独自の検証データを照合して鑑定した。
この鑑定に対して検察側は、あくまでもパンタグラフは1つしか上がっておらず、もう1つは衝突時に上がったものだと反論した。
他にも、前照灯と手ブレーキに関する証拠も、竹内死刑囚による単独犯行を否定する新資料を提示したが、再審は認められるには至らなかった。
すでに様々な証言で明らかになっていることは、この事件が大掛かりな謀略であることを匂わせる場面がいくつかあった。
例えば、警察内部では、事件直前に三鷹駅で事故が起きるという電話連絡が来ていた。
さらに、事故の直前に三鷹駅脇にジープが止まっていて、事故直後にMP(アメリカ憲兵隊)が来て見物人を追い出し、日本側の捜査に待ったをかけるなど、この事件の背後には、何か組織的なものを感じさせる。
再審運動の中心的弁護士高見沢昭治の著書によると、担当の弁護士は接見で「事件を竹内が被ってくれないか」というようなことを言っている。
またある筋からは、共産革命も近い、しばらくは罪を被ってくれ、党だって労組だって大勢でお前を全面的に信用するなどといわれ、竹内の方でも苦しんでいるものを助けたいという「義侠心」から偽りの自白してしまう。
三鷹事件は、裁判とはいえ政治闘争の面が強く、弁護団も、共産党員ではない竹内の弁護については、ほとんど重きをおいていなかった。
理不尽にも、竹内恵介という人自体が、時代のエアポケットに吸い込まれた感がある。

1949年6月1日に発足した日本国有鉄道の初代総裁に就任したばかりの下山定則は、7月5日朝、午前8時20分ごろに大田区上池台の自宅を公用車のビュイックで出た。
出勤途中、運転手に日本橋の三越に行くよう指示した。
三越に到着したものの開店前だったため、いったん国鉄本社のある東京駅前に行って千代田銀行に立ち寄るなど、複雑なルートを辿ったあとで再度三越に戻った。
そして午前9時37分ごろ、公用車から降りた下山は「5分くらいだから待ってくれ」と運転手に告げて三越に入り、そのまま消息を絶った。
普段、下山は午前9時前には国鉄本社に出勤し、毎朝秘書が玄関で出迎えていた。失踪当日は国鉄の人員整理を巡って緊張した状況にあり、午前9時には重要な局長会議が予定されていた。
自宅に確認したところ「普段通り公用車で出た」との回答に国鉄本社内は大騒ぎとなり、警察に連絡、失踪事件として捜査が開始された。
翌7月6日午前0時30分すぎに足立区綾瀬の国鉄常磐線北千住駅ー 綾瀬駅間の東武伊勢崎線との立体交差部ガード下付近で下山の轢死体が発見された。
三越店内で「三、四人の男に取り囲まれて歩いて行った」との目撃証言もある。
また、轢断地点に近い東武伊勢崎線五反野駅で下車した下山らしき人物は改札係に「この辺に旅館はありますか」と尋ねている。
松本は「日本の黒い霧」の中で、当時日本を占領下に置いていた連合国軍の中心的存在であるアメリカ陸軍対敵諜報部隊が事件に関わったと推理した。
下山事件が時効を迎えると、松本をはじめとする有志が「下山事件研究会」を発足し、資料の収集と関係者からの聞き取りを行った。
同研究会では連合国軍の関与した他殺の可能性を指摘した。研究会の成果は、「資料・下山事件」(みすず書房)から出版されている。
実は、下山はいずれ運輸省を辞して参院選に出馬したいとの意向を周囲に語っていた。
誰も引き受け手のなかった国鉄の初代総裁を引き受け大量合理化を達成すれば国鉄を辞して参院選に立候補する。その後、佐藤栄作や民主自由党のバックアップによって参議院議員に当選という明確な未来予想図があったはずだ。
ちなみに、佐藤栄作が運輸省入省時に現場(駅長)を経験したJR二日市には、1974年ノーベル平和賞受賞を記念して、「佐藤栄作顕彰碑」が立っている。
さて、占領期におきた鉄道をめぐる3つの不可解事件には共通した点が二つある。
第一の共通点は事件の捜査が始まらないうちから、政府側から事件が共産党又は左翼による陰謀によるものだという談話が発表されたことである。
第二の共通点は、これらの事件の背後にアメリカ占領軍の影がチラツクことであった。
鉄道に関わる「不可解」な事件が相次いだ背景には、鉄道における定員法による「大量馘首問題」があった。
特に1949年は、中国では共産党政府ができ、朝鮮戦争はいつ勃発するかわからないという状況で、その年の総選挙で共産党が4議席から35議席に大躍進しており、日本政府も共産党を何とか押さえ込みたいという意図があったと推測できる。
国鉄がストライキでマヒしては作戦行動に影響するということもありうる。
さて、松本清張の「点と線」は、社会派推理小説の嚆矢といわれる。
「点と線」発表は1957年だが、鉄道をめぐる不可解事件への清張の推理が、鉄道の時刻表を使った作品を生んだのではなかろうか。
つまり、占領期の不可解事件こそが、日本における「社会派推理作品」の足台となったのではないか。

矢が秀吉の輿に当たる事件を引き起こし、 列車転覆の工作に使われたと思われるパーナには、外国人と思われる「英語文字」が刻んであった。
また、 朝日新聞記者の矢田喜美雄は、1999年「週刊朝日」誌上で「下山事件-50年後の真相」が連載した。その後、取材を共同で進めていた複数の記者が、元陸軍軍属が設立した組織と亜細亜産業関係者による他殺と結論づけている。
また下山の友人、知人らは「彼の性分からしてあれほどの首切りを前に自殺するというのであれば遺書の一つは残すはずである」として他殺説を支持する者が多かった。
ところで、朱舜水に最初に師事したのは安東省庵だが、舜水と人々との交流はそればかりではなかった。
6年後に徳川光圀が師事するまで、地元の人々はその人格・その博識を慕って彼に師事したのである。
この中に、果たして八女出身の儒者「広津家」のものがいたかは定かではない。
しかし「大義の人」朱舜水が福岡県の筑後地方に蒔いた「経世済民」の種子が、時を隔てた昭和の時代に、広津和郎のペン先に生き残ったと推測するのは、拡げすぎであろうか。