聖書の言葉より(私に繋がっていなさい)

新約聖書には、イエスが語った「ぶどうの木」のたとえばなしがある。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない」(ヨハネ15章)。
さて、イエスは「たとえ話」を、いつも身近な題材から語っているが、パレスチナもぶどうが自生しており、ぶどう酒つくりが行われていた。
実際、旧約聖書には「エシコル」の谷と呼ばれた場所があり、この地名はそこで切り取ったぶどうの一ふさにちなんだ名である(民数記13章) 。
ここを産地とするブドウ「ネへレスコール」は、 シリア原産で、長さは平均で約50センチ、重さ約2キロにもなる。
世界一大きな房ができるとされ、大きいものでは1メートル、5~6キロにも育つ。
旧約聖書に二人がかりで運んだブドウのことが記されているのは、このぶどうのことと推測されている。
さて世界のブドウの種類は大きくわけると三つに分かれる。
欧州・中東、北アメリカ、アジア系の産であるが、ブドウの歴史の中で最大の危機が1860年代に起きている。
それは、フィロキセラ(和名「ブドウネアブラムシ(葡萄根油虫)」という害虫によってもたらされたものであった。
フィロキセラとはその名の通り葡萄の樹の根っこに寄生して、葡萄の樹を腐らせてしまう、ワインの天敵ともいえる存在である。
この害虫の威力は凄まじく、一時は世界中の葡萄畑を壊滅の危機に追いやってしまったほどであった。
そのフィロキセラの被害が最初に確認されたのが1863年。ワインの歴史においてあまりに重要な事件のため、ソムリエ試験にこの年を覚えずに臨む人はいないという。
フィロキセラはもともとは北アメリカに生息していたが、北米系種の葡萄の樹はフィロキセラの耐性があったため、特に大きな被害は確認できなかった。
しかし、世界の交易が活発になるとアメリカの葡萄の苗木をフランスに持ち込んで、自分の葡萄畑に植えた生産者がいた。
すると、みるみるうちに葡萄が枯れてしまい、畑が壊滅状態になってしまった。
一方、ヨーロッパ系種の葡萄であるヴィティス・ヴィニフェラ種はフィロキセラの耐性がなかった。
また、フィロキセラは繁殖力も極めて高かったため、被害は瞬く間にその後10年間でフランス全土に広がってしまう。
その結果、フランスのワイン産業は壊滅の危機に陥るまでに至ってしまった。
フランス政府は賞金をかけてまで、フィロキセラ対策のアイディアを募った。
当然ながら、フィロキセラの耐性のあるアメリカ系種の葡萄でワインを作ればよいという意見がでた。
しかし、繊細で美味しいワインを生み出す葡萄は、どうしてもヨーロッパ種であるヴィティス・ヴィニフェラ種でなければ難しかった。
実際に、現在ではヨーロッパ以外の大陸でもワインは作られているが、ほぼ全てがヴィティス・ヴィニフェラ種というヨーロッパ系種の葡萄を植えてワインを作っている。
そして1906年、こうした試行錯誤の末に生まれたフィロキセラの対策が、「接木」という技術である。
植物は苗木の段階などで切断した植物同士を密接させることで、異なる植物を1つに繋げることができることは昔から知られたワザである。
接ぎ木は多くの場合、接ぎ穂(その良い実)と台木(その活力と強さ)双方の有利な特色を結び合わせることを目的として行なわれる。
接がれた枝は、定着してからは異なった台木から養分をもらうが、その枝を取った木と同じ種類の実をならせる。
フィロキセラは葡萄の「根」のみに寄生する。つまり、根っこだけを耐性のある北米系種にして、実を付ける上半分だけをヨーロッパ系種にすればよいのではないのか、という発想であった。
そして、この方法が功を奏する。つまり、下半分を北米系種にしたことで葡萄は腐らず、上半分をヨーロッパ系種にしたことで繊細な味わいを表現できる葡萄の実を付けることに成功したのである。
接木をした葡萄よりも自根の葡萄の方が、やはり味わいが良いという意見もあるが、現実的にはこの接木がベストの解決策だった。
ワインの危機は、このように「接木」の技術によって乗り越えることができたのである。
それにしても、ワインを生み出す世界中の葡萄の樹のほとんどが、下半分と上半分で異なる葡萄の樹からできているということは、一般の方々にはあまり知られていない驚きの事実である。
そういえば、日本で間もなく開花期を迎えるソメイヨシノにも、驚きの事実が隠されている。
日本の花見は古来、和歌に詠われたヤマザクラが対象だったが、今ではソメイヨシノが主役となっている。
「接ぎ木」による栽培で増えてきたからで、どの木も遺伝子が同じで均一の性質を持つクローンであるため、一斉に咲いて散る演出をもたらす。
クローンの弱点として1つの病虫害が一気に大流行しかねないことなので、こうしたクローンがこれほど広がるのは異例なのだという。
ただ、同じ遺伝子でも、遠く離れた違う環境で生育できれば、病虫害からまぬかれる可能性は高くなる。
現在、ワシントンのポトマック河畔には日本から送られたサクラが市民の心をなごませている。
毎年春になると、河畔は満開の桜で覆われ、水面に映る美しい景観を楽しむ人々は60万人にのぼる。
日露戦争の際、アメリカのセオドア・ル-ズベルト大統領が日本とロシアとの戦争を仲介し日本が勝利を得ることになり、日米友好の機運が高まっていた。
そして日本からアメリカにサクラが送られるのだが、直接のきっかけは、次期大統領になるウイリアム・タフトが陸軍長官であった頃、その夫人とともに上野公園を訪れた時のことであった。
その時夫人は、上野公園でソメイヨシノの美しさに心を奪われた。そして、ポトマック河畔を埋め立てできた新しい公園に何を植えるか考えた時に、上野でみたソメイヨシノを思い出したのである。
そして夫人の友人に「日本での人力車旅行」などを書いたエリザ・シドモアという大の日本びいきのジャーナリストがおり、彼女が夫人の思いに賛同しその実現を促すことになった。
たまたまニューヨークに住んでいた科学者で「タカジャスターゼ」でしられる高峯譲吉などを通じてタフト大統領夫人の思いが外務省や東京市長だった尾崎行雄に伝わった。
尾崎は「憲政の神様」と呼ばれた人物で、太平洋戦争では日独よりも日米関係を重んじた「親米的」な人物であったことが幸いした。
そしてサクラがいよいよ日本より、万全の体制で育てられた苗木11品種6040本がアメリカに送られ、1912年3月シアトル経由ワシントンに無事到着したのである。
というわけで、ポトマック河畔のサクラは日米友好のシンボルとなったのだが、タフト大統領夫人からサクラのお返しに送られたのが「ハナミズキ」であった。
ハナミズキは、「返礼」「私の思いをうけとってください」を花言葉とするため、まさに「お返し」にうってつけの花であるが、シンガーソングライターの一青窈はこの「日米友好」の歴史的事実にちなんで、9・11テロ後に「ハナミズキ」と題する歌をつくった。
さて、こうした同じ遺伝子をもつソメイヨシノが生き延びたことから、ユダヤ人が世界に散ったことについての新たな知見が得られる。
ユダヤ人は、バビロン捕囚やローマ帝国の攻撃などで国を失ったのであるが、長い目で見ると敵国どうしであっても、ユダヤ人同胞が敵国の存在することや、様々な地域で差別をうけつつもそこに適応するばかりか、指導的的存在にさえついている。
ユダヤ人は、長く世界に散って同じ信仰とビジョンをもって生きてきたので、固まって生きるよりもディアスポラ(離散)の方が、「生き残り戦術」としては、よほど優れた戦術ではなかったのではなかろうか。

冒頭に記したイエスによる「ぶどうの木」のたとえ話は、次のように続いている。
「人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう」。
さて、「聖書」とはいかなる書物かといえば、しばしば神と人間との間の「契約の書」といわれる。
旧約聖書は「律法」を内容とした神とユダヤ民族との「旧い契約」が書かれているが、新約聖書は神と人類との「福音」を内容とした神と人類との「新しい契約」が書いてある。
ちなみに、旧約の「出エジプト」は新約における「この世」(エジプト)からの救い出し、「神の国」(蜜の流れるカナーンの地)に入ることの「ひな形」であり、旧約はしばしば新約の「型」というような関係でもある。
新旧の契約の大きな違いは、旧い契約が「イスラエルの民」と結ばれたのに対して、新しい契約の方は広く「人類」と結ばれたということである。
いいかえると、神との契約の対象が選民たる「イスラエル(ユダヤ人)」から「異邦人」に広がったということだ。
それでは、イスラエルは神の選民たることは無効になったのであろうか。聖書全体をみるかぎり、イスラエルは選民たる立場をけして失っていない。
むしろ、イスラエルの血統とは何の縁もない異邦人が、イスラエルの民と同じような系統に加えられるという見方が正しい。
パウロは「それではユダヤ人の優れたところは何か」と問うたうえで、「それは、いろいろの点で数多くある。まず第一に、神の言が彼らにゆだねられたことである」(ローマ3章)といっている。
ただ、律法に精通していたパウロは自らを「その当時はキリスト無く、またイスラエルの民籍に縁無く、(従ってアブラハムとその子孫に対する神の大なる)約束に基づく種々な契約にも与らず、この世において希望なく、また神無き人であった」(エペソ2章)と語っている。
それにしても、異邦人がイスラエルの民に加えられるとはどういうことなのか。
パウロは、アブラハムの子孫たるイスラエル人と異邦人との関係を「接ぎ木」にたとえて、次のように語っている。
「しかし、もしある枝が切り去られて、野生のオリブであるあなたがそれにつがれ、オリブの根の豊かな養分にあずかっているとすれば、あなたはその枝に対して誇ってはならない。たとえ誇るとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのである。 すると、あなたは”枝が切り去られたのは、わたしがつがれるためであった”と言うであろう。 まさに、そのとおりである。彼らは不信仰のゆえに切り去られ、あなたは信仰のゆえに立っているのである。高ぶった思いをいだかないで、むしろ恐れなさい。 もし神が元木の枝を惜しまなかったとすれば、あなたを惜しむようなことはないであろう」(ローマ人11章)。
このたとえ話では、ユダヤ人は神が栽培したオリーブにあたる。
しかし彼らの圧倒的な多くは、救い主を信じなかったものであるため、神は彼らを「折られた枝」としたのである。
その一方で、「野生のオリーブ」とは、異邦人にあたり、イスラエルの血筋とは無関係であった彼らその中から救い主を信じた人たちは、もとのオリーブに接ぎ木されたと表現されている。
つまり、異邦人でもイスラエルの系統に接ぎ木されることによって、アブラハムたちの先祖たちに与えられた約束が、彼らの上に実現するということにほかならない。
結局、異邦人であっても、信仰で神に繋がっている限り、イスラエルの祝福、つまりアブラハムに与えられた祝福の約束にあずかることができるということである。
ただパウロは、異邦人はそのことを誇らず恐れれなさいと警告している。なぜなら、信仰にとどまり続けなければ、異邦人もまた折られ、恵みから切り離されるといっているのだ。
また、接ぎ木でポイントが「接続面」であるよに、そこには正しい洗礼と受霊が重要となる。
さて熱心な律法学者の家に生まれたパウロは、「クリスチャン」の名乗る人々を捕縛するためにダマスコの街に乗り込もうとした途上、一時的に目が見えなくなるほどの強烈な光を浴び、劇的な回心を果たす。
それまでパウロは「救いはユダヤ人のもの」であると思い込んでいた。
ところが、異邦人が聖霊をうけて祈る言葉を聞いて、「異邦人」がユダヤ人と同じく「神の救い」にあづかることを目撃した(「使徒行伝」10章45節)。
そこでパウロはこれ以降、神の救いを「拒絶する」ユダヤ人よりも、「異邦人」伝道に方向を変えて力を注いでいく。
それは一見「ユダヤ人の救い」を忘れたかのようにもみえるが、パウロの「本心」は決してそうではなかった。
パウロは「かえって、彼ら(ユダヤ人)の罪過によって救いが異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためであり、神は、イスラエルの不信仰の罪を、むしろその恵みの福音(救い)が異邦人の世界すなわち、全世界に伝達される驚くべき機会とされたのである」(ローマ人11章)と語っている。
パウロから見て、ユダヤ人はイエスを「十字架につけた」人々であるが故に、イエスの「本質」を全く見誤っていたいたことは事実である。
しかしイエスの死後、イエスの一つ一つの行動を降り返ってみると、旧約聖書でなされた「預言」の成就であることをベールが剥がれるように理解しはじめたのである。
そして、50日を経た後に聖霊が降り、エルサレムで初代教会が成立する。
そしてパウロは、神の計画の下で、「イエスの十字架の死」はどうしても必要なことであり、ユダヤ人は「過ち」を犯したというよりも、むしろな歴史的な「役目」を果たしたという見方をしている。
ヨーロッパに広がったキリスト教社会では、ユダヤ人は「イエスを十字架に架けた」民族として差別されるが、実はこの「十字架の死」で血を流すという「罪の贖い」がなければ、イエスの教えが「福音」なる「キリスト教」が成立することもなかったのである。
そういう意味で、イスラエルは「正しく」誤ったといえる。そういう意味で、ヨーロッパでユダヤ人が「イエスを十字架につけた民族」として差別されたのは、的はずれなことであった。
パウロは次のように断じる。「彼らがつまづいたのは、倒れるためであったのか。断じてそうではない。かえって、彼らの罪過によって、救いが異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである。しかしもし、彼らの罪過が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となったとすれば、まして彼らが全部救われたなら、どんなにかすばらしいこだろう」。
さらにパウロは、イスラエル人が実際に「顔覆い」がとられ、回心し救うわれる時がくることをも預言している(第二コリント3章)。
最後にパウロは、上記の「接ぎ木」のたとえ話を、次のようにくくっている。
「神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう。しかし彼ら(イスラエル)も、不信仰を続けなければ、つがれるであろう。神には彼らを再びつぐ力がある」と。

わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない