「地誌」をめぐる駆け引き

朝廷がその支配を西日本一帯に及ぼすにつれ、各地の特産物を含む「地誌」の提出を求めた。
いわゆる「風土記」であるが、現在は「播磨国風土記」など5か国しか残っていない。
主な目的は、その土地に税金をかける際の対象物(特産物)を確定することが目的だが、虚偽の書いて「脱税」することも可能だが、正しく書いて提出したということは、とりも直さず「服属」の意思の表明であった。
思い浮かぶのは、ナチスの「ヨーロッパ侵攻」の件である。ヒットラーは、本来自分が画家になりたかっただけに、侵略した領土の名画を集めた。
五木寛之原作の「戒厳令の夜」は、第二次世界大戦中に日本がドイツと同盟を結んでいたために、そうした名画を福岡県筑豊の炭鉱に隠したという設定で展開する「フィクション」である。
ヒットラーにとって欲しかった戦利品のもう一がワインであった。
もっともヒットラ-のワインに対する嗜好はそれほでもなかったそうだが、ヒットラーの側近達の中にワインに目がない連中が多くいたのである。
しかしヨーロッパの国を旅して気がつくのは、何百年もかけて価値を生み出そうとするワインにかける情熱であり、ビールなどとは全く違う意味合いをもっていることである。
ワインは各人の嗜好を示すばかりではなく、「国の威信」や権力の象徴でもあった。
フランス人はワインのおかげで戦争を革命を乗り越えることができ、ワインはフランス人にとって「希望」そのものであった。
このワインの価値は「何年モノ」というのがあるように、金持ちは自分のセルラーをもって「資産価値」ともなっている。
随分昔に、イタリアのある町にワインを没収しようとやってきたドイツ人将校とその町の住民のやり取りを描いた「サンタ・ビットリアの秘密」という映画をみたことがある。
町の唯一の財産である百万本のワインを、ドイツ軍の掠奪から守ろうとするサンタビットリア住民の活躍をコメディ・タッチで描いた作品で、アンソニー・クイン演じる市長を中心に市民たちは団結してその数百万本というワインを夜昼わかたず運びついにドイツ軍が来る1時間前に、丘の中腹に隠し終えたのである。
ドイツ軍の将校は、ワインを見つけだそうと色々な手段で住民を篭絡しようとするが1びんも発見できずむなしくこの町を去らねばならなかったのである。
実はこの映画はイタリアを舞台としたフィクションで、サンタ・ビットリアは架空の町あるが、ヒットラーは占領地フランスに猟犬のようにワインのありかを探し回る「ワイン総統」とよばれた部下を配置し組織的のにワインをドイツに送り込んでいる。
フランス人もドイツの略奪に対して色々と抵抗を試み、ドイツ向けの貨物列車に忍び込んで、ワイン樽からワインをぬきとったり、銘酒のボトルに安物を詰めて送ったり、ボトルに絨毯の埃をまぶして年代物に見せかけたりしている。
戦争においては、「略奪」において敵味方はアマリ関係ないともいえる。
実はノルマンディーは、連合軍がドイツ軍と戦うために上陸した場所であり、有名なワインの産地シャンパ-ニュ地方も近く、フランスとしては最高級ワインの産地には連合軍でさえ立ち入ることを、できるだけ避けようとしたという。
「セルラー」とよばれるワイン倉庫には、高価なワインが眠っていたからである。
思い出すのは、ナポレオンのロシア遠征で、冬将軍で行き場を失った兵隊たちはシャンパンが底をつき、ロシアの方は地元だけにウォッカが自由に飲めたことが勝敗を分けたといわれる。
フランス人にとってワインは宝というよりも魂ともいうべきものであった。
フランス人はワインがあったからこそ戦争も革命を乗り越えることができたのだ。それだけに、やすやすと外国人の手に渡ることは屈辱的なことであったであろう。

大分県日田近くにある地下の坑道で酒を造っている場所をみつけたことがある。
中津江村の旧「鯛生金山」の坑道内で「黄金浪漫」という焼酎を醸造しているのだ。実は鯛生金山の坑道内は、一年を通して一定気温で加湿され、暗くてお酒の熟成には最適なのだという。
今年みたNHK「ブラタモリ」の番組で、「進撃の巨人」の作者の出身地であることが主に紹介されえていたが、印象的だったのは、江戸時代の日田について九州を「車輪」に例えて教えてくれたことだ。
九州の中心にあり、玄界灘にも瀬戸内海、北九州や筑後にも街道が通じる日田は、大名の監視に最適な立地のため全国に4つしかない郡代という幕府の重要な役所が置かれた。
山に囲まれた日田は他の藩と隔離され、癒着が起きづらく攻め込まれることもなく郡代の独立した立場を100年以上も守り続けることができた。
ただここに郡代が置かれたもう一つの理由は、知る人ぞ知る「金山」が存在したからだ。
1972年閉山の東洋一の金山であった鯛生金山は、1983年「地底博物館鯛生金山」として蘇った。
この金山を知ったの約15年前、福岡県東南部の星野村や矢部村をドライブしていた時に、山林の中で「鯛生金山まで15キロ」という小さな表示版と出会ったからだが、我が地元・福岡に接した大分県にそんな金山が存在することなどまったく知らなかったのだ。
そこで江戸時代、日田は米作りばかりではなく木材も主要な産業となった。
明治時代にはいって、福岡県の矢部との県境に近い処で鯛生金山が発見され、海外からも人が押し寄せるほど活況を呈したが、1972年に閉山となっている。
ただ、福岡県筑後地方と県境にあり日田市にも近い中津江村に位置するこの金山、なぜか知名度が低い。
当時、九州の日田は大宰府に通じる交通の要地であったがため日田は江戸幕府の直轄領なっていて、日田産の米は、幕府に納められた。
しかしこの日田が直轄領になったもう一つの理由は、鯛生金山の存在があったからではなかろうか。
しかも、この金山の存在は人々に隠されてきたのではなかろうか?
そんな疑念をもちながら、八女から車で1時間ほどかけて鯛生金山・地底博物館に行ってみると、その予測を裏付けるような展示物と出会った。
「地底博物館」の出口近くにいくと、松本清張が日田を舞台に「西海道談綺」(さいかいどうだんき)という小説を書いた際の資料が展示してあった。
1971年から76年まで連載されたこの小説は、日田の金山を「隠し金山」と想定して物語が展開しているのだ。
さらに、鯛生金山を出て車で日田に向かう途中、予期せぬものに遭遇した。
それは、「下筌(しもうけ)ダム」。下筌ダムは、山林地主・室原知幸のダム建設反対の戦い、すなわち「蜂の巣城の戦い」で有名な場所である。
山林地主だけに我が山つまり「金山」を守るという意識はなかったであろうか。

「魏志倭人伝」にある朝鮮帯方郡から邪馬台国への行程について、福岡にあった伊都国までは具体的で詳細であるにもかかわらす、それ以降は「水行10日陸行1月」などと、それまでの「○○より東200里」などといった記述に比べ、極端に大雑把になっている。
つまり「伊都国」以降は不確かな伝聞や推定に基づくものであるとして、学者たちは方角や距離が間違っていると、それぞれ「畿内説」「九州説」を唱えている。
しかし、原文(の訳文)を実際に読むと、「魏志倭人伝」の著者は、邪馬台国の「位置」を意図的にボカシたのではないか、という気さえしてくる。
少なくとも、まともに「邪馬台国」に至る道を伝える気持ちを放棄しているようにも思えるのだが、それはどうしてだろうか。
日本の古代史で「謎の4世紀」という言葉があるが、卑弥呼と台与の『魏志』倭人伝による記述は、3世紀末頃までの記述で、その4世紀からの日本の歴史が全くわからないし、中国側の記録もない。
邪馬台国は近畿説と北九州説があるが、大分県や福岡県は九州説の有力な候補となっている。
さて大分県宇佐八幡の祭神は応神天皇ということになっているが、社殿が三つ並んでいる真ん中が「宗像三神」になっているばかりではなく、宇佐神宮の宮司の宇佐氏は筑紫国の「宗像三女神」の子である菟狭津彦の後裔とされているからだ。
以上から、日本と大陸との海上ルートを握っていた北九州(宗像)と宇佐の関係、その経路に位置する「日田」の情報は、朝鮮半島や中国に伝わる可能性は大いにある。
そもそも「鯛生金山」という名前の中に、海洋民との関係が秘められているようにも思える。
仮に金山の情報が海洋民を通じて朝鮮や中国に流れていたとしたら。
魏志倭人伝を含む「三国志」の記者は各地を回って人々の話から情報を集めたが、北九州以後の情報が曖昧になる。
人々に邪馬台国に至る道程に存在する「宝」をしられたくないという気持ちが働いたとしたら。
金山はなくとも、道程そのものが軍事機密のはずだ。それを詳らかにできるだろうか。そして、そんな観点にたった研究はみあたらない。
さて、中国において「地誌」との関係でドラマチックなのは、司馬遷や張騫のことである。
司馬遷は前145年に歴史官の家に生まれた。彼は幼少より古典を読み、さまざまな文学に通じていたらしい。
前110年に、漢の武帝は天と山川を祭る、封禅の礼を行なったが、歴史官の長を務め、当然招かれるべき司馬遷の父は出席を許されず、彼はそれに憤って自殺している。
司馬遷は父の遺言を受けて『春秋』以来の歴史を埋める『史記』の著述を始める。
漢の将軍・李陵が匈奴との戦いに敗れ、捕虜となる。
李陵はわずか歩兵五千を率い、果敢に匈奴の大軍と戦い奮戦したが、武帝は彼が匈奴に降ったことを怒り、彼の家族を処刑しようとした。
武帝に同調するばかりの群臣達は、司馬遷だけは親しかったわけでもない李陵を弁護した。
ところが司馬遷の態度はあまりにも不遜な態度であるという一致した意見により、彼は宮刑に処せられる。
宦官にさせられてる絶望の中で死への思いを断ち切るように、自らを振るい立たせた。
父の遺言である『史記』を書かねばならなかったからである。
そして刑に遭ってから8年、合計130巻、52万6500字の『史記』が完成した。
司馬遷は、一身をこの一大歴史書の編纂にかけたのである。
大月氏国との同盟を結ぶことを目指して西方に向かった張騫であったが、途中で匈奴に捕らえられ、10年も過ごさなければならなかった。
その間、俘虜として生活しながら匈奴の女性と結婚、一児を設けたという。ようやく匈奴のもとを脱し、前129年ごろ大月氏国に到達した。
しかし、大月氏国側は、匈奴と戦う意図はすでになく、同盟を結ぶことはできなかった。
長安に帰る途中も、再び匈奴に捕らえられてしまったが、そこで匈奴の妻子と再会、1年ほど過ごした後、たまたま軍神単于(冒頓単于の次の単于)が亡くなって混乱している隙に、妻子を伴って脱走し、前126年、13年ぶりに長安に帰着した。
張騫の大旅行は大月氏国との同盟という目的は達せられなかったが、途中に見た大宛(フェルガナ)の汗血馬の話など、西域に関する多くの情報をもたらした。漢はちょうどそのとき、将軍衛青の指揮の下、本格的な対匈奴作戦を開始していた。
張騫も衛青に従って対匈奴作戦にも従軍した。

江戸時代に日本へ「西洋事情」を多くもたらしたのが、イタリア人宣教師シドッチである。
1708年にフィリピンから屋久島に上陸したシドッチは、伝道用祭式用の物品をたくさんに携帯し、食料品よりもその方を多く持って上陸したといわれるほどに、日本での伝道に志を抱いた人物であった。
だが、背が高すぎて目立ってしまい、念願の日本にたどり着いた直後に捕らえられ、死ぬまで江戸のキリシタン屋敷で獄中生活を送ることになった。
幕府は、シドッチをキリシタン屋敷へ「宣教をしてはならないという条件」で幽閉することに決定し、シドッチは囚人的な扱いを受けることもなく、二十両五人扶持という破格の待遇で「軟禁」された。
ところが、シドッチの監視役で世話係だった長助・はるという老夫婦が、木の十字架をつけているのが発見される。二人はシドッチに感化され、シドッチより洗礼を受けたと告白したことから、シドッチと共に、屋敷内の地下牢に移され刑死したと思われる。
その後のシドッチは、きびしい取扱いを受け、10か月後に衰弱死したのである。
一見、無駄な日本上陸にも思えるが、日本に与えた影響はきわめて大きいといえる。
シドッチは、時の幕政の指導者で儒学者の新井白石から、直接取り調べを受け、白石はシドッチの人格と学識に深い感銘を受け、敬意を持って接した。
シドッチもまた白石の学識を理解して信頼し、二人は多くの"学問的対話"を行った。
この対話の中で得られた世界の地理、歴史、風俗やキリスト教のありさまなどは、白石によってまとめられ世界地理の書「采覧異言」が書かれている。
ところで、最近豪雨で孤立者が出た屋久島の南端シドッチの上陸地点「恋泊」に屋久島カトリック教会がある。
その庭には「シドッチ上陸記念碑」が立っている。
その石碑に刻まれた内容からで、新井白石がシドッチから聞き出してまとめた書物「西洋紀聞」や「采覧異言」を読んだのが、八代将軍の徳川吉宗であったことが記されていた。
徳川吉宗は、享保の改革を行った8代将軍としてよく知られ、「米将軍」とよばれていた。
大学入試で、TV番組のタイトル「暴れん坊将軍」の”珍解答”で有名になったが、「享保の改革」で緊縮財政を布き、質素倹約を推奨していたが、町医者の小川笙船の意見をとりいれ小石川薬園の中に「小石川養生所」を設立し、これが現在の小石川植物園となっている。
とにかく新し物好きで海外の産物に溢れんばかりの好奇心を示した将軍であった。
そして、それまで清国からの輸入に頼るしかなかった貴重品の砂糖を日本でも生産できないかと考えてサトウキビの栽培を試みたりした。
また、飢饉の際に役立つ救荒作物としてサツマイモの栽培を全国に奨励するなどしている。
吉宗が行った「享保の改革」の中で、シドッチの影響を感じるのが、「漢訳洋書輸入制限の緩和」である。
また吉宗は、将軍就任直後には薬草を研究する本草学者を登用し、全国各地の薬草調査を命じ、本草学者は全国行脚に出て、情報収集と人脈作りに励んだ。
また、調査結果を基に幕府直営、諸藩経営の薬園を整備している。
青木昆陽も徳川吉宗命により、漢訳洋書を通じて蘭学を学び甘藷(サツマイモ)の栽培法などを研究している。
福岡には享保の時代より少し前に貝原益軒という本草学者を生むが、こうした時代の趨勢から「薬院」の地名の由来となる「薬草栽培」もはじまったのだろう。
吉宗のこうした「進歩的」な理念の背景には、新井白石がシドッチから聞き取った文書に触れたことが大きな影響を与えたといわれる。
「西洋紀聞」などの著述は、西洋の知識、技術の優秀性を示しており、西洋の書を読むことが奨励される発端となったのである。
こうみると、幕末維新を準備した一つの要素が「シドッチ・吉宗」ラインであったともいえる。
シドッチは日本でほとんど獄中にあったが、徳川吉宗を"媒介"として、少なからぬ影響を日本に及ぼした。