聖書の人物から(ネヘミヤ)

ユダ王国のユダヤ人たちは、紀元前586年に新バビロニアによってエルサレムが陥落したあとバビロンに移される(バビロン捕囚)。
その後紀元前539年、ペルシャによって新バビロニアが滅ぼされ、捕囚民のエルサレムへの帰還が許されるが、一部のユダヤ人は優遇され繁栄していたためにそのまま残る者も多かった。
遠くペルシアの首都スサにあってネヘミヤも、アケメネス朝ペルシャの王であるアルタクセルクセス1世の献酌官という名誉ある地位に就いていた。
しかし、ある日エルサレムから尋ねて来た親戚の話に心を痛める。「かの州で捕囚を免れて生き残った者は大いなる悩みと、はずかしめのうちにあり、エルサレムの城壁はくずされ、その門は火で焼かれたままであります」(ネヘミヤ記1:3)。
紀元前445年、「王の献酌官」という高位を捨てて、ユダヤの総督として任命してもらう。
スサからエルサレムに行き、城壁の再建工事を呼びかけ、様々な反対や問題にあいながら、優れたリーダーシップを発揮して、ユダヤの民の復興を助ける。
城壁の再建だけでなく、民の中の貧富の格差が広がって、貧しい農民が借金で苦しんで、子どもを奴隷に売ったり、神殿の下級祭司が給料の遅配で逃げていたり、様々な問題が出てくる。
ネヘミヤはその一つ一つに取り組み続けて、ユダヤの復興のリーダーとなった。

第一次世界大戦がはじまったとき、ロシア生まれのユダヤ人、カイム・ワイスマンは、マンチェスター大学の講師をつとめ、人造ゴム製造の実験をしていた。
彼は熱心なシオニストで、ユダヤ人の要求をおしすすめるためには努力を惜しまなかった。
「シオニスト」とは、旧約聖書の予言にもとづいて、世界に散ったユダヤ人の祖国復帰を信じた人々で、ユダヤ人の聖地であるシオンの丘がエルサレムに戻ることから「シオニスト」とよばれた。
ただ、ユダヤ人の多数派はシオンを目指すのではなく、現地の生活基盤を維持しようとしたのである。
しかしワイズマン自身、「人造ゴム」製造過程における偶然の発見が直接にシオンの山への道を開くとは、夢にも思わぬことであったでろう。
ワイスマンの当初の目的は、砂糖を人造ゴムの原料に使えるような別の物質(イソアミルアルコール)にかえるバクテリア(細菌)をみつけようとすることにあった。
そして、イソアミルアルコールそっくりのにおいのする液体を得たものの、分析してみるとアセトンとブチルアルコールの混合物だった。
この混合物は人造ゴムに変えることはできず、ワイズマンと指導教授はこの偶然の発見にほとんど何の価値も認めなかった。
しかし、1910年に偶然にも砂糖を純粋なアセトンにかえるバクテリアを発見した。実は、このアセトンこそがヒョウタンからコマ以上のものだった。
アセトンは多くの物質をとかす液体で、色々なものの製造に使用される。例えば、ライフル銃弾その他の弾丸に使われる爆薬「コルダイト」を作るのに必要なもののであった。
しかし、それまでアセトンを作る方法といったら、木材を密閉した容器に入れて加熱し、放出される蒸気を集めることだった。
この蒸気の中にアセトンが含まれていたのだが、大量のアセトンをつくりだすには、大量の木材が必要だった。
しかしイギリスには大きい森林はわずかしか残っていないので、アセトン製造に必要な木材はほとんど全部輸入に頼らねばならなかった。
しかし戦争がはじまってからは、船で輸送できる容積は限られ、ひどく貴重なものとなった。
この戦時輸送の困難を軽減する一つの手段は、木材以外の物質からアセトンをつくる方法を見つけることだった。
1914年に第一次大戦が勃発すると、陸軍省は科学者たちに回状を送り、軍事的に価値のある発見は何でも報告するよう懇請した。
ワイスマンは自分のアセトン製造法を報告したが、しばらくの間はそれについて何の処置もとられなかった。
しかしフォークランド沖海戦は、イギリス軍艦から発射した砲弾の一部が目標まで届かずに途中で落ちてしまったことから、「コルダイト」製造に使われたアセトンの純度が低いせいだといわれた。
するとワイスマンは、あの偶然のアセトン発見を思いだし、その結果を発展させてアセトンの製造工程を確立した。
工程はまずデンプンを砂糖にかえ、次にそれをあるバクテリア(クロステリジウム・アセトブチルアミン)で処理することだった。
そしてついに1916年に、ワイスマンは海軍省でウィンストン・チャーチルに会見した。
数年たってからワイスマンは、その時チャーチルがのべた言葉に、恐怖さえ感じたと回顧している。
チャーチルは問うた。「我々はアセトンが3万トン必要であるが、それを作ることが可能か?」
実は、それまでにワイスマンが作った量といったら、せいぜいコップ一杯分で、実験室で使われる方法を大規模な生産工程にかえることがどんなに困難かを、知りすぎるほど知っていた。
ワイズマンは当時軍需品委員会委員長だったロイド・ジョージとも会見し、ワイスマンの大きな助力となる人物であることがわかった。
そして、事態は切迫しているという情報を受け、ブロムリー・バイ・バウにあるジン蒸留工場を使うのを許された。
そして彼は多くの困難の末、トウモロコシからとれる糖からいっぺんに0・5トンのアセトンを作る方法を発見し、これらの工場はまもなく1で50万トンのトウモロコシを使用するようになった。
そのころイギリス諸島では原料糖は大量には生産されず、その大部分はアメリカのサトウキビ農園またはヨーロッパのテンサイ畑から輸入されていた。
一方で、イギリスは大量のコムギ、オオムギ、カラスムギ、また多数のジャガイモを栽培していた。
それらの農産物はみなデンプンを含んでおり、デンプンはわりあい簡単に、アセトン製造に適した一種の糖に帰ることができる。
まもなく、政府はカナダとアメリカにアセトン工場を建設することにきめた。
工場はインドにも建てられ、ここでは米からデンプンをとった。戦争が終わるころには、連合国の工場は、戦時中の全需要を十分まかなうだけの純粋なアセトンを作っていた。
そのころになると、ワイスマンは、彼の科学研究の関係で、いく人かのイギリスの指導的政治家と密接に接触するようになっていた。
そのなかで特筆すべきことは、1916年に外務大臣バルフォアと会い、アセトン生産に関係した話をしたことである。
この会談が終わるころ、ワイスマンが熱心なシオニストだということを知っていたバルフォアは、ユダヤ人問題を論じはじめ、結びに「もしも連合国がこの戦争に勝ったら、あなたにエルサレムをさしあげましょう」といった。
数ヵ月たって、そのころ軍需大臣になっていたロイドジョージは、ワイスマンのアセトン製造の努力をねぎらい、総理大臣にお願いして国王陛下からあなたに何か栄誉をたまわるよう推挙していただくと語った。
しかしワイスマンは、自分個人のためには何もほしくはないが、自分がシオニストであること、したがって戦後にパレスチナがユダヤ人に祖国として返されることを熱望していることを説明した。
ロイドジョージは深い感銘を受けた。その後、バルフォアとワイスマンの業績と希望について議論した。
バルフォアは政治上の問題だけでなく科学的なことにも強い興味をもっていた。
そしてロイドジョージ内閣のもとで、指導的なユダヤ人と長い折衝がくりかえされた後、1917年に有名な「バルフォア宣言」が承認された。
思い浮かべるのは、自民党の創設資金「М資金」といわれたもの。
日本の黒幕とよばれた児玉誉士夫が、中国大陸で調達した戦略物資で得た資金ともいわれている。
日本民主党を創設した鳩山一郎は、児玉がただ「天皇制を守ってくれ」と資金をポンとだしたことに、深く感銘したという。
さて、「バルフォア宣言」は他の連合国の了解のもとに発せられたもので、各連合国はみなそのあとまもなくこの宣言を承認した。
パレスチナは第一次大戦以前にはトルコ領だった。 1917年の末、中東のイギリス軍司令官だったアレンビー将軍は、トルコ軍を攻撃して大勝利をおさめた。
トルコ軍はパレスチナを略奪したりするひまもなく総退却し、「バルフォア宣言」の承認から1週間後に、アレンピーは無傷のエルサレムに勝利の入城をすることになった。
1920年までに何千ものユダヤ人がパレスチナに移住した。土地の開墾がすすみ、工業がスタートし、学校が建てられ、大学が設立された。
しかし、パレスチナには多くのアラブ人が住み着いていて、多くの不幸な事件の後、ユダヤ人は1948年ついにパレスチナに新しい国家を確立した。
彼らはこの国を「イスラエル」と名づけ、1949年最初の議会で、ワイスマンはイスラエル国初代大統領に選ばれた。

フリッツ・ハーパーは、ワイズマンと交流をもつものの、正反対の運命をたどった化学者である。
ユダヤ人の家庭に生まれたハーパーではあるが、ユダヤ教の学校へ通わず、地元にあるプロテスタント系の学校(ギムナジウム)に通った。
染料を扱う商人であった父親は息子を跡継ぎにしたかったが、息子のフリッツは学問の道に進みたかったようで、叔父のヘルマンに助けてもらい、大念願の学に進むことが出来た。 ハーバーの転機は25歳の時、キリスト教の洗礼を受けたのである。
ドイツに住むユダヤ人は常に「ドイツ国民」なのか、それとも「異邦人」なのかという問題に悩むことがあり、自分はドイツ人として生きることを表明するために、キリスト教徒になる者が多かった。
1894年、ハーバーはカールスルーエ工科大学に移り、そこで約17年を過ごす事になる。
この大学は、ハインリッヒ・ヘルツなどの優秀な科学者を輩出している。
ちなみに、ヘルツは、周波数の単位「ヘルツ」として馴染みの存在である。
実はヘルツもまたユダヤ人であるが、彼の父グスタフがルター派に改宗していて、彼自身もキリスト教徒になっている。
ハーパーは窒素からアンモニアを合成する研究に取り組み、カール・ボッシェと一緒に工業化を目指していた。
そして、彼らの研究を土台にして化学肥料の開発に成功したのが、スポンサーとなっていた「バーディッシェ・アニリン・ウント・ソーダファブリック」社で、この総合化学メーカーは日本にも支社がある。
ハーパーは1901年、同じユダヤ人で科学者のクララ・イマーヴァールと結婚する。
彼女はドイツで初めて博士号を授与された女性で、彼女も結婚をきっかけにキリスト教へ改宗している。
彼らには息子が生まれ「ヘルマン」と名づけられた。
クララは献身的にフリッツに尽くしたようで、研究よりも家事に専念し、時折夫の論文を英語に訳してあげたという。
農業の生産性を上げるために貢献したハーバーであるが、彼の名を真に歴史に刻みつけたのは、農薬というより毒ガスであった。
第一次世界大戦には様々な兵器が投入され、戦争の様相を一変させていた。
中世に毛織物産業で栄えたイーペルでは、商品をネズミに荒らされないように飼っていたネコが繁殖しすぎてしまい、後にネコを駆除した歴史がある。
この悲しい過去を忘れないために行われているイベントだが、イーペルを世界的に有名にしたのは、1914年に始まった第一次世界大戦である。
ここは史上初めて本格的な毒ガス戦の舞台となったからなのだ。
催涙ガス弾などはそれまでにも使われていたが、ドイツ軍はイーペルの草原で15年4月、致死性の高い大量殺傷用ガスを初めて用いた。
人の粘膜を破壊し、呼吸困難などに陥れて殺害する塩素ガスである。これをきっかけに、ドイツ軍に限らず英仏など連合国側もたがが外れたように化学兵器を使い始める。
双方はホスゲンなど新種の兵器を次々に投入。第一次大戦での毒ガスによる死者は約10万人に上り、市民も含む100万人以上が負傷したといわれている。
この塩素ガスを兵器として開発したのが、「化学兵器の父」と呼ばれるフリッツ・ハーバーである。
この毒ガス開発に猛反対したのが、同じ化学者でもあった最愛の妻クララに他ならなかった。
夫が毒ガス開発を主導したことを知り、クララは大きなショックを受けた。だが夫は聞く耳を持たない。
絶望したクララは、幼子を残したまま、拳銃自殺してしまう。
妻の死はもちろんショックだったにちがいないが、ハーバーはクララ亡き後、むしろ以前よりも一層研究に打ち込み、祖国ドイツに献身的な愛国者になったと言われている。
彼はドイツのエリート層、特にドイツの皇帝に認められたい一心だった。
ハーバーは仕事を続け、その後再婚(のちに離婚)。第一次大戦が終わった1918年には、過去に手掛けたアンモニア合成法の業績が認められてノーベル化学賞まで受賞している。もっともこの受賞には戦時中の敵国だった英国やフランスから激しい非難の声が上がったという。だがハーバーの名声はノーベル賞を機にさらに高まっていった。
ハーバーは第一次大戦が終わってから数年後、世界一周の旅に出ている。米国を経て太平洋を横断し、24年には日本も訪れた。
実はハーバーのおじは北海道函館市でドイツ代弁領事をしていて、1874年、排外思想を持つ旧秋田藩士に殺害されていた。
ハーバーはこのおじを悼み、没後50年の節目に函館を訪れて追悼式典に参加したのだ。
さらにハーバーは東京で、星製薬の創立者・星一とも親交を温めた。ちなみに、星一は、 SF作家の星新一の父である。
ところが1933年にヒトラー率いるナチスが政権を握ると、ハーパーの人生は暗転していく。
ナチスのユダヤ人迫害政策の影響で、徐々にハーバーは「追われる身」となる。
祖国ドイツのため、化学兵器開発をもって仕えたハーバーであったが、結局そのドイツから裏切られ33年に研究機関を去ることになった。
息子を頼ってパリに逃げたのち、英国を転々と亡命生活を送る。
1934年にハーバーは、スイスのバーゼルを旅行したところ現地で体調を崩し、心臓発作でこの世を去る。
彼が死の直前、息子に語った願いは、「クララと一緒の墓に埋めてほしい」ということ。
ハーパーの心に映ったのは、ハーパーの毒ガス開発に死をもってまで抵抗した妻の姿であった。
ハーバーの遺書により、彼の遺体はスイスの地に埋葬され、クララの灰も隣に埋められた。
ハーバーは毒ガスの使用について、同僚に「むしろ使用によって戦争を早く終結させ、多くの人の命を救える」と説明した。
アメリカの広島・長崎への原爆投下と同じ正当化だが、それだけで収まらなかった。ハーパーの毒ガスはユダヤ人同胞を大量殺戮するに使用される。
その一方、ローマ帝国の攻撃によるユダヤ人のデイアスポラ(離散)以来の荒廃したイスラエルの再建につくしたワイズマンは、「現代のネヘミヤ」とも称されている。

児玉は海軍航空本部のため航空機に必要な物資を調達する。 これは、タングステン[注釈 7]やラジウム、コバルト、ニッケルなどの戦略物資を買い上げ、海軍航空本部に納入する独占契約をもらっていた。よく、児玉はこの仕事でダイヤモンドやプラチナなど、1億7500万ドル相当の資金を有するに至ったと言われている。 この資金の一部を自民党の前身にあたる鳩山ブランドの日本民主党(鳩山民主党)の結党資金として提供した。