戦場のランチおよびアート

福岡博多駅近く、住吉通りに面した住吉神社の裏手に「楽水(らくすい)園」がある。
江戸時代末期の博多商人が1905年に作った別荘を茶室として改築して建て、この庭園が造られた。
この庭園を囲んでいるのが、「博多塀」とよばれる独特の壁である。
戦国時代、たて続けの戦乱で廃墟となりつつあった博多の町を豊臣秀吉が復興する時、焼け石や焼け瓦などをつかった土塀をつくった。
これが「博多塀」だが、側面からみると、瓦が波のように脈打って風情がある。
乱で復興の資材が不足している中で、人々はそれなり工夫して面白く楽しげなものを作り出した、いわば「戦乱のアート」である。
ただ、「楽水園」の博多塀は、当時の歴史をたどって職人が復元したもので、整いすぎている。
こうした「博多塀」は、ここ以外にも聖福寺や崇福寺や櫛田神社などでも見ることができる。
江戸時代には、長く続いたこの塀を「博多八丁塀」とよんでいたという。
さて、戦国時代に博多の町を焼け跡にしたのは、博多商人と結んだ大内氏と堺商人と結んだ細川氏による「貿易の実権」をめぐる攻防で、両者の争いは朝鮮半島にまで飛び火している。
大内氏の山口にあって「焼き瓦」を使った蕎麦が地元の名産となっている。
TV番組「逃げるは恥だが役に立つ」のなかで、星野源と新垣結衣が「瓦そば」を一緒に作って食べるシーンがある。実際、星野演じる「平匡(ひらまさ)」は山口出身の設定となっている。
案外二人にとって「瓦蕎麦」は、「縁結び」の効用があったのかもしれない。
とにかく、食後の達成感(どっしり感)はトップクラスの食材ではなかろうか。
「瓦蕎麦」といえば、しっとりした風情の茶そばが、こんがり炒められ、香ばしくモチモチ麺に仕立てられている。また、麺の上には彩り豊かな錦糸卵に海苔、ネギ、そして牛肉山盛りに添えられる。
紅葉おろしと輪切りレモンを入れた熱々のつゆにとぷんとつけて、甘辛のつゆにネギの香味とレモンの酸味。ぴりっと紅葉おろしが口中を刺激する。
しかし何といっても一番の特徴は器(うつわ)自体、それが塗料なしの「屋根瓦」となったのはどうしてだろうか。
「瓦蕎麦」誕生は1962年のこと、場所は下関の奥座敷「川棚(かわたな)温泉」。
旅館業を営む高瀬慎一が、下関のフグに匹敵する名物にと、「元祖瓦そば たかせ」創業した。
、 西南戦争で薩摩軍が肉や野草を瓦で焼いた話を古老に聞き、当時営んでいた旅館でと出したのが始まり。
瓦は島根の「石州瓦」で、100度近くに熱すれば食べ終わるまで熱々なのだ。
少々気になるのは、薩摩軍の「野戦料理」が原点であること。山口は、西南戦争当時、薩摩と対立していたのだが、一度は同盟を結んだ仲。
たもとを分かったとしても気になる存在に変わりない。そんなことから、薩摩軍の野戦料理も人づてに伝わり記憶に残り、語り継がれたのではないかという。
「瓦蕎麦」は、縁結びばかりか、“恩讐(おんしゅう)を超えた”料理というわけだ。
そこでつ思い浮かべるのが、兜(かぶと)に乗せて食べる「ジンギスカン料理」である。
羊の肉が日本で食べられるようになったのは、大正時代になってからで、満州へ進出していた日本人が、現地の人々が羊を煮たり焼いたりして食べているのを見たのがきっかけであった。
そして昭和にはいると、軍服用に羊毛が必要になり、羊の飼育が奨励さえれたことで、羊の肉が食用にすることとなった。
ジンギスカンに用いる鍋が、チンギス・ハンが率いるモンゴル兵達がかぶっていたモンゴル兜に似ていたことから名付けられたという説もある。
チンギス・カンが遠征中に、羊の肉を兵士達と食事をしていたことから、「ジンギスカン」という料理の名前になったという説があるが、モンゴル料理にそのようなものはない。
北海道が発祥地と考えられやすいが、実際は1935年東京の「成吉思汗荘」という店が最初の専門店なのだという。
ジンギスカン料理は、ちょうど「バイキング料理」が日本で生まれた言葉であるように、日本由来の名前であるといってよい。

沖縄料理には、ソーキ蕎麦など料理が数々あるが、泡盛などが沖縄の海やサンゴを想起させるデザインの「琉球グラス」にもられてでてくる。
このグラス作りを始めたのが、稲盛盛吉という人物。ガラスの表面に無数の泡が浮かぶデザインで、国内外の芸術賞を受賞し、多くの観光客を魅了してきた。
稲盛は5歳で沖縄戦を体験し、中学卒業後の16歳ころにガラス職人の道を歩き始めた。
1950年代、コカコーラなどの廃ビンを利用して作ったワイングラスが、米軍人やその家族で重宝された。
稲盛は、本土復帰を挟んで幾つかの工房を渡り歩き、その技を磨いた。
試練となったのは、泡の存在で廃ビンは不純物が混じるために、気泡が入り透明度が失われ二級品といわれた。試作をかさねてもすべての泡をけすことはできなかった。
それならばと、泡だらけのガラス製品を考案した。強度の弱さは焼く回数を増やして補った。
原料にカレー粉や黒糖、備長炭を混ぜることで気泡をデザインに昇華させ「泡ガラス」が誕生した。
現在は、息子が後を継いで新たなグラス創りに挑戦している。
米軍嘉手納基地ゲート前の、沖縄市戦後文化資料展示館「ヒストリート」に並ぶのは、芸術家の作品ではなく、地域で暮らす人々が生み出した日用品の数々、 いわば支配者が出したゴミの中に、日常を生き抜くヒントがあり、やがて芸術の域に達した。
缶詰の空き缶を使った三線(さんしん)、軍用機の資材をとかしてつかったヤカン、弾薬箱の衣装ケースなど。
地上戦で荒廃し、そのまま27年間にわたって米軍統治下におかれた沖縄は、物資が乏しい中、米軍の武器が生活用具に変り、ゴミが楽器になった。
コーラの空き缶は真っ二つにして、上の部分は風鈴に、下はコップになってお茶や泡盛が注がれた。
「琉球グラス」の考案者の稲盛盛吉も、ガラスつくりの為に、米兵が飲み干した空き瓶をよく拾い集めたと語ったという。
沖縄でも大半のガラスつくりは、通常の製法どおりで、石灰やソーダ灰といった原料をつかう。
しかし息子もまた「廃ビン」にこだわる。捨てられてしまうものに息を吹き込み、命を宿らせる。
それが父親が感じたガラスつくりの魅力だったと語る。
もとは不純物であった泡が幾重にも重なる様は、機上から見える海にも、潜った先の深海にも見える。つまり観た人によって違う景色にみえるというものだ。
それは、沖縄のこころと知恵が生んだ日常品だといってよい。
沖縄読谷(よみたん)村にあるその工房では、真赤になったガラス玉を吹き竿とよばれる長い金属管の先に巻き取り、竿の穴から息を吹き込んでいく。

「食べ物のうらみは一生忘れない」という言葉があるが、逆も真なりで、「食べ物の恩」についてもあてはまるもしれない。
戦後、日本の子供達がアメリカの兵士たちに好意をもったのは、彼らが配ったガムやチョコレートの味が忘れられぬほどにおいしかったからかもしれない。
もっともアメリカが送ったのは、日本人との戦闘に参加したことのない、つまり日本人にいかなる「敵意」も持たない若き米兵(GI)だった。
その中にはドナルド・キーン氏のように、「源氏物語」の日本に憧れを抱いてやってきた「情報将校」もいた。
実は、アメリカは兵士に「軍用チョコレート」というものを配給していたのである。
このチョコレートは、1937年から「標準配給品」(レーション)の一つとなり、「野戦配給品」の一部となっていた。
そしてその主な目的は二つあった。一つは士気高揚のためであり、もう一つはポケットサイズの「高エネルギー非常食」とすることであった。
そこで「軍用チョコレート」は通常、重量、サイズ、耐熱性の面から「軍仕様」の特別なロットで製造されたという。
こうして製造された「軍用チョコレート」の大部分は、米国チョコレートメーカー最大手の「ハーシー」が製造していた。
実は「ハーシー」は、1990年の湾岸戦争でも砂漠の盾作戦・砂漠の嵐作戦期間中、「新しい耐熱性チョコレート」を開発して、デザート・バー「Desert Bar=砂漠バー」と名づけた。
ハーシーの発表では、このチョコレートは摂氏60度以上の「高温」にも耐えるとしている。
そのキャッチコピー「お口で溶けて手で溶けない」は、軍用チョコレートに求められる「簡単に融けてしまわない」という条件を、キャンディ・ーコートという手法て解決したものであった。
キャンディー・コートとは、スペイン内戦で兵士たちの口を楽しませていた砂糖でコートされたチョコレートをヒントに生まれたものだというから、「戦時食」の歴史には奥深いものがある。
さて日本人の家庭料理といえば「肉ジャガ」が定番だが、意外や東郷平八郎が留学先で食べたビーフシチューを無理やり再現させようとして作らせた結果、生まれた料理だそうだ。
当時、「舞鶴鎮守府」の初代鎮守府長官に着任した東郷提督は、イギリス留学時代に食べたビーフシチューの味が忘れられず、部下に「ビーフシチューをつくれ」と命じたのであった。
しかしビーフシチュー等知らなかった料理長が、 デミグラスソースの代わりに「醤油と砂糖」を用いて悪戦苦闘の末に作りあげたのが、「肉ジャガ」だったのである。
以後肉ジャガは、洋食の代用食として効果的に牛肉を摂取させる事が出来る「画期的料理」として海軍で大いにもてはやされた。
また、帝国海軍の食べ物と言えば「海軍カレー」が有名だが、こちらは「横須賀鎮守府」が採用したのがキッカケである。
日露戦争当時、主に農家出身の兵士たちに白米を食べさせることとなった海軍の横須賀鎮守府が、調理が手軽で肉と野菜の両方がとれるバランスのよい食事としてカレーライスを採用した。
海軍当局が1908年発行の「海軍割烹術参考書」に掲載して普及させ、海軍内の脚気の解消に成功した。
そして、第一次世界大戦を通じ、海軍、陸軍ともに「海軍カレー」の普及につとめたのである。
また、我が地元・福岡の食べ物「がめ煮」も戦時食として生まれた料理という説がある。
「がめ煮」は、とり肉や野菜などいろいろな材料を使うので、博多の方言で「よせ集める」という意味の「がめくりこむ」から名前がついたという説がひとつ。
もうひとつは、豊臣秀吉が朝鮮に出兵する時に博多に立ち寄り、「栄養補給」のためにスッポンをつかまえて野菜と煮たことから、スッポンの博多弁「がめ」からきたという説がある。
1500年代の後半、豊臣秀吉が朝鮮出兵をしたころは、筑前地方にスッポンがたくさんいて、スッポンとアリアワセの野菜で煮物をつくり「がめ煮」とか、「かめ煮」と呼んでいた。
昔、福岡県北部を「筑前(ちくぜん)の国」といっていたことから「筑前煮」とも呼ばれた。
「筑前煮」は、野菜と肉をいっしょに煮たものだが、ほかの煮物と違うのは、最初に油で炒めてから煮るという調理法である。
福岡の郷土料理であったが、オイシイので「全国的」に知られるようになった。
筑前では、お正月や結婚式などの「祝いの席」では欠かせない料理となっており、福岡の郷土料理として「農山漁村の郷土料理百選」に選ばれている。
「がめ煮」に入っているレンコンやゴボウなど、カミごたえのある野菜を食べると、「かむ回数」が増え、早食いを防いだり、だ液がよく出て「消化」がよくなるという。
そうした効用のせいか、実際に陸上自衛隊の「戦闘糧食」として筑前煮が支給されるという。
「軍隊は胃袋で動く」と言葉を残し、早くから軍隊における食糧の供給問題に目を付けていたナポレオン・ボナパルトは、フランス人兵士向けの「携帯食料」としてアイデアを募った。
これに応募したニコラ・アペールの案が採用されたモノが「缶詰」の始まりである。
「缶詰の原理」となるアペールのアイデアは、調理した食品を「ビン」に詰めて温め、空気を追い出しコルク栓をする事で保存する方法であった。
この「保存方法」の発明に対し、ナポレオンは1万2千フランの賞金を贈っている。
しかし「ガラス瓶」では割れ易く輸送面でも難があった。
そこで1810年には当時フランスと戦争状態にあったイギリスでピーター・デュランドが現在の缶詰の原型となる「金属製密閉容器」に食料を封入する方法を考案した。
ちなみに「缶切り」が出来たのは缶詰よりも後で、戦場では「銃剣」によって開封が行われていた。
しかし、どうしても食べた後の「空き缶」が発見されやすい。また、メニューが単調では食事に飽き士気の低下にもつながるとして、容器やメニューの「改良」が続けられた。
そして1858年、アメリカ合衆国のエズラ・J・ワーナーにより、缶詰に突き立て、引き廻し開ける「缶切り」が発明された。
また、1869年にナポレオン3世が、軍用と民生用のためにバターの安価な代用品を募集したところ、フランス人のイポリット・メージュ=ムーリエが牛脂に牛乳などを加え硬化したものを考案した。
これは、「オレオマーガリン」 という名前がつけられ、後に省略して「マーガリン」と呼ばれるようになった。
さて、日本では、戦国時代の武士たちは、「握り飯」を作って竹の皮などに包んで懐に入れて携行した。
また肩に斜めにかける小袋を用いて携行することも行われた。
「忍びの者」は、噛めないくらいに「硬い煎餅」のようなものを作っておいて、それを懐に入れて携行した。敵を密かにに監視する時など、それを口にふくんでおいて、「かまずに」長時間かけてゆっくり溶かすようにして栄養補給を行ったという。
ところで日本の「背くらべ」という歌に、「ちまき食べ食べ兄さんが 測ってくれた背の丈」という歌詞がある。
中国において、「ちまき」は水分を吸わせた「もち米」を直接葦の葉で包み、ゆでる、もしくは蒸す。
米と一緒に、味付けした肉、塩漬け卵、棗(なつめ)、栗などの具や、小豆餡などを加えることが多い。
また、アワビやチャーシューを包んだものもある。
中国の伝説では、楚の愛国者で政治家・詩人だった屈原が、汨羅江(べきらこう)で入水自殺した。
その後、民衆が弔いのため、また魚が屈原の「亡骸」を食らって傷つけないように、端午の節句の日(端午節)にササの葉で包んだ「米の飯」を川に投げ入れたのが「ちまき」の起源とされる。
このため、日本でも中国などでも「端午の節句」にちまきを食べる習慣がある。
さて、「保存食」といえば、戦時食ばかりでなく「宇宙食」もある。軽量が絶対的条件だが、JAXA(宇宙航空研究開発機構)が音頭をとって、宇宙の魚缶やスペースカレー、スペース羊羹(栗)などが、長期の宇宙滞在に向けて開発されている。
また「宇宙食」はインターネット通販で、500~1000円程度で販売されているという。
最後にトミーリー・ジョーンズにならってひとこと。
「この惑星の住人は、戦時食を平時でも食べたがる。宇宙食を地球上でも食べたがる。好奇心旺盛な人々だ」。

スペースカレー(ビーフ)は、JAXAとハウス食品とで共同開発された商品である。
さらにハウス食品は、国際宇宙ステーションで供給する宇宙食の候補「宇宙日本食」として認定されているレトルト・ビーフカレーの「販売」を始めた。
無重力状態や宇宙放射線の影響など、地上とは異なる環境での生活をサポートするため、通常のレトルトカレーに比べてウコンやカルシウムを多く含み、スパイシーで味が濃い。
商品名は「SPACE CURRY」で、JAXAが宇宙日本食として認定した同社のレトルトカレーと同じ製法・配合で製造したという。
ちなみに価格は525円となっている。
また「スペース羊羹(栗)」は、山崎製パンの羊羹がアルミ包材に入っており、JAXAにより日本「宇宙食」として認証された。