山中に水軍あり

人工衛星によって、トルコとアゼルバイジャンの国境近くの山中(4400m)に船体を確認という報道があった。
日本のことわざにある「船頭多くして船、山をのぼる」が該当するには高すぎる。
アラビアンナイトに「空飛ぶ船」の話はなんて登場しないが、世界史に兵隊が船を担いで山を越えたエピソードがあるにはある。
1453年、オスマントルコのメフメト2世は、70隻の船を裏山から兵隊にかつがせ海岸にでて東ローマ軍を攻撃し、物資の供給を絶った話である。
また、旧約聖書のノアの箱舟が大洪水の後に降りた場所アララト山という記載があるが、この山の旧名と一致しているため、人工衛星の船体はノアの箱舟の残骸ではないかという推測がなされている。
「山中の船」で思い出すことがある。それは、長野県の安曇野(あずみの)を旅した時のこと。
安曇野には、荻原守衛やいわさきちひろの小さな美術館が点在する芸術の地である。
この安曇野にあの神社で、この神社の由緒書きを読んで驚いた。それによれば、この地名はわが地元福岡県の志賀島の海人「安曇氏」からきているのだという。
安曇といえば、福岡には宗像族と並んで安曇族がいたのは確かだが、どうして遠く離れた山中の町に安曇野の名がついたのだろうか。
古代史の文献を調べると、筑後の磐井が朝鮮の新羅と組んで、大和朝廷と百済連合軍と戦った「磐井の乱」で、磐井側に味方した安曇族は強制移住させられた。
つまり海洋民族たる安曇族は、内陸に移されて、その最大の強みを発揮する舞台を失ったということだ。
安曇族ばかりではない。瀬戸内海の海賊として名を馳せた村上水軍にも、山中に生活の拠点を移した人々が少なからずいることを知った。
村上水軍は、平安時代末期から戦国時代まで、今の広島県尾道市から愛媛県今治市を繋ぐ、「しまなみ海道」一帯の瀬戸内海を牛耳った海賊である。
織田信長の石山本願寺(現在の大阪城の場所)攻めの時、毛利配下の水軍として、織田水軍と戦い大勝利を治めたが、第二次では鳥羽の九鬼水軍の鉄船と戦い敗北している。
山陰の小大名に過ぎなかった毛利元就が村上水軍を味方にして奇跡の大勝利、その後中国地方三カ国の大大名に成る。
村上水軍は大きく三つに分かれ、広島の因島(いんのしま)を根拠とする「因島村上氏」、しまなみ海道の中央部の能島(のしま)を根拠とする「能島村上氏」、四国本島近くの来島(くるしま)を根拠とする「来島村上氏」である。
この来島村上氏が関ヶ原の戦いで西軍につき、敗軍となった後に、改易(取り潰し)は逃れたものの今後一切水の上で暴れられないようにとの徳川家康の思惑があったのか、大分県の山奥である豊後森藩に転封させられたのである。
藩庁の森陣屋があった玖珠郡のほか、日田郡・速見郡に飛び地もあり参勤交代では速見郡からは船を使ったという。
、 この後、二代目藩主が、「来島」を「久留島」と改めて現在に至っている。
ちなみに、日露戦争でロシア(バルチック)艦隊を撃破した日本海海戦に村上水軍の「丁字戦法」を取り入れ世界の海戦史上例の無い大勝利、「東郷ターン」と呼ばれた。

1950年代に九州を沸かせた西越ライオンズは、「野武士軍団」と評されたが、意外にも「水軍」と関わりが深い。
それは、「パイレーツ」と「クリッパーズ」が合併して創立された球団であることによく表れている。
「パイレーツ」は海賊という意味で「クリッパー」は「快速の大型帆船」の意味である。
また、10Cに伊予(愛媛)日振島を拠点に海賊を率いて反乱を起こした「藤原純友の乱」の海域周辺から多くの中心選手がでている点にも、少し注目しておきたい。
なんといっても「西鉄ライオンズ」創設者である西日本鉄道社長・村上功児は村上水軍の末裔で、「怪童と呼ばれた中西太が育った四国高松、「鉄腕」とよばれた稲尾和久は別府湾、池永正明が育った下関などは伊予灘に隣接している。
もちろん彼らが海賊の末裔などというつもりはないが、そんな気風を西鉄ライオンズの面々に感じる。
それは村上社長の社員への檄「日本一の球団を作れ!」も表れている。
折しも、福岡県大牟田の三池炭鉱の労働争議は、中央の「総資本」に対する「総労働」という様相を呈していた。
さらに「西鉄ライオンズ」誕生の経緯を辿ると、1949年に読売新聞の正力松太郎の「二リーグ制」への意向を受けて、福岡に平和台球場を本拠地とするセ・リーグの「西日本パイレーツ」と、パ・リーグに所属する「西鉄クリッパース」という2球団が誕生した。
この年の夏、西日本鉄道株式会社第4代社長を引退後も影響力絶大だった村上巧児は、戦後復興に尽くす福岡の人々に明るい話題を届けようと上述の檄をとばし、社員らはこの日を境に球団結成に動き出した。
当時の平和台球場にはナイター照明さえなかったが、3交代制の炭鉱労働者なら昼間の試合でも観戦にきてくれる。
朝夕ラッシュ時以外の電車やバスの乗車率も上がるはずだと考えたのである。
しかし正力は当初、関東、関西から遠く離れた福岡の企業の新規参入に難色を示した。
困った村上は、福岡県選出の衆院議員で首相の吉田茂の女婿である麻生太賀吉(麻生太郎元総理の父)に助けを求めた。
麻生は村上に、それなら連合国軍総司令部(GHQ)の力を借りればよいとアドバイスを与えた。
そして村上は、吉田の腹心でGHQと太いパイプを持つ白洲次郎を密かに訪ねたのである。
村上には、西鉄事業部に親戚筋の中島国彦という人物がいた。
中島は、旧陸軍仕込みの行動力を買われ、球団設立の特命を担い、白洲との折衝役をつとめた。
中島は上京する度に、24年1月に発売されたばかりの福岡・中洲の「ふくや」の明太子を持参した。
白洲はこの博多の珍味を非常に気に入り、パンに塗って食したという。
その後、白洲やGHQが正力や野球連盟にどんな圧力をかけたのかは不明だが、とにもかくにも加盟交渉は急にスムーズになり、1950年11月にパ・リーグへの加盟を果たした。
はじめ球団名は「西鉄クリッパーズ」とした。参戦1年目の25年は7球団中5位に終わったが、2年目は、セ・リーグに所属する西日本新聞社所有の「西日本パイレーツ」を吸収し、「西鉄ライオンズ」に改称し、そこに総監督に招かれたのが、読売巨人軍を戦後初の優勝に導いた名将・三原脩(みはらおさむ)である。
そして西鉄ライオンズは1954年にパ・リーグ初優勝、56年からは日本シリーズ3連覇を成し遂げた。
これだけの短期間で黄金時代を築いた背景には、中島らの強力な「選手獲得」の働きがあったればこそである。
1年目は巨人から福岡・久留米商出身の川崎徳次投手を引き抜いた。
川崎は球界の情報に精通していたこともあり、翌年には川崎投手に交渉させて三原脩(みはら)監督の招聘に成功した。
次には青バットで有名な東急フライヤーズの大下弘選手で、約7か月もの折衝を重ね移籍させている。 新人獲得では、南海ホークスの名将である鶴岡一人監督が目をつけた選手を狙った。
その一人が、大分・別府緑丘高の稲尾和久投手で、大分出身だった西鉄の初代社長から当時の別府市長に入団を勧めてもらったという。
また香川・高松一高の中西太選手を入団させるため、高松に行くたびに、母親が行商していた野菜を定宿の旅館にすべて買い取らせ、坂道でリヤカーを押す手伝いをして信頼をえて、早稲田大への進学を志望していた「怪童」を翻意させた。
三原監督は香川県出身で、中西太の義父にあたるが、香川は村上水軍とライバル関係にあった塩飽水軍(しわくすいぐん)の拠点である。
瀬戸内海から豊後水道、そして筑後川を通って大宰府にでる経路も、伊予の藤原純友が海賊を率いて反乱を起こした場所である。
その本拠地日振島から、別府湾は遠くない。その別府湾が生んだ選手が稲尾和久である。
今から5年前に亡くなった元西鉄ライオンズの稲尾和久は、怪童とは呼ばれずとも「規格外」とよぶにフサワシイ人であった。
年配者の多くは1958年の日本シリーズで巨人を相手に3連敗の後、4連勝したことを忘れられないであろう。
稲尾はその4勝の勝ち星をすべてをあげて、地元紙は「神様、仏様、稲尾様」という見出しをつけた。
1961年にはシーズン42勝の最多タイ記録をつくった。
稲尾はプロで276勝を挙げて、指導者としても多くの名選手を育てたが、高校までは無名に近い存在だった。
出身は、現在の大分県立別府緑ヶ丘高校で、甲子園にも出場していない。
西鉄ライオンズに入団した当時の三原監督は、投手が少ないので打撃投手にでも使えるだろうグライの「期待」しかしていなかったという。
入団しすぐに「打撃投手」となったのだが、豊田泰光や大下弘、中西太ら「野武士」といわれた大打者と対峙する。
「打撃投手」は、真ん中に集めるとバッターが打ち疲れる。だからといって、ハッキリ判るボール球を投げると、練習にならないと叱られる。
ボールを散らせながら、しかもストライクかボールかギリギリのところに投げることに専心した。
結果的に身についたのが、針の穴も通すといわれたコントロールである。
稲尾は自分の役割にも腐ることなく、様々なことを吸収していった。
そのうち一流でも打ちにくい「鋭い」ボールがギリギリに投げられるようになる。
しかし翻ってみれば、稲尾を鍛え育てたのは、少年野球でもなくコーチでもなく別府湾であった。
稲尾は漁師の家に生まれ、別府湾で働く父に連れられて、海に慣らされるために突然海に投げ込まれた。
舟の艪(ろ)を漕ぐうちに腕力がついたし、小船の上に立ち続けることによってバランス感覚が身についた。
あの高々と足を揚げても崩れないフォームの基礎は舟の上にあったのだ。
野村克也は、投手の細かい癖から次の球を予測したが、稲尾の癖は全くわからなかったと語っている。
後年の「鉄腕」は自然のうちに育った。
また荒波にもまれながら「自然を読む」ことを学んだ。
グランドにたって風向きを読み、投げるコースを変えるなどの術もも自然に身についていった。
1シーズン42勝は、稲尾の「金字塔」だが、生まれ育った環境が生んだ「空前絶後」の記録である。
しかも、生涯の投球回数が3599回を数え、しかも生涯防御率が「1.98」という今では信じられない数字を残している。
そして、日本シリーズで、稲尾が「神様、仏様」と並び称されるキッカケとなった3連敗からの「逆転」の4連勝であった。
稲尾は7試合のうち6試合に投げて4勝を挙げた。
後年三原監督は、いくらエースとはいえ、7試合のうち6試合で起用ような無茶な采配は、シノビなかったと語っている。
「3連敗」してアトがなくなり、稲尾を出さずに負けようものなら、周囲になんと言われるか、しかし稲尾で負けたのなら皆が仕方ないと納得する。
そうして稲尾を投げさせたのだが、稲尾は自分の出場が「負け」の弁解になるのを拒み続けるかのように勝ち続けたのだ。

童謡「夕やけ小やけ」の作詞者の久留島武彦は、村上水軍「因島来島氏」の末裔である。
大分県玖珠郡森町出身の児童文学者で、森藩9代の藩主・久留島通容の孫にあたる。
中野忠八や久留島の娘婿の久留島秀三郎らとともに日本のボーイスカウト運動の基礎作りにも参画した。
1887年、大分中学(現・大分県立大分上野丘高等学校)に入学する。久留島はそこで英語教師をしていたアメリカ人宣教師のS・H・ウェンライトと出会い、ウェンライト夫妻の影響もあり日曜学校で子供たちにお話を語る楽しさを知り、キリスト教の洗礼を受けた。
ウェンライトの転勤と共にウェンライトのいる関西学院に転校し、同校を卒業する。
1924年、久留島は日本童話連盟が創立され厳谷小波らと共に顧問に就任した。同年にデンマークで行われたボーイスカウトの第回世界ジャンボリーに、日本の派遣団副団長として参加した。
このときアンデルセンの生地であるオーデンセを訪れ、アンデルセンの生家が物置同然に扱われている事や、アンデルセンの墓が手入れもされず荒れ放題だったことに心を痛め、地元新聞をはじめ、行く先々でアンデルセンの復権を訴えた。
これに心動かされたデンマークの人々は久留島のことを「日本のアンデルセン」と呼ぶようになった。
久留島武彦が、日本全国で童話を語り聞かせた口演童話活動は、大分県中津市の「童心会館」で知ることができる。
特に「ものがたりの部屋」という名のシアタールームで、久留島武彦自身のユーモアたっぷりの語り聞かせも体験出来る。
「日本を旅する部屋」があり、玖珠で生まれ久留島武彦が辿ったの転変が紹介されていて、奈良県の八咫烏(やたじんじゃ)神社や「賣太神社」(めたじんじゃ)との関わりが紹介されている。
稗田阿礼(ひえだのあれ)は「古事記」を口述した人で、この口述を太安万侶(おおのやすまろ)が聞いて書き取り、編纂している。
「賣太神社」の阿礼祭は、久留島武彦が始めたものだが、アンデルセンに匹敵する「話の神様」は、稗田阿礼が最もふさわしいという思いからかも知れない。
さて、久留嶋の中津市時代の幼馴染に、西鉄社長でライオンズを創設し井筒屋の社長もつとめ九州経済界の大物となる村上功児がいた。
村上記念童心会館は中津市に移譲され、青少年の育成に尽くした人に「久留嶋武彦文化賞」が贈られている。