人生と役柄

1953年、もともとラジオドラマとして制作された「君の名」は、大人気となり映画化された。
昭和20年5月24日の東京大空襲の夜、数寄屋橋の上で互いに命を助け合った若い男女。
後宮春樹(佐田啓二)と氏家真知子(岸惠子)は、半年後の同日の夜にこの橋の上で再会しようと約束。
青年は別れ際「君の名は」と聞いたが、彼女は名を言わず立ち去った。その後、二人は数奇な運命をたどる。
さて、女優の岸恵子は『君の名は』を自分の代表作品のように言われるのが嬉しくなかったらしい。
なぜなら岸恵子演ずるところの「氏家真知子」は、およそ無意志で、思慮のない女性で、行動力がまったくない。
想像するに、「なんてつまらない女だろう」と思いつつ演じるのは、確かにつらいことであろう。
彼女の自伝によれば、戦後すぐ、自宅に泥棒が入った時のこと。母親が髪を振り乱して泥棒を追っかける姿を見て「心打たれるエネルギーがあった」と言い、さらには「何回も突っ転びながら一心不乱に逃げきった泥棒にも、なんと逞しい根性があったことか!」と、それを冷静に見ている彼女の方もキモがすわっている。
また、長谷川一夫の芸への執念を感じさせる逸話を紹介した際、演ずることにだけ心魂を傾ける「芸ひと筋」の人生に賛辞を送るかと思えば、そんな人生は嫌、もっと色んなことがしたいと、あっさり否定。
中東とアフリカのルポを刊行した彼女に、ある男性が言い放つ。「あんた女優だろ、TVドラマでも書いてりゃいいんだよ」。そんな事例を幾つか挙げ、「高い地位にある常識ある立派な知識人にときおり否めない胡散(うさん)臭さをかぎ取ってしまう」と。
岸恵子からみて、真知子の不幸の原因は、戦前の封建的な家や周囲の力に忍従する人間であることであって、日本を出てフランス人と結婚する彼女の生き方とは対極に位置するものだ。
サクランボ嫌いの大塚愛の大ヒット曲が、「さくらんぼ」なのとはわけが違う。
さて岸恵子に匹敵する女優・吉永小百合が、原爆の「朗読詩」を公衆の前で読むきっかけとなったのは、映画「夢千代日記」(1972年)に出演したこと。
「夢千代日記」の舞台は、山陰の鄙びた「湯村温泉」が舞台、主人公の夢千代は被爆の後遺症で白血病に冒されている芸者というのが、物語の設定。
実は「夢千代日記」の映画にあたって、夢千代の死の床でのせりふをめぐって、浦山桐朗監督と吉永小百合との意見が食い違った。
浦山監督は、夢千代が死の床での「ピカが憎い」というセリフをいれるように要望する。
「社会派の監督」としては、そうしたメッセージを込めたかったようだが、吉永は「夢千代はそんなことを言う女ではない」と強く主張。
結局、映画では「ピカが怖い」となっている。大女優となれば、役柄への思い入れも並ではないようだ。
おそらく役者が気が進まぬ役柄を演じるのはよくあることだろうが、自らの「命」と引き換えとなるのっぴきならない事態を招くケースもある。
戦争中、満州・中国に進出した日本は「五族協和」をとなえ「日・満・華」合作の映画が制作された。
山口淑子は日本人でありながら「李香蘭」という中国人女優として多くの作品に出演した。
山口淑子は満州鉄道の社員の娘として育ったが、父の親友・李将軍のもとから中国名で学校に通った為、中国語が自由に話せた。
そして日本人男性と中国人女性の恋愛を描いた映画に多く出演したのである。
終戦後中国では、日本に協力した中国人を「祖国反逆罪」として裁く軍事裁判が行われた。
次々と中国人が終身刑や死刑を命ぜられていく中、「李香蘭」も群集の中に引きずり出された。
しかしその時、彼女は中国人ではなく日本人であることを告白する。
もしそれが真実ならば、日本人の彼女には「祖国反逆罪」は適用されない。
騒然とする法廷の中、彼女は日本人「山口淑子」として生まれながらも、学校に通うために実父の親友である中国人の「養女」となり、「李香蘭」という名前を授けられて生きた、その人生を語った。
しかし、それをどのように証明するのか方法がなかった。
かつて「萬世流芳」の大ヒットにより、中華民國の民衆から人気を得た李香蘭は、北京飯店で記者会見を開いた。
当初、この記者会見で彼女は自分が日本人であることを告白しようとしていた。
しかし父の知人であった人物に相談したところ、「今あなたが日本人であることを告白したら、一般民衆が落胆してしまう」と諭され、告白をとりやめた。
この会見が終わりかけた時、一人の中国人記者が、「あなたが”支那の夜”など一連の日本映画に出演した真意を伺いたい」と立ち上がった。
続けて記者は、「あの映画は中国を侮辱している。それなのにナゼあのような日本映画に出演したのか、中国人としての誇りを捨てたのか」と詰問した。
これに対し、彼女は、「二十歳前後の分別のない自分の過ちでした。あの映画に出たことを後悔しています。どうか許してください」と答えた。
すると予想に反し、会場内から大拍手が沸き起こったのである。
さて、「李香蘭」が中国人ではなく日本人であることを「間一髪」証明してくれたのは、幼き日の奉天時代の親友でロシア人のリューバという女性であった。
リューバの働きにより、北京の両親の元から日本の「戸籍謄本」が届けられ、「日本国籍」であるということが証明され、李香蘭には「漢奸罪」は適用されず、国外追放となった。
しかし判決を下す際、裁判官は李香蘭に問うた。
「日本国籍を完全に立証したあなたは無罪だ。しかし、一つだけ倫理上、道義上の問題が残っている。
それは、中国人の名前で "支那の夜" など一連の映画に出演したことだ。法律上、漢奸裁判には関係ないが、遺憾なことだと本法廷は考える」と苦言を加えた。
李香蘭は「若かったとはいえ、考えが愚かだったことを認めます」と再び頭を下げて謝罪している。
1945年日本の敗戦とともに山口淑子は博多港にて再び故国の土を踏む。即席のインタビューで、自ら出演した映画につき、知らず知らずのうちに自分が国策のなかで利用されたこと、また描かれた世界と格差に満ちた現実の姿の違いに苦しんだことを語った。

東京の有楽町や新橋といえば、いわゆるサラリーマンの「アフターファイブ」の聖地。
しばしば、映画の舞台として登場するのは、植木等が主人公の映画「無責任男のシリーズ」。
植木等は、クレイジー・キャッツのメンバーとして、日本のテレビ黎明期を支えたコメディアン。
テレビドラマなどでお坊さん役がハマリ役で、特に読経シーンは上手だった。
というのも、お寺の生まれ育ちだから、いわば「門前の小僧」だった。
植木の父は三重県の浄土真宗・常念寺の住職で、幼少時代から僧侶の修行に励んでいたが、音楽青年だったことから東洋大学卒業後、1957年にハナ肇が結成した「クレイジーキャッツ」に参加した。
クレイジーのメンバーと出演したバラエティ番組「シャボン玉ホリデー」では「お呼びでない」など数多くのギャグを大流行させ、また1961年には、青島幸男作詞の「スーダラ節」や「ハイそれまでヨ」などの大ヒットを飛ばした。
植木は役柄において「無責任男」を演じながら、実は細やかな気配りをする人物であった。
植木は自分の出演する役柄や歌うことになった「スーダラ節」について、こんな歌を歌っていいのもかと心配になって父親に相談した。
父親の徹誠は1895年、現在の三重県伊勢市で生まれた。廻船業者の二男。高等小学校に進み、のち東京に出て御木本真珠店の工場で働く。
労働者の権利意識が次第に高まっていた時代だった。周囲の影響を受けて、徹誠も次第に労働運動に接近し、治安維持法違反などで何度か検挙される。
見合い結婚の相手が伊勢市内の浄土真宗大谷派のお寺の娘なので、妻の実家に戻ることになった。
妻の実家に帰っても仕事がない。お賽銭をちょろまかして小遣いに使ったりしていたようだが、妻に責められ、一念発起して、お坊さんの道を進む。
小さな村のさびれたお寺に家族で転居したのが、意外にも徹誠の記録が残っている。
実は、三重県特高課が徹誠の言動をしっかり記録していたのだ。
「日本は東洋平和のための戦争で、領土的な野心はないといっているが、帝国主義侵略であることは間違いない」「今の時代はファッショ政治で、われわれ民衆の要望というものは少しも容れられない」「宗教家が戦争を弁護するのは矛盾している・・・元来宗教家は戦争に反対すべきものである」など。
ただ、こうした「反戦言動」は戦争に向かって国民一丸となっていた総動員体制の中で孤立していく。
地元では部落差別解消のために奔走したりして、その地元からも「危険人物」として追い出されるハメにさらには4年もの間投獄されている。
残された一家は食い詰めてしまい、植木等は地元の小学校を出た後、東京のお寺に預けられた。
そこで等はお経を習い、「儀大夫好き」の父親のDNAもあってか クレージーキャッツというバンドのメンバーになった。
1961年、「スーダラ節」がヒットするに及んで、息子の懸念に対して、「わかっちゃいるけどやめられない」というのは、親鸞の教えに通じるところがあると、異議どころか賛意を示したという。

日本には、「地位が人を創る」という言葉がある。同様に、「役柄が人を創る」ともいえる気がする。
というよりも両者は同じことを別の言い方をしているだけのことかもしれない。
さて唐沢寿明といえば役柄的から推測して「お坊ちゃま育ち」かというイメージであるが、唐沢は青春自伝「ふたり」で、生い立ちから下積み時代までをかなり赤裸々に語っていて、そのイメージはほとんど覆される。
唐沢が芸能人への憧れのきっかけは、「ブルースリー」の映画を見たことだったという。
ブルースリーの強さだけに魅かれたわけではなく、倒れる相手の哀しさや悔しさを本人以上に感じているような、「寂しげ」な表情が焼きついて離れなかったという。
ブルースリーの「寂しげ」な表情が唐沢と重なるのは、唐沢の青春が「徒手空拳」で戦い、何とか生きツナイできた「孤独」と通じ合うからだろうか。
ブルースリー出演の映画第一作は運転手兼ガードマン役として出演したアメリカ映画「グリーン・ホーネット」である。
「徒手空拳」でアメリカにやってきたブルース・リーがこの映画で見せたホンノ数分間の「拳」の輝きが、ブルースリーを後に大スターに押し上げることになる。
ところで唐沢の「ふたり」は次の文章で始まる。
「ずっとずっとひとりだった。学校から抜け出し、家や養成所から追い出された。食べるためにもぐりこんだバイト先にもなじまなかった。自分達で作った劇団も消滅した。居場所がなかった。それでもひとつだけわかっていたことがあった。役者になりたかった」。
東京都立蔵前工業高等学校「中退」については、学業の成績不振というわけではなく、「俳優になりたかった」ことが大きいと語っている。
家庭では横暴で身勝手な父親と母親の夫婦喧嘩が絶えず、ある日唐沢は夫婦喧嘩に割ってはいり、母親の味方をした。
「おふくろが出て行くことはない。親父を追い出せばいいんだ。」と言い、父親を脅すつもりでモルタルの壁を叩き崩すと、「お前が言えた義理か」と言いながら父親が家を出て行った。
これで家は「安泰」だと思ったら、母が一言「あんたが出て行きなさいよ」といわれて愕然とした。
唐沢は家出を決意し新宿行きの電車の中で泣いた。
学校をやめたのは、高校2年の2月で、両親には「勘当」された。
1980年、東映アクションクラブ(当時最年少16歳で四期生)となり俳優として活動を始めた。
その後「芸能人二世」で人に知られた役者希望の者も居る中で、頭角を表すのがいかに厳しいことか、骨身に沁みる。
デビュー当初は「仮面ライダーシリーズ」「スーパー戦隊シリーズ」などの特撮番組に脇役やスーツアクターとして出演していた。
その他に、スタントや声の吹き替え、死体役、エキストラと「顔の出ない」役バカリで役者人生を終るのか、という不安と焦燥に苛まれる毎日だった。
どこにもいる数多くの「俳優志願」の一人で、取り立てて「目立つ」ほどの個性もない。
映画「メイン・テーマ」の主役オーデションでは、どんな奴が受かったんだと、唐沢氏が東映本社前でひたすら待ったこともあった。
その人物とは面接で「サラリーマンになりたい」と言っていた野村宏伸という男だった。
唐沢が当時、ヒリヒリ焼けつくような思いで見つめた野村もまた、その後の役者人生では、唐沢の知らない苦労があったのである。
緒形拳の息子・緒方直人とオーデションで、競ったこともある。
その後、ホリプロ(主にレコード会社回り)、三生社(社長は俳優橋爪功の元妻)を経て、浅野ゆう子に声をかけられて現所属事務所である「研音」に所属することになる。
ところが唐沢自身がダサいと思っていた方向への「路線変更」で運命が開いていく。
プロデューサーのアドバイスでチノ・パンツとポロシャツといういでたちに変更したところ、直後のオーディションで見事1位合格し。以後ドンドン仕事が入るようになった。
実は、この「爽やかな路線」への変更を進言したのは、浅野ゆう子だった。
つまり唐沢の役者人生は、唐沢がもともと持ち合わせていないものによって「輝き」はじめる。
ポロシャツにVネックにチノパン、そして苦労知らずの鷹揚さ、実際にはないはずのものが、唐沢を「俳優」の世界に導いたということ。
1992年の人気ドラマ「愛という名のもとに」で演じたエリート好青年の役で一気にブレイクし、雑誌の特集などで「爽やか」「好青年」という代名詞が付いて紹介された。
女性ファッション誌の人気ランキングにランクインするなど、90年代には「トレンディ俳優」の一人に列せられるほどの存在となった。
その後、社会派ドラマの「白い巨頭」や「不毛地帯」の出演で、単なる「爽やかキャラ」とは違う、「演技派」といえるほどの重厚さをみせている。
青春自伝「ふたり」の相方・山口智子とは1988年放送のNHK連続テレビ小説「純ちゃんの応援歌」の共演が交際のきっかけ。
この作品がデビュー作で初主演の山口は、「下積み」経験の長い唐沢に「女優としてやっていく自信がない」などと撮影の合間に悩みを打ち明けていたという。
週6日の大阪での撮影中、二人はホテルの内線電話でよく話をするようになり、撮影終盤のクリスマスに山口からプレゼントを贈られたことなどを「ふたり」に書いている。
唐沢氏は「トイ・ストーリーシリーズ」の第1作から主人公ウッディ役として出演し、これが「声優」デビュー作となった。ちなみに、日本語版の歌はダイヤモンド・ユカイが担当している。
ウッディの顔立ちは一切唐沢をイメージして造られたものではないが、ファンからは非常に似ていると言われているという。
当初、山崎豊子は「白い巨塔」で、役のイメージに合わないという理由で唐沢が「財前役」を演じることに難色を示していた。
しかし2003年のドラマ「白い巨塔」の際、唐沢と山崎の初顔合わせとなり、山崎は唐沢を気に入り、唐沢の起用に納得。「不毛地帯」でも唐沢主演に推している。