久留米の「指南人」

教育や指導、育成など、「教える」ことを表す言葉はいろいろある。「指南(しなん)」もその一つだが、方角に関係なさそうなのに、なぜ「南」が入っているのであろうか。
辞書によれば、古代中国の「指南車」に由来する、とある。「指南車」とは、人が引く二輪の車で、車上に人形を備えつけたもの。
車をどの方向に動かしても、人形の手が常に一定の方角を指すよう歯車の仕掛けが施されていた。
いわば当時の「方位磁針」。道に迷わないよう方向を示すことから、指南は「教え導くこと」を意味するようになった。
しかし、磁針ならば「北」を指す。なぜ「指南」は、「南」を指すのか。
ヒントは、中国の「天子は南面する」という言葉にある。南は陰陽説で陽の方位とされ、皇帝は南向きに座って臣下と対面した。
北京の紫禁城などでは、玉座や建物の正面は南向きで、日本でも、長安をモデルにした平安京がこれに倣った。
実は、「北」はもともと方角を表す漢字ではなかった。人と人が背中合わせになった形のとおり、「背中」の意味。そこに、南を向く皇帝が背を向ける方角でもある「北」の意味が加わった。
そのうち、「北」は背中と全く無関係の意味を表すようになり、混乱が生じたので、生まれた字が「にくづき(月)」を付けた「背」である。
「敗北」も、敵に「背中」を見せることから、負けて「逃げる」意味を派生することとなった。
かくして、中国語の「指南」や「敗北」も日本語と同様に、方角を意識することなく使われるようになった。
そういえば第二次世界大戦で、日本が「北進か南進か」が決定的な分岐点となったことがあった。
日本がドイツとロシアを挟みうちするために「北」に進めば、戦争の様相は全く違っていた。
また、ひとりの学者が選んだ「方角」が学問にとって重要な意味をもったケースもある。
モンゴルでの馬の調査から帰国した今西錦司が、人間と同様に「馬にも”社会”がある」ことを検証するためのフィールドとして、北海道(日高)にするか九州(宮崎)にするかで迷っていた。
たまたま見た雑誌に夕が沈む都井岬の写真を見て感動したことから、「南」を選んだ。
ところが、今西が数人の学生と手弁当をもって都井岬を訪問したところ、彼らの目の前を横切ったのは馬ではなくサルであった。
今西は「馬ではなくサルだ!」と閃き、「サルの社会」の調査に切り替えた。
これが多くの人材を生み、世界的な評価を得る「京都大学霊長類研究室」誕生のきっかけである。

筑後平野は、のどかな田園風景の中を筑後川がゆったりと流れる。そうした自然の優しさが、筑後を「芸術の里」としたのは想像に難くない。
永六輔とのコンビで数々の名曲を世に贈った中村八大や作曲家の団伊玖磨も筑後川沿いで育った。
また絵画の世界では、青木繁と坂本繁二郎という近代を代表する画家も輩出している。
ところが、こうした芸術とは対照的に、昭和のテロリズムに関わった筑後人もいた。
それは、テロの実行者というわけではなく、いわば「指南人(しなんびと)」として関わっている。
久留米水天宮の神職の家に生まれた真木和泉(まきいずみ)は、1823年に神職を継ぎ1832年に和泉守に任じられる。
国学や和歌などを学ぶが「水戸学」に傾倒し、1844年、水戸藩へ赴き会沢正志斎の門下となり、その影響を強く受け「尊王の志」を強く抱くに至った。
「水戸学」といえばその影響下、1860年、水戸浪士による井伊直弼の暗殺「桜田門外の変」が起こっている。
「勅許」(天皇の許可)をえずに、日米和親条約を結んだことが、いわば水戸を中心とした国粋主義者の怒りをかったためである。
そして昭和の時代、この水戸大洗(おおあらい)において井上日召らの「血盟団」が結成され、「君則の姦」を除く意図のもと「一人一殺主義」が唱えられた。
「昭和維新」を志す水戸の若者の思想形成に、水戸学の「尊王思想」が影響があったことを否定できない。
そして、この水戸の浪士と深い関わりをもった一人の人物がいた。
真木和泉とともに久留米藩校「明善堂」で儒学者の薫陶をうけた権藤直(ごんどうすなお)である。
権藤直は、「筑後の三秀才」とよばれた医者の息子で、品川弥二郎・高山彦九郎・平野国臣とも親しく、彼の内に志士的な情熱が渦巻いていたのは確かなようだ。
実は、「寛政の三奇人」の一人・高山彦九郎は、久留米の「権藤家」の親類の家にて自決している。
そして、権藤直の息子が、昭和のテロリズムに関わることになる権藤成卿(ごんどうせいきょう)である。
権藤成卿は、明治元年に福岡県三井群山川村(現久留米市)で生まれている。
日露戦争の機運が高まる中、権藤は親友を通じて、内田良平の「黒竜会」の動きに共鳴し、権藤は内田良平への資金援助を担当したらしい。
後に、内田とは袂を分かつが、権藤は独自の構想を抱き「権藤サークル」を形成する。
このサークルを母体としながら、1920年には「自治学会」を結成した。
この「自治学会」は権藤独自の結社で、「社稷国家」の自立を叫び、明治絶対国家主義を徹底して批判した。
「社稷(しゃしょく)」とは、土の神の社、五穀の神の稷を併せて言葉で、古代中国の「社稷型封建制」に由来する共済共存の共同体の単位のことをいう。
権藤成卿は、若き日に中国に遊んだ経験があり、それが独自の「農本主義」思想を生んだといえる。
また「大化改新のクーデター」構想に思想的な確信をあたえた唐への留学生・南淵請安に理想をもとめた。
それを“日本最古の書”である「南淵書」として発表したものの、たちまち学者たちの批判を浴びることとなる。
とはいえ「南淵書」は北一輝の「日本改造法案」と並んで、昭和維新の密かな“指南書”となったのである。
権藤は1926年4月、東洋思想研究家の安岡正篤が、東京市小石川区原町に創立した「金鶏(きんけい)学院」において講義を行うようになる。
聴講生は軍人、官僚、華族が中心であったが、ここに井上日召や四元義隆といった、のちの「血盟団」の構成員も含まれていた。
そして1929年の春、権藤は麻布台から代々木上原の3軒つらなった家に引っ越した。
1軒には自分が住み、隣には金鶏学院から権藤を慕って集まった四元義隆らを下宿させ、さらにその隣には苛烈な日蓮主義者の井上日召らを自由に宿泊させた。
また、のちに血盟団事件に参集する水戸近郊の農村青年の一部も権藤の家にさかんに投宿した。
つまるところ、権藤成卿は血盟団メンバーにそのアジトを提供し、テロを幇助したことになる。
1932年2月9日、メンバー小沼正が打ったピストルの銃弾が民政党の井上準之助を貫き、菱沼五郎の銃弾が三井の総帥・団琢磨を襲った。いわゆる「血盟団事件」の勃発である。
そのターゲットとなった団琢磨もまた筑後と縁ある人物であった。
団琢磨は1868年、筑前国福岡荒戸町で、福岡藩士馬廻役・神尾宅之丞の四男として生まれた。
12歳の時、藩の勘定奉行、團尚静の養子となり、藩校修猷館に学ぶ。
金子堅太郎らと共に旧福岡藩主黒田長知の供をして「岩倉使節団」に同行して渡米し、そのまま留学する。
1878年、マサチューセッツ工科大学鉱山学科を卒業し帰国する。
東京大学理学部助教授となり、工学・天文学などを教える。るが工部省に移り、鉱山局次席、更に三池鉱山局技師となる。
1888年に三池鉱山が政府から三井に売却された後はそのまま三井に移り、三井三池炭鉱社事務長に就任した。
三池港の築港、三池鉄道の敷設、大牟田川の浚渫を行い、1909年三井鉱山会長となる。
「三井のドル箱」と言われた三池が三井財閥形成の原動力となった。
こうして團は三池を背景に三井の中で発言力を強め、1914年三井合名会社理事長に就任し、三井財閥の総帥となる。
しかし昭和金融恐慌の際、三井がドルを買い占めたことを批判され、財閥に対する非難の矢面に立つことになった。
1932年3月5日、東京日本橋の三井本館入り口で血盟団の菱沼五郎に狙撃され、暗殺された。
音楽家の団伊玖磨はその孫で、団伊玖磨の混成合唱曲「筑後川」は、今なお地元を中心に歌われている。

福岡県の久留米石橋美術館では、2021年4月初めまで「高島野十郎展」が開かれている。
久留米出身の画家として、青木繁と坂本繁二郎の陰に隠れて知名度はいまひとつであったが、高島野十郎の存在はようやく全国的に知られるようになってきた。
なにしろ、帝国大学農学部を首席で卒業して画家を志したほどの人物である。
高島野十郎が一般にも知られるようになったならば、久留米出身で夏目漱石の親友であった「菅虎雄(すがとらお)」も、もう少し知られていい。
2021年冬にJR久留米駅に近い「梅林寺」を訪問した際に、「菅虎雄」の顕彰碑を見て初めて知った次第である。
菅虎雄はドイツ文学者であるが、夏目漱石との交流を通じて、日本文学にどれほどの影響を与えたかははかりしれない。
なにしろ、夏目漱石に松山に行くことも、熊本に行くことも、それをすすめて手配したのが、菅虎雄であったからだ。
「梅林寺」の顕彰碑で、哲学者の安倍能成が「漱石が生涯を通じて最も仲のよかったのは菅虎雄であろう」と言っていることを知った。
確かに、「苦しい時の友こそ真の友」というのならば、漱石にとって菅虎雄以上の存在はいないのは確かである。
ただ久留米においてさえも、今ひとつ知名度が低いのは、権藤成卿と似ている。
実は、権藤成卿が医者の家系に生まれたのと同じように、菅虎雄もまた久留米の典医・菅京山の子として生まれている。
最初は東京大学医学部予科に入学しながら文科に転科、帝国大学文科大学独逸文学科1回卒業生となった。
「菅虎雄」が漱石伝記上に初めて姿を現すのは、1894年秋、東京・小石川指ヶ谷町の菅の新居に2、3ヶ月寄寓していた時のことである。
漱石が、突然漢詩の書き置きを残して飛び出したことがあるが、漱石の悩み事(恋愛)に関係があると思われる。
菅は、煩悶を抱え参禅したいという漱石のために鎌倉・円覚寺への紹介状を書いたり、胸の病に罹患したのではないかと心配になった漱石を北里柴三郎博士のところへ連れていったりもしている。
それにもかかわらず、翌年4月、漱石は何もかも捨てる気になり、東京専門学校と高等師範学校の教師を辞している。
この苦境を打開するために、愛媛県尋常中学校嘱託教員となる道を開いたのが、菅虎雄である。
当時、愛媛県参事官であった浅田知定(久留米出身)は同郷のよしみで菅に英語教師 1人の人選を依頼、菅が漱石に口をかけたら承諾した。
しかし、漱石は松山での教師生活には不満があったようだ。菅への手紙で、「当地の人間随分小理屈を云う」とか、「松山中学の生徒は出来ぬくせに随分生意気」とかいったことを書いている。
もっとも、こうした不平があったればこそ、名作「坊っちやん」が誕生するのであるが。
1896年4月、菅は熊本五高のドイツ語教授であったが、英語教授が必要になり、そんな漱石を推薦したところ採用された。
漱石は熊本にやって来て、菅の家(薬園町)にしばらく寄寓していた。
このように菅はしばしば漱石の苦境を救っている。
したがって、もし菅の存在なければ、「夏目漱石」という文豪の誕生もなかったのではないかと思うほどである。
ちなみに、夏目漱石と小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の間には、ちょっとした縁がある。
漱石は30歳の頃から4年間、熊本の第五高等学校で教鞭をとったが、八雲も漱石が赴任する2年前まで同じ五高に在籍していた。
また、ロンドン留学から帰国した漱石は、ほどなく東京帝国大学・英文科の教壇に立つが、その前任者も八雲だった。
さて、九州熊本に職を得た夏目漱石は、1896年9月に新婚旅行に二日市温泉にきており、「温泉(ゆ)の町や踊るとみえてさんざめく」の句を詠んでいる。二日市温泉「御前湯」の前庭に、この句碑がたっている。近くには、公卿・三条実美の句碑もある。
また、1897年 3月の終わりから 4月の初めに、久留米米方面に旅行している。
その一方で翌年9月に、菅虎雄は一高に転じ、その後、清国政府の招きで一高在官のまま南京三江師範学堂教習となって赴任した。
そこで書画の名士、清道人「李瑞清(りずいせい)」について「六 朝(りくちよう)」の書法を学び、学堂の往復以外一歩も家を出ず、その書法を会得したという。
また、夏目漱石も熊本五校から東大・一高に転じるが、1907年4月に、朝日新聞社に入社し、京都旅行に行っている。
そして菅虎雄と比叡山に登り、「虞美人草」を入社第 1 作として発表する。
漱石は終生菅虎雄を信頼し、「虞美人草」の宗近一は菅虎雄をモデルとしたものと言われている。
そして、菅虎雄も漱石の「文学評論」の題字、夏目家の表札、夫妻の墓誌などを揮毫してやり、その友情を後世に伝えている。
ところで、自分がこの冬に出会った「漱石句碑」と「菅虎雄先生顕彰碑」を久留米の梅林寺外苑に建てたのは「菅虎雄先生顕彰会」である。
この会によると、「草枕」の冒頭の「山路を登りながらかう考へた」という部分は、久留米が舞台なのだという。
漱石が見た春の風景は、漱石が久留米に行った時に高良山に登り、今の耳納スカイラインを通った時のものだという。
久留米市では、そこを「漱石の道」と名付けて句碑5つを作っている。
そんな夏目漱石と菅虎雄の友情は終生続いた。
1909年8月15日、菅虎雄夫人の静代が、お産のあと7月初めから体調を崩していたが、この日に病没した。
翌日、42歳の漱石は朝一番で小石川久堅町の菅虎雄の家を、弔問のためかけつけた。
菅夫妻の間には四男二女がいたが、上の3人の子は、漱石もよく知っていた。
そんな子供らを残していく夫人もさぞや心残りだったろうし、あとを引き受けていく虎雄の寂しさや大変さも思いやられると、手紙に残している。
菅夫人の葬儀は、龍岡町(湯島)の麟祥院で執り行われ、菅は友人とともに出席している。
生前、漱石は菅に「おれの所の門札は君が書いてくれたが、もしおれがお前より先に死んだら、俺の墓も書いてくれないか」と言うので、菅は「もしおれが先に死んだらお前さんが書いてくれ」と言って、互いに死後の約束をした。
1916年12月、漱石が先に亡くなって、菅は約束通り漱石の墓の字を書いた。東京・目白の「雑司ヶ谷墓地」にある漱石夫妻の墓がそれである。
ちなみに菅虎雄は、芥川龍之介からも尊敬され、芥川の処女刊行本「羅生門」の題字も書いている。
菅虎雄の霊は、久留米梅林寺の菅自身の筆になる「菅家累代之墓」の下に眠っている。
夏目漱石はある時期、菅虎雄にその人生を預けた感さえあり、菅は苦境時の「指南人」であったといえよう。