1966年、日本武道館で初めて開催されたコンサートは、ザ・ビートルズの日本公演であった。
6月30日から7月2日まで、3日間で5回の公演。
なんとなく彼らの表情が精彩を欠いていたのは、ホテルに缶詰めで自由がないという警備の厳しさ故だったかもしれない。ただ、例外が一人だけいた。
初来日の2か月前、外資系の保険代理店に勤めていた入内島登(いちじまのぼる)は、社長秘書として働いていた。
入内島が勤めていた会社がビートルズのライブの賠償保険を担当することになり、入内島がビートルズの運転手を担当することになる。
社長の乗っていたピンクのキャデラックを貸し出すことになり、当初はライブのスタッフが乗る予定だったが、車の派手さからかビートルズ・メンバーの送迎に使おうと、メンバー全員がキャデラックに乗車した。
来日2日目、ビートルズが貸し切ったホテルに送迎スタッフとして宿泊していた入内島のもとに、突然ジョン・レノンが一人で訪ねてきた。
ビートルズの4人は、ライブ会場の武道館に行く時以外は外出禁止だったが、ジョン・レノンはどうしても「骨董品店に行きたい」と入内島に嘆願する。
しかしホテルは警察や機動隊によって警備され、アリの入れる隙もなかった。
入内島は損保の社員、思いもよらぬ飛び込み話だったが、ジョン・レノンをホテルから脱走させる決断をした。
まず「カメラマンに変装」したジョンと信頼のおけるイギリス人スタッフを通じて、日本人スタッフの部屋まで来てもらう。
そして、比較的警備が手薄な業務用エレベーターを使い、地下の駐車場に降りる。
駐車場に降りるとピンクのキャデラックに乗せ、後部座席の下にジョンたちを隠してホテルを脱出した。
脱出後、入内島は都内にある骨董品店へ次々と案内する。その際、万が一気づかれてもすぐに逃げられるよう、危険を覚悟の上で店の前に車を付けていた。
しかし、キャデラックが派手だったためにすぐに居場所がバレてしまい、ジョンの脱出劇はマスコミにもバレて大々的に報道されてしまった。
さて、ビートルズ公演において前座で出演したのは、尾藤イサオ、内田裕也、ジャッキー吉川とブルー・コメッツ、ブルー・ジーンズ、そしてザ・ドリフターズである。
ドリフターズのメンバーによると、どうして出してもらったのか、いまだによくわからないという。
当時のドリフは、ジャズ喫茶では引っ張りだこで、テレビでも数本のレギュラー番組を持っていたが、世間的にはまだ知られていなかった。
そこで、日本中が注目するビートルズの公演で演奏できるというのは、ドリフにとって「飛び込んできた」話ではあった。
ただ、最初は20分出てくれという話だったのが、当日が近づくにつれ、10分、5分と短くなって、最後はとうとう「1分でやってくれ」と言われたという。
メンバーは何もかもがバタバタっだったが、歴史的公演に出られたことを感謝しているという。
ビートルズの大ファンだった志村けんが公演を見に来ていたのも、運命的な話であった。
ビートルズには、無名時代にあったひとつの運命的な出会いがある。それは意外にも、「スコットランド民謡」との出会い。
『マイボニー 』は、1962年にリリースされたトニー・シェリダンのアルバムで現代風にアレンジされ、世界的に有名になったスコットランド民謡である。
♪My Bonnie is over the ocean My Bonnie is over the sea My Bonnie is over the ocean O bring back my Bonnie to me.♪。
当時の音源で聞いた人も少なくないと思うが、このアルバムでバックバンドを務めたのが、なんとあのビートルズ。
ただ当時は「ビートブラザーズ」として参加していた。
1961年、ドイツに渡りハンブルグのスター・クラブに出演していたビートルズは、そこでイギリス人歌手トニー・シェリダンと出会う。
トニー・シェリダンはイギリスのテレビ番組『Oh Boy!』に出演したことで有名になっていた。
やがてザ・ビートルズは、トニー・シェリダンと一緒にハンブルグの別のナイトクラブに出演することになった。
このクラブでの演奏に、ドイツ人バンド・リーダーで、当時ポリドール・レーベルのプロデューサーとしても活動していた人物が目をとめる。
そして1961年6月22日の夜、トニー・シェリダンはビートルズをバックにつけて民謡の「My Bonnie」を録音した。
この時について、ポール・マッカートニーは「レコード会社は僕らの名前が気に入らなくて、‘ビート・ブラザーズに変えてくれ。そのほうがドイツ人にはわかりやすいから’と言ってきたんだ。こちらもそれに従った」と語っている。
このシングルはドイツのシングル・チャートで5位にまで昇っている。
また、イギリスでは、1962年1月第1週に「トニー・シェリダン&ザ・ビートルズ」名義で発売された。
実は、「My Bonnie」はビートルズにとって運命的な作品になった。
このレコードのおかげで、「ザ・ビートルズ」がブライアン・エプスタインの目に留まったのである。
発売後まもなく、リヴァプールにあったエプスタインのレコード店を地元の音楽ファンが訪れ、「My Bonnie」のドイツ盤シングルはないかと尋ねた。
それがきっかけとなり、ブライアン・エプスタインは1961年11月9日にキャヴァーン・クラブでビートルズのライヴを観ることになった。
このシングルは、イギリスの音楽誌にザ・ビートルズのレコード評として初めて掲載されたものとなった。
それ以後の展開は、すでに語りつくされている。
ビートルズがバックバンドを務めた「マイ・ボニー」のモデルといわれるのが、歴史上の「美しいチャーリー王子」で、女装して島を脱出するなどのエピソードを残している。
さて、イギリスといえば「連合王国(UK)」であり、それを構成する4つの国スコットランド・イングランド・ウエールズ・北アイルランドは、すべてが同じ方向を向いているわけではない。
スコットランドは、「連合王国」に属しているものの、固有の法体系をもっており、ハロウイーン、キルト、バグパイプなどの独自の文化をもち、1707年までは独立した王国であった。
1637年、ステュアート朝(スコットランド系)のイングランド王チャールズ1世はスコットランドの長老派教会に対し、国教会の祈祷書を守るよう強制した。それに対してスコットランドの長老派は盟約を結び、イギリス国教会と対決すべく兵力を集め始めた。
それに対して、チャールズ1世は、スコットランドに進軍するも、あえなく敗北。
再度、スコットランド遠征をくわだてた国王は、その戦費を得るために1640年に議会を招集したが、国王と議会の対立が鮮明となり、1642年の「ピューリタン革命」へとつながっていく。
チャールズ1世は処刑され、革命を率いた護国卿クロムウェル亡き後、フランスに亡命していた息子のチャールズ2世が即位し、「王政復古」が実現。
そのチャールズ2世の死後、弟ジェームズ2世が即位するも、1688年に追放。ジェームズ2世の娘メアリー2世とその夫でオランダ総督ウィリアム3世がイングランド王として即位する。いわゆる「名誉革命」である。
これに納得ができなかった一派が「ジャコバイト」(「ジェームズ派」のラテン語)で反乱を起こす。
この「ジャコバイトの反乱」において、反乱軍の主力となったのは屈強の「ハイランダー」達だった。
「王位継承権は、ジェームズ2世の二男であるジェームズ3世にあるはずだ!」。
当人であるジェームズ(老王位僭称者)は、何度かの反乱に敗れたあと、フランスに逃亡するが、これで収まらなかった。
今度は、息子チャールズ・エドワード・ステュアートこそが正式な王位継承者であるとして、担ぎ上げられる。
彼は、イングランド側からは「若王位僭称者」と呼ばれ、ジャコバイトやスコットランド人からは親しみをこめて「ボニー・プリンス・チャーリー」(美しいチャーリー王子)と呼ばれ、ハンサムで勇敢。大変、魅力的な若者だった。
フランスで育ったボニーは、1745年の「ジャコバイト反乱」に呼応してスコットランドに上陸。 怒濤の進撃を続け、スコットランドの大半を手に入ると、そのまま南下してロンドンを目指す。しかしそれは、イギリスの間隙をついたものにすぎなかった。
イングランド軍が兵力を整えて反撃に出ると、たちまちボニー側は不利な状況に追い込まれる。
ボニーは、カトリック教徒ということもあって、期待したほどの協力も得られず、追い込まれたボニーは、ハイランドへと撤退する。
このとき彼の兵力といえば脱走兵が多く出て、すでに崩壊状態であった。
もはや決着はついているようなものであったが、イングランド軍は、それを指をくわえて見守るほど気が長くはななかった。
ボニーの軍勢は、カロデン・ムアの地に追い詰められていく。
そして1746年4月8日、カンバーランド公ウィリアム・オーガスタス率いる政府軍は、容赦なく彼らに攻撃を仕掛ける。
銃や大砲を装備したイングランド政府軍に対して、ジャコバイトの装備は貧弱で、 槍や剣、あるいはせいぜい農具のような棍棒のみ。
これでは、まるで勝負にならなかった。
ボニーは命からがら戦場を「抜け出す」が、この攻撃があまりに悲惨であったため、カンバーランド公は「屠殺者」という名で密かに呼ばれるようになるほどであった。
カンバーランド公の配下は、ボニーを追いかけてスコットランド中を探し回ったが、一向に行方をつかめなかった。
一方、ボニーは、ヘブリディーズ諸島にたどりつき、そこで、友人を訪ねて来ていたフローラ・マクドナルドという勇敢な娘に出会う。
フローラにとっては「飛び込んできた話」であったが、ボニーを女装させ、ベティ・バークという「アイルランド人侍女」だと名乗らせる。
そしてボニーを小舟に乗せ、ヘブリディーズ諸島北方のスカイ島へ導き、ボニーはそこからフランスに亡命する。
フローラ・マクドナルドは、その後逮捕されてロンドン塔に収監されてしまう。
しかし、後に釈放され、夫ともに天寿を全う。勇敢なジャコバイト女性として、歴史に名を残した。
一方、フランスに亡命したを慕い続け、ジャコバイトの人々の集まりでは、乾杯をするとき「水の向こうの王へ乾杯」と言い合あった。
その意味は、「ボニーに乾杯」という意味で、「マイ・ボニー」という有名なスコットランド民謡はこの史実が背景にある。
日本語で「いとしのボニー」のタイトルでカバーされ、その歌詞は「愛しいボニーは海の向こう側にいる、ボニーを私のもとへ返して」である。
「飛び込んできた話」といえば、エリザベス女王の下に転がり込んだメアリ・スチュアートの話はあまりにも有名である。
名誉革命から遡ること約80年、イングランドの女王がエリザベスであった時、スコットランドの女王はメアリ・スチュアートであった。
メアリ・スチュアートは、スコットランドのジェームス5世とフランスから迎えられた王妃との間に生まれた。ちなみに、ジェームズ五世は、イギリス国教会の創立者ヘンリー8世の姉の子供、つまり甥にあたる。
メアリは、父親が逝去してスコットランド王となるが、未来のフランス王妃となるために、フランスに渡り何不自由ない幸せな青春時代を過ごしていた。
そしてメアリはめでたくもフランス王妃となるが、王がすぐに死去したため19歳で祖国・スコットランドに帰国することになった。
一方、イングランドでは、エリザベス1世が王位継承者として即位していた。
そしてイングランド国内では、エリザベスがヘンリー8世の「庶子」であったことを問題となり、チューダー家の正統な血筋にあたるメアリ・スチュアートこそが「正統な王位継承者」という意見がくすぶっていた。
メアリ・スチュアートは、美貌と多才であるばかりか、フランス王・アンリ2世の息子と結婚して舅からも溺愛されていたのである。
実はメアリはスコットランドに帰国して再婚するも不幸せなものとなり、夫の殺害疑惑や別の男性との不倫疑惑・再婚など様々なスキャンダルにまみれた末、スコットランド王を廃位となり、祖国を追われる身となっていたのだ。
そして、皮肉にも、そのライバルのメアリ・スチュアートがエリザベスの下に「転がり」こんでくる。
こうした強力なライバルの存在は、絶対王権をめざすエリザベスにとって大きな脅威となった。
エリザベスは国教会で、メアリーがカトリック側という宗教的バックの違いもあった。
エリザベス1世は議会で「嫡子」と認めらたにも関わらず、なお「王位継承」を主張するメアリに対し、エリザベスは大きな「敵対心」を抱く。
そしてメアリを軟禁状態においたうえ、「謀反」の罪で処刑してしまう。
ただし、メアリの子ジェームズ6世は1707年イングランドとスコットランドの両国の王となり同君連合が実現、いわゆる「イギリス」が誕生するという面白い経過をたどる。
さて、フランス育ちのメアリ・スチュアートは、イングランドへの亡命に際し、たくさんのジュエリーを持ち込んで来た。
「ローマ教皇の真珠のネックレス」「7つの真珠のネックレス」、当時は非常に珍しかった「黒蝶真珠のネックレス」などであった。
エリザベス女王が、滝のように長い真珠を身に着けるようになったのは、メアリ・スチュアートに対する「対抗心」があったと推測できる。
ヨーロッパで17世紀頃つまりエリザベス1世の時代より普及したバロック芸術の「バロック」は、ポルトガル語で「歪んだ真珠」のことをさしている。
とはいえ、歪んだり窪んだりしていればなんでもバロックというわけではなく、それはまさしく"ペイズリーの形"をしたものが多い。
そのペイズリーとバロック(窪んだ真珠)とが、どこでどう繋がるのかは、謎である。
ペイズリーはペルシア起源と言われ、インドのカシミール地方のカシミア・ショールに使われていた伝統文様で、この植物文様の起源として西アジアに古くから伝承される“生命の樹”がモチーフとする説がある。
19世紀になると、ヨーロッパでカシミア・ショールのコピー製品が作られるようになり、その代表的生産地こそがメアリ・スチュアートの国スコットランドの港町ペイズリーだったので、一般的にも 「ペイズリー」 と呼ばれるようになった。
ヨーロッパで"バロック様式"が最盛を極めた17世紀は、イギリスやオランダの東インド会社が設立により東洋の産物が西洋に流れ込んだ時期でもあり、実はオリエンタルの影響が非常に強い時期だった。
日本は鎖国の時代であったが、長崎出島の東インド会社支店を通じて日本の文物はヨーロッパにかなり拡がり「ジャポニズム」とよばれる文化現象も起きており、例えばマリー・アントワネットの母親のオーストリア君主マリア・テレジアは、「伊万里焼」の愛好者であった。
ペイズリーは、日本では卑弥呼も身に着けていたと推測される勾玉(まがたま)に形が似ていて、「勾玉模様」ともいわれる。