「飛び込み話」~変装・脱出

1966年、日本武道館で初めて開催されたコンサートは、ザ・ビートルズの日本公演であった。
6月30日から7月2日まで、3日間で5回の公演。
なんとなく彼らの表情が精彩を欠いていたのは、ホテルに缶詰めで自由がないという警備の厳しさ故だったかもしれない。ただ、例外が一人だけいた。
初来日の2か月前、外資系の保険代理店に勤めていた入内島登(いちじまのぼる)は、社長秘書として働いていた。
入内島が勤めていた会社がビートルズのライブの賠償保険を担当することになり、入内島がビートルズの運転手を担当することになる。
社長の乗っていたピンクのキャデラックを貸し出すことになり、当初はライブのスタッフが乗る予定だったが、車の派手さからかビートルズ・メンバーの送迎に使おうと、メンバー全員がキャデラックに乗車した。
来日2日目、ビートルズが貸し切ったホテルに送迎スタッフとして宿泊していた入内島のもとに、突然ジョン・レノンが一人で訪ねてきた。
ビートルズの4人は、ライブ会場の武道館に行く時以外は外出禁止だったが、ジョン・レノンはどうしても「骨董品店に行きたい」と入内島に嘆願する。
しかしホテルは警察や機動隊によって警備され、アリの入れる隙もなかった。
入内島は損保の社員、思いもよらぬ飛び込み話だったが、ジョン・レノンをホテルから脱走させる決断をした。
まず「カメラマンに変装」したジョンと信頼のおけるイギリス人スタッフを通じて、日本人スタッフの部屋まで来てもらう。
そして、比較的警備が手薄な業務用エレベーターを使い、地下の駐車場に降りる。
駐車場に降りるとピンクのキャデラックに乗せ、後部座席の下にジョンたちを隠してホテルを脱出した。
脱出後、入内島は都内にある骨董品店へ次々と案内する。その際、万が一気づかれてもすぐに逃げられるよう、危険を覚悟の上で店の前に車を付けていた。
しかし、キャデラックが派手だったためにすぐに居場所がバレてしまい、ジョンの脱出劇はマスコミにもバレて大々的に報道されてしまった。
さて、ビートルズ公演において前座で出演したのは、尾藤イサオ、内田裕也、ジャッキー吉川とブルー・コメッツ、ブルー・ジーンズ、そしてザ・ドリフターズである。
ドリフターズのメンバーによると、どうして出してもらったのか、いまだによくわからないという。
当時のドリフは、ジャズ喫茶では引っ張りだこで、テレビでも数本のレギュラー番組を持っていたが、世間的にはまだ知られていなかった。
そこで、日本中が注目するビートルズの公演で演奏できるというのは、ドリフにとって「飛び込んできた」話ではあった。
ただ、最初は20分出てくれという話だったのが、当日が近づくにつれ、10分、5分と短くなって、最後はとうとう「1分でやってくれ」と言われたという。
メンバーは何もかもがバタバタっだったが、歴史的公演に出られたことを感謝しているという。
ビートルズの大ファンだった志村けんが公演を見に来ていたのも、運命的な話であった。

ビートルズには、無名時代にあったひとつの運命的な出会いがある。それは意外にも、「スコットランド民謡」との出会い。
『マイボニー 』は、1962年にリリースされたトニー・シェリダンのアルバムで現代風にアレンジされ、世界的に有名になったスコットランド民謡である。
♪My Bonnie is over the ocean  My Bonnie is over the sea  My Bonnie is over the ocean  O bring back my Bonnie to me.♪。
当時の音源で聞いた人も少なくないと思うが、このアルバムでバックバンドを務めたのが、なんとあのビートルズ。
ただ当時は「ビートブラザーズ」として参加していた。
1961年、ドイツに渡りハンブルグのスター・クラブに出演していたビートルズは、そこでイギリス人歌手トニー・シェリダンと出会う。
トニー・シェリダンはイギリスのテレビ番組『Oh Boy!』に出演したことで有名になっていた。
やがてザ・ビートルズは、トニー・シェリダンと一緒にハンブルグの別のナイトクラブに出演することになった。
このクラブでの演奏に、ドイツ人バンド・リーダーで、当時ポリドール・レーベルのプロデューサーとしても活動していた人物が目をとめる。
そして1961年6月22日の夜、トニー・シェリダンはビートルズをバックにつけて民謡の「My Bonnie」を録音した。
この時について、ポール・マッカートニーは「レコード会社は僕らの名前が気に入らなくて、‘ビート・ブラザーズに変えてくれ。そのほうがドイツ人にはわかりやすいから’と言ってきたんだ。こちらもそれに従った」と語っている。
このシングルはドイツのシングル・チャートで5位にまで昇っている。
また、イギリスでは、1962年1月第1週に「トニー・シェリダン&ザ・ビートルズ」名義で発売された。
実は、「My Bonnie」はビートルズにとって運命的な作品になった。
このレコードのおかげで、「ザ・ビートルズ」がブライアン・エプスタインの目に留まったのである。
発売後まもなく、リヴァプールにあったエプスタインのレコード店を地元の音楽ファンが訪れ、「My Bonnie」のドイツ盤シングルはないかと尋ねた。
それがきっかけとなり、ブライアン・エプスタインは1961年11月9日にキャヴァーン・クラブでビートルズのライヴを観ることになった。
このシングルは、イギリスの音楽誌にザ・ビートルズのレコード評として初めて掲載されたものとなった。
それ以後の展開は、すでに語りつくされている。

ビートルズがバックバンドを務めた「マイ・ボニー」のモデルといわれるのが、歴史上の「美しいチャーリー王子」で、女装して島を脱出するなどのエピソードを残している。
さて、イギリスといえば「連合王国(UK)」であり、それを構成する4つの国スコットランド・イングランド・ウエールズ・北アイルランドは、すべてが同じ方向を向いているわけではない。
スコットランドは、「連合王国」に属しているものの、固有の法体系をもっており、ハロウイーン、キルト、バグパイプなどの独自の文化をもち、1707年までは独立した王国であった。
1637年、ステュアート朝(スコットランド系)のイングランド王チャールズ1世はスコットランドの長老派教会に対し、国教会の祈祷書を守るよう強制した。それに対してスコットランドの長老派は盟約を結び、イギリス国教会と対決すべく兵力を集め始めた。
それに対して、チャールズ1世は、スコットランドに進軍するも、あえなく敗北。
再度、スコットランド遠征をくわだてた国王は、その戦費を得るために1640年に議会を招集したが、国王と議会の対立が鮮明となり、1642年の「ピューリタン革命」へとつながっていく。
チャールズ1世は処刑され、革命を率いた護国卿クロムウェル亡き後、フランスに亡命していた息子のチャールズ2世が即位し、「王政復古」が実現。
そのチャールズ2世の死後、弟ジェームズ2世が即位するも、1688年に追放。ジェームズ2世の娘メアリー2世とその夫でオランダ総督ウィリアム3世がイングランド王として即位する。いわゆる「名誉革命」である。
これに納得ができなかった一派が「ジャコバイト」(「ジェームズ派」のラテン語)で反乱を起こす。
この「ジャコバイトの反乱」において、反乱軍の主力となったのは屈強の「ハイランダー」達だった。
「王位継承権は、ジェームズ2世の二男であるジェームズ3世にあるはずだ!」。
当人であるジェームズ(老王位僭称者)は、何度かの反乱に敗れたあと、フランスに逃亡するが、これで収まらなかった。
今度は、息子チャールズ・エドワード・ステュアートこそが正式な王位継承者であるとして、担ぎ上げられる。
彼は、イングランド側からは「若王位僭称者」と呼ばれ、ジャコバイトやスコットランド人からは親しみをこめて「ボニー・プリンス・チャーリー」(美しいチャーリー王子)と呼ばれ、ハンサムで勇敢。大変、魅力的な若者だった。
フランスで育ったボニーは、1745年の「ジャコバイト反乱」に呼応してスコットランドに上陸。 怒濤の進撃を続け、スコットランドの大半を手に入ると、そのまま南下してロンドンを目指す。しかしそれは、イギリスの間隙をついたものにすぎなかった。
イングランド軍が兵力を整えて反撃に出ると、たちまちボニー側は不利な状況に追い込まれる。
ボニーは、カトリック教徒ということもあって、期待したほどの協力も得られず、追い込まれたボニーは、ハイランドへと撤退する。
このとき彼の兵力といえば脱走兵が多く出て、すでに崩壊状態であった。
もはや決着はついているようなものであったが、イングランド軍は、それを指をくわえて見守るほど気が長くはななかった。
ボニーの軍勢は、カロデン・ムアの地に追い詰められていく。
そして1746年4月8日、カンバーランド公ウィリアム・オーガスタス率いる政府軍は、容赦なく彼らに攻撃を仕掛ける。
銃や大砲を装備したイングランド政府軍に対して、ジャコバイトの装備は貧弱で、 槍や剣、あるいはせいぜい農具のような棍棒のみ。
これでは、まるで勝負にならなかった。
ボニーは命からがら戦場を「抜け出す」が、この攻撃があまりに悲惨であったため、カンバーランド公は「屠殺者」という名で密かに呼ばれるようになるほどであった。
カンバーランド公の配下は、ボニーを追いかけてスコットランド中を探し回ったが、一向に行方をつかめなかった。
一方、ボニーは、ヘブリディーズ諸島にたどりつき、そこで、友人を訪ねて来ていたフローラ・マクドナルドという勇敢な娘に出会う。
フローラにとっては「飛び込んできた話」であったが、ボニーを女装させ、ベティ・バークという「アイルランド人侍女」だと名乗らせる。
そしてボニーを小舟に乗せ、ヘブリディーズ諸島北方のスカイ島へ導き、ボニーはそこからフランスに亡命する。
フローラ・マクドナルドは、その後逮捕されてロンドン塔に収監されてしまう。
しかし、後に釈放され、夫ともに天寿を全う。勇敢なジャコバイト女性として、歴史に名を残した。
一方、フランスに亡命したを慕い続け、ジャコバイトの人々の集まりでは、乾杯をするとき「水の向こうの王へ乾杯」と言い合あった。
その意味は、「ボニーに乾杯」という意味で、「マイ・ボニー」という有名なスコットランド民謡はこの史実が背景にある。
日本語で「いとしのボニー」のタイトルでカバーされ、その歌詞は「愛しいボニーは海の向こう側にいる、ボニーを私のもとへ返して」である。

「飛び込んできた話」といえば、エリザベス女王の下に転がり込んだメアリ・スチュアートの話はあまりにも有名である。
名誉革命から遡ること約80年、イングランドの女王がエリザベスであった時、スコットランドの女王はメアリ・スチュアートであった。
メアリ・スチュアートは、スコットランドのジェームス5世とフランスから迎えられた王妃との間に生まれた。ちなみに、ジェームズ五世は、イギリス国教会の創立者ヘンリー8世の姉の子供、つまり甥にあたる。
メアリは、父親が逝去してスコットランド王となるが、未来のフランス王妃となるために、フランスに渡り何不自由ない幸せな青春時代を過ごしていた。
そしてメアリはめでたくもフランス王妃となるが、王がすぐに死去したため19歳で祖国・スコットランドに帰国することになった。
一方、イングランドでは、エリザベス1世が王位継承者として即位していた。
そしてイングランド国内では、エリザベスがヘンリー8世の「庶子」であったことを問題となり、チューダー家の正統な血筋にあたるメアリ・スチュアートこそが「正統な王位継承者」という意見がくすぶっていた。
メアリ・スチュアートは、美貌と多才であるばかりか、フランス王・アンリ2世の息子と結婚して舅からも溺愛されていたのである。
実はメアリはスコットランドに帰国して再婚するも不幸せなものとなり、夫の殺害疑惑や別の男性との不倫疑惑・再婚など様々なスキャンダルにまみれた末、スコットランド王を廃位となり、祖国を追われる身となっていたのだ。
そして、皮肉にも、そのライバルのメアリ・スチュアートがエリザベスの下に「転がり」こんでくる。
こうした強力なライバルの存在は、絶対王権をめざすエリザベスにとって大きな脅威となった。
エリザベスは国教会で、メアリーがカトリック側という宗教的バックの違いもあった。
エリザベス1世は議会で「嫡子」と認めらたにも関わらず、なお「王位継承」を主張するメアリに対し、エリザベスは大きな「敵対心」を抱く。
そしてメアリを軟禁状態においたうえ、「謀反」の罪で処刑してしまう。
ただし、メアリの子ジェームズ6世は1707年イングランドとスコットランドの両国の王となり同君連合が実現、いわゆる「イギリス」が誕生するという面白い経過をたどる。
さて、フランス育ちのメアリ・スチュアートは、イングランドへの亡命に際し、たくさんのジュエリーを持ち込んで来た。
「ローマ教皇の真珠のネックレス」「7つの真珠のネックレス」、当時は非常に珍しかった「黒蝶真珠のネックレス」などであった。
エリザベス女王が、滝のように長い真珠を身に着けるようになったのは、メアリ・スチュアートに対する「対抗心」があったと推測できる。
ヨーロッパで17世紀頃つまりエリザベス1世の時代より普及したバロック芸術の「バロック」は、ポルトガル語で「歪んだ真珠」のことをさしている。
とはいえ、歪んだり窪んだりしていればなんでもバロックというわけではなく、それはまさしく"ペイズリーの形"をしたものが多い。
そのペイズリーとバロック(窪んだ真珠)とが、どこでどう繋がるのかは、謎である。
ペイズリーはペルシア起源と言われ、インドのカシミール地方のカシミア・ショールに使われていた伝統文様で、この植物文様の起源として西アジアに古くから伝承される“生命の樹”がモチーフとする説がある。
19世紀になると、ヨーロッパでカシミア・ショールのコピー製品が作られるようになり、その代表的生産地こそがメアリ・スチュアートの国スコットランドの港町ペイズリーだったので、一般的にも 「ペイズリー」 と呼ばれるようになった。
ヨーロッパで"バロック様式"が最盛を極めた17世紀は、イギリスやオランダの東インド会社が設立により東洋の産物が西洋に流れ込んだ時期でもあり、実はオリエンタルの影響が非常に強い時期だった。
日本は鎖国の時代であったが、長崎出島の東インド会社支店を通じて日本の文物はヨーロッパにかなり拡がり「ジャポニズム」とよばれる文化現象も起きており、例えばマリー・アントワネットの母親のオーストリア君主マリア・テレジアは、「伊万里焼」の愛好者であった。
ペイズリーは、日本では卑弥呼も身に着けていたと推測される勾玉(まがたま)に形が似ていて、「勾玉模様」ともいわれる。

とはいえ、残った40年以上をフランスで生きたボニーことチャールズ・エドワード・ステュアートは、人々を魅了した魅力的なかつての王子の姿ではなく、酒に浸る日々をおくったという。
あのカーシュナッツにも似たかたちで、ネクタイやスカーフからインテリアまで幅広く使用されるペイズリー。 1746年、カロデンの戦いの後も、イギリス政府軍によるハイランダー残党狩りは苛烈をきわめた。
のみならず反乱軍の一種のシンボルとなっていたタータンはじめ、ハイランドの「伝統衣装」は着用が禁じられたのである。
逆にいえば、禁止令をだすほどタータンには、「人々を結びつつける力」があるとみなされたのである。
ところが、18世紀から19世紀の間に、タータンやハイランド文化をめぐる状況は大きく変化した。
着用禁止令が撤廃される1782年に先んじ、78年にはロンドンハイランド協会が設立。
産業革命後の近代化が進むイギリスで、強固な民俗的アイデンティティとドラマチックな歴史をもつハイランダーは、ロマン主義の進展に伴い、文明に冒されていない素朴さと勇敢さを持つ者として理想化されていく。
ハイランド文化復興の動きによって数十年後にその禁令が解かれると、スコットランドないしは英国を象徴する文化として再び脚光を浴びるようになる。
そして、ついに1822年には、国王ジョージ4世が自らスコットランド・エディンバラ訪問の際にキルトを着用するに至る。
それは、カロデンの戦いで敗走したチャールズ・エドワード・スチュアートがかつて身に着けていたというゆかりの柄であった。
それは、「ロイヤルスチュアート」とよばれ、気品ある赤と緑の格子の「ロイヤル・ステュワート」は、世界中で最も知られているタータンの一つである。
さて、「タータン・チェック」とよくううが、「タータン」は布地の柄というよりも、氏族ごとに定められた家紋に相当する模様の総称なのである。
正確には、二つ以上の色を使い、縦・横の配列が同じ格子柄を指す。
古代ケルト人の衣装が起源といわれ、今では用途や目的によっていくつかの種類に分けられている。
氏族や家系を象徴する「クラン・タータン」や、王室に用いられた「ロイヤル・タータン」、特定の地域に結びつく「ディストリクト・タータン」などである。
さて、タータンは、タテ・ヨコの格子状が基調だが、色合いや線幅などで無数の柄が作られうる。
団体や会社でタータンを定めているところもあり、軍隊の場合には連隊ごとに固有のタータンを持っていて、タータンはスコットランドの「タータン協会」で承認登録管理されている。
ちなみに、日本からは新宿伊勢丹のタータン・チエックが登録されているという。
ところで、スコットランドの祭りといえば「ハロウイン」があるが、スコットランドの運動会的なお祭り「ハイランド・ゲームズ」も世界各地で開かれており、日本でも幕張や神戸で毎年開かれている。
「ハイランド・ゲームズ」とはスコットランドの民族衣装を身に着けて、太棒投げやハンマー投げなどの重量競技、徒競走などの陸上競技、バグパイプやドラム演奏、ダンスのコンテストなどを行う伝統のお祭りである。
バグパイプの楽隊のキルトはテレビなどで見かけることもあるが、かわいらしいタータン・チェックのスカートを巻いた男たちが力比べや格闘技などをしている様は、我々日本人の感覚からすれば、かなり違和感がある。
しかし、よくよく考えると、セーラー服は元々英国海軍の軍服だし、チェックスカートもスコットランド陸軍の軍服から転用されたもので、両方とも男性の「戦闘着」だったのである。
そんなことを思うと、かつて日本で大ヒットした「セーラー服と機関銃」(1981年)という角川映画があったが、それほど奇抜といえるほどのタイトルではないのかもしれない。

これはシングルとして発表され、そのB面には「The Saints(邦題:聖者の行進)」(ニューオーリンズ・ジャズの名曲をロック調にカヴァーしたもの)が入った。
ザ・ビートルズが有名になった直後に、ジョン・レノンはこう語っている。
「あれは、トニー・シェリダンが歌っているバックで僕らがドタバタ演奏してるだけ。ひどいもんだった。バックは誰でもよかったんだ」。
ここでリード・ギターを担当したのはジョージ・ハリスンだったが、ギター・ソロは別のレコーディング・セッションでトニー・シェリダンがオーヴァーダビングしていた。
スコットランド民謡『マイボニー』で登場する「ボニー」という名称は、スコットランドにおける歴史上の著名な人物であるチャールズ・スチュワート(Charles Edward Stuart/1720-1788)を暗示している。
チャールズ・スチュワートは、名誉革命で王位を追われたジェームズ2世の孫に当たり、ボニー・プリンス・チャーリー (Bonnie Prince Charlie)の愛称で呼ばれていた人物。
17世紀後半のイギリスでは、名誉革命によってカトリック教徒のジェームズ2世が退位し、プロテスタントのメアリー女王が即位していた。だが、スコットランドを中心とするカトリック勢力は、その後もジェームズ2世の血統に属するステュアート家の復興を目指していた。
この勢力は「ジャコバイト」と呼ばれていた。
ボニー・プリンス・チャーリーは、1745年にグレンフィナンで反乱の旗を揚げた。同年9月には首都エディンバラを陥落させ、その後の戦いでも圧倒的な勝利を収めていた。
しかし、やがてイングランド軍の圧倒的兵力の前に退却を余儀なくされる。ついには1746年4月のカロドン・ミュアの戦いで、決定的な敗北を喫することとなった。
ロッホ・ローモンド(スコットランド民謡)「ロッホ(loch)」とは、スコットランドの方言で「湖」を意味する。ロッホ・ローモンドとは、ローモンド湖の意味になる。ローモンド湖の東岸にある973mの山は、ベン・ローモンドと呼ばれ、ロッホ・ローモンドの2番の歌詞にも歌われている。
作者は未詳であるが、この歌はボニー・プリンス・チャーリーこと チャールズ・エドワード・ステュアートのことを歌っていると言われている。
1870年代に楽譜店で、プラットという人が偽名でこの歌を発表すると、大きなヒットとなった。
大学の合唱団だけにとどまらず、ほとんどの合唱団に人気があった。としている。
前述のとおり、1961年、トニー・シェリダンがロックアレンジでこの歌を録音したとき、バックで演奏していたのはビートルズだった。
1688年の名誉革命でジェームズ七世が追放され、1714年にはスチュアート朝が断絶した。
だがイギリス議会は、カトリックのスチュアート家を排除するため「王位継承法」を定め、王はプロテスタントに限るとし、ドイツからハノーバー家のジョージ一世を招いて即位させた。
するとスコットランドでは、「ハイランド」のカトリック諸侯がジェームズ七世の子でジェームズ八世を自称したジェームズ=フランシス=エドワードの王位を主張して反乱を起こした。彼らはジェームズの名にちなんでジャコバイトと呼ばれた。
1745年、ジェームズ八世の子チャールズ・スチュワート(愛らしい風貌からボニー・チャーリーと呼ばれた)がスコットランドに上陸すると、ハイランドのジャコバイト5000人がこれに呼応し、挙兵した。
彼らは帽子につけた白バラをシンボルとした。銃を一度だけ斉射し、その後銃を捨てて楔形陣形に組み替え、小楯と剣を手に絶叫しながら突撃する彼らの「ハイランダー・チャージ」戦法は、相手が銃で応戦しても、次の弾を装填する間に突入されるため手がつけられず、恐れられていた。
彼らはいつも見通しの悪い地に兵を伏せ、敵の準備する地での戦闘を避け、自軍に有利な決戦のチャンスを忍耐強く待ち続けた。
こうして大砲を持つ近代装備の軍が、中世さながらの装備の軍に撃破されるという遭遇戦が幾度となく続いた。
チャーリーはついにスコットランド全域を支配化に置き、父の連合王国王位を宣言した。
ここで彼がスコットランド王位だけを宣言していたら、歴史は変わっていたのかもしれない。だが彼はイングランドの王位をも求め、イングランドに侵攻し、ダービーまで軍を進めロンドンまであと200キロに迫った。
ロンドンの街はパニックに陥り、王室の移転すら検討されたが、約束のフランスの援軍は現れなかった。
ジャコバイト軍は補給線が完全に伸びきっており、そしてノーサンバーランドにはウェイド軍8000、バーミンガムにはカンバーランド公(ウィリアム・オーガスタス)軍1万がいた。ここでチャーリーがいちかばちかの賭けでロンドンに突入していたら、案外簡単に首都を陥落させられたのかも知れない。
だが背後に危険を感じた彼は、戦わずして撤退する道を選んだ。歴史を司る運命の女神は、人の器を見るということなのだろうか。
リーナッハ・コテージ。32名のジャコバイト軍兵士がここに逃れたが、生きたまま焼かれた。 わずか5400の兵でイギリス全土を制圧するなど、しょせん無理な話であった。
一度退却を始めた軍は目的もなくずるずると後退し、やがて食糧も尽きると脱走兵が相次いだ。スコットランドは、かつての宿敵イングランドとの連合によって戦争の脅威から解放され、かつてない平和を享受していたのである。
初めはチャーリー王子の来訪に歓喜していた人々も、時が経つにつれて急速にさめていった。
カンバーランド公(チャーリーのいとこにあたる)率いる政府軍8800はハイランドまで進撃し、ついにジャコバイト軍をカローデンに追い詰めた。
チャーリーは、南北を森に挟まれたカローデン・ミュアで迎撃することを考えた。
ジョージ・マレー将軍は、平地での決戦は政府軍の大砲を働かせることになり、また沼地ではハイランダー・チャージの利点を活かせないとして反対し、傾斜した地でのゲリラ戦を主張したが、チャーリーの決意は変わらなかった。4月15日はカンバーランド公の誕生日で、政府軍は酒宴を開いていたので、マレーは夜襲を決行することにしたが、ジャコバイトの兵たちは飢えており、夜明けまでに敵地に辿り着くことができず、そのうえ引き返す途中で食糧を探すのに時間を費やし、そのまま遊兵となりとうとう決戦に参加できなかった。
4月16日、両軍がカローデン・ミュアに布陣した。ジャコバイト軍は、見通しのよい平地で豊富な大砲を持つ政府軍に小盾と剣で戦うことになったのである。おりしもこの日は豪雨となり、風下のジャコバイト軍は顔を上げることができなかった。
政府軍の大砲が火を噴くと、ジャコバイト軍前線が崩れ始めた。チャーリーは体勢を立て直そうとしたが、氏族長たちはチャーリーのまずい指揮に腹を立て、命令に従わなかった。何とか政府軍前線に切り込んだハイランダーたちは、第2陣の銃撃を受け次々と倒された。
ジャコバイト軍はわずか60分で1250人の戦死者を出し、粉砕された。
敗れたチャーリーはフローラ・マクドナルドに助けられ、彼女の女中に変装(彼が色白の美人であったことを伺わせる)してフランスに逃れた。
彼はフローラへの感謝の印に、自らの肖像が入った金のロケットを与え「今度会うときはセント・ジェームズ宮殿で」と約束したが、それが果たされることはなかった。
亡命したチャーリーは酒に溺れる生涯を送り、捕らえられたフローラは弾圧され、アメリカに移住するが、独立戦争でイギリス王党派についたためここでも弾圧され、晩年はスコットランドに戻った。
だが本当に悲惨なのはその後だった。カンバーランド公は、ジャコバイトの落ち武者を徹底的に索し、カローデンハウスに集めて処刑し、彼らの白バラを赤い血で染めた。
カローデンハウスはボニー・チャーリーが本陣とした館で、当時はフォーブス家の館であり、現在はホテルである。
後年ケベックの戦いで有名になるジェームズ・ウォルフ将軍も副官としてこの戦いに参加し、カローデンハウスに宿泊している。
ロンドンの為政者は、一人の王が二つの議会を統治するのは無理があると考えた。
彼らはスコットランド人に、ハノーバー家のジョージを国王として認めなければ外国人として扱うという法律を制定し、経済制裁をちらつかせた。
スコットランド人もまた、イングランド植民地との貿易に魅力を感じた。大規模な買収が行われ、ついに1707年両国の合同が成立し、スコットランド議会はロンドンの議会に統合され、イングランドとウェールズに513議席、スコットランドに45議席が割り当てられた。
ハイランドには過酷な戦後処理が待っていた。バグパイプの禁止、キルト・タータン・スポーラン等の禁止、武器携帯の禁止、反乱に加担した氏族長は領地を没収され裁判権を廃止された。
さらに、大規模な牧羊がハイランドに適しているという理由で「ハイランド清掃」が行われた。
ハイランド人は土地を追われ、羊に置き換えられたのである。
彼らの議会も王室もすでになく、若い男子を戦争で失い、氏族制度は崩壊し、民族の誇りも失った彼らは、政府に勧められるままにすし詰めの移民船に乗って、栄光ある大英帝国植民地へと向かった。
彼らのうちのかなり多くがカナダに移民し、アカディアのフランス系住民を一掃して、そこにノバスコシア─ラテン語で新しいスコットランド─を建設した。
今日アカディア人の悲劇ばかりが喧伝されているが、後からやって来た人々も、このような有様であった。なお今日ゲール語の話者が最も多いのは、スコットランドではなくカナダである。